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2011年2月

2011年2月24日 (木)

菅派、小沢派の懲りない面々考

 「菅派、小沢派の懲りない面々」についてリスト化しております。どこまで正確か分かりませんがご活用願います。ご意見賜ればどんどん゜書き加え書き直しいたします。政治家の政治行動、履歴につき、こういうチェックをしておかねば、連中の行動が軽卒になると考えおります。これをもとに各自がそれなりのものを作ればなおよいでせう。ここから日本版ツイッター革命が始まると思います。

 「菅派、小沢派の懲りない面々考

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/minsyutoron/kanseikenco/ozawahaco.html

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2011年2月23日 (水)

まだ云うか日共、それを云うなら。

 日共が何回云っても聞かないで小沢どん攻撃するので、れんだいこがそのつど宮顕問題を蒸し返しておく。

 2011.2.23日付け赤旗は、「小沢氏処分 お茶濁すのは許されない。市田氏会見 証人喚問が必要」なる見出しの記事を掲載している。これによれば、民主党執行部の小沢どん党員資格停止処分に対して、「それだけでお茶を濁すのなら真相隠し、疑惑隠しといわれても仕方がない」、「問われているのは国会の場で真相を究明し、政治的道義的責任を明らかにさせることだ」と述べ、「小沢どんの国会での証人喚問が必要」との党見解を改めて示したことになる。

 れんだいこが返歌しておく。「日共が宮顕問題に対し、復権証明書だけでお茶を濁すのなら真相隠し、疑惑隠しといわれても仕方がない」、「問われているのは国会の場で真相を究明し、政治的道義的責任を明らかにさせることだ」、「日共に対し、宮顕問題での国会での証人喚問が必要」との見解を改めて対置しておく。

 これは、日共の論法論理そのままを使っている。日共は、小沢どんに対しては証人喚問必要、宮顕問題に関しては不要論を弁明せねばならない。宮顕問題に関しての不要論を弁論せぬまま小沢どん証人喚問必要論を述べまくるのは許されない。

 なぜなら、そったらことが通ると、我々は何をしても良い、同じことを他の者がすれば許さないとするまことに得手勝手論法になるからである。日共理論にはこういう恣意的なところが多々見られる。いくら志位が恣意に繫がるからと云って許されるものではない。

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2011年2月18日 (金)

日共の執拗な証人喚問要請考

 2011.2.16日、日共が又もや小沢どんの証人喚問要請質疑を行った。17日付け赤旗によれば、「小沢氏喚問決断せよ 井上議員が首相を追及」とある。れんだいこは、日共が証人喚問を云うたびに、それを云うなら宮顕問題で日共を証人喚問すべしと切り返すことにしているので再度言及しておく。

 日共の井上哲士議員は、小沢どんの証人喚問について菅首相自身が決断すべきだと求めている。これに対し、菅首相は、「国会のルールにのっとって議論されるものであり、(首相の)決断うんぬんの話とは若干性格が違う」と述べ、党の代表である自身が判断するにはなじまないとの認識を示した。このやり取りは菅の方が正しい。

 国会議員の身分特権を国会が自ら放棄するような内部溶解をすべきではない。この自明のことが日共には分からない。首相権力を無制限に引き出そうとしているが、よしんば日共党内には通じても、国会にそのまま通じると考えるのはお門違いであろう。気にかかることは、日共はどうやら民主主義の根幹が分からないらしいことである。一見人聞きの良いことを云うが、その先を聞けば無責任且つ無制限の権力行使に道を開いている。いわゆるスターリニズムの道である。これを何とも思わない。どこか頭脳に欠損のある連中のように思われる。

 それより何より、日共には証人喚問を云々する資格がない。そういう者に限って正義を声高にする世の倣いがあるが、この連中に漬ける何か良い薬がないものだろうか。日共に証人喚問云々する資格がない理由を確認する。

それは、日共が永らく宮顕を党の最高権力者に据えてきたことに起因している。宮顕とは、戦前共産党史上、不屈の再建運動過程にあった党を最後的に瓦解させた張本人である。党内スパイの摘発と云う美名の下に、最後の労働者畑系中央委員であった小畑を査問テロにより致死せしめている。直接の死因は、逃げ切りを図ろうとした小畑を査問派の4名で取り押さえ、なかんずく宮顕の柔道技での締めあげと押さえこみが決め手となっての圧殺死である。そういう意味で、宮顕は殺人犯下手人である。

 こういうイカガワシイ履歴を持つ宮顕を擁護するのに、スパイ摘発闘争過程での不幸な出来事である故に、その責任を問うのは控えめにせねばならない云々論がある。しかし、れんだいこ事件解析によれば何と、査問された小畑のスパイ容疑は冤罪であり、査問した側の宮顕派の方がスパイであると云う結論になった。
宮顕こそスパイの頭目である。こういう目で宮顕履歴を確認して行くと全てが符合する。

 その宮顕は戦後出獄するや、大概の者なら戦前の殺人罪を悔いて蟄居するところ、いきなり「我こそが最後の中央委員であり委員長資格がある」として党中央代表の座を争っている。しかし、誰からも相手にされず、逸早く再建活動を始め衆望のあった徳球が委員長に就任した。

 宮顕はこの徳球党中央に対する反党中央運動を画策し続ける。1949年時点で戦後革命が流産し、1950年初頭のスターリン論評をきっかけに党内に大混乱が発生するや、逸早くスターリン論評絶対忠誠論を打ち出し徳球系党中央を揺さぶった。徳球系党中央はレッドパージで北京亡命を余儀なくされ、朝鮮動乱発生と共に後方兵站基地となっている日本での撹乱的役割を要請され武装闘争に乗り出した。この間、共産党は大きく見て徳球派系と宮顕派系に分裂した。徳球派系の武装闘争が失敗した。

 宮顕は、4年余の不幸な党分裂を解消せんとの要請機運に乗じ、1955年の六全協で党中央入りする。直後より各個撃破で反党中央派をパージして行き、遂に宮顕独裁と云われる長期安定政権を確立した。満場一致の一枚岩式統制が常態化する。後継として不破、その後継として志位が列なっているのは衆知の通りである。これが今日まで続く日共史である。

 彼らは、宮顕が党内闘争を経て最高実力者となったのは党内事情であるとして外部からの干渉を許さないとする説を唱える。しかしながら、その宮顕が参議院議員として二期務め、それ
なりに活動させたとなると俄然そうは行かなくなる。日共の党的責任が伴うのは致し方あるまい。

 これまでも何度かこの問題が取り上げられ、特にロッキード事件勃発直前頃、宮顕の証人喚問が必至の状況であった。ところが、ロッキード事件勃発により宮顕問題が掻き消され、以来不思議と音沙汰なく今日まで至っている。つまり宙に浮いたままになっている。そういう具合にある。

 日共の党的責任が免れないのは、そういうイカガワシイ履歴を持つ宮顕を参議院議員にさせていたことだけにあるのではない。不破系党中央も志位系党中央もこの間一貫して宮顕弁明をそのままに繰り返し、宮顕を擁護し続けている姿勢にある。彼らは、事件は小畑のポックリ病死だと云いなし、その小畑の床下埋葬については何ら関知していないとウソぶき、そもそも小畑はスパイであったので摘発されるのは当然であると居直り、曰くつきの復権証明書を盾に「事件は解決済み」としていることにある。

 しかしながら、れんだいこ解析ではっきりしたことは宮顕弁明、日共の宮顕弁明擁護姿勢の全てが怪しい。そういう意味で証人喚問必至の一級課題として今日なお立ち塞がっていると看做さざるを得ない。こういうのど仏のトゲをいただきながら日共が今日、小沢どんの秘書寮建設問題で、あるいはもっと広く政治とカネ問題で証人喚問を要請するのは、片手落ちと云うより卒倒すべき倒錯不正義以外の何物でもない。俗に、そういうことを云える口かよと云う。

 本来、日共は証人喚問問題が発生するたびに息を潜めていなければならぬところ、何食わぬ顔して一番乗りで証人喚問を云い続けている。ロッキード事件の時もそうだった。この裏に何があるのかを疑惑せねばなるまい。れんだいこの推理は、日共はこの問題で揺すられ続けており、揺すり屋の御用聞きさせられていると読む。あるいは端から黒幕の御用聞きとして送り込まれている面も考えられる。

 日共のアキレス腱は何も宮顕問題だけではなかろう、数多くの不祥事が当局の手に握られており、それが故にここ一番では必ず「左」から御用聞きさせられている。日共が、国際金融資本に飼いならされている保守系タカ派と気脈通じている現象は、これにより解ける。

 要するにそういうことである。これを知れば、こたびの井上議員の小沢どん証人喚問要請の裏舞台の種と仕掛けが見えてこよう。我々は鼻じらめば良いのだが、問題は日共党員の態度である。いつまでこういう党中央に唯々諾々するのか、その忍耐と我慢の限界が問われているのではなかろうか。この問題が解けぬ限り、日共党員が世間に向かって正義ヅラするのは許されない。まず手前の党内問題を処理してから顔を洗って出直してこい、と云われるのがオチであろう。にも拘わらず魔女狩り一番乗りのやり手として立ち現われてくる。その不正を関知しない。ここに日共問題の深刻さがある。

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2011年2月16日 (水)

大田龍の時事評論を読みなおそう

 転向左翼にして且つ革命的理論を営為し続けた稀代の革命浪人、晩年は専ら国際金融資本帝国主義の姦計を警鐘乱打し続けた太田龍・氏が逝ったのは2009.5.19日、まもなく2年になろうとしている。太田龍ありせば今日の国内外の政治事象を快刀乱麻に解析しているであろうが、これを後継する者なく今となっては寂しい限りである。

