2016年7月25日 (月)

NHK「ロッキード事件40年目の真実」特集番組のお粗末考

 2016.7.23-24日、NHKスペシャル「未解決事件シリーズ」の一つとして戦後最大の疑獄事件と云われるロッキード事件が取り上げられた。このことはゼツ良い。「ロッキード事件-40年目の真実」と題して二夜連続の三部作で放映された。このこともゼツ良い。問題は中身である。私は大いに注目し固唾を呑んで見守った。しかしながら結論から言うと、「全くの駄作」でしかなかった。その「これが40年目に判明した真実だ」の観点はむしろ反動的なものだった。そのことに対する怒りを熱の冷めぬうちに記しておく。

 「ロッキード事件-40年目の真実」とあるからには、これまでの「敵役角栄論」報道を自己批判し、「見直し角栄論」への転換があるものと思った。ところが実際には、「角栄の5億円授受」を肯定し、実はそれは民間航空機購入賄賂ではなく軍用機購入働きかけの賄賂だったと書き換えているに過ぎない。こんな推理に導く為の「40年目の真実」に付き合いさせられるとは情けないこと限りない。俗に噴飯ものと云う。

 こうなると、「50年目の真実」に期待するしかない。実は、角栄の5億円授受は冤罪で、角栄自身が徹底抗戦したのは当然だった。真実は児玉-中曽根派の犯罪であり、それを日米合作で角栄犯罪に仕立て上げて行ったのが日本版ロッキード事件の特殊性である。これぐらいのことは云って貰わんと私の怒りが収まらない。

 とはいえ、功績がない訳ではない。一つは、第一部で、角栄贈収賄5億円よりも金額が4倍多い児玉関連21億円の行方の未解明問題につき、相当程度に詳しく検証していたことである。「結局は未解明に終り今日に至っている」不自然さを衝いているのは正しい。NHKにこれ以上期待するのは無理かもしれない。敢えて腰抜けぶりを晒しているのかもしれない。その後を受け継ぐ者が、児玉の政財界交遊で最も近いところにいた中曽根-ナベツネラインの果たした役割に切り込むが良いとメッセージしているのかもしれない。と、こうまぁ善意に解しておく。

 立花を登場させたのも正しい。それは何も聞き飽きた立花論を聞かせてもらうところに意味があったのではない。現在の立花の老醜を際だたせていたところに意義がある。マスコミはこの御仁を知の巨人とおだて上げ、ロッキード事件の節々で語らせてきたが、角栄が失脚終焉するに応じて立花までもが御用済みとなり歴史のお払い箱の中に使い捨てられてしまった。今でも減らず口を叩いているが、云えば云うほど知の虚人でしかないブザマさを晒している。そういう意味で、現在の立花を登場させ映像化させたのは値打ちものであった。

 第二部で、東京地検ロッキード事件特捜部の捜査を指揮した吉永祐介を善人検事に仕立て上げ、その苦悩を語らせている。これは臭い芝居でしかない。真実は、角栄を被告人に仕立て上げる虚構のシナリオに協力する見返りの出世甘言に飛びついた機会主義者でしかなかったのではないのか。現在に至る司法の腐敗は、この時に甘言に飛びついた連中による「法の番人たちによる上からの法崩し」に始まっているのではないのか。「ロッキード事件-40年目の真実」はこのことを片鱗たりとも伝えていない。と云うか逆に描いている。こういう場合、この調子で書かれたものを読めば読むほど阿呆になるし阿呆にされてしまうであろう。

 第三部で、どういう展開、結末になるのか期待させた割には愚昧なものを見せつけられ聞かされてしまった。曰く、「角栄に渡った5億円はロッキード社の民間機ではなく軍用機受注働きかけへの接待金だった」云々。こういうすり替えは酷過ぎるし後味が悪い。NHKよ、角栄が不退転で死ぬまで争った男の名誉、メンツ闘争に対して余りにも侮辱であり、ぶしつけ過ぎる推論ではないのか。なんでそんなに「角栄の5億円授受」に拘るのだ。児玉-中曽根-ナベツネ派の21億円授受に対してはあっさり尻尾巻くのに比してしつこ過ぎやしないか。

 以上、一応のことを言うことができた。以下、れんだいこがロッキード事件史全体のキモの部分を取り上げて衝撃を与えておく。中曽根の揉み消し依頼の件は別の機会に論じる。

 1976(昭和51).2.4日にロッキード事件が勃発し、7.27日に逮捕されるまでの間の6.24日、三木首相がプエルトルコで開かれる第2回目の主要先進国首脳会議に向けて出発した。6.30日、帰路ワシントンに詣で、日本側から三木首相、宮沢外相、アメリカ側からフォード大統領、キッシンジャー国務長官、レビ司法長官が出席する首脳会談をしている。

 この時の会議資料が非公開で国家機密扱いとなっている。公文書保管所のスタッフは今日においても「その記録は国家安全保障上の理由で公表されない」としている。公文書公開先進国の米国が今に至るも公開できないのは何故なんだとして取材する者、社がいない。

 れんだいこには次のことが透けて見えてくる。1、ロッキード事件を、児玉-中曽根犯罪に関わるP3C哨戒機などの軍用機の解明に向わせない。2、代わりに角栄に容疑を被せ逮捕まで漕ぎ着ける。その為に民間機購入のトライスター疑惑をデッチ上げる。3、米日両国はこのシナリオに基づく捜査進展に総力を挙げ全面提携する。4、これを機会に角栄及び田中-大平派のハト派政治権力の徹底的解体に向かう。公開できないのは、この陰謀的申し合わせが露見されるのを恐れているからではないのか。しかもこの申し合わせが相当に日本側に対して屈辱的な命令口調のものになっており、三木がペコペコし過ぎているからではないのか。

 1997年に公開されたキッシンジャー・レポートは、この時、三木首相と「ロッキード事件についての全般的な意見交換」をしたことを伝えている。興味深いことは、田中首相に対する絶賛且つ警戒的レポートとは対照的に、三木評は「彼の政策はしばしば詳細に欠け、実質的な内容より広報宣伝的要因から生まれる場合が多い。三木が成功した分野は数少ない」と軽視酷評されていることである。そういう三木のアホウさをうまく利用せよの魂胆が透けて見えてくる。

 事実、アホウの三木は、7.3日、サンフランシスコで同行記者団と懇談した際、キッシンジャー権力の後押しを得た強みを背景に、「ロッキード事件が解明されない限り今後の政治日程は立てられない」、「『三木下ろし』には断固戦っていく」と述べている。この時より、「ロッキード事件の徹底究明に自分の政治的生命を賭ける」と強気に出ることになった。これがマスコミ言うところの「クリーン三木」の裏の顔である。当時も今もマスコミのオツムはこの程度のものだったんだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月19日 (火)

れんだいこの不正選挙論追伸

 れんだいこは既に不正選挙にかなり言及してきている。こちらのサイトに収納している。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/senkyo/fuseisenkyoco/top.html

 但し何の効もなく相変わらずの不正選挙が横行している。このところ発言を控えていたが、2016第24回参院選が看過できない腐臭を漂わせているので、改めて告発し世に問うことにする。マスコミは参院選後直ちに都知事選に誘導しており、立ち止まって考えることをさせないが、この仕掛けを破らないといけない。

 不正選挙告発につき既に次のような告発がなされている。概要「当落、票数は黒幕により事前にリスト化されており、投票はポーズでしかない。不正側は実際の票を改竄してリストに合わしている。開票所での写真撮影が禁止されているのは、この不正が見抜かれるのを恐れるからである。黒幕が各都道府県の選管集計を改竄できる仕組みがある。官僚全般、総務省、警察、裁判所、日銀の上層部が黒幕に人事権を握られており買収されている。マスコミは不正シナリオに基づく結果を受け入れさせるべく与論誘導役を果たしている。マスコミは選挙結果を黒幕経由で知っているから開票0%で当確を出せる。その選挙報道はヤラセである故に金太郎飴になる。政治家はこの黒幕に媚(こび)ている。不正選挙で当選した政治家は黒幕の言うことをきくしかない。政官界のトップは概ね不正黒幕に懐柔されている」。

 実にそうだと思う。これを踏まえつつ、ここでは新たな視角として「票分析」を通しての不正選挙告発をしておく。「2016参院選の不正疑惑」の象徴に東京都選挙区(当選枠6)の例を挙げる。ミュージシャン三宅洋平が、生活の党と合同し果敢な活躍を示している山本太郎の強烈な後押しを得て、当確の予感があった選挙区である。実際はどうなったか。結論から言えば、1位/民進党の蓮舫、2位/自民の中川、3位/公明の竹谷、4位/共産の山添、5位/自民の朝日、6位/民進の小川であった。続いて7位/おおさか維新の田中、8位/無所属の横粂。三宅は9位で落選した。事前予想に反して鉄砲届きしなかったことになる。

 三宅陣営は善戦総括しているようだが異議がある。もの言わぬは腹膨るる業なりの諺があるので我が主張を吐露してスッキリさせておく。「9位三宅」は本当の票だろうか、かく問いたい。結論から申せばウソであろう。以下、これを論証しておく。

 その第一に、「1位/民進の蓮舫」票の異常の多さに注目したい。蓮舫は結果的トップではない。ほとんど全開票所で圧倒的に勝ち抜いている。この票は本当だろうか。「9位三宅」票が抜き取られ蓮舫票にすり替えられている可能性はないのだろうか。蓮舫は与党候補ではない。かってはそうであったが今は野党の落涙の立場の者である。それほど政治能力が秀でているとは思えない。各選挙区をトップで牛耳るほどの業績があったとも思えない。何か操作の手を感じる訳である。

 この疑いは「4位/共産の山添」票にも及ぶ。生活の党票が共産票にすり替えられている疑いは山本太郎当選の時にも及んでいる。前回の2013第23回参院選の東京選挙区で山本太郎は、666,684票を獲得し4位当選している。この時の共産の吉良佳子は703,901票で3位当選している。それは構わないのだけれども山本票の一部が吉良票に流れての3位当選だったのではなかろうかの推理の余地がある。吉良はその後ロチュ-で有名になったが、政治的業績で目を見張るようなものを知らないので仕掛けの有りそうな高位の3位当選を鵜呑みにして過信しないほうが良かろう。

