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2011年1月 6日 (木)

れんだいこブログ記念「共産主義者の宣言のエキス読みとり考」

 「共産主義者の宣言」(通称「共産党宣言」、以下単に「宣言」と云う)を読んで何を学ぶのか、この肝心なところが案外と疎かにされている気がしてならない。いい加減な翻訳が流布され、それが通用したまま経緯し、情勢的に見てマルクス主義なぞどうでも良くなりつつあるご時世であるから、「宣言」にマジメに取り組む方が変わっているのかも知れない。しかし云いたいことがあり、この一文を、れんだいこブログ開設記念とする。少々硬い話になるが性分だから仕方ない。

 「宣言」のどこを学ぶべきか、こう問う時、今日からして色褪せたところもある。しかし色褪せさせてはいけない示唆もあると心得たい。この色褪せてはいけない文言を今日の情勢に照らしつつ確認してみたいと思う。

 「宣言」は7部構成になっており、「前置き」以下の本文が「1・ブルジョアとプロレタリアート」、「2・プロレタリアと共産主義者」、「3・社会主義者及び共産主義者の史的考証」、「4・種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」に分かれている。次に「人名注、事項注」、最後に「解説」を加えて冊子となっている。これがマルクス主義のいわばバイブルである。そう分厚いものでもないが、その割に子細には読まれていない気がする。こういうことが許されるだろうか。ふまじめとしか云いようがない。

 ここでは、「4・種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」の項の、共産主義者が種々の反政府党に対する採るべき態度及び立場を検討する。これまでの左派運動が「宣言」の指示に如何に外れており、あらぬ運動に耽っているかを確認したい。「4・種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」は実は短文である。それだけに確認し易い。同時に選りすぐりの珠玉の指導が為されていると窺うべきであろう。以下、訳文はれんだいこ文である。サイト下記の通り。

 「共産主義者の宣言」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/gensyokenkyuco/kyosansyugisyasengenco/kyosansyugisyasengenco.htm)

 「宣言」は云う。「共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし当面の運動の中にあっても、運動の未来を気にかけている」、「共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す」。かく述べつつ、イギリスのチャーチスト運動、アメリカの農地改革運動、フランス、スイスの民主社会主義運動、 ポーランドの農業革命運動、ドイツのブルジョワジー派の民主主義運動を例示して、それらとの同盟、共闘の是を説き、但し「大革命から伝統的に受け継いだ空文句や幻想については、批判的立場をとる権利を保持している」とも述べている。「共闘しつつも没化しない」姿勢を指針させている。

 「宣言」は次に、ドイツに注目して、反動的支配と闘うブルジョワジーの民主主義運動に対する支援と、ドイツの反動的諸階級を倒した後には直ちに対ブルジョアジー闘争を開始し、プロレタリア革命に向かわねばならないと指針させている。ここは難しいところであり、ここでは問わない。

 マルクス主義的共産主義者であるかどうは所有問題が試金石であるとし次の文句で結んでいる。「共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何もない。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ!」。

 今となっては「宣言」のこの指針がいかほどに有効有益なのかは分からない。そういう意味では、もはやどうでも良い。但し、どうでも良くないのは次の戒めではなかろうか。「宣言」は、マルクス主義運動の常態としての共闘化運動を指針させているように思われる。れんだいこが、「共闘指針」を何故に気に入るのかと云うと、「運動の共闘化」は「宣言」が云おうが云うまいが、マルクス主義の運動であろうがなかろうが、政治運動の普遍的な教条とすべきではなかろうかと思うからである。留意すべきは、「運動の同盟化、共闘化」は本質的に共同戦線運動であるべきであり、党派の統制が見え隠れする統一戦線運動ではないとする知見を得るべきではなかろうか。

 だがしかし、史上に現われたマルクス主義派の運動は統一戦線運動であった。それが証拠にマルクス主義関連の諸書を紐解いて見れば良い。理論として統一戦線論はあっても共同戦線論はない。この偏狭さを疑わず良しとして来たのが自称マルクス主義各派の運動であった。とはいえ、各派が衣の下に鎧を着けたまま統一戦線運動するものだから碌なものにはならない。党派の数だけの運動体が生まれ、究極少数の党派だけ運動になってしまう。そういう愚かな運動を延々とやって来ているのがマルクス主義派の運動である。

 しかしながら、「宣言指針」に照らせば明らかに背教の運動でしかない。そういう背教運動をやる方が本家だとか正統だとか唱え、党内党外を「排除の論理」と「解体の論理」で整列化させて来た。そういう党派に限って「右戦線に猫なで声、左戦線に強面(こわもて)」と云う習性を見せている。こういうバカらしい運動が今日まではびこっている。我々は、これを掣肘できなかった。

 そろそろは叡智を獲得せねばならないのではなかろうか。故に次のように申しあげたい。意図的故意に「排除の論理」と「解体の論理」を弄ぶ党派は排除し、彼らの好む独善運動させればよい。どうせ良からぬ企みをもって運動に介入して来ているに過ぎないからである。そういう連中はもはや置いといて、どうしても参加すると云うのなら「排除の論理」と「解体の論理」を下げさせて、「運動の利益を顧慮しながら骨折り労を為し、歴史の大義に身を預けることを良しとする」勢力を結集すれば良い。もっとも、運動圏内でも「自分の見解や目的をかくすことを恥とする」心情によって見解の披歴、批判の自由が認められねばならない。

 いわば単純なこの二つの公理を認めつつ共同戦線運動、共闘運動体を創れば、ことはそうは難しくないのではなかろうか。徒な統制と分裂策動で難しく面白くなくさせられているだけなのではなかろうか。入り口も出口も難しくするに及ばない。どちらも開放系にすれば良い。その方が能力の高い歴史の試練に耐え且つ救援組織のある運動が構築できるのではなかろうか。

 要するに、日本歴史上の百姓一揆の伝統を取り戻し、これを現代バージョンで焼き直した方が賢い。「ぼちぼちでんな」式であれ草の根運動を盛り上げ、次第にうねりとなって中央運動化するような運動を構築せねばならない。何も西欧からのみ学ばなくても在地土着の叡智をも汲み取れば良い。これは一事万事に云えることだと思う。そういう作風を確立せねばならない。

 そういう気づきで、れんだいこは諸運動に参加したい。少々足止まりしているが既にネット上に「たすけあい党」もある。こたびは「れんだいこブログ」が加勢することになった。目的は、人民大衆が陽気遊山できる社会の創出である。碌でもない連中が我が世の春を謳歌して人民大衆を虐(いじ)める体制の転覆と、まずまず飯が食える新社会の創造である。いずれ、れんだいこも寿命が果てる。その時、二コッと笑える人生が良い。そういう式の世代を繋ぐ運動を構築したい。これを本望とする運動に挺身したい。もう還暦過ぎたから怖いものもない。うんそういう運動をしてみたい。

 今の政治局面に当てはめれば、小沢どんの運動と菅派の運動とどちらに正義がありや。それは自明ではなかろうか。中曽根-ナベツネが悪の権化であり、これに近い方が悪に決まっていよう。政治を学んできたのが小沢どん、政局だけを覚えてきたのか菅カラカンであり、我々だけの勝負ならとっくにオワっている。問題は背後の魑魅魍魎であるが、本当の「宣言指針」に従えば十分対抗できる。ソウそう思う。これを生き甲斐としたい。

 2010.1.5日 れんだいこ拝

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