 そうい思いに捉われてであろうふと在りし日々の時事寸評を確認したくなった。余人にはマネのできない、あの小刻みの簡潔文体にして、歯切れのよい論旨明快な、珠玉の名言集でもあるディリー時評が懐かしい。もう一度あの謦咳に耳を傾けてみたい。

 時に激烈過ぎることもあった。特に同様の言及をしていると思われる論客に対する偽物と本物の仕分けが厳しかった。この辺りは太田龍的態度を良しとすべきか太田龍氏の性分の為せる技として受け止めるべきか今も分からない。この辺りはれんだいこなりに判断するしかない。この面を除けば教えられることばかりであった。

 特に、ネオシオニズムに対する系統的且つ歴史的批判の質の高さは他の論者の追随を許さないものがあった。中でも「シオンの議定書」を刊行したのは大いなる功績であろう。その他西欧の反ネオシオニズム系思想家の著作を次々と翻訳刊行し、我々の耳目を洗ってくれた。大田龍が切り開いたこの方面の事業が今止まっているように思える。日本の現代思想水準の頭脳がすっぽり落ちてしまっている感がある。

 大田龍は返す刀で日本思想の称揚に向かった。それは戦前の皇国史観とは別物であり、天皇制以前のいわば縄文的思想の再発見であり、その思想水準の高さを賞賛し、現代世界における日本の世界史的使命を語るものでもあった。その為に、あらゆる角度から純日本的な思想、制度、社会形態を探ろうとしていた。幕末維新から明治維新過程での偽造的歴史を告発し、この時点での歪みから直さねば日本の再生はないと指摘していた。その他その他尽きるところのない思想源泉生み出しつつあった。寿命との相談であるから欲は言えないが、あたら惜しい逝去であった。

 啓発されるばかりの太田龍史観ではあったが、個々の分析では、特に古代史に於ける見方では、れんだいこ史観と違う面もある。この辺りは、太田氏が生存中にすり合わせしておきたかったところである。それは叶わなかった。一度、講演に出向き、二次会までお付き合いさせて貰い、面と向かって少々話させていただいた、あのひと時が懐かしい。印象としての太田氏の風貌は学者風でもなく政治家風でもなく熱血漢的革命家でもなかった。れんだいこには物静かな思想家のように思えた。但し、物静かなのは口調だけであり、云っている論旨は透徹した歴史偽造批判の真言であった。その言説は今も朽ちない。否むしろもっと学ぶべき光芒を放ち続けていると思う。

 れんだいこは今頃になって、太田龍・氏の時事評論が恋しくなった。そこで大田龍ホームページを訪ねてみたが、逝去通知のまま棚晒しにされている。
 (http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi) 
 時事寸評をたぐってみたが一部しか開示されていない。しかも、ナンバーがアトランダムにされており、まことに読み難い。何のためにこういうことをするのかが分からない。いずれ誰かが出版するつもりでの細工なのかもしれない。ネット検索で探すと「
白金掲示板ワード」がかなり拾っていることが分かった。
 (http://soejima.to/boards/past.cgi?room=sirogane&mode=find&page=30&word=%C2%C0%C5%C4%CE%B6&cond=AND&view=30) 
 しかし十分とは言い難い。ひょっとして意図的故意に押し込められているのかもしれない。

 そういう訳で、れんだいこの反骨精神により、れんだいこなりに収集してみることにする。バックナンバー1からの全編をサイトアップしてみたいと思う。近々公刊されると云うのなら止めても良い。公刊される気配がないのなら、れんだいこが日の目を見せようと思う。何事も手遅れと云うことがある。今この時期に大田龍の警告を確認せねばならないと思う。太田龍の時事寸評をカンテラとして日本の再生方向を指針せしめておくべきだと信ずるからである。以下取り組むが、どなたかの協力を頼みたい。みんなで手分けして全文開示させたいと思う。

 こういう場合、例によって著作権を主張されるのだろうか。しかしそれは、著作権なるものが、大田龍の謦咳を世に出さない為に機能していることを明らかにすることになろう。実際、著作権なるものは、著作権者の権利を守ると云うのは付け足しの理由で、実際には情報コントロールの道具に使われている。そのお目こぼしの下で、著作権料なるおこぼれが分配されているに過ぎない。こういうことを知る必要があろう。大田龍の例は、このことを鋭く突きつけている。

 今日からぼちぼち手掛けることにしたが、今読み返してみて懐かしい。かの時に読んだ知的興奮が蘇る。思うに、太田龍は稀有な政治軍師だったのではなかろうか。軍師とは一般に合戦軍師を指すが、政治軍師なる存在もあるのではなかろうか。俗に知恵袋とも云うが、大田龍のそれは特定の誰かにぬかずくようなものではない。歴史そのものに仕えた使徒のような知性を感じる。れんだいこ一人では彼の代わりはできない、その意味で御意の同志と束になって仕えたいと思う。

 「太田龍・氏のネオシオニズム研究」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/ootaryunokenkyuco.htm)

 「大田龍の時事寸評」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/jijisunpyo/top.html)

 「時事寸評年次版」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/jijisunpyo/nenji/top.html)

 2011.02.16日 れんだいこ拝

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2011年2月13日 (日)

最澄と空海ライバル論

 ごく最近の過日、れんだいこは久しぶりに比叡山へ向かった。相棒が行ったことがないと云うので連れて行ったに過ぎないのだが導かれたのかも知れない。30年近くもなる昔の記憶が当てにならず見るもの初めての感があった。釈迦堂へ行く山道には雪が積っておりなかなかの風情だった。親鸞修行の庵なる表示があり、こういうところで修行していたのかと改めて感慨した。詣でた印象が強いうちに閃いた「最澄と空海ライバル論」をれんだいこ式に綴っておくことにする。当然ブログ公開する。

 歴史は時に空前のライバルを立たせ、両者の奮戦によって時代の歯車を回させると云う味なことをする。これはどこの世界にも見られる現象である。戦記物では川中島の合戦を廻る「武田信玄対上杉謙信」が知られている。「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」などもこの範疇に入るだろう。政界の近いところでは「田中角栄対中曽根康弘」、「小沢一郎対小泉純一郎」などが値する。幕末維新の「西郷隆盛対大久保利通」、「坂本竜馬対高杉晋作」も興趣が湧く。

 スポーツ界の野球では「長嶋茂雄対王貞治」、「松井対一郎」。相撲界では「栃錦対若乃花」、「大鵬対柏戸」、もう少し見たかった「朝青龍対白鳳」。産業界も然りで、人物論ではないがスーパーマーケットの「ダイエー対イト―ヨーカドー」、ビール業界の「キリン対アサヒ」等々もライバル物語だろう。パソコンの世界でもあるのだろう。

 宗教界では「最澄と空海」、「親鸞対日蓮」がその最たる例であろう。ここでは「最澄と空海」を問うことにする。司馬遼太郎の「空海の風景」、五木寛之の「百寺巡礼」などによると、「きちんとした密教を学んで身につけたのは空海であって、実際、最澄は空海に教えを乞うている」云々と述べ、空海に軍配を挙げる傾向が強いようである。れんだいこはこの説を採らない。その理由を記す。

 いわゆるどこに目をつけるかと云うことになるが、「天台宗開祖・最澄(比叡山延暦寺)」対「真言宗開祖・空海(高野山金剛峯寺)」は同時代の比類なき能力者であると同時に、共に当時の政治経済文化の中心地だった唐に出向き、最先端の学問を仕入れて無事帰国している。命懸けの航海であったことを思えば強運の持ち主と云うことでも共通している。その後の二人は、「超秀才肌で飽くことのない理論探求派の最澄、天才肌で教学のみならず多彩な分野で活躍する空海」と云う違いを際立たせつつそれぞれに活躍している。

 密教に於ける真密性を問うのは今となっては無益だろう。この点では五分と看做したい。空海が難解な古代インド語であるサンスクリット語をすぐさま習得し、密教教典や曼荼羅思想を得たのは功績として認める。但し、れんだいこ的には、空海密教を学ぶ為に序列上位の最澄が辞を低くして下位の空海に頭を下げたことにシンパシーを感じる。誰にでもできる芸当ではない。いずれにしても、平安時代初期のこの二大巨人によって、後々の日本の仏教が大きく形作られて行ったことには相違ない。修験道の役行者(えんのぎょうじゃ)以来の、日本宗教界のスーパースターであることは疑いない。

 両者を活動域で見て行くと、「弘法も筆の誤り」という諺を残すほどの書の達人ぶり、四国八十八カ所巡り、温泉等々の「ゆかりの地」の多さでは断然、空海が勝る。手芸種智院、満濃池の治水工事、鉱山開発等々、空海の天才的な万能選手としての活躍ぶりに目を見張らざるを得ない。そういう意味で、空海が勝るとした「司馬遼太郎の『空海の風景』、五木寛之の『百寺巡礼』」の勝ち名乗り軍配が間違っている訳ではない。

 しかし、それは表層的な見方ではなかろうか。れんだいこは、これが云いたい訳である。個人的な活動域の広さでは確かに空海が最澄に勝る。しかし、歴史的な活動域と云う視点から眺めた場合どうなるか。別の姿が見えて来る。れんだいこは、天台宗本山の比叡山修行から融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍が生まれたことを重視する。