 もとへ。2013第23回参院選東京選挙区の山本票666,684に比してこたびの田中票257,036は異常に低い。こたび山本は田中を全面的に応援し演説会場には人があふれ続けていた。かっての山本票は政治的確信派の票であり、その票はこたびは三宅に流れ込むのが自然である。ところが山本票666,684の約3分の1にとどまっている。本来は山本票666,684以上のものがあったところ他の候補票にすり替えられて少なくさせられていると読むのは自然ではあるまいか。

 興味深いことに、選管ムサシを使わずに手作業で集計した小笠原村では何と三宅票は215で1位、以下は蓮舫184の2位、中川175の3位、朝日160の4位、竹谷101の5位、山添78の6位となっている。これを、離れ小島の田舎ゆえの椿事とみなすべきだろうか。手作業で集計したなら他の選挙区でもこうだったのではなかろうか、実際には小笠原村のように他の選挙区でも三宅票は強かった、善戦していた、それを選管ムサシにいいようにあしらわれたと推理すべきではなかろうか。

 もう少し確認しておく。「9位三宅」の奇妙なことは、どこでも「9位三宅」なところにある。投票集計は区で23、市で24、西多摩郡4、島9から成る。このうちの区と市の全47ヶ所で、1位/民進党の蓮舫、2位/自民の中川、3位/公明の竹谷、4位/共産の山添、5位/自民の朝日、6位/民進の小川、7位/おおさか維新の田中、8位/無所属の横粂、9位/無所属の三宅の順となっている。

 入り乱れての結果順位ではなく、ほぼ常にこの順位で票がカウントされている。つまり、ほぼ全ての投票所の票割がこの順位になるように括られているかの感がある。マスコミは出口調査の確率論で素敵な弁を聞かせてくれているので、この現象も自然にできるものか操作によるものかを確率論で説明してみるが良かろう。

 他にも調べておきたいことがある。それは、選挙区における「9位三宅」票と比例区における生活の党票の相関関係である。普通はハーモニーするはずであるが、どういう按配になっているのだろうか。これにつきまだ調べていない。どなたかにお願いしたい。過去の小沢系政党の例えば未来とか生活党の場合、選挙区票に全く比例しない超低い比例票になっている。選挙区票と比例票がかくも食い違うものなのか、この現象も自然にできるものか操作によるものかを確率論で説明してみるが良かろう。

 以上、こういう票分析推理が成り立つ。この言を何を馬鹿なことをと否定されるなら、宜しい共に検票しようではないか。どうしてもさせない、写真もビデオも撮らせないと云う選管にさせるべく働きかける仲間になってくれ。私の推理を否定するのは検票後にしてくれまいか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月18日 (金)

吉備太郎の津軽あさこはうすの闘い考

 「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」、「吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考」と来れば「津軽あさこはうすの闘い考」もしておきたくなったので急遽記す。

 青森県の下北半島の最北端にある大間町、恐らくこの辺りは津軽と云われるのだろうと思われるが、「山に行けばワラビ、ゼンマイなどの山菜。山葡萄、スグリなどの果実。川ではアユ、ヤマメ、イワナ。海はウニ、アワビ、スズキ、イカ、ソイ、ブリ……」と誇りにされている自然の幸に恵まれた地である。その豊かな自然ゆえに下北半島全体が国定公園に指定されている。そういうところを狙い撃ちするかのように原発屋が策動している。

 1980年代初頭、(株)電源開発による原発建設計画が持ち上がった。1984年12月、町議会が原子力発電所誘致を決議した。大間町議会は議員定数10人で佐藤亮一さんが唯一の反対派議員だった。2008.4月、国から原発設置許可が出される。翌5月、事業者である(株)電源開発が大間原発の建設工事を開始した。

 この時、原発建設予定地には176人の地権者がいた。たった一人を除く地権者175人が買収工作に屈した。熊谷あさ子さん(1938年-2006年)が応じなかった。これを仮に「津軽あさこはうすの闘い考」と命名して確認しておく。彼女は、「畑は売るな」という父の遺言を守り、原発の執拗な土地交渉を頑としてはねのけた。2億円の金額が提示されたが次のように述べて拒否している。金では動かず、祖国と守るべき共同体を知る、要するに歴史目線を持つ津軽姫だったのではなかろうかと拝したい。      

 「10億円積まれても土地は売らない」、「お金の問題ではない」、「きれいな空気ときれいな水ときれいな海があれば、人間はみな平和に暮らしていける」、「大間の海はマグロやコンブ、ウニ、アワビ…ここで採れないものはないという宝の海です」。

 札束で懐柔することができないとわかると、原発推進グループのお家芸とも云える車による尾行、ヤクザによる説得、脅迫状、町長の圧力…が始まった。あさ子さんはこれにひと通り見舞われた。彼女は村八分状態にされながらも土地売却を拒否し続けた。大間原発の建設が進まなかったのは「津軽あさこはうすの闘い」の賜物である。この闘いがなければ2011.3・11以前に完成し稼働していたはずである。そうすればどうなっていたのか。広瀬隆・氏は講演で次のように述べている。

 「万が一、大間原発が大事故を起こしていたなら、今ごろ青森、北海道はもとより、日本全土は壊滅的な被害を受けていただろう。フルMOX原発の事故による放射能汚染被害はウラン原発の比ではないのだ。仮定の話とはいえ、ある意味、熊谷あさ子さんは日本を崩壊から救った恩人であるといってもいい」。

 原発拒否に失敗した側の福島・飯舘村の酪農家・長谷川健一さんはこう述べている。

(「◎ マガジン9による、大間レポート」)(http://www.magazine9.jp/genpatsu/120808/ )        

 「私たちは(原発事故によって)すべてを失ってしまった。将来に絶望して自殺した友人もいる。大間の人たちは私たちの姿を見てほしい。原発がどんなものか、事故が起きたら、そこに住む人たちがどんな報いを受けるのかを」。 

 大間原発は、「津軽あさこはうすの闘い」の為に、当初予定されていた場所から位置をずらして建設せざるを得なかった。2006.5.19日、あさこさんは、所有地にログハウスを建て「あさこはうす」と命名し、引っ越し準備中に畑で倒れ大間病院に入院、そのまま帰らぬ人となった(享年68歳)。死因が「ツツガムシ病」と発表されたが下北地方でツツガムシ病で死者が出たのは40年ぶりという。変死と見なすべきだろう。

 原発の建設予定地の中に「あさこはうす」がポツンと残された。この頃、夫の海外赴任で長く外国暮らしが続いていた長女の小笠原厚子さんが帰国する。母が原発建設に反対し闘っていたことを知った。「娘に心配をかけたくなかったのでしょうね」。母の思いは娘に引き継がれ、母が遺した「あさこはうす」に月の半分住み、自宅のある北海道北斗市との二重生活を続けている。「あさこはうす」と原発との距離はわずか250m。土地の周りには鉄条網が張り巡らされ、約1キロの細い道を通って辿りつく「あさこはうす」の入り口には電源開発の監視小屋があり人の出入りがチェックされている。さながら「青森県大間町の三里塚闘争」の趣がある。

 事故が起これば一衣帯水の被害者になる函館市民が「津軽あさこはうすの闘い」を支援している。大間原発に対する北海道民の関心が高く海を越えた支援の輪が広がりつつある。現在、「ストップ大間原発道南の会」を母体にする「大間原発訴訟の会」(竹田とし子代表)が建設差し止めを求めて提訴、係争中である。

 「大間原発に反対する大MAGROCK」なる反核ロック・フェスティバルが「あさこはうす」で開催されている。八戸在住のYAM(山内雅一)さんが立ち上げ、武藤北斗さん(当時は宮城県石巻在住。現在は大阪に移住)、冨田貴史さんらが中心となって活動している。全国から数百名規模の若者が集まり、反核ロック・フェスティバル、大間原発反対集会を挙行している。

 2013.6月の大MAGROCK集会で厚子さんはこう訴えた。             

 「母の7回忌を済ませ、なんとしてもこれ以上原発を増やしていけないと改めて決意しました。地元での活動には限界があるのでこれからは全国の皆さんに支援をお願いしたい。大間原発のことをまだほとんどの人は知らないのでなんとか関心をもってもらいたいのです。野田首相は『国民の生命・財産を守るために大飯原発を再稼働した』と言いましたが、守らなければならないのは子供たちの命と健康であり、財産というのは子供たちのことです。これからの日本を背負っていく子どもたちをこれ以上不幸にさせてはなりません。経済よりも何よりも生命が一番なんです。日本は海に囲まれている国。大きな津波が来たらどうしようもない。そこに一番危険なものが建っていたらどうなるか。地震も津波も自然災害です。でも、原発は違う。前もって防ぐことができるんです。それはすべての原発をなくすことです。今、『あさこはうす』の土地に水を引き、菜の花を植えて一面の菜の花畑にして、子供たちが自然の中で自由に遊べるような場所にしたいと考えているんです。母が最後まで守ろうとしたこの土地を私が引き継ぎ、原発が世界からなくなるまで頑張っていきたいと思います」。            

 2013.7.19日、小笠原厚子さんが片道15時間、夜行バスで駆けつけ、毎週金曜日の脱原発抗議行動で声をあげた。国会前と官邸前でスピーチして帰路についた。

 「現在、大間原発の工事は(全体の)半分も進んでいません。昨年(2012年)10月に燃料棒を入れる容器はできましたが燃料棒そのものは入っていません。まだ大間原発は『ただの箱』なのです。今ならまだ間に合うんです。これがもし大間原発が稼動してしまったら、(日本に設置される原発は)54基から55基となり、また私たちは子どもたちに負の遺産を残すことになります。もうこれ以上、原発は要りません。子どもたちが安心して将来生活していけるように――その道筋をつけるのが私たち大人の責任です。何としても、子どもたちが安心して暮らしていける社会を作るために、私たちが協力して原発をなくして行きましょう。私の母は、海を守るために、家族を守るために、そして自然を守るために土地を守って来ました。いま、私は母の遺志を継いで、その土地を守っています。まだ大丈夫です。これから改めて、みんなが声を合わせて原発反対の声をあげて行きましょう。地元ではなかなか声をあげられない人もいます。福島の原発事故以前は、『今さら反対しても…』、『どうせ原発はできてしまうのだろう…』、『どうしようもねーべや』等の声も聞かれましたが、事故後は違います。言葉には出さなくても、心の中で『原発はやっぱり要らない』、『原発は危険だ』と言いたい人はたくさんいます。ただ、原発関連の仕事で生活しているために、おもて立って声をあげられない人がいるのも事実です。ですから、こうして官邸前、国会前でみなさんが『大間原発反対』、『大間作るな!』と声をあげ続けて下されば、その大きな声は必ず大間に届くはずです。どうかこれからもよろしくお願いします!。大間はフルMOXの、世界で初めての原発です。もちろん(株)電源開発も、まだフルMOXについては初めてです。この大間で原発が稼動して事故が起きれば、土地、海、動物たち、そして私たちの生活のすべてが破壊されます。私たちはふるさとを失うことになります」。 

 2011.7月、ツイッター登録「あさこはうす(公式) 」。       

〠〒039-4601 青森県下北郡大間町字小奥戸396 あさこはうす」
 カンパなど/郵便振替口座 02760-3-66063 「あさこはうすの会」宛て
 (
asakohouse.cocolog-nifty.com/blog/
 

 あさこはうすで汲み上げていた地下水が枯れてしまい(注:原発工事の関連か?)、「水」に不便しているとのこと。電気は自家発電しているとのこと。水の送り先は上記住所へどうぞ。※宅配便の業者によって送り先・電話番号が必要な場合、小笠原厚子さんの携帯番号〔090-9528-4168〕を記入してくださいとのこと(ご本人承諾済)。

| | コメント (10) | トラックバック (10)

2016年3月16日 (水)

吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考

 先の「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」で「完全勝利での決着済みは「鹿久居島原発阻止千日闘争」だけかも知れない」と記したが、これは吉備太郎の不明さを知らしめるところで実はそれなりに事例があることが分かった。しかし知らなかったのは何も吉備太郎一人ではあるまいと思う。以下、その代表的事例である「三重県芦浜原発阻止37年闘争考」を書き添えておく。原発阻止闘争史は「反原発闘争の歩み」に記す。

 1963(昭和38)年、中部電力(以下、単に中電と記す)が、熊野灘への原発建設計画を公表した。

 1964年、中電が、三重県旧南島町(現南伊勢町、古和浦)と旧紀勢町(現大紀町、旧錦町)にまたがる芦浜地区を原発計画地に決定した。この地は伊勢志摩国立公園の西数kmに位置する熊野灘の一角の美しい砂浜地でありウミガメの産卵でも知られている。以降、37年間に及ぶ長い原発闘争が始まった。

 原発計画が来る前の村は平和だった。漁村というものは一つの生活共同体であり、その結束力は非常に強い。芦浜に漁業権を持つのは古和浦と紀勢町錦の両漁協であった。この両漁協と漁民に対する凄まじい懐柔作戦が発動された。賄賂金、ただ酒、結婚式・葬式の際の持参金、「原発視察」という名目の招待旅行、漁協総会での1票10万と云われる票買い等々による篭絡であった。中電は徐々に受容派を増やしていった。

 これより住民間に対立が始まった。この頃、南島町議会と町内7漁協は反対、紀勢町議会は誘致と云う相対立する決議を採択している。南島町と紀勢町がいがみ合う事態となり暴力的な事件に発展し機動隊が出動する騒動を引き起こしている。反対運動のリーダーが二度も自宅を襲われ、駆けつけた警官が暴漢の身柄を拘束せず自宅に帰す「羽下橋事件」。何者かがゴム印を使って注文し漁業組合長の自宅に次々と宅急便が送り届けられる嫌がらせ事件などが起こっている。

 しかし反対派はあきらめなかった。彼らの心情が次の言葉に言い表せられている。      

 「わしらは昔からこの海で生きてきた。海はわしらのもんやない、先祖から受け継いで子孫に残すもんや。わしらに海を売る権利はない。子孫に災いを残してはいかん」。

 1965年、中電は密かに芦浜の用地を買収した。※芦浜は現在も中電の所有地であり、立ち入り禁止となっている。

 1966.9.19日、原発推進を主導してきた中曽根康弘団長、渡辺美智雄議員らの衆議院科学技術特別委員会の芦浜現地視察団がテコ入れに来県した。一行は名古屋から紀伊長島を訪れ、長島港から海上保安部巡視船「もがみ」で芦浜沖へ入ろうとした。

 これを南島町の漁船150隻が取り囲み実力阻止した。沖合いには別に350隻の漁船も待機していた。これを「原発長島事件」と云う。反原発闘争のリーダー達25人が起訴された。被告は「町を救った勇士」であり、「起訴は反対派をより強固にし一枚岩にした」。起訴された25名は後に有罪判決を受けている。

 高谷副知事が南島町民との話し合いで、原発建設には南島町住民の同意が得られることが必要だという内容の文章に捺印した。副知事はこれにより更迭された。

 1967年、原発推進の紀勢町でもリコールで町長が辞職させられた。同年9.26日、当時の田中覚知事が「原発問題に終止符を打つ」と宣言し、原発計画を再度棚上げした。原発阻止闘争の勝利となったが、これは最初の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利1)。

 この年、中電浜岡原発計画が進行し、(反対が少なかったため)1971年着工が決定されている。この年、新潟水俣病の患者が昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第1次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。

 1969.6.14日、熊本水俣病患者・家族のうち112名がチッソを被告として熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。

 1971年、新潟水俣病1次訴訟の判決があり、有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して住民にメチル水銀中毒を発生させた昭和電工に過失責任があるとして原告勝訴の判決が下された。公害による住民の健康被害の発生に対して企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。

 1972.12月、田川亮三氏が三重県知事選挙で初当選した。 田川知事は福島原発を視察し、安全性確信教育を受けて帰県した。以降、「電源開発四原則三条件」(地域住民の合意など)を示し、中電と県が一体となって推進工作を強めた。この頃、南島町はそれまでの真珠母貝の養殖からハマチ養殖に切り替えつつあり、これが奏功し町のあちこちに「ハマチ御殿」が建ち始めていた。漁民は「宝の海が汚染されてはたまらない」と述べて原発誘致に耳を貸さなかった。

 
1973.3.20日、熊本水俣病第1次訴訟に対して原告勝訴の判決が下された。被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、従って過失責任はない」と主張していたが、判決は、「化学工場が廃水を放流する際には地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する」として、公害による健康被害の防止についての企業責任を明確にした。

 1976.2月、田川知事が電源立地三原則を打ち出し、間もなく国の「要対策重要電源」に指定された。田川知事は、芦浜原発に反対する住民を「井の中の蛙(かわず)」呼ばわりし、「原発を勉強せよ」と逆さ説教し続けた。

 1977年、国は芦浜地区を要対策重要電源に指定した。

 1978年、町長と中電の贈収賄事件が発覚した。町民は町長を辞職に追い込んだ。次の町長は「凍結」を公約し当選を果たした。紀勢町長は「推進寄り」と「凍結」を互いに繰り返していった。

 1979.3.28日、米国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故発生。

 1982年、中電が再び蒸し返し始めた。1983年頃、町長が中電と立地調査協力協定を勝手に結んだ。町議会が事後承認した。こうして芦浜原発計画がぶり返した。これに対し、「芦浜原発を考える町民の会」、「海を守る会」、「有志会」などが次々と結成された。

 1984年、三重県も原発関連の予算を計上し、県議会も立地調査推進を決議した。これに対し、「原発いらない三重県民の会」、名古屋の「反原発きのこの会」による月1回の紀勢町全戸チラシ入れを84年から85年にかけて行い対抗した。この年の暮れ、四国の窪川でできた町民投票条例を紀勢町でも作ろうと、「町民の会」が中心となって直接請求を行った。結果は、当時有権者数の3分の1強の1600名余の署名を集めたが、町議会は丸1年にわたる継続審議の末、否決した。

 1985.6月、中電が三重県に対し正式に協力要請した。同月、三重県議会が原発立地推進を決議した。漁民たちは烈火のごとく怒った。7.12日、危機感を強めた南島町7漁協の漁民1500名が漁船500隻を熊野灘に連ね壮大な海上デモを展開して抗議した。県議会へバスを仕立てて抗議、傍聴に押し掛けた。対立の溝は一気に深まった。中電は環境調査申し入れを行えなかった。

 1986.4月、ソ連チェルノブイリ原発事故が発生した。はるか2万kmのかなたからお茶の名産地の度会の地に放射能が降り注ぎ茶栽培農家は大被害をこうむった。反対運動が強まり、漁民は再び海上デモを繰り広げた。

 同年12月、東京のテレビキー局の一つでハマチ・バッシング番組が報道された。曰く「養殖ハマチは薬漬けのうえ、漁網防汚剤として使われている有機スズがハマチの奇形を起こす原因だ」云々。他にも時期がはっきりしないが、ハマチ養殖の餌に混ぜられた抗生物質のせいで漁師の指が腐り落ちたなどと報道されている。指が落ちた一人はハマチの餌であるミンチをつくる機械に指をはさまれ、もう一人は全然別の原因だった。

 このマスコミ報道が養殖ハマチの単価の大暴落を引き起こした。1400円/kgだったハマチの値段が600円/kgまで暴落した。これがハマチ漁民の生活基盤を不安定化させ、特に南島町の打撃が大きく、経済的苦境に立たされた漁師が保証金目当てに推進勢力に呑み込まれていった。中電は借金を抱えた漁業組合員215名に対し漁民連帯にして金を貸す案を持ちかける等、手を替え品を替え工作を進めた。これよりマスコミが情報操作の道具として使われていることが判明する。我々はマスコミの時事報道の裏にある深層の真相を勘ぐる必要があろう。

 1993.12.16日、中電は、反対派の南島町古和浦漁協に対し「原発調査実害保証金」の前払い金として2億円を預託した。覚え書きには海洋調査に同意すれば補償金に振り替える、つまり返さなくて良いとしていた。要するに賄賂だった。古和浦漁協は受け取り、正組合員1名につき100万円を渡した。反対の本丸だった古和浦漁協が落城させられた。

 1994.5.31日、「三重県環境影響評価の実施に関する指導要綱」が公告された。環境アセスメントの実施手続きとして、その第2条に「知事及び関係市町村に通知しなければならない」と規定するだけだった。この規定では通知すればよく、知事や町長の同意はいらないという解釈になる。一方で、県は住民との間で「四原則三条件」の一つに「地域住民の合意」を掲げていた。