 宗祖を多く輩出したのは、比叡山が高野山に比べて当時の都である京都に近かっただけではないのではなかろうか。天台教学に濃厚な理詰め傾向、且つその理詰めが開放的な未完の構造になっていたことが修行に自由自主自律性を与え、そのことが天台教学からの出藍を促したのではなかろうか。

 それは、最澄式天台教学が発酵せしめた技であり即ち天台教学のしからしめた賜物だったのではなかろうかと窺う。こう理解するとき、れんだいこは最澄の方に軍配を挙げたいとさえ思う。これは何も宗教学にだけ当て嵌まる話でない、政治思想その他全般に通用するのではなかろうか。

 こう見てくると、正確には痛み分けで両者に勝ち名乗りさせたい。空海も捨てがたい。れんだいこは別に空海が嫌いな訳ではない。その天才ぶりを畏敬する一人である。だがしかし、最澄教理の開放型未完教説の効能を称えたい。これを逆に云えば、空海教理は自己充足的完結型教説になっているのではなかろうか。これは長所でもあり短所でもあるのではなかろうか。空海教理をいかほども知らないので、これぐらいに止めておく。

 もう一つの基準は、当人の活動がその後の歴史にどういう役割を果たしたのかであろう。開教した活動を自身がどう隆盛させたのか停滞させたのか衰微させたのか。その弟子達がどう隆盛させたのか停滞させたのか衰微させたのか。こういう歴史スペクトルプリズムの観点から見て行く必要もあろう。この点では、両者は両者の味を出しながら共に貢献し歴史に大きな影響を与えている。ここがすばらしい。これも何も宗教運動にだけ当て嵌まる話でない、政治運動その他全般に通用するのではなかろうか。

 最後に。両者を褒めるべき次の基準も必要であろう。日本宗教史では、西欧宗教史の如く血で血を争う例はない。あっても極端に少ない。互いが大人の分別で自らを御しながら相互に住み分け式に暗闘している。この和合手打ちぶりがすばらしいと思う。実に、最澄と空海は、この伝統的な日本式和合手打ちぶりを弁えつつ相互に突っ張ったライバル履歴を残している。褒めるべき称えるべき大事にしたい大人の芸当ではなかろうか。

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2011年2月12日 (土)

鈴木宗男の獄中檄「負けるな小沢先生」 抜粋

 東スポWeb
 鈴木宗男氏 獄中からゲキ「負けるな小沢先生」 2011年02月10日

 http://www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=12083

 陸山会の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件について、私は小沢一郎先生の強制起訴は一貫して、おかしいと言い続けていました。事実でない情報がリークされ、間違ったイメージや虚像が独り歩きした結果、真実ではない姿や形で小沢先生が起訴されることには誠に違和感を覚えます。

 捜査のプロ中のプロといわれる東京地検特捜部が立件できなかったものであり、しかもメディアの報道が本当に真実かどうか分からない中で一般の人が〝シロだ、クロだ〟と判断するのは、ある種、民主主義の危機だと思います。それは9年前に私自身が体験しています。「ムネオハウス、三井物産の北方領土支援、アフリカODAで鈴木は捕まる」と連日メディアは報じ立て、国民も〝そんな悪い鈴木なら早く逮捕しろ〟という世論がつくられました。

 世論誘導で私は政倫審や参考人招致、証人喚問に応じ、最終的には離党も余儀なくされました。さらに本件とは本質的に全く別問題だった証人喚問での発言で偽証罪にも問われました。何もしてなくても〝やった〟と言わない限りは、世論は納得しない雰囲気が作られるというまさにメディアスクラムでした。

 小沢先生には私と同じ轍(てつ)を踏まないでほしい。正々堂々と司法の場で真実、真相を語っていただければ何も問題がないと思います。起訴されたらやれ離党だ、証人喚問だと面白おかしく興味本位の話が出てくると思いますが、誰でも狙われたら明日は我が身だと考え、冷静に推移を見守ることが大事ではないでしょうか。

 ここは小沢先生が胆力を発揮し、男の勝負をすべきです。混迷する日本の政治に必要なのは強いリーダーです。今の政界を見渡してみて、小沢先生以上の方はいません。よく小沢先生は壊し屋といわれますが、日本のため、国民のため、夢と希望を持てる壊し屋なら大歓迎です。負けるな小沢一郎先生。  

 れんだいこ評

 ムネオも頑張っている。小沢どんも頑張っている。我々も頑張らなくちゃ。それに引き換え菅派のお粗末さよ。明日のわが身も分からず我が世の春をうそぶいている。悪貨が良貨を駆逐すると云うのはウソであり、良貨は駆逐されても生き残り、いつでも基準になる。そして悪貨の腐敗が極まる時、良貨が悪貨を一掃する。これが貨幣学の世の倣いである。

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2011年2月11日 (金)

菅首相の小沢どん離党勧告なる首相権限の軽挙妄動は総辞職に値する

 2011.2.10日、菅首相は、小沢どんを首相官邸に呼びつけ、約50分にわたって二者会談した。菅首相は、小沢どんに対し、「政倫審出席と、裁判が済むまで党を離れてくれないか」と述べ、公判終了までの自発的な離党を求めた。

 小沢どんは、「私が党を離れるとか、何かの形で処分するとかいう声が党の多数なら仕方ないが、健全な政党政治と民主主義の上で妥当でなく、よろしくない」の述べ拒否した。結論として、「現状のまま活動しようという結論に至った」とのことである。

 れんだいこは、菅首相のこたびの離党勧告折衝が、首相権限論から見て脱法の軽挙妄動と看做し、このことだけで総辞職に値すると考える。以下、論証する。

 この経緯全体に菅首相の粗脳ぶりが見える。一体、菅首相は、法治国家における権能論について分別がなさ過ぎるのではなかろうか。首相は、なるほど一国の最高権力者としての地位にあるが、それは何をしても良いと云う全能権力が与えられているのではない。あくまで法治主義上の首相権限であり、その限りでの最高権力者である。

 これを端的に云えば、憲法上は明文規定はないのだけれども、最も包括的に見れば閣僚登用権(閣僚の任用、罷免、指揮監督権)、政策権(政策指針権、広布権、議決誘導権)、財政権(予算起案、運用権)の三種から構成されているものと思われる。かって、ロッキード事件で問われたのは大臣指揮監督権の内実であった。これ対する確定的な法理はまだない。即ち多義的に解釈されており異論、議論の余地が多い。

 それは良いとして、菅首相のこたびの小沢どんに対する離党勧告要請は、上記の首相権限の範疇にない新種のものである。つまり、従来の首相が為さなかった聖域に踏み込み、采配していることになる。考えてみれば、首相が個々の議員の処分に逐一干渉し得るとしたら恐ろしいことではなかろうか。機関民主主義上は、これは首相権限ではなく、党員審査会辺りが任を負うべき事案ではなかろうか。それも、処分される側の抗弁権が保障された上で成り立つ。

 そういう分別があるべきところ、菅は、首相ならば何でもできるのだとカン違いして首相棒を振り回していることになる。これは子供の世界にありがちな、お山の大将式暴力に過ぎない。

 つまり、「2011.2.10日、菅首相の対小沢離党勧告会談」は、菅首相の罷免に値する、即ち内閣総辞職に値する軽挙妄動だったのではなかろうか。これに特段の違和感が唱えられていないが、今からでも遅くない、国会は菅首相の首相権限を廻って質疑すべきである。

 首相権限には明文規定はないのだから理論的には許容論も有り得る。但し、その際には、今までの首相がかような珍奇な棒を振り回さなかったところ、何故に菅は振り回すのか、かような棒の振り回しが何故に新たに認められるのかにつき整合的な理論を創造せねばならぬ。

 ここの分別を曖昧にしたまま、読売社説の如く、産経社説の如く、その他その他の社説の如く、首相権限振り回せ論に乗って棒を振り回すのは首相小児病に犯されているのではなかろうか。これを許す社会全体がお笑いのピエロ政治をしているのではなろうか。

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2011年2月 7日 (月)

2011.2.6日地方選挙考

 2011.2.6日、愛知県知事選と名古屋市長選、岩手県陸前高田市長選が行われた。これを確認しておく。

 愛知県知事選は、農林水産省を経て、平成8年の衆議院選挙で自民党公認で初当選して以来、連続5回当選し、厚生労働副大臣などを歴任、元自民党県連会長の大村秀章(50、日本一愛知の会)氏が、自民推薦の重徳和彦、[民][社][国]推薦の御園慎一郎、 みんな公認の薬師寺道代、共産系の土井敏彦を寄せ付けず大差で圧勝した。

 名古屋市長選は、元民主党衆議院議員、前職の河村たかし(62、減税日本公認)氏が、過去最多得票だった前回(09年4月)の約51万票を約15万票上回り再選された。こちらも圧勝だった。河村氏と木村氏は提携関係にあり、地域政党を立ち上げ大政党相手に見事に勝利したことになる。

 民主党は、県内にある衆院の15選挙区を独占する民主王国地域で惨敗したことになるが、深手を負ったことにまたしても居直っている。こういう性悪粗脳に国政を任しておいて良い訳がなかろう。石井一も老域の往生際が悪過ぎる。

 岩手県陸前高田市長選は、民主党の小沢一郎元代表のいわば「お膝元」であり且つ自民と共産が前回に続いて共闘する相手との戦いで注目されていた。結果は、自共が応援する前副市長の戸羽太(46)氏が、民主推薦の前県議の菅原一敏(66)氏を小差で破った。共産党機関紙赤旗は、自共共闘に一言も触れぬまま勝利を称えている。