 7月、中電が錦漁協へ3億7千万円を無利息で貸しつけている。本金は海洋調査受け入れの場合補償金にあてるとする覚書がついていた。漁協は受け入れ組合員に200万円ずつ渡している。

 この年、激しい買収工作の結果、原発絶対反対だった南島町に7つある漁協のうちの一つ古和浦漁協執行部の理事も推進派が多数を占め、30年間守り続けてきた「芦原原発反対決議」を白紙撤回し、紀勢町の錦漁協と共に中電の海洋調査の受け入れに同意した。しかしなお各漁協で対応が分かれていた。この後、中電は古和浦漁協と元々推進派だった紀勢町の錦漁協に損害補償金及び協力金の名目で15億円(古和浦漁協が6億5000万円、錦漁協が8億5000万円)支払っている。漁協から個々の組合員に凡そ200万とも300万とも云われるカネが分配された(古和浦は当時、正組合員215人)。

 8月初旬、紀勢町の反対派が初めて十人が寄り合いを持った。盆明けに新たに組織を作ること、具体的には住民投票条例を作ることを目標にすること、見通しとして過半数の署名を集めれば可能だろうなどが話し合われた。9.23日、「紀勢町住民主権の会」(会報発行責任者/柏木道広)発足が決議された。9.24日、「主権の会」発足。11.13日、第1回ちらし折り込み。(11.30日、中電が海洋調査申し入れ)、12.3日、抗議集会、12.5日、抗議文手渡し、住民投票条例を求める陳情署名を開始した。

 海洋調査開始の日(いつかは不詳)、反対派及びこれに加勢する人達が大勢訪れ2000人に達し海洋調査阻止座り込みを行い実力行使を敢行した。小さな町だけの問題でなくなり三重県全体の問題へと発展した。

 1995.2.20日、署名集約が2316名となり有権者の過半数を超えた(94/9/1現在、有権者数4363)。2.22日、提出(2312名、2/24追加5名計2317名)。

 1996年、「南島町芦浜原発阻止闘争本部」を結成。県民の過半数に及ぶ81万2335人の反対署名を北川正恭知事に提出した。県史空前の反対署名が県議会を動かした。南島町、紀伊長島町など原発反対を掲げる自治体が形成され、南島町、紀勢町では原発立地住民投票条例が制定され、反対の砦が構築された。

 ここまで回顧して言えることは、中電、政府、県が膨大な宣伝、カネ、権力、工作員などを総動員したが、結局は反対運動を潰すことができなかった。逆に反対派は不屈に闘い、これに連帯する反対運動が各地に広がり逆に切り返したと云うことだろう。反対派は、原発が麻薬と同じであること、財政難の過疎地に誘致をもちかけ電源三法による交付金を過疎の町に落とすものの、そのうち再び財源不足になり新しい原発を建てるしかなくなると云う繰り返しで原発が増えて行くことを学んでいた。

 1997.3月、県議会が調査・建設の冷却期間を置くよう求めていた南島町の請願を全会一致で採択した。同年7月、県は中電に対して立地予定地からの社員引き上げを正式に要請し、芦浜原発立地活動は1999年末まで「冷却期間」に入った。又も原発阻止闘争勝利となったが、これは2番目の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利2)。

 1998.2月頃、浜岡原発調査ツアー。4月頃、原発問題を考えるシンポジウム開催。

 1999年、北川知事が国内やドイツの原発を視察した。帰国後、南島町、紀勢町から意見聴取を行った。9月、東海村JCO臨界事故が発生した。この5日後、隣接の紀伊長島町議会が、原発広報安全等対策交付金を使って二泊三日の原発視察に福島県の広野町に出かけていた。同時期に大内山村議会は北海道の泊原発を視察していた。11.16日、北川知事が、紀勢、南島両町に入り、賛否両派住民から直接、原発問題の聴き取り調査をした。何と、芦浜原発計画浮上後、36年にして「県知事が初めて現地入り」した。

 2000.2.22日、北川知事が県議会で「対立はゴールなきマラソン。計画の推進は現状では困難、白紙に戻すべきだ」と白紙撤回を表明した。その理由として、計画発表から37年もの間地元住民を苦しめてきたことにつき県にも責任がある、「電源立地にかかる四原則三条件」を満たしていないと述べている。当時、県民の53%、南島町民の86%が原発に反対していた。一方で紀勢町では原発推進派の勢いが勝っていた。中電は原発を浜岡1ヶ所に頼っていると現状打破として芦浜地区にも建設したいという思惑があったが、知事発言を受けて太田宏次社長が計画を白紙に戻すことを表明した(芦浜原発阻止闘争勝利3)。

 2001.9月、「原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い」(北村博司/ 現代書館)が出版された。

 37年という闘争を振り返って、長島事件で反対派として被告の一人となり、その後、推進を主張した古和浦漁協の上村有三組合長(81歳)は次のように述べている。       

 「その時々を真剣に考え、懸命に生きてきた。今も中部電力の担当者と顔を合わせることもあるが、会話は世間話だけ。町内の対立も消えつつある」。

 反対派の或る主婦は笑みを浮かべながらも幾度もうなずきつつ次のように述懐している。

 「昔のいい町に戻りつつあるなあ。でも芦浜が中電の所有地としてある限り気は抜けんのさ」。

 2011.2月、中電が今後の経営ビジョンに芦浜原発計画を再々浮上させようとした形跡が認められる。これまで不思議なほどに芦浜原発が動きはじめると1979年に米国スリーマイル島原発事故、1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生している。こたびも直後の3.11日、東日本大震災(三陸巨大震災)が発生している。これを「お伊勢の祟り」と言わずして何と言うべきか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月 4日 (金)

吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考

 「2013年/田舎暮らし 希望地域 ランキング」調査によれば、岡山県は全国移住人気ナンバー3位の評価を得ている。今静かに「移住するなら岡山」ブームが起きている。その大きな理由に「原発のない県」であることが挙げられると思う。従来の温暖にして雨の少ない「晴れの国岡山」だけの位置づけではこうはならなかったであろう。しかしながら、岡山県に原発がないことに対して、岡山県民自身が理由を知らない。それが「たまさかの僥倖」であることを知らない。

 かく云う私も、福島原発事故後、「実は岡山にも原発誘致の動きがあったんだよ」とある人に教えられるまで知らなかった。そういう按配だからましてや全国で知られることもなかろう。要するに知らされていない故に知られていない訳である。本稿で、岡山県下に原発が導入されようとして、それを見事に阻止した闘争を確認しておく。この闘争を仮に「岡山県日生町の鹿久居島原発阻止千日闘争」と命名し、以下のサイトに格納しておく。詳しくはこちらを見るべきだろう。本稿は情報が入り次第追々に更に詳しく確認して行くつもりである。

  「
岡山県日生町鹿久居島の原発阻止千日闘争
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/
 genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html

 この闘争の意義は、原発阻止闘争のほんに数少ない勝利経験の一つとなっていることにある。こういう闘いは他にも「高知県東洋町の放射能廃棄物最終処分場拒否闘争」があるようである。現在進行形の闘いとしては、「山口県上関町の原発阻止闘争」、「あさこはうすの青森県大間町の原発阻止闘争」(
「あさこはうす」の闘い実録)がある。完全勝利での決着済みは「鹿久居島原発阻止千日闘争」だけかも知れない。他のものは、既に遅かりしではあるが原発導入後の稼動阻止闘争であり未然阻止のものではない。

 岡山に原発基地がないのはこの闘争のお陰であり、その賜物である。岡山県民はこの僥倖をどんなに謝しても足りることはない。この「元一日」を謝しつつ暮らすべきだろう。既に原発基地を持たされている全国各地の住民は、この闘争を知るほどに地団太を踏んで悔しがるべきだろう。目下闘争の渦中の自治体住民は今からでも遅くない大いに学ぶべきだろう。かくメッセージしておく。

 「鹿久居島の原発阻止千日闘争」から見えてくるものは、住民、漁協、社会党、共産党、学者、僧侶、文化人の見識の高さである。この時の青木僧侶の予見力を見聞きせよ。神主たる者、住職たる者はかくあるべきだろうの手本のような気がする。

 「青木敬介/浄土真宗西念寺(さいねんじ)前住職/播磨灘を守る会代表の2カ所の原発建設計画阻止記
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/
 genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html

 この闘争は共同戦線型運動により功を奏した貴重な経験である。全共闘こそが勝利の方程式であることが分かる。逆は逆と心得るべきだろう。加えて、1970年代前半のこの時期の政府、各省庁、地方自治団体等の選良が担う政治の質の高さが垣間見られる。行政当局として大石環境庁長官、加藤県知事が矢面に立ったが、両者が最終的に聞き分けを能くし、原発誘致阻止に廻ったことで今や最も評価の高い「原発のない憧れの岡山県」が温存されることになった。

 以上は本稿の前半である。後半はその後の鹿久居島について記したいと思う。日生周辺では、原発のみならず火力発電所の建設計画に対してもその都度、島民の漁師たちが真っ向から反対して中止に追い込んできた。リゾート開発計画に対しても同様に阻止したのかどうか、その功罪は分からない。その為に日生は瀬戸内海屈指の遠浅な海域にも拘らず自然海岸が多く残されていて、今ではそれが地域の誇りになっている。2004年11月、鹿久居(かくい)島と頭(かしら)島との間に頭島大橋(300m)が開通している。2015年4月、岡山県備前市日生町の本土と鹿久居島の間に備前ハート日生大橋(765m)が開通している。

 この間、竪穴住居に泊まり、貫頭衣を着て火を起こし、狩りをする等の縄文時代生活体験で知られる「古代体験の郷まほろば」を観光地としていたが、2015年11月、管理棟から出火の火災で高床式の建物3棟が全焼、現在まで再建されていない。

 思うに、電力各社の原発誘致の甘言が、当該地域の自治体への交付金、給付金を餌にして行われている。とするならば、寒村であり続けるとワナの仕掛けに嵌る。それを思えば、地域毎に自律自存の産業力を持ち地産地消の経済圏を確立しておく必要がある。今や去る50年近く前にもなるが、田中角栄が政権獲得前に世に問うた「日本列島改造論」がこのことを的確に指摘している。この名著の中身は未だに瑞々しい。今からでも遅くない手にして学ぶべきだろう。原発阻止闘争と村興し&町造りは案外と密接不可分なんだなと思う次第である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月21日 (日)

吉備太郎の西大寺会陽考

 会陽(えよう)裸祭りは日本各地にあるらしい。当地の西大寺会陽は高野山真言宗別格本山/西大寺観音院で行われるもので、裸祭りの筆頭に挙げられる伝統を誇っている。「天下の奇祭」、「日本三大奇祭の一つ」としての人気を保持している。その歴史は遠く奈良時代に始まる。昔は午前零時を期してであったが、会陽500周年を迎えた2010(平成22)年から午後10時に変更された。

 会陽とは、修正会結願(しゅしょうえけちがん)行事の地域的名称である。岡山県以外でも香川県善通寺市の善通寺会陽などがある。岡山県には金山寺会陽(岡山市)、安養寺会陽(美作町)、岩倉寺会陽(西粟倉村)など多くの会陽がある。何といっても全国に名を知られているのが西大寺会陽(岡山市)であり、1959(昭和34)年、岡山県により重要無形民俗文化財に指定されている。       

 この西大寺会陽に、恥ずかしながら小生はこの年になるまで出向いたことがない。阿波踊りには5年連続詣で、最後の年に徳島警察署の変な信号に引っ掛かり、交通違反切符切られて以来憑き物が落ちたように無沙汰する身となったが、県外の出し物に興じる割には地元のそれに詣でていなかった。今年、それはオカシイと非常に気にし始めた。

 西大寺会陽に行くことがなかった最大の理由は2月第3土曜日と云う極寒の最中の祭りだからである。当地では、「奈良のお水取り」として知られる東大寺の修二会(しゅにえ)の法要行事と同様に、これを境に「備前平野に春を呼ぶ」と云われている季節メロディーの行事となっている。そういう値打ちもんのものではあるが、寒さが苦手の私は敬遠し続けていた。

 ところが、今年は何となく行きたくなった。それも数年前にできた西川原駅を外からは確認しているものの実際に乗車してなかったので、その駅の初乗車も兼ねて電車で行ってみたいと思った。朝から雨模様だったが、天気予報で夕方には止むと知らされていたので気にならなかった。実際、雨は5時頃に止んだ。午後6時半頃の電車に乗った。車内はほとんど高校生、大学生だった。忘れていた青春を思い出し懐かしかった。半数近くの若者が携帯スマホでラインしているのが微笑ましかった。新しい風俗だなと思った。

 高島、東岡山、大多羅の次が目的地の西大寺駅で約15分ほどで着いた。駅を降りると花火が打ちあがっていた。花火そのものは幾分か間延びしており、たいしたものではなかったが、雰囲気の盛り上げに一役買っていた。同時下車した人がそこそこ居り、その人の流れに添っていくうちに西大寺に着いた。道中、裸衆詰所が灯りを灯しており妖気を漂わせていた。商店街のあちこちに居酒屋が開設されていた。寺院入り口近くの両サイドに夜店が並んでいた。この夜店通りの幅が進む者と来る者が互いに二、三人同士で交わると肩が当るかどうかにしてある。これが何ともいえない味わいがある。

 午後7時頃、境内に入った。既に見物客が多い。報道人も多い。地元消防団、警察官も相当数出張っている。まず本殿に拝をしてからあちこちを見て回った。例年午後3時半頃、「少年はだか祭り」が行われ、地元の小学生男児が宝筒の争奪戦を繰り広げる。未来の頼もしの若衆予備軍である。女性の水垢離も行われ、毎年50名近くがさらしに白襦袢を身につけ、男と同じように垢離取場、本堂、牛玉所殿を巡って祈願する。新しい岡山名物踊りとして評価を増しつつある「うらじゃ」による盛り上げも行われている。それらの余韻が残っている中を散策した。朝からの雨のせいで地面が少しぬかるんでいる。

 暫くすると、「ピッピッ」の笛の音が聞こえて来た。小生ごとながら、この笛の音に弱いんだ。それはともかく、裸衆第一陣とも云うべき数百人の隊列が「ワッショイ」の掛け声と共にやって来た。4人縦列しており先頭が学芸館高校の横断幕を掲げている。それも一直線に本堂に向かうのではない。仁王門方向に向かって突き抜け、暫くすると戻って来て、本堂前に整列し直し、気合いが満ちた頃を見計って本堂の大床(おおゆか)に雪崩れ込む。圧巻である。争奪戦の模擬演習をしているのだろう、両腕を上げ喚声を挙げ本押しする。本堂2階から柄杓水が掛けられるたびに蒸気になる。この往来を二度、三度繰り返す。

 午後8時頃、褌まわし姿に白足袋の男たちが西大寺境内に続々集まり、寺の前を流れている吉井川の水を引いた垢離取場(こりとりば)で水垢離(みずごり)をして身を清める。その後、本堂、千手観音、牛玉所殿(ごおうしょでん)の牛玉所大権現(だいごんげん)の順にお参りする。本堂裏手を抜けて四本柱に至る。四本柱をくぐり抜けたあと本堂建物の前半分の大床で本押し模擬をする。裸衆は垢離取場、本堂、牛玉所殿を3度巡る。本堂の大床で「地練り」(じねり)といって「ワッショイワッショイ」と掛け声をかけながら互いを押し合う。それを見て、清水方(せいすいかた)が頃合いに御福窓の脇窓から柄杓(ひしゃく)で水をまく。

 いよいよ大人の連隊がやって来た。先頭に横断幕を掲げ、どこの連か分かるようにしている。思い出すままに記すとNTT、岡山トヨペット、武蔵倶楽部、旭電業、岡山土地倉庫、三井住友等々だったと思う。これらは連の名ではなくスポンサー名かも知れない。各連隊が五月雨式に境内を練り回る。これも「地練り」と云うのだと思う。その後、高校生の演技同様に本堂前に整列し、気合いが満ちた頃を見計って本堂に雪崩れ込む。「ワッショイ」、「ドスコイ」、「ワッショイ、ドスコイ」、「ワッショイ、ワッショイ、ドスコイ」の様々な掛け声が連によってあるようである。

 本堂の大床に向かう道中、両翼に人垣ができており、若い娘が、通り過ぎる裸若衆と握手したり肩を叩いてエールを贈っている。これが何と云うのか妙に自然体でやり取りしている。ここに陣取る若い娘たちはこれをやる為に毎年来ているのだろうと思うほど嬉しげ楽しげである。雰囲気が盛り上がる。

 最近は外人部隊の連もあるようで総勢50名ぐらいになっていたのだろうか。これまた楽しそうに参加している。殆どが白人なのだが黒人が一人居た。カメラマンに人気があるようで、外人部隊の連に付きっ切りでフラッシュを焚き続けていた。予感として、外人部隊の連は今後相当に増えて行くのではなかろうか。まさに阿波踊りの心境で「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」の精神が受け継がれて行くのではなかろうか。

 ちなみに、この黒人は、テレビ東京系で放送中の人気バラエティー番組「YOUは何しに日本へ?」のナレーションを担当しているタレントのボビー・オロゴンさん(42歳)だった。同番組収録のため西大寺会陽に初挑戦し会場の熱気を体当たりでリポートしたことになる。ボビーさんは「宝木(しんぎ)獲得に燃える男たちの姿に感動した。祭りの神聖な空気感を多くの人に伝えたい」と話したとのことである。

 この雰囲気を更に盛り上げる為、俄かに太鼓隊が登場する。紺地服の男衆5名、紅地服の女衆5名が躍り出て来て、太鼓リズムを奏で始める。女衆ドラマーが裸衆に接近してマンツーマンで太鼓を叩くと踊り始める若衆も出る。
頃合を見て大太鼓が入る。大太鼓のバチ音と小太鼓のバチ音が絡んで最高潮になる。この太鼓のリズムの流れる間、「地練り」が続いている。

 小生には何やら縄文時代の祭りの光景、例えばアイヌの「イヨマンテの夜」に繋がる情景が垣間見えた。会陽は縄文時代との今に続くDNAの連綿を証しているのではなかろうか。ちなみに太鼓につき次のように解説されている。「祭りの開始を告げる会陽太鼓の打ち手は全て女性である。心の炎を燃やして男たちを鼓舞する炎祷と龍神の2曲を交互に演奏。これから始まる男たちの裸祭りに祈りを捧げる」。

 同時に気づかされた。これはどこかで見聞きした風景に似ている。ズバリ云おう。そうだ、これは全共闘系学生運動のデモの光景である。ヘルメット覆面がフンドシに代わっただけに過ぎない。裸衆の一連隊はセクトのそれになぞらえられる。学生運動をそういう風に捉えたことはなかったが、案外これが深層の真相だったのかも知れない。ピッピッの笛、それに合わせて「ワッショイ」、「ドスコイ」の掛け声で前進し、最後に本堂へ駆け上る姿は、むしろソックリではなかろうか。してみれば、あのデモは当人たちが気づかなかっただけで、会陽裸祭りの乗りと同じで実は縄文人のエネルギーを発散していたのではなかろうか。

 くどいけども書き足しておく。学生運動が逼塞して久しい。もはや壊滅されきっており往年の活力までの復元は望むべくもない。今となってはそれを回顧することしかできない。その際の頂点のシーンとして東大安田砦攻防戦が挙げられる。しかしそれは滅びの美学のそれでしかない。本当に追憶すべきは全共闘集会のシーンの方ではなかろうか。こちらは上げ潮期のそれである。

 1968年11.22日の日大・東大闘争勝利全国総決起集会の光景が次のように描写されている。「午後2時頃から安田講堂前に集結し、銀杏並木と正門前が約2万名の学生でうずめられた。安田講堂前の広場は赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。講堂正門には各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に各派のマイクアジテーションが続いた」。この全共闘が1969年9.5日、学生約3万4000名が結集した全国全共闘会議結成へと続く。さぞかし圧巻だったであろう。

 もとへ。裸衆の各連隊は何度となく境内を「地練り」し、仁王門と4本柱ゲートを少なくとも3回以上出入りを繰り返す。そうこうしているうちに定刻が近づく。辺りは静けさを装い始める。10時1分前、堂内の明かりが消される。いよいよ宝木が投下される寸前、裸衆の興奮は最高潮に達し、地響きのようなドゥオーの雄たけびが響きわたる。「裸たちのどよめきの声は、古の江戸時代、遠く四国の香川県まで届いた」と伝えられている。午後10時。真っ暗闇に消灯された堂内に雷鳴のようなフラッシュが点滅点灯する。僧侶たちが高さ約4mの本堂の御福窓(ごふくまど)から、まず小ぶりな枝宝木(えだしんぎ)を100組投げる。これは宝木の功徳のお裾分けの意味あいがある。