 興味深いことが記されているので確認しておく。陸前高田市のホームページ(HP)の開票速報に一時、候補者の順位、得票数などが誤って表示されるトラブルが起きた。市選管は「正確な情報を入力したが、システム上の問題で発生したと考えられる。原因は調査中」と話している。市選管などによると、HPに表示された開票速報(午後8時55分現在)で、候補者2人の順位を逆に表示。得票数も落選した候補が9800票、当選した候補が7300票と記載された。開票率も実際には83%だったにもかかわらず、99%と誤っていた。間もなく得票数は訂正されたが、順位、開票率の混乱は少なくとも10分以上続いた。市選管は「このような混乱を招き、大変な迷惑を掛けた。申し訳ありません」と陳謝した。

 「市のHP「順位・得票数」を誤表示 陸前高田市長選」(http://www.kahoku.co.jp/news/2011/02/20110207t31022.htm

 高田市長選に一言しておく。共産党は、手前の支持する候補者が当選するのを称えるのは良い。しかしながら、「前回選挙と同じく自民、共産両党系の市議らが異例のタッグを組んで応援した」ことをなぜ伝えないのか。顧みて恥じることがなければ堂々とすれば良かろうに。れんだいこは、こういう姑息さが我慢ならない。

 もう一言しておく。危機になればなるほど真相が現れると云う。自共共闘がそれで、平素対立しているように見えるが、反小沢の為には自ずと気脈通じていることを露わにせざるを得なかったのではなかろうか。もっとはっきりさせれば、共産党は自民党内のハト派系を叩き、タカ派即ちシオニスタンと裏提携している。ここがヒドイ。こういう目で見れば何かと見えてくることがあろう。

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2011年2月 6日 (日)

日共の重大な規約改悪史考その2、監査委員会の規約改悪考

 もとへ。このうちの最悪改訂が1の「統制委員会と監査委員会が党大会選出から中央委員会による任命制」への移行と思われるので、この過程を確認しておく。

 1966年の第10回党大会で、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会を党大会選出、中央統制委員会を中央委員会の任命とした。これにより、統制委員会委員が中央委員会任命制に規約改定された。

 1973年の第12回党大会で、続いて中央監査委員会も中央委員会の下に置く」ことが決議された。これにより、第10回大会に於ける統制委員会の任命制に続いて監査委員会も中央委員会任命制となった。津田道夫氏の「思想課題としての日本共産党批判」は次のように述べている。

 「まず10回大会は、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命としたのである。これで、中央機関の構成法にかかわる第7回大会規約の民主的規定は、その大半が崩されるところとなった。そして、今回の第12回大会は、右のように分割された中央監査委員会をも大会選出ではなく、中央委員会任命としてしまった。何の事はない、中央委員会は、自分の任命した中央監査委員会の監査を受けるということになってしまったわけである」。

 更なる党中央による党私物化の流れと見ることができる。これを例えれば、党大会が国会、党中央委員会が内閣に当たり、これまで国会で審議質疑されていたものを内閣権限に移すと云うものであろう。今でいう官邸政治の先走りと思えばよい。こういう改悪を平然と居直ったまま、他党のあれこれ国政のあれこれに民主主義や道理や道義的責任を説いて得々としているのが日共である。

 その日共の経理は本当に大丈夫なのだろうか。誰も関心を持たぬまま戦前来の唯一のホンマものの正義の党としての日共観が吹聴されている。その日共が最も激しく政権保守ハト派系譜の田中角栄、鈴木宗男、小沢一郎の政治訴追運動に執心している。タカ派系に対する批判もするが決まってトーンダウンしている。あるいは時に是々非々を云う。

 ところで、れんだいこは日頃訝(いぶか)ることがある。日共は各地の選挙戦で当選させる意思もないのに立候補させ供託金没収を続けている。公明党の全員当選戦略戦術と鮮やかな対比を為している。ところで、供託金没収は経営でみれば純利からの負担である。これは経理上かなりのボディブローになる筈のものである。それを長年にわたって飽くことなく、いともたやすく負担し得ている日共の経理が不思議でならない。誰か精査してみてほしい。常識では考えられない。

 こういうところを審査するのが監査委員会であろうが、本当にチェックしているのだろうか。話を元に戻せば、会計監査法なるものがあるであろうが、部内チェックなる会計監査の手法が許されることだろうか。この辺りは公認会計士に聞いてみたい。

 党内の姿を党外に広めるのが良い作法とすれば、日共式監査法を議院内閣制に当てはめた時にはどうなるのだろうか。国家予算は政権党の思いのままに使われ、官房機密費なぞ使い放題の実質ノーチェックと云うことになるのではなかろうか。そういう恐ろしい仕掛けにしているのが日共式監査法であると云うことになる。れんだいこは会計法に詳しくはないが、これぐらいのことは分かる。

 最近気になる話が出ている。「地獄への階段」の2010.2.21日付けブログ「
『組織対策費』3億5千万の使途不明 共産党に説明責任」が、日共の経理疑惑に対して情報発信している。これによれば、日共は、日共党本部、各都道府県委員会、地区委員会の経理報告に於いて、「組織対策費1件5万未満の支払は、収支報告に総額さえ記載すればよく、その裏づけとなる領収書や支払先を示す書類などの提出も不要である」のを悪利用して、匿名支出ばかりの会計報告となっていることを指摘している。1円まで明記する小沢式政治資金収支報告書を批判する日共の同報告書がこういう按配だと云うことになる。同ブログは、「『政党機密費』不透明な3億5千万の使途について説明責任を果たせ!」とコメントしている。

 宮地健一氏が、「
共産党問題、社会主義問題を考える」の「党員数と党費収入総額とのアンバランス疑惑」(ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/touhi.htm)は日共の経理疑惑にメスを入れて、「日共政治資金の収入分の総務省宛報告」がウソ報告であることを示唆している。宮地氏は、党費納入党員数減と党費収入減の相関関係を調査し異常さを嗅ぎつけている。

 そもそも日共は正確な党員数、党費収入、機関紙収入について正確な発表をしておらず、ウソの虚偽報告している可能性が強い。今日の如くな合法主義活動に於いては特段の秘密性の必要が考えられない。にも拘わらず虚偽報告する裏には、正確な情報を開示すると党中央の無能力ぶりが明らかになり、責任問題が発生することを恐れての糊塗策としか考えられない。

 捜せばまだまだあるが、もうこれぐらいの指摘で十分だろう。このような党が、小沢キード事件をかなり立て、政治的道義的責任をネチこく追及したり説明責任を要求する筆頭格で立ち働くのは不正極まる不祥事と云うべきではなかろうか。我々はそろそろ、そういう不祥事まみれの日共を政界スキャンダル暴露党として都合良く利用している背後の闇勢力に関心を向けるべきではなかろうか。この党は闇勢力に飼われている党でしかない。このことに気づくべきであろう。

 関心は、こういう党にいつから変質したのかの考察に向かうべきである。決して偶然ではない。用意周到に党中央を簒奪したと読むべきであろう。残念ながら、この方面の研究は進んでいない。これについては別の機会に論じたい。というか、れんだいこは、サイトで十分に切開しているつもりであるが、見ようとしない者には見えず、読もうとしない者は読まずで、相変わらず昔ながらの「腐っても共産党」なる神話が通用している。れんたいこ解析が違うと云うのなら誰か弁じてみよ。れんだいこがいつでもお相手つかまつる。 

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【日共の重大な規約改悪史考その1、宮顕時代の規約改悪考】

 2011.2.4日、政治資金オンブズマンなる団体が小沢一郎氏と平野貞夫氏を政治資金規正法違反で告発した。「この事案は日本共産党が機関紙赤旗などで吹聴していたことから、同団体は共産党シンパの学者、弁護士らからなる徒党と思われる」、「(政治資金オンブズマンの代表的メンバーの一人と思われる)上脇博之氏は日本共産党と密接な憲法学者です。シンパあるいは党員学者かもしれません。日共の機関誌前衛にも堂々と登場します」とある。

 ならばと、れんだいこがお返ししておく。日共が小沢どんの政治訴追を云えば宮顕問題はどうするんだとお返しする。小沢どんの政治とカネ問題をつつけば、これから述べるようにお前の党は云える柄かよとやり返すことにする。

 さて、本題に入る。知らない者の為に説明しておく。一口に共産党と云っても、戦前来から戦前直後までの共産党と現在の共産党はまるで違う。理論も行動様式も感性もまるで違う。故に、現在の共産党は「日共」と蔑称的に識別されている。

 どういうことかと云うと、共産党は、1955年の六全協で、戦後の共産党運動を曲がりなりにも善導していた徳球-伊藤律系党中央から最悪の野坂-宮顕党中央への宮廷革命が行われ、以来2011年の今日まで延々55年余、同一系執行部が続いている。この同一系執行部の55年余の継続は、日本政党史上不倒の記録を刻んでいる。世界的に見ても珍しいかもしれない。

 その党が正成長しているのならともかくも長期低落傾向にある。こういう場合、自民党その他政党では執行部の責任が問われ執行部の有為転変を常とする。だが日共だけは例外の栄誉に浴している。こうしたことが可能なのは、れんだいこの判ずるところ、日共が戦前の治安維持法並みの党内統制を敷き、これに成功しているからであるとしか考えられない。しかしこうなると、反体制で始発した共産党が最も保守的体制的と云うことになる。これはお笑いではなかろうか。

 戦後の日本共産党の規約がいつ頃どういう内容で作られたのかがそもそもはっきりしないが、徳球-伊藤律系党中央の下で常識的な内容で作成されていたことは疑いない。これが、六全協に立ち現われる宮顕独裁下で次々と改悪されて行った。