 最後に院主が、手にすると福を授かると云われる木の棒を束ねた守護札の宝木を2本投下する。同時に明かりがつき千人余の裸衆が奪い合う。裸衆は万歳のように両手を上げるのが鉄則で、手を下げていたら周囲からの圧力で下に押されていき踏みつぶされてしまう。大量の水が撒かれるが一瞬で湯気に変えてしまうほどの熱気に包まれる

 本物の宝木は修正会の2週間、高価なお香が焚きしめられているので非常に良い香りがする。但し、裸衆たちにはどれが枝宝木でどれが本物の宝木なのか分からない。運よく宝木を手にすることができたら、まわしの中に入れて走り逃げる。仁王門を出るまでは奪ってもいいというルールになっており、その阻止線を必死で搔い潜ることになる。宝木を手にすることができるかどうかは運次第で容易なことではない。「宝木は奪うものではなく授かるもの。信仰心を持ち精進していれば福は自然とやってくるのだ」と云われている。

 宝木取り争奪戦は例年凡そ25分近く続く。あちこちに渦ができる。その渦が次第に仁王門へと向かって行く。渦の下では熾烈な宝木取りが行われている。柵の外に待機している消防士が渦に水をかけるが直ぐに蒸気となる。「宝木が抜けたもよう」というアナウンスがあるまでもみ合いが続く。2本目の宝木が何時抜けたのか分からず、アナウンスが1回だけで終わったりアナウンスがないときもある。宝木がもはや境内にないことが分かると、揉み合っていた群衆が次第にテンションを下げ始め裸祭りが終了する。「俄然筆舌に尽くし難い争奪戦が展開され、境内を西に東に裸の渦となってもみ合う様は勇壮無比である。その御福(ごふく)にあやかろうと3万人の参拝者が境内を埋め尽くす」と記されている。

 参加者の中には正月から精進潔斎し、宝木投下に臨む熱心な者が大勢いる。阿波踊り同様にこれがやりたくて一年を生きている者が居る。わざわざ遠方より帰ってくる者も居る。県外の者も居る。県外の裸祭りに出向く者も居る。そういう連中がチームを作り、宝木獲得の練習に精を出し、作戦を綿密に立てグループ参加している。主なグループは「林グループ」(林昭二郎代表、約40人)、寺坂グループ、梶原グループ、阪田グループ、庄司グループらで100近くあると云う。

 クライマックスの宝木の争奪戦を最終的に制し宝木を手にした者を取り主(拾い主)と云う。境内を抜けた取り主は速やかに寺の近くの岡山商工会議所西大寺支所内に設けられた宝木仮受所に持って行く。宝木は白米を盛った一升枡(ます)に突き立てられる。直ちに寺に連絡され、検分役の僧侶が宝木削り(宝木の原木から宝木を削る行事)のときに切り放した元木と一升桝の宝木の木理(もくり、木目のこと)が合致するかどうかを判定する。

 鑑定により本物と認められれば取り主は晴れて福男に認定され、宝木の協賛者にあたる祝主(いわいぬし)が用意した祝い込みの場所まで持って行く。近年、祝い主は会陽奉賛会により事前に決められている。寺から赴いた山主が朱塗りの丸形の厨子に納め、祈願して祝い主に渡す。かくして宝木は祝い主のものとなる。祝主は「御福頂戴」(ごふくちょうだい)と書かれた45cm×120cmの白い額行燈(がくあんどん、横長の額の形に似た行灯)を掲げて披露する。福男には表彰状が授与される。福男にはその年の幸福が霊的に約束されている。宝木は1年で御利益がなくなる訳ではないが、祝い主は毎年会陽の始まる前に宝木を寺に持ち込んで祈祷を受け、新たな気持ちで年を迎えると云う。

 以上が私の西大寺会陽見聞録である。充分堪能させてもらって帰路についた。来て見て、宝木取りの瞬間だけが素晴らしいのではない、そこに向かうクライマックスまでの舞台がすばらしいことが分かった。さすがに伝統の産のものだけはある。自分まで福をもらった気持がする。来年も来たいと思った。飲んで帰ろうかと思ったが、一人では何分寂しく過半の流れに従い駅に向かって歩き始めた。

 その道中で、裸衆の道路渡りに出くわした。裸衆が仁王門から潮を引くように引き揚げている。道路は車両止めの歩行者天国になっており次から次へと道路を渡っている。それを両翼で人垣が囲み、特に女性軍がエールを送っている。夫か彼か友達かなのだろう親しく語り合っている者も居る。裸衆は誰も戦いの後の余韻に浸って頬が紅潮し肌が美しく光っている。男の裸がかくも美しいことを問わず語りで晒している。すばらしい男気の香りを発散させている。これに出会いたくて老若男女が会陽に寄るのだろう。

 裸衆たちは近くの簡易テントやそれぞれのグループ控え所に戻って、着替えを済ませて帰っていく。午前零時15分頃になると境内の裸の数は徐々に減り、やがて静寂な観音院の姿に戻っていくと云う。私は臨時列車に乗り岡山駅前まで戻り行きつけの日本酒バーに行って、今見てきたことを語り合った。幸せな一日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月27日 (水)

2016宜野湾市長選挙不正疑惑考

 2015.2.3日付け沖縄の選挙とムサシの関連まとめ」、2016.1.25日付け山本直人ブログ宜野湾市長選挙で報じられない単純な数字」その他を参照する。いずれも資料的情報を貰うのに役立った。判断はこちらで焼き直した。紳士的、上品、遠慮がちに云うのは性に合わないのでズケズケもの申すことにする。

 2016.1.24日、米軍普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市の市長選結果は次の通り。自公派の佐喜真淳(現職、51歳)が27,668票。翁長知事派の志村恵一郎(元県幹部、61歳)が21,811票。前回は千票未満の僅差だったが今回は6千票の大差で佐喜現市長が再選された。当日有権者数は7万2526人。投票率は68・72%(前回63・90%)。

 この結果と数値をどう評すべきか。選管の厳正なチェックの下で算出されたもので不正はないと思うものは幸いである。この者は気分を悪くするだろうから以下読む必要はない。あらかじめ申し上げておく。この結果と数値に対して選管ムサシの稼動を見て取り、いつものイカガワシイ臭いを嗅ぐ者は不幸せである。同志よ共に確認せんか。

 ちなみに、 沖縄県の選挙でムサシを使用していない市は、那覇市、石垣市、豊見城市。使っている市は、最も早く宮古島市。2009年、南城市。2010年、浦添市。2011年、沖縄市。2012年、名護市、糸満市。2013年、宜野湾市。2014年、うるま市。ムサシマシーンの魔の手が次第に全域を覆いつつあることが分かる。

 興味深いことに、ムサシを使っていない前回の那覇市長選(2014.11.16日)では、反基地派の城間幹子が当選している。翁長雄志県知事は前那覇市長であり、那覇市長選と同日で沖縄県知事選を争い、3選を目指した仲井真らを破り当選している。ムサシを使わなければこうなり、使われるとほぼ絶対的に勝てなくなると心得るべきだろう。

 その昔は、新聞、テレビ両者とも、選挙毎に票の分析を熱心にしていた。面白いもので丁度ムサシマシーンが登場した頃より票分析がネグレクトされ始め、代わりに「政局分析」一色になっている。これにつき次のように指摘されている。「どうして票の分析をしないんだろうか。別にむずかしい解析の必要はない。足し算と引き算だけで見えてくるものはいろいろあるのだから、もう少し分析的な記事を見せてもらえれば報道の付加価値もあると思う」。この言は正論だろう。と云う訳で、私めがこたびの宜野湾市長選の票分析をしてみる。

 与党系の獲得票は2012年/22612、2016年/27668。5056票増である。野党系のそれは、2012年/21712、2016年/21811。99票増。有権者数は2012年/69926、2016年/72526。2600増。投票率は2012年/63,9%、2016年/68,7%。4,8%増。有権者数で2600票、投票率増で3400票が増加した。この票の行き先が野党系99票増、与党系5056票増だと。これではほぼ全部が与党系になだれ込んでいることになる。確率論的に云うと、こんな数字はあり得ないのではないのか。誰か、高名な数学者よ、あり得ることを説明してくれ。でないと、こちらの脳がヒートして寝れない。

 どの選挙区でも、人の投票行動はほぼ固まっており、与党票、野党票の移動は案外と小さいのが経験的に確認できる。ところが、宜野湾市の市長選では有権者増、投票率増のほぼ全員が与党系候補に投票したような結果になっている。これをどう説明すべきか。「これは、普天間基地の移転がさらに遅れて、現状が固定化されることへの危機感が高まったということだろう。票を見るだけで、そうした宜野湾の状況は十分に推察できる」と分析すべきだろうか。こういう類の推理は御用性が過ぎるのではないのか。選管ムサシのフル稼働を推理する方が素直なのではなかろうか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016年1月 6日 (水)

2016たすけあい党新年声明

 遅くなりましたが2016たすけあい党新年声明をお届けします。本年も共に歩みませう。「何とかしよう日本」、これを合言葉にスクラム組んで押せ押せで参りませう。

 これまでの党声明は次の通りです。「2007声明」、「2008声明」、「2009声明」、「2010声明」、「2011声明」、「2012声明」、「2013声明」、「2014声明」、「2015声明」。今年の「2016声明」は情勢分析論、運動指針論を省きます。屋上屋を重ねるからです。本年は我が党の思想、歴史眼を開陳し批評を請いたいと思います。

 これを提起する理由は、既成の思想が破綻しており、にも拘らず依拠すべき代わりのものが用意できていないことにより、国際ユダ邪による猛烈な洗脳、マインドコントロールを許し続けており、これにより我が社会に徒な混乱、腐敗を見出すからであります。このような事態は依拠すべき思想を持たないからであると考えられます。

 私どもが見立てますところ、世の思想には論理構造式が閉鎖的排他的なものと開放的共棲的なものとの二種類があるように思われます。前者は国際ユダ邪のネオシオニズムが典型です。本稿では論証を略しますが、ああいうものに取り憑かれてはいけません。人間がスポイルされます。それと真逆な教えを垂示しているのが日本神道です。こちらが後者の典型になります。人間がいつまでも瑞々しくなります。そういう違いがあります。