 これを確認しておくと、まずそれまでは党大会選出事案の統制委員会と監査委員会のメンバー選出が中央委員会任命制にされている。チェックされる側が都合の良い委員を選出しチェックさせることになるが、これではロクなチェックにはならないのは当たり前である。統制委員会が党中央の云いなりの機関になり、監査委員会がお手盛りの形式的な審査になったことを意味する。しかし、こういうことって許されるだろうか。それこそ機関民主主義上の由々しき反動化ではないだろうか。

 次に、中央委員、准中央委員の評議権、決議権、代議員権が恣意化され、「代議員に選ばれていない中央委員、准中央委員は評議権を持つが決議権をもたない」ことにされた。これは党内反対派に対する締め出し策として編み出された。後に、中央委員、准中央委員が粗製乱造されて行くことになる。

 次に、党大会での党内反対派中央委員の発言を封じ込める為に、質問の事前届出制なるものを編み出した。これにより質問が事前にチェックされ、場合によっては発言ができないよう締めだすことができるようになった。徳球時代には対案が提出されることもあったが、宮顕時代になると押しつけの決議案を満場一致で採択する一枚岩儀式の場にされてしまった。

 次に、中央委員が粗製乱造されたことにより、その上部機関として中央委員会幹部会、更にその上に常任幹部会が設けられというように屋上屋を重ねることになった。これにより、党大会がますます形骸化されて行くことになった。そうしておいて議長制がつくられ、規約上の地位の不明確化により権限乱用が立ち現われることになった。党大会で規約にない「議長の冒頭発言」が登場するようになり、有無を言わせぬ圧力となった。その他、党大会や中央委員会総会の開催時期や方法を廻って幹部会の恣意的な指示通りに開催運営されることになった。

 他にもあるが問題はこういう改訂史が明らかにされていないことである。日共は政府の公文書公開を云うが、それを云うなら手前の党の公文書も同様に公開すべきではないのか。幹部会でどういう質疑が行われているのか、徳球系時代のそれはかなり公開されているが、宮顕時代になってからは全くの秘密のヴェールに包まれている。日共史は編纂されているが、史実偽造、ご都合解釈のオンパレードであり、党中央がいつでもどこでも正しいことを強弁するものでしかない。よって自己批判なるものない。こういう党史を読めば読むほど阿呆にされてしまうことになる。

 手前の党をこういう風に運営しておきながら、世間に向かって民主主義を護れだとか、変な言い回しだが我こそが本物の野党だとか、戦前来の唯一の正義の党なる宣伝をするのは、政治サギではなかろうか。

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2011年2月 5日 (土)

法匪に良い煎じ薬はないものか

 「上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場」の2011.2.4日付けブログ「研究者ら46名で小沢一郎らを東京地検に刑事告発しました!」を眺め、思うことを述べる。(http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51526704.html

 「告 発状」にはいろいろ書いてある。この種の文面を読むのは嫌いでない方だが読みづらい。要するに、小沢どんに対する新手の政治資金突つきらしい。秘書寮建設を廻る天の声捜査が失敗したの見届けて、それならばと第二の矢として放ったもののようである。

 旧「新生党」、政治団体「改革フォーラム21」経由の政治資金が、小沢どんが代表を務める政党支部を迂回し、資金管理団体「陸山会」に環流しているのが政治資金規正法違反だとして告発しているとお見受けした。何やかやごちゃごちゃ書いているが、それを裏付けるストーリーのようである。

 れんだいこが返答しておく。第一に、秘書寮建設の場合もそうだが、資金の流れを記しておくこと自体は良いことであり咎められるべきではない。一番悪いのは書付けしないことの方である。第二に、小沢どんの政治資金に対する疑惑を云うのであれば、その物差しは同様の基準で他の全ての議員に宛がわれねばならない。小沢どんだけに適用する法があってはならない。第三に、政治資金が政治資金に使われたことが立証された場合、法の適用は加減されねばならない。なぜなら、政治資金が政治資金に使われず私的に着用された場合の方が悪質だからである。

 以上の基準に照らした場合、まず政治資金収支報告書への届け出に於いて、小沢どんは模範的な出納帳を提出している。この面で杜撰な方が許され、克明に記した方が「天の声」まで捜査されるのは逆さまで、俗に「狙い撃ち」と云う。この「狙い撃ち」捜査を批判するのが法の番人の態度であるべきところ、一の矢、二の矢を放って正義ぶるのはエエ加減にして貰いたい。

 次に、法の番人の生命線は、法の公正な適用こそにある。他の国会議員の誰でも良い。小沢どんに適用されている訴追論旨を当てはめてみよ。何人が逃れることができると云うのだろうか。れんだいこは、手前は免責の裏保証を得て安心して小沢どんバッシングに精出している議員の方が多いと見る。他人を責める前に我が胸に手を当ててみよと云うのが世間のマナーであるが、この作法を守らない行儀の悪いのが正義ぶっており、これに食傷させられている。

 以上のれんだいこの疑問に応えず相変わらずの突っ込みを入れる者を法匪と云う。法匪は裏で教唆されている者が多いと云うのも経験則で知るところである。告発状の賛同人が表に出ていないが興味がある。ずらっと並べて欲しいところである。

 以下、れんだいこの鬱憤を例示しておく。れんだいこが、高速道路を走っていたとする。時速制限80kmのところを81kmで走っていたところ、高速パトロール隊に捕まえられた。曰く、1kmオーバーである。法は法であり1kmオーバーと云えども取り締まらねばならぬ。これが法の法たる所以である、よって厳格に処する云々。その間、時速130km以上で次から次へ走っていく車があったがお目こぼしだった。

 問題はここからである。ここへ法匪がやって来て曰く、法制限スレスレのところを走るのが実にケシカラン。これこそ悪質である何となれば云々。冗談で言っているのかと思いきや、ここへマスコミが来て曰く、法匪先生の云っていることが正しい。これに異議を唱える君は我々の言論大砲で懲らしめてやる。この理屈が理解できぬのは勉強不足である云々。

 こういう法匪とマスコミが多いのだが、イケない。毎日毎日説教されて、法匪とマスコミの云う事が筋が通っていると思い出すものが後を絶たない。あのクダラン著作権棒振り回すのも同じ徒党だ。お陰で世間が汲々し始めている。そういう意味で、下手な勉強はしない方がよい。するなら世の中を明るくする真に賢くなる勉強をせねばならない。

 もとへ。 「上脇博之正義」はこの種のものではなかろうか。憲法研究者らしいが、かなり度の強いメガネをかけているらしいことが分かる。良い煎じ薬が見つかれば良いのだが。若いうちなら治るが手遅れかも知れん。

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2011年2月 4日 (金)

江田理論の再検証その3、江田ビジョンのなれの果てとしての菅政治考

 以上、江田理論を確認した。俄かづくりなので後に書き換え書き足しが必要であろうが、いつしか得心しておきたい江田理論であった。これを催促してくれた「clarte1」氏に感謝申し上げる。さて、最後は、「江田ビジョンのなれの果てとしての菅政治考」をしておかねばならない。

 2009衆院選での政権交代で鳩山政権が登場し、これを菅政権が後継し現在に至っている。菅政権は、本来は江田ビジョンとのすり合わせを始発としている筈であるが、本人は「ロッキード事件における政治とカネ問題が私の政治活動の原点」と云いなしている。本人の感覚ではそうなのであろうが、そうであればあるほど、江田ビジョンとは隔絶していると云うべきであろう。江田ビジョンは、戦後保守系ハト派の戦後日本指導の能力を評価し、その次の在るべき姿として日本型社会主義を憧憬していた。戦後保守系ハト派の総帥たる角栄が、その江田ビジョンに手強さを感じる言辞を遺していたことを確認した。このことは、角栄政治と江田政治が歩調を合わせることができる間柄であったことを示唆していないだろうか。

 そう思えば、反角栄政治を政治原点とする菅政治が何と江田ビジョンと隔絶しているかが分かろうと云うものである。その菅が同盟したのは何と戦後保守系タカ派の中曽根-小泉政治の方であった。その背後に国際金融資本帝国主義グループが控えており、その操りを嬉々として受け入れピエロ役を演じているのが菅政治である。これが社民連運動のなれの果ての姿であり、我々は今、眼前にしている。

 一々の政策を挙げてもキリがないので止すが、要するに国策不況政治、財政放漫政治を二輪車として日本溶解街道へひた走っている。特に最近は消費税増税、環太平洋連携協定(TPP)が喧しいが、その企みは日本経済、企業の破産誘い込みにある。これが分かっていながら請け負うのは尋常ではない。れんだいこが、菅派がネオシオニズム系の秘密結社員であることを疑う所以である。日本相撲協会の解体策動もアヤシイ。よってたかって日本的なるもの破壊工作が仕掛けられていると読まねばならないと思う。ここは菅政治を確認するところではないので、これぐらいにしておく。

 2011.2.4日 れんだいこ拝

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江田理論の再検証その2、江田ビジョンの構造

 では、江田理論の構造はどのようなものなのだろうか。これを確認しておく。一つは、江田がマルクス主義をどう見限ったのかと云う面、もう一つは、どういう新たな運動を展望していたのかと云う面の両面から炙り出してみたい。

 1977.1.12日に江田社会党副委員長が中執委に提出した「江田意見書」(http://www.eda-jp.com/books/usdp/2-2-eda.html)、3.26日の「離党にあたって」(http://www.eda-jp.com/books/usdp/2-2-ritou.html)、3.31日の公開討論会講演「開かれた市民参加の道」(http://www.eda-jp.com/books/usdp/2-3-eda.html)等を参照する。