 ネオシオニズムに被れるぐらいなら無思想の方がまだしもマシです。ならば無思想で良いのかと云うとそうでもありません。やはり思想は必要なのです。拠るべき思想が例え積み木崩しになろうとも新陳代謝を繰り返すべきなのです。そういうことを可能にさせる開放的共棲的にして柔らかくしなやかな構造の思想を持つべきなのです。これを玉に例えるなら、玉は飾って鑑賞するものではなく不断に磨いて光らせるべきです。どういう玉を持つべきかが肝心で、良い玉を持てば時代を照らすカンテラ、航路を指し示す羅針盤になると考えます。逆は逆です。

 我が党は既に多くの論考を世に問うております。その中で最も骨格的な歴史の筋に関わる思想、歴史観を披瀝します。詳細はそれぞれのサイトでご確認ください。各党派、有志の皆様におかれましては、ぜひこの立論を集団的討議に附していただけますようお願い申し上げます。目からウロコしてください。

 現代史解析には「国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論」が必須です。現在これを端的に「国際ユダ邪論」と言い換えております。現代世界を牛耳る邪悪な主体を「国際ユダ邪」と認め、その戦略戦術に乗せられないよう軍師的采配をしております。これあればこそ現代世界の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば世界史の真相に迫り得ないと考えております。

 続く「原日本論新日本論」も有益です。これは、日本史を大和王朝以前以降に二分し、大和王朝以前の日本を原日本、以降のそれを新日本に画別させ、その上で両者の手打ち和解で今日までの日本が作られている、表向き共通一様の日本であるが深層では両派の暗闘が続いているとみなしております。これあればこそ現代日本の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば日本史の真相に迫り得ないと考えております。

 それでも足りないものがあると云うのが長年の気づきでした。ようやく掴むことができました。それが「日本語、文明、神道、国体論」です。略してこれを仮に「日本道国体論」と命名しておきます。「日本道国体論」は、日本論、日本語論、日本文明論、日本神道論、日本国体論をジョイントミックス(接合)させた造語であります。これまでこの五論が分離した形で言及されて参りましたが、これらを不即不離的に理解し、そこからロウソクの滴がしたたり落ちるような知恵を汲み上げ、「日本道国体論」を生み出すことに成功しました。思想系譜的には日本浪漫派に位置する新たな日本賛美論であるかも知れません。その現代的再生理論と受け止めております。

 「日本道国体論」がなぜ必要なのか。それは日本国体が今まさに溶解させられつつあるからです。我が党は今、日本が国家的、社会的、民族的存亡の危機下にあり、国際ユダ邪の仕掛ける鍋で煮られていると見立てております。「口で愛国、裏で売国」する配下どもにより日本の軍事基地化、原発列島化が強められようとしておりますが亡国の道です。そういう滅びの局面により失われつつあるが故に見えて来たのが「日本道国体論」であり、国難時代の回天論、母国論、祖国論として「日本道国体論」を届けます。これを松明(たいまつ)として時代を照らしてくださいませ。

 「日本道国体論」を少し説明しておきます。最初の「日本論」では、日本国歌としての君が代、国旗としての日の丸、国紋としての菊花弁を問います。これらを排斥することなく日本の至宝と受け止めるよう促します。明治維新は世界史的に称賛されるべき回天運動でした。しかしその後変質させられ、国際ユダ邪と通じて好戦政策を敷き、君が代、日の丸をその道具として利用して参りました。しかしながら、それは悪用であり君が代、日の丸が悪いのではありません。本来の君が代は君民和楽の善政誓約歌であり、日の丸は純真無垢と赤心を象った唯一無二のシンプルイズベストな国旗であります。大和王朝以前の出雲王朝以来の国宝です。優れもの故に大和王朝も継承し時空を超えて日本に伝わっているものと心得る必要があります。

 「日本語論」では、日本語を世界言語の最優秀なものとして位置づけるよう指針させております。日本語の48音は自然界の作用を模写したものであり、いわば宇宙の音の写し鏡です。言語に於ける48音の獲得こそ人類の最高の発明です。これを日本の祖先が獲得した意義を称賛せねばなりません。人類史の将来は国際公用語として英語、日本語が並存して世界に普及して行くことになるでせう。なぜなら優れものだからです。昨今、そういう使命を持つ日本語を軽視し、それを放擲させ、いっそのことオール英語教育せんとする動きが強まりつつありますがナンセンスの極みと云わざるを得ません。

 「日本文明論」然りです。日本文明は自生土着的固有に生成発展し続けていると理解すべきです。これを逆に古代に於いてはインド、中国、朝鮮経由で、近代に於いては西欧諸国によって、戦後に於いては米英ユをお手本として小学生国日本を成人させんと文明開化させて来たとしてあれこれを例証し、何でもかんでも外国被れで理解し学問することを良しとしておりますが、これら一切に眉唾せねばなりません。日本文明は不思議なほどに太古から独自に優れた文明を築き続けており、その途上で外国ものを咀嚼し上手く取り入れてきたとする史観に立つべきです。

 「日本神道論」然りです。敢えて申せば、大和王朝後の日本神道を新神道、それ以前の神道を古神道と分けて理解する方が史実に合います。古神道と新神道が棲み分けして歴史を列ねていると理解すべきでせう。少し前、森元首相が「日本は神の国である」と述べたところバッシングされましたが、両者共に未熟です。森元首相が神道教理に通じておれば「日本は神々の国である」と申すべきところです。「神の国」であろうが「神々の国」であろうがバッシングする者が居たとしたら、日本を知らなさ過ぎる歴史音痴と云わざるを得ません。

 「日本国体論」然りです。天皇制論は日本国体論の一範疇のものです。真に大事なものは国体論であり、その国体論に適う天皇論である限りに於いて天皇制が護持されるべきです。天皇制は国体論に適う方向で営為されてきており、それ故に護持存続しているとする見立てが必要です。このように構える国体論、天皇制論を生み出さねばなりません。黒船来航以来、国際ユダ邪が日本天皇制に干渉し続け、西欧的な君主制と同視して懐柔を試み、キリスト教を国教化せんとし、下僕化しなかった大正天皇を押し込めるなどして参りましたが、このような蛮行を二度と許してはなりません。

 以上、簡略に述べました。今後暫くはこの「国際ユダ邪論」、「原日本論新日本論」、「日本道国体論」の三点セットで時代を照らしてください。能く切れ見えることを請け合います。我々は、先祖の法灯を受け継ぎ、生き甲斐住み甲斐のある日本造りに向けて邁進せねばなりません。目下の日本政治がやっていることは逆ばかりです。この逆漕ぎ連中を一掃せねばなりません。近いうちに政治リアリズムが連中を容赦なく断罪すると思います。私たちは引き続き助け合いのご政道へ歩を進めませう。共同戦線万歳。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年11月28日 (土)

北の湖理事長急逝考

 ここで、北の湖理事長急逝考をものしておく。冒頭で、力士北の湖、親方北の湖、理事長北の湖の急逝に心から追悼、合掌。

 2015年11.20日午後6時55分、相撲取組のNHK中継が終わるのに合わせたかのような時刻、「昭和の大横綱」にして日本相撲協会現役理事長の北の湖(本名/小畑敏光)が福岡市内の済生会福岡総合病院で急死した(享年62歳)。理事長在職中の死去は1968年の時津風理事長(元横綱双葉山)の逝去以来である。理事長が本場所中に急逝するのは前例がない。この経緯を確認しておく。

 北の湖は初日から連日、福岡国際センターの役員室で報道陣との囲み取材に応じていた。そのやり取りを窺うのに協会トップとしての自負に満ちた発言が続いている。今から思うのに、特段のイザコザもなく北の湖体制の絶頂期を迎えていたのかも知れない。11.13日、九州場所6日目、早くも全勝は休場明けの横綱白鵬ただ1人、1敗で7人が追う展開となった。北の湖は今後の賜杯レースについて次のように言及した。「(白鵬の)逃げ切りでしょう。危ない相撲もないし、先場所、今までになかった休場を経験している。プライドがある。他の横綱もついて行けない。よほどのことがない限り連敗もしないでしょう。優勝確率80%」。

 11.17日、九州場所10日目、白鵬-栃煌山戦に白鵬が二度の猫だましを繰り出し得意の右四つに組み止めて寄り切った。その取り口に対して、「(猫だましを)やるってのは、なかなかありえない。やられる方もやられる方だけど、やる方もやる方。横綱としてやるべきことじゃない。横綱がやるのは前代未聞なんじゃないの? 拍手がないじゃない。お客さんはどう見ているか分からないけれど。しかも横綱だから、負けていたら笑いものだった。白鵬はせっかく全勝で走っても、これではいい感じに見られない。みんな(モヤモヤした)気持ちが残っちゃうでしょ? 横綱はそういう風に見られちゃだめ」と苦言を呈した。これは、北の湖が現役時代、「1978年1月、大関三重ノ海の立ち合い時の奇手猫だましに動じず」そのまま押し切った経緯を踏まえての薀蓄であった。

 11.19日、白鳳が9年連続の年間最多勝を決めると、「立派だが他の横綱は何をしているのか」とコメントしている。北の湖は朝青龍然り、白鵬然りで、両者を名横綱と称えた上での愛情のこもった辛口批評を遺している。それにしても、「朝青龍-白鵬」戦をもう少し見たかったのは、れんだいこだけだろうか。朝青龍の相撲の切れ味は史上天下一品の国宝級のものだった。それを見れなくすることに精出した杉山アナ、中沢アナ、やく何とか、チンくしゃみの正義弁が許し難い。

 北の湖理事長は、急逝の1週間前から各部署へ事細かな指示を入念すぎるほどに出していた。第二次北の湖理事長時代、好取組が続出し相撲人気が盛り上がっていた。九州場所の18年ぶりの大入り2桁が確実で満員御礼の波を引き寄せていた。北の湖理事長は「来年も流れに乗りたい。何といっても魅力のある相撲。拍手の続く相撲。これでしょう」と力士の奮闘を称え、再び相撲ブームが訪れていた。