 理論その1として、教条主義的マルクス主義路線との決別、既成の社会主義論に対し「新しい社会主義」を掲げんとしていた。その論拠として次のように述べている。「マルクス主義的階級分析論はもはや古い」、「単一の党が国民過半数の支持を獲得できる時代はすぎ去り、多党連合による政権奪取こそ目指すべきである」、「私はこれからの日本の進むべき道について、古い社会主義のイデオロギーをのりこえた、新しい社会主義の道を提言してまいりました」。

 理論その2として、「戦後社会党の時代はすでに終わった」として社会党の改革を訴えていた。どうあるべきかにつき、戦後日本の民主主義体制を是認し、改良的改革による革新、連合体的自主組織を理想とする体制派リベラルの結集、「組織の中央集権的性格、労働(組合)運動偏重主義を排し生活者の党を目指す」等々志向していた。次のように述べている。

 「要約すれば、議会制民主義の堅持と徹底した分権と自治、ルールの確立されたなかでの市場機構の活用、計画的な資源配分と農業漁業の振興、公共的な保証体系の確立、公害と安全についてのきびしいルールの設定、文化的な創造の自由の保証などが、欠かせないことです。当然のことながら、政党もこれに適応した政策をもつとともに国民不在ともいわれる現在の組織や運営について、根幹にふれた改革を迫られているのであります。未組織労働者でも零細業者でも、誰もが自由に参加でき、意見を述べあい、話しあいのなかで政策を創り出す組織であり、中央本郎が大きな権限を持って命令や強制をするのでなく、個人や各種の集団がタテではなくヨコにつながる、いうならば、統制委員会ではなく調整委員会が持たれる連合の組織であるべきだと思います。これこそ私が社会党にあって果たしえなかった『開かれた党』の実現であります」、「のびのびした自由な社会主義、私個人でいえば構造改革論以外に、人間の顔をした社会主義をめざしたい。小型社会党になってはいけない。市民のワイワイ、ガヤガヤの自由なエネルギーに依拠しなければならないと思ってます」。

 理論その3として、日共をマルクス主義政党としたうえで、その排他的統制的な組織論に対し次のように批判している。「成田委員長の推進する全野党共闘路線は間違いである。年を経過したにもかかわらず、四野党の足並みは一致ではなく、分離の方向に進んできたことを冷静にうけとめなければならない。ネックは共産党にある。この党がいかに柔軟な路線を表明しようと、民主集中制をとるイデオロギー政党であり、党内にさえ民主主義が生かされない独善の党である限り、この党を加えての連合は不可能だということを認識しなければならない。これはすでに、世界的に実証されてきたことであり、共産党とは閣外協力が限界だということである。わたくしは日本における現実的な革新的連合政権の構想に、共産党とはともに天を戴かずという態度をとれというのではなく、遠い将来は別として、現段階においては、前述のように対処することが壁につき当たっている社会党の政権構想に窓をあけることができると確信する」。

 この点では、日共式共産党運動をマルクス主義とは似て非なるものと断じているれんだいこ史観とは違うが、日共式共産党運動の胡散臭さを感じとっている点で評価したいと思う。

 理論その4として、中産階級論を媒介しての「革新中道路線」を生み出し、これを論拠として「保守に代る新しい連合政権樹立」を提唱していた。次のように述べている。「多党連合時代に適合する社会党の再生を目指すべきである」、「これまで安易に使われてきた『統一戦線』という用語も刷新する必要があるように思う。統一戦線という語は、前衛政党(共産党)を中心としてその周りに諸勢力を結集するという、同心円型の戦線として歴史的に定形化された概念である。われわれが目ざす連合はそうではなく、実際上何れかの党が要(カナメ)党としての役割を担うにしても、少なくとも理論的には、同格の複数の政党がいて、互いに協力しあう関係でなければならない。したがって『統一戦線』という用語よりも『連合』がその呼び名にふさわしいと思う」。

 この観点にはれんだいこも御意であり、統一戦線理論は邪道、目指すべきは永遠に共同戦線論であると主張している。江田は連合と云っているが、真意は共同戦線論であろう。

 理論その6として、政権を取り、政権与党としての責任政治を引き受けることを欲していた。次のように述べている。「こうした考え方にたって、政権構想を早急に具体化しなければならず、そのためのリーダーシップは、野党第一党である社会党に責任があると思う」、「この多数派を、政治の場で実現するのがわれわれ政党の役目である。そのため、第一に、先進国型の自由と民主主義に基礎をおき、漸次的改革をめざす社会主義勢力(党と労働組合)が核となり、第二に、革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力、市民、知識人、中間層等を含む進歩的連合を形成することである。われわれはそれを革新中道連合と呼ぶ。より正確には、社会党が中心的な勢力として加わるという意味で革新・中道連合である。もし今回の選挙にあたり、そうしたリベラル保守をも含む革新・中道連合構想が具体的に明示されていたなら、新しい政権誕生の道が一挙にひらかれたかもしれない。野党各党バラバラの抽象的政権構想では、なんの迫力も持ちえなかったのである」、「自由な社会主義を追求する。市民の自主性にもとづく運動を進める。そういう人々がタテの関係でなしに、各々が対等であり平等であるというヨコの関係で、新しい政治集団をつくっていく。批判の側にまわるだけではなくて、つくる側にまわらなければいけない。自民党的札勘定の離合集散(マネタリー・アニマル)ではなく、社会党・共産党的イデオロギー・アニマルのどちらも排する」。

 理論その7として、無党派層の取り込みを意欲していた。次のように述べている。「現代は、わが国だけでなく、世界のどこもが大きな転換に直面し、惰性で続いた時代に区切りをつけねばならぬときであり、政治も、世界的に連合時代をむかえております。だが、わが国の革新の側は、こうしたことに正面からの対応ができず、国民の魅力をつなぎえておりません。参議院選挙にしても、保革逆転ではなく、自民一党支配から、新自由クラブを加えた保守二党支配となる公算がつよく、いま革新の側にとって最大の課題はふえつづけている支持政党なし層を、いかにしてこちらにひきつけるかであります。社会党は最大野党であり、この党をそうしたことのできる党に変える可能性がないとはいえませんが、時間のかかることです。それはそれとして追求しながら、別の角度から支持政党なし層を結集することが、緊急を要する課題であります。私が「新しい日本を考える会」に参加したのも、このことを考えたからなのです。私は社会党改革に取り組む同志の行動に共感しつつも、支持政党なし層の結集のために裸でとびだし、社会党の外から、党改革を迫っていく決意なのです」。

 理論その8として、市民派運動の取り込みを意欲していた。次のように述べている。「菅君は三十歳だという。私の下の息子よりも年が若い。たしかにゼネレーションのちがいはある。討論のなかでも、たとえば社会主義についての評価などで、この違いを感じた。だが、若者の特性は社会と時代の流れに身をゆだねるのではなく、自らの熱情によって変革の意志を具体的な行動でぶつけていくことであるだろう。私の青春時代にはそれが社会主義であったし、そのまま現在にいたっている。菅君たちにとっては、社会主義というイデオロギーよりも、アクティブな市民派として直接的な行動にたちあがることの方が、より社会変革の意図を具体化することに直結しているのであろう。社会主義を心情としてとらえても意味はないと批判されて、「クールだな」と感じつつも、イデオロギーを教条的にとらえて自己満足している青年よりもきわめてラジカルな青年達だという印象を受けた。社会主義に魅力がなくなっている現在、イデオロギーでそれをおしつけるよりも、現実の社会変革の方向と行動を具体化することによって再生することの必要性を、新鮮な印象とともに痛感したしだいである」。

 「社会党のなかでよく言われたのは、革命をおこなうのは労働者階級なのであって市民ではない、ということであった。たしかに、現代社会において労働者は大きな位置をしめている。だが、労働者という概念で現代の革新指向の人々をすべてくくることができるであろうか。私はそうは思わない。というのは、労働者自身も第三次産業労働者が五〇%をこえ、第二次産業労働者もブルーカラーへとかわってきている。労働の質の変化は、労働者の意識的変化と結びついている。また、公害反対闘争やさまざまの市民闘争のラジカルな提起は、これまでの労働組合運動の質を問いなおしてきている。こうしたことから、総評も「国民春闘」を提起し、生活闘争をおこなわざるをえない状況になってきている。アクティブな市民の登場が求められているのは、このような状況変化によってだけではない。それは、日本における市民社会の成立がきわめて遅れているからに他ならない。社会主義のモデルがソ連型であってはならないということについては、大方の共通認識となってきているといってよい。だとするならば、日本における市民社会の成立が、社会主義へむけた過渡期社会との関連できわめてクローズアップされざるをえない。民主主義についても単なるスローガンではなく、参加民主主義とか直接民主主義という提起があり、具体的な運動展開がされていることは、市民社会の形成へむけての動きに他ならない。民主主義が、社会主義者による単なる戦術的スローガンから、市民社会と結びつき、社会主義社会への戦略的な位置が与えられるときにはじめて、圧倒的多数者が参加する社会建設が可能となるのである。こうして、いまや市民の役割は、既成の教条的な左翼や利益団体のエゴを打破するとともに、新たな社会を建設する主要な勢力なのである。私はこうした観点から、社会市民連合が市民派の大々的な登場の舞台になることにかけたのであった」。