 その北の湖理事長が、19日夜、持病の貧血の症状を訴え、20日朝に救急車で福岡市内の済生会福岡総合病院に運ばれて入院した。点滴治療などで容態は安定した。昼過ぎ、日本相撲協会が、「血圧が低くて病院に行った。14日目以降の職務復帰については回復次第で判断する」と発表した。北の湖部屋関係者は、「意識はしっかりしている。昼過ぎまでは病室で今後の業務について思案していた」と証言している。かく容態が安定していたが夕方になって急変、急逝した。やましいことがなければ隠すこともなかろうに、この時の担当医師名が明らかにされていない。よって医師による経過説明が一切ない。司法解剖にも付されていない。既に記したがご丁寧なことに病院名までが伏せられている。これは相撲協会理事長職たる者に対する冒涜ではないのか。

 北の湖理事長が死去した病院には50人を超える報道陣が詰めかけた。その誰一人として病院ないしは担当医師の所見を聞き出す取材をしようとしていない。これも不自然過ぎる。午後8時半頃、出来山広報部長(元関脇出羽の花)が「理事長も無念だと思う」と話した。理事長代行を務める八角親方(元横綱北勝海)、審判部長の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は無言で病院を後にした。病院に駆けつけた山響親方(元幕内・巌雄)によれば、最期に言葉を発することもなく息を引き取ったと云う。千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)の目は真っ赤に腫れあがっていた。福岡市内にある北の湖部屋の宿舎前にも大勢の報道陣が詰めかけ、応対した序二段の北斗龍は言葉を詰まらせながら「頑張ったと思う。(これ以上は)察していただければ」と語った。

 11.20日夜、玉ノ井広報部副部長(元大関・栃東)が件の病院で報道陣に対応し、涙を浮かべて言葉を詰まらせながら次のように語っている。「死因は直腸がん。多臓器不全。容体が急変しました。きのう(19日)も元気に公務をこなしていた。いきなり、こういうことになって残念。何とも言えない」。しかしそれにしても玉ノ井広報部副部長ではなく何で医師が説明しないのだろう。広報部発表の死因説明では死因が定まっていないと受け取るべきだろう。

 大まかではあるが北の湖理事長の急逝経緯は以上である。れんだいこはこれを変死事件しておく。真性の容態急変による病死の場合もあろうし、点滴や注射等の医療ミスによる容態急変致死の場合もあろうし、治療に名を借りた毒殺事件の場合もあろう。今は判定不能故に変死事件としておく。こう態度しておくのが正解で、マスコミの病死報道は犯人側が裏から手を回した作為の虚偽報道と心得たい。 

 北の湖理事長急逝に対し、「理事長は白鵬に殺されたようなものだ。『猫だまし』の参列はお断りします」なる弁がなされている。名横綱に間違いなく、その職責を十分に果たし続けている白鵬に対する濡れ衣冒涜であり許せない。大阪中1事件に於けるY容疑者仕立と同じ臭いのする犯人すり替えである。胸糞が悪くなるこういうへんてこりんな評論が意図的故意に流され過ぎている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年11月27日 (金)

北の湖理事長の後継闘争その1

 11.22日、日本相撲協会は、北の湖理事長の死去に伴い、事業部長の八角親方(元横綱・北勝海、52歳)を理事長代行に据えた。12.18日の定例理事会で、新理事長を互選すること、新理事長の任期は北の湖理事長任期残りの来年3月までとすることを申し合わせた。具体的には来年1月の初場所後に理事が改選されて新体制が発足し、4月以降に就任する理事長が選ばれることになる。ここで、次期理事長及びその体制を予測しておく。「九重親方に貴乃花親方…北の湖理事長死去で協会の権力闘争が激化」等を参照する。

 北の湖理事長の急逝後の次期理事長を廻る暗闘を確認しておく。なぜ関心を持つのか。それは、大本教的教理「大本を廻り発生する型が、明日の日本の型になる」に似せて「出雲王朝の御代から連綿と続く国技たる大相撲の在り姿が、明日の日本の型になる」と思うからである。こういう捉え方をオカルト的とみなすのではなく、永遠にないのかも知れないけれども今の科学ではこれを説明し得る能力がないだけではないかと思っている。

 八角理事長代行は暫定であり、追って九重親方(第58代横綱千代の富士、60歳)と貴乃花親方(第65代横綱貴乃花、43歳)決戦が待ち受けている。年齢等の履歴による人選順当であれば、かって北の湖理事長の下で事業部長を務め協会のナンバー2に位置していた九重親方が後釜に相応しい。ところが、北の湖理事長体制下に侵入した協会顧問派が貴乃花親方を担ごうとしている。

 この抗争の根は深い。分かり易く云えば、九重派は国粋国技派、顧問派は国際ユダ屋プロ相撲派である。日本大相撲が、九重派が大事にしようとする古式通りの型を維持しつつ発展を目指すのか、国際ユダ屋が狙う通りのプロレス並のプロ相撲興行を目指すのか、ここが問われている。マスコミは国際ユダ屋によって雇われているので、政治も然り、沖縄問題も然り、原発問題も然り、是非を全て逆に描く。即ち、件の協会顧問なぞ、日本大相撲協会を食物にする為にのみ送り込まれた国際ユダ屋の御用聞きであるのに、これを咎める筆には向かわず、その代わりに九重親方批判に健筆を振るう。当分、こういう浅ましい記事に苛(さいな)まされることになろう。これを今から予見しておく。

 協会顧問とは何者か、これを確認しておく。この御仁の本名は小林慶彦(58歳)。経営コンサルタントの肩書きを持つが経歴不詳である。経歴不詳の者が日本相撲協会の顧問になれるのがオカシイのだが現になっている。北の湖が理事長に返り咲いた時に顧問として相撲協会に入ったという。何やら裏取引があって送り込まれた人物であることが容易に推理できる。「台湾出身。立命館大卒、兵庫県警のマル暴だったらしい。2004中国巡業、2006台湾巡業、2008モンゴル巡業、2013インドネシア巡業の勧進元。株式会社エーティーアンドシージャパン社長」とある。

 2014.1月、この小林顧問が、2013年夏頃、相撲協会が大手パチンコメーカーと結んだライセンス契約に関連して、パチンコメーカーから2度にわたって計1700万円の裏金を受け取っている。その様子がネット動画サイトで暴露された。帯封つきの現金500万円を紙袋から取りだし、札束を数える顧問の顔、袋に戻す様子などが映っている。おまけに「絶対にこれ、バレんようにしてくれよ」と言っている。

 当時、相撲協会NO2にして事業部長を務めていた九重親方が、北の湖理事長に、「大変なことになっている」と進言。1.6日、理事会で、九重親方が、小林顧問の裏金授受疑惑を問題にして「外部で調査委員会をつくるべき」と発言し、責任追及音頭を取った。小林顧問は裏金受領を渋々認めものの、「お金を返したから問題ない」と居直った。調査委員会をつくることになったが、小林顧問派は委員会の開催時期を理事改選の後にするよう図った。これが癖だまであったが、その時は誰も気づかなかった。

 ところで、日本相撲協会内のこの大ニュースを大きく報じたメディアは日刊ゲンダイを含めてごくわずか。スポーツ紙は申し訳程度の記事しか掲載しなかった。マスコミは要するに国際ユダ屋の意向通りにしか書けない書かない。実のところ、そういう風には研究されていないが戦前も然りであった。戦後はなおさらで、勝ち馬にしか乗らない、長い物に巻かれろでしかない。

 1.30日、相撲協会は新公益財団法人へ移行。1.31日、理事選が行われた。この際、小林顧問派が九重親方落選を企画、「まさかの落選」を演出し、「11人中ただ1人落選」という不名誉な憂き目にあわせた。九重親方は理事から委員に降格となった。「顧問はお咎めなし、咎めた九重親方の方が逆に理事選落選」となった。

 次のように証言されている。「前回の理事選は友綱親方に票を集めて九重親方をはじき飛ばした。北の湖理事長の右腕といわれた協会顧問の策略であった。九重親方は今回の選挙で理事に再選されていたら、外部理事も出席して話し合いが行われる新公益法人に移行した最初の理事会で、小林顧問の悪事を暴露して解任の緊急動議を出す腹づもりだった。その計画がパーになった。九重親方は理事落選により2年間、冷や飯を食わされることになった。手にしたのは5票。あと2票取っていれば友綱親方に理事職を持って行かれることはなかった。実は北の湖理事長をドンとする出羽一門筋の水面下での『票を回してやる』口約束を信じて買収工作せず落選につながった。要するに一杯食わされたんですよ」。

 陰謀通りに事が運び、協会の危機管理委員会(委員長/宗像紀夫・元東京地検特捜部長、外部理事)が開かれたものの、「すぐに返却したので問題なしのお咎めなし」結論を下し、理事会に報告、承認された。「宗像紀夫」と云えばロッキード事件で公判担当検事を務めており、それ以来、検察裏街道一直線に出世街道を歩み詰めている面汚しでしかない。こんな御仁が人選されているだけで碌なことにならないのは自明であろう。

 この逆裁定により小林顧問は引き続き北の湖体制に食い込み協会内で権力を持ち続けることになった。協会を所管する内閣府が、相撲協会に理事会の議事録と危機管理委の報告書の提出を要請したものの、真相はどうやら「現金授受を問題なしと結論づけた報告書の提出を協会に求めた」のであって、真相解明に愛の鞭を振るった訳ではない。公益法人の認定の可否などを審査する公益認定委員会に協会提出資料を添えて経緯を報告、協会の一連の対応に問題がなかったかの判断を形式的に求めただけのようで何事もなく経過している。もっとも取上げただけで偉いと云うべきかもしれない。

 小林顧問の利権活動は他にもある。理事会の承認を得ないままの独断専行で、相撲協会が別のメーカーと過去現在すべての力士の肖像権を1億円でライセンス契約させており、これも発覚している。他にも、国技館の改修工事やパソコンの入れ替え、エアコンの施設工事などに関わっている。

 2014年、3.24日、横綱審議委員会(内山委員長)が開催され、大相撲春場所を14勝1敗で優勝した鶴竜の横綱昇進を満場一致で推薦答申した。同時に北の湖理事長の理事長再選を決め北の湖理事長体制が信任された。

 8.30日、朝日新聞に「相撲協会顧問の小林の現金授受問題、内閣府が対応を検証へ」という記事が掲載された。何でこの時期の記事なのかは分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«相模原市議選の南区選挙区に於ける選管の開票不正考