 以上が江田ビジョンの大まかな構図である。今日、社会党の解体、その系譜の社民党の衰微事態を踏まえれば、江田ビジョンの正否はともかくも、社会党左派が如何に駄弁を貪ってきたかが明らかであろう。社会党左派が、江田ビジョンを排斥するしないは自由である。問題は、江田ビジョンを排斥する以上は江田ビジョンを上回るビジョンを提起せねばならなかった、それが排斥する際のルールとマナーであったのに徒に排斥するしか能のない粗脳ぶりを見せたことにあるのではなかろうか。こう問うことも虚しいが、問う以上はこう問わねばならないとも思う。

 2011.2.4日 れんだいこ拝

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江田理論の再検証その1、江田ビジョンの意義考

 菅政治と江田政治がどの程度結びつくのかは別問題であるが、ここらで菅政治の源流を為している社民連運動を確認しておくのも一興だろう。もっとも、社民連運動史には興味がない。あるのは、社民連運動の草分けであった江田三郎の政治理論の方である。江田は社民連運動立ち上げ直後の奔走下で急逝したので、江田式社民連運動の実践なるものは存在しない。残されているのは社民連運動草創時の江田理論即ち「江田ビジョン」であり、その解析のみが対象となる。一応こう構図化しておく。

 1977年、江田は、社会党右派系の流れで社民連運動を創出した。1977年と云えば、ロッキード事件の喧騒下で政界が大きく揺れていた頃である。これを俯瞰すれば、そのサマは、1960年の60年安保闘争時に民社党が生まれた状況に似ている。そういう意味で、社民連運動を第二民社党運動と位置づけることができるように思われる。

 この頃、民社党は結党以来の資本の御用聞き運動が食傷され、頭打ちの限界を露呈し始めていた。要するに使い物にならなくなったと云う訳である。こうして、体制奥の院は民社党を見限り、その代替物として新たな右派運動を欲し始めていた。この期待に応えようとしたのが江田式社民連運動であった。民社党運動、社民連運動にナベツネの影が見えるので、そう断じても間違いなかろう。ナベツネ派のヒモつき資金がどの程度動いたのかは定かではないが、民社党の結成過程事例になぞらえれば大いにあり得るように思われる。

 そういう意味で、江田理論を一蹴し批判排斥することは容易い。が、ここではこの方面のイカガワシサは問わない。問うのは、その江田理論が片鱗的に示していた見識の先見性の方である。江田は、1977年時点でマルクス主義運動の時代的齟齬を確認し、決別し、従来式組織論、運動論、情勢分析論に捉われない新たな左派運動ないしは市民運動を展望していた。その先見性を高く評価したい。と同時に、不即不離的に合わせ持っていたその限界を同時的に把握したいと云うのが、れんだいこ史観である。この営為は、今まで誰も為し得ぬまま今日に至っている理論的不備ではないかと思っている。思えば、戦前の解党派、転向派の論理もたな晒しにされており、実践的に急務であるのにこういうところの理論活動が為されていない。

 江田式社民連運動の嫡出子として菅政治が生まれており、時の首相として采配している今、その菅政治が驚くほどの従順さで国際金融資本帝国主義の走狗ぶりを発揮している今、そもそもの江田理論を再確認し、菅政治が江田理論から必然的にもたらされているものなのか、江田式市民主義運動を標榜しつつ実は菅自身の個性により卒倒すべき更なる右傾化へ舵を切っているのか、この辺りを確認してみたい。そういう観点から、以下、江田理論を解析して行くことにする。

 江田理論は、サイト「社民連十年史」で確認できる。れんだいこは、「戦後政治史検証」の「1977年当時の主なできごと」で、当時の時系列の中で確認している。

 「社民連十年史」(http://www.eda-jp.com/books/usdp/

 「戦後政治史検証」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/index.htm) 

 「1977年当時の主なできごと」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/1977.htm

 江田理論の理論的構成の検証は後で行うとして、ここでは江田ビジョンの先見性を確認しておきたい。繰り返すが、江田理論は、1977年時点で、最終的にマルクス主義を見限り、それに代わる新たな左派運動理論を模索し始めていたところに値打ちが認められる。この言は、二面から考察されるに値する。一つは、江田がマルクス主義をどう見限ったのかと云う面である。もう一つは、どういう新たな運動を展望していたのかと云う面である。以下これを問うが、その前に確認しておくべきことがある。それは、江田が、なぜマルクス主義を見限ったのかの問いである。実は、ここに江田理論の値打がある。これを解いてみる。

 れんだいこ推理であるが、江田は、当時の日本左派運動各派が共通して理論化していたところの「戦後日本=ブルジョア体制論」に「異」見を持ったのではなかろうか。れんだいこは、この嗅覚がすばらしいと評しようとしている。最も好意的に評すると、江田は、新旧左翼が戦後民主主義体制の位置づけを廻って百人百様のブルジョア体制論にシフトしている折柄、逸早く戦後日本体制の質的高みを是認し、この観点から左派理論の立て直し再構築を視野に入れ、その理論的創造を引き受けようとしていたのではなかろうか。存外これは重要なことで、日本左派運動史上に於ける功績ではなかろうかと思っている。分かり易く云うと、戦後日本の体制は否定されるべきものではなく擁護されるべきではないかとの問いである。

 これをもう少し説明しておく。戦後日本は、戦前日本の支配者が大東亜戦争に敗戦したことから始まる。戦後直後、旧勢力一掃の狙いもあって日本左派運動が合法化され、併せて獄中共産党員の一斉釈放もなされたところから、そもそものお墨付きを与えたGHQの思惑を超えて一気に燎原の火の如くの広がりを見せていくことになった。但し、その左派運動は次第に分裂を深めて行き、急進派の共産党系と穏和派の社会党系の二大潮流が創られ、そのそれぞれ内部が更に左派、中間派、右派に分岐すると云う展開となった。ここに分裂好きの左派運動と云う体質が確認できる。それは、保守派の大同団結ぶりと対照的であった。

 最終的に戦後革命は流産する。その後、共産党内の宮廷革命政変で急進派の徳球系が放逐され、穏和系の宮顕系が党中央を牛耳ることになった。以降、似ても似つかぬ共産党運動即ち日共運動なるものが現出し今日に至っている。社会党、共産党系の穏和化に抗する形で革共同が生まれ、それを更に急進化させた形でブント(共産同)が生まれた。そのそれぞれ内部が更に左派、中間派、右派に分岐した。

 そうではあるが、これらの日本左派運動各派には共通して「戦後日本=ブルジョア体制論」にシフトしていたと云う特徴が認められる。その上で、即社会主義革命論、段階式社会主義革命論に分岐していた。或いは暴力革命論、平和革命論を廻っても分岐していた。大きく云えば、革命理論の差ではなく戦略戦術の差でしかなかった。しかしながら、そういう規定はマルクス主義教本のステロタイプななぞりでしかなく、生きたマルクス主義による分析ではなかった。

 ここにもしマルクスがおりエンゲルスがおり、れんだいこと膝詰め擦り合わせすれば、「戦後日本=プレ社会主義論」を獲得していたであろう。つまり、戦後日本はプレ社会主義体制として是認されるべきであったところ体制否定に向かうと云うボタンの掛け違いから始まった。ここに戦後日本の左派運動のそもそもの間違いがあると看做すのがれんだいこ史観である。

 この点で、江田理論は、戦後日本に対するマルクス主義系各派のブルジョア体制論規定、それに伴う各派の戦略戦術的革命論に対して、これを疑惑し脱却を図ろうとしていた。れんだいこには、これが江田ビジョンの大いなる理論的功績のように見える。問題は、この時、江田理論がどのような戦後日本規定、革命論を生みだそうとしていたのかにあるが、今ひとつはっきりしない。

 はっきりしていることは、先行して生まれた民社党とは一味違う運動を展望していたことである。民社党は春日一幸委員長に典型的なように反共論的要素が強く、自前の規定、革命論を創造するのではなく、徒なアンチ左派運動を主眼としていた。これが為に自前の社会主義論を創造することができず、結局のところ資本側の走狗としての労働運動しか生みだすことしかできなかった。

 その点で、江田理論は、民社党の轍を踏まないとして自前の規定、革命論を創造する意欲を保持していた。ここに民社党運動との差が認められるように思われる。もっとも、これをどの程度強く意思意欲していたのかは定かではない。そういう可能性があったという程度に理解したい。そういう程度の戦後体制論、革命論でしかなかったが、江田理論が唯一、その方面の理論的探求に乗り出そうとしていたのは功績ではなかろうか。

 れんだいこは、現在のれんだいこが当時の江田と相まみえたとしたら、江田理論がドグマ的マルクス主義によらず自主自律的なマルクス主義の創造的適用、在地土着的な日本型マルクス主義運動の創出を意欲していたことを賞賛したい。その上で更に次のように示唆したい。

 戦後日本はプレ社会主義体制であり、この体制は打倒されるべきではなく、むしろそのプレ社会主義的秩序を護持成育発展せしめるよう内在的永続革命に向かわねばならない。よって、徒な体制転覆型の革命論を唱えるに及ばず、或いは安逸な批判運動で事足りる裏取引専門の万年野党運動に没するべからず、むしろ積極的に体制内に入り込み戦後民主主義の質の出藍を期すべきである。その為に、戦後民主主義が選挙洗礼による代議員政治を指針させているのなら選挙戦を重視し、多数派を目指すべきであり、政党運動的には政権与党として責任政治を担うべきである。これが日本左派運動に課せられた政治責任である云々。

 だがしかし、日本左派運動の与党政治責任論即ち政権奪取論は戦後革命流産とともに塩漬けにされ、ひからびた状態にある。これを右派的にであれ再興せしめんとしたところに江田ビジョンの隠れた意義があった。これがれんだいこ眼力である。これが、「戦後日本=ブルジョア体制論」から導き出される指針である。この指針を廻って、江田理論との喧々諤々をしてみたいが叶わぬ舞台設定でしかない。

 実際の江田理論は戦後日本プレ社会主義論を掲げている訳ではない。但し、それに接近している点で値打ちがある。れんだいこ理論は、戦後日本プレ社会主義論に基づく左派理論であり、江田理論は同右派理論であると云う相似と差異が認められるように思う。この場合の右派、左派は相互に対立排斥しあう関係ではなく補完しあえる。かくて共同戦線関係に入ることが可能な間柄となる。れんだいこは、江田理論が真面目なものであれば、こういう話し合いができたかどうか分からないが可能性はあったと思う。そのように位置付けている。

 こうなると、そういう左派運動の低迷をよそに自力的発展を示していた戦後保守系ハト派の政治運動をどう評価するべきかと云う問題にも遭遇することになる。れんだいこ史観によれば、戦後保守系ハト派の元祖としての吉田政治はともかく、これを後継した池田―(佐藤)-田中―大平―鈴木の1960年代から80年代までの20年間の政治は、自民党内タカ派との拮抗関係をうまく御しながら、戦後日本のプレ社会主義体制護持派の政治だったのではなかろうかと云う見立てになる。

 この政治とどう親和し且つ競合するのかが江田理論に課せられていた理論的課題だったのではなかろうか。これをうまく調御できれば、戦後保守系ハト派の政治運動と最も激しく闘う日共運動との鮮やかな違いを生み出すことができ、社会党の再生にも繫がったのではなかろうか。角栄が江田ビジョンを高く評価していたことにはそういう裏意味があったと思われる。そういう興味が湧く課題が待ち受けている。

 江田が急逝することなくもう少し延命しておれば、江田理論のその辺りを確認できた筈である。歴史は皮肉なことに、その最も見たかった「その後の江田理論の展開」を見れぬままに閉じることになった。江田亡き後の江田理論としての社民連運動十年史を刻むことになったが、江田理論の胚胎していた芳醇さを切り捨て駄弁的な市民主義運動に堕して行くことになった。今日、菅首相が堂々と居直るところの「反角栄政治が私の政治活動の第一歩」なる矮小型社民連運動へと流し込まれて行くことになった。こうして、江田理論そのものが一抹のうたかたの線香花火にされたまま歴史に遺されている。残念なことと思う。

 2011.2.4日 れんだいこ拝

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江田ビジョンの生みの親、江田三郎の概要履歴

 れんだいこのツイッターで、「clarte1」氏より2011.1.31日付けで「江田五月氏の父親、故江田三郎氏はれんだいこ史観ではどのように位置づけられるのでしょう。社会党を出たあたりで怪しい一派に組み込まれたのか? 菅氏の出自とも関連しますね。ブログに書いてください」と要請があった。

 これに対し、「これは難しい且つ興味深い考察です。今はコメントできませんが、論評を温めております。問題は、旗揚げ直後になくなったことで運動の中身がいまいち分からないことです」と応えておいたが、気になるので今書きあげることにする。何しろ準備不足であるが、叩き台にでもなれば、ないよりはよかろう。まず江田三郎の履歴を確認しておく。れんだいこは共産党史は検証しているが社会党史は追跡していない。いずれしてみたいと思うが、時間がないので「ウィキペディア江田三郎」その他を参照する。

 1907(明治40).7.29日、岡山県御津郡建部町にて、うどん・そばの製造卸業者の長男として生まれる。朝鮮・京城(現在のソウル)の善隣商業学校、神戸高等商業学校(現神戸大学)、東京商科大学(現一橋大学)に進学。1931年、大学を中退して郷里に戻り農民運動の指導者となった。1937年、岡山県議会議員に当選。1938年、第2次人民戦線事件に連座して検挙され服役。出獄後は葬儀会社につとめたり、中国で開拓事業に従事する。ここまでが戦前の概要履歴である。以降は戦後編となる。

 1946年、日本に引き揚げ日本社会党に入党。1950年、参議院議員に初当選。1951年、左右分裂後は左派社会党に属し、左派社会党の日刊機関紙として「社会タイムス」を創刊。社会タイムス社の専務として経営に参画する。この時の経営経験、感覚が後の江田ビジョンに繫がった可能性がある。1958年、組織委員長。1960年、書記長。60年安保闘争直後の浅沼稲次郎委員長の暗殺事件後は委員長代行として1960年総選挙を指揮する。

 この頃、構造改革論に傾斜し始めた。構造改革論とは、イタリア共産党のグラムシやパルミロ・トリアッティが提唱した非ボリシェヴィキ型平和革命論であり、要するに革命論の中に議会制民主主義を取り込むのか排斥するのかを廻っての対立であると同時に国際共産主義運動内の指揮権を廻る新理論であった。この新理論が西欧マルクス主義内を席巻し、その波が日本にも押し寄せて来た。共産党内でこれを受容しようとしたのが春日(庄)派であり社会党内では江田派と云うことになる。

 トリアッティは、論文集「社会主義・民主主義」(イタリア政治研究会編)で、これをやや意訳すれば、今後の社会主義革命に於いては後進国革命的なロシア10月革命を教条とせず、西欧的な先進国では、1・議会制民主主義の尊重、2・社会主義への道の多様性の承認、3・市民運動型闘争との結合、4・改良闘争の積極的評価を基準として、これらを通して社会の構造改革を推し進めることにより漸次的に社会主義を実現することが可能であるとして「マルクス主義の現代的形態としての先進国革命論」を提示していた。

 江田は、この構造改革論を礼賛し社会党の路線の軸に据えようとした。この時、江田は、好調に発展を遂げつつある戦後日本体制を是認し、その認識の下での改革改良路線による社会主義の実現こそ日本左派運動の使命とせんとしていた。つまりは超穏和的な平和革命論であった。当然の如く、党内左派の労農派マルクス主義派の社会主義協会が反発し、党内実力者の鈴木茂三郎、佐々木更三らも反対を唱えた。

 1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として、1・アメリカ並みの生活水準、2・ソ連並みの生活保障、3・イギリス並みの議会制民主主義、4・日本に於ける日本国憲法の平和主義を挙げ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとするいわゆる江田ビジョンを打ち出した。この時も強い反発を招き、江田は書記長を辞任させられ組織局長に転じた。その後は、河上派、和田派と構造改革派を形成しながら、佐々木派との権力闘争を戦っていくことになる。

 1963年、総選挙の際に江田が衆議院議員に転じようとした際、和田と同じ選挙区(旧岡山1区)から出馬しようとしたことから和田の怒りを買い、旧岡山2区から出馬した。1966年、委員長選挙において僅差で佐々木更三に敗れ、その後何度も委員長選挙に挑戦するも遂に委員長となることはなかった。1967年、副委員長。1968年に再び書記長に返り咲く。1969年総選挙では、社会党は140議席から90議席へと議席数を激減させる大敗を喫した。

 1970年、委員長選挙でまたも敗れた江田は公明党、民社党との社公民路線によって政権を獲得することを主張し、共産党をも加えた全野党共闘を主張する成田知巳委員長らと対立した。1976年、社公民路線を推進するため、当時公明党書記長だった矢野絢也、民社党副委員長だった佐々木良作ら両党の実力者とともに「新しい日本を作る会」を設立する。

 これが社会主義協会系の活動家たちの逆鱗に触れた。同年12月、第34回衆議院議員総選挙で落選。明けて1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちからつるし上げられるなどした。この結果、江田は社会党改革に絶望して離党する。但し、離党届か受け付けられず除名処分を受けた。

 その後、菅直人とともに社会市民連合(社会民主連合の前身)を結成し、その年の参議院全国区選挙への立候補を表明したが、公示直前に肺癌が末期化して急逝し、代わりに息子の江田五月が急遽出馬して、第2位で当選した。

 こういう履歴であるが、荒畑寒村は次のように評している。「本当の改革というのはいつも少数派だ。今の社会党の中で社会主義のことを真剣に考えているのは江田君だけだ。私と君とは立場が違うけれど、君の行動を理解し、支援するよ」。「江田はこの会談の模様を、その後くり返し語っている。よほど嬉しかったのであろう」と評されている。

 同じように江田理論を評価した政治家に田中角栄が居る。1968(昭和43).12月、佐藤政権の下で二度目の自民党幹事長となった角栄は取り囲んだ新聞記者たちに真顔で次のように評している。「自民党はいつまでも政権を握っていられるとは限らない。社会党では江田が一番恐い。江田を委員長に立ててきたときは、もしかすると自民党は負けるかもしれない」(塩田潮「江田三郎   早すぎた改革者」、文藝春秋」)。

 「ウィキペディア江田三郎」の末尾は次のように記している。「江田は日本の社会主義運動を高度経済成長による日本社会の変化に適合させようとした優れた政治家であり、社会主義思想家であるが、江田の思想に関する研究は未だ不十分なままであり、今後の研究が期待される」。

 れんだいこは、この評が気に入っている。これによれば、戦後日本の高度経済成長路線を理論的に是認しており、この姿勢の下で日本型の新社会主義論を創造せんとしていたことになる。案外と、このタイプの政治家が居ない。その稀有な一人として江田が位置しており、ここが評価される所以だと思っている。

 2011.2.4日 れんだいこ拝

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