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2011年3月

2011年3月27日 (日)

れんだいこの緊急提言「大疎開政策論」その2

先の2011.3.24日付けブログ「大疎開政策論」で温泉郷疎開論を提言したが、ぼちぼちながら流れが始まっているようである。この動きをもっと強めねばならないと思う。被災地の国会議員はぼやぼやせず率先して受け入れ先の地方自治体と折衝し「脱被災地」に向かわせねばならぬ。財源は後から取ればよい。以下、改めて別の角度から提言しておく。

 今、福島原発事故の応急対応が関係者総員の手で懸命になされている。日本全国のみならず世界中が見守っているが、肝腎なことはメルトダウンによる爆発前の小康状態なのか、終息するのかである。識者の見解も分かれており両論が飛び交っている。れんだいこは門外漢なので、爆発するとも終息するとも断言できない。但し、これまでの事故によっても既に相当の放射能汚染が始まっており、今後ますます深刻化するであろうと見立てするぐらいの予見は許されるだろう。

 問題は、菅政権の対応が余りにも無責任杜撰無能なサマを見せつけていることである。その場対応に終始しており、今後の見通しを立て国民に呼びかけ、英明に諸事処理して行く姿勢そのものを放棄していることにある。被災後2週間を経過しているが、いつまでも「置き去り」が許されることではなかろう。

 恐らく、原発行政を引き続き維持せん為に不都合、不利益なことを言及すまいとの立場に汲々しているのだろう。仄聞するところ、菅首相の采配で目立ったところは、東京電力を難詰し、現場死守による修復命令したぐらいのところである。代わって枝野官房長官が矢面に立ち記者会見に臨んでいるが、専門外なのに大丈夫発言を繰り返しているに過ぎない。これも限界とみるや自主避難を云い渡し始めたのが最新の流れである。

 もう一つ、本来の被災担当と思われる総務相の動きがやけににぶい。片山総務相の無能ぶりが浮きだっている。この御仁の政治的背景も疑わねばならない。決して普通の対応ではない。自衛隊の鳴り物入りの10万人体制の功罪についても言及したいが、現場に精通している訳でもないので控えることにする。

 以上から判断すると、菅派は、凡そ中央政府としての政治責任を放棄していると断じてよい。為すべきことに対してまともな指揮をしておらず、することと云えば臭いものに蓋する姿勢が目立つばかりである。この姿勢は今後とも改まりそうにない。こういう手合いは、情況がさらに悪化しても何らかの気休めを云い続け、最後には想定外の一言で口を拭うであろう。御身は常に高みの見物を決め込み、いざの時には脱兎のごとく逃げ出す手合いだろう。今に至るも原発行政推進を問いなおす姿勢は見られない。

 こういう按配であるので、我々が見通しを立て生き延びる対策を講ぜねばならない。そこで発案したのが温泉郷疎開案であるが、この発案に思いを凝らすと良案であることをますます確信するようになった。その一つに、山間部の温泉郷が立地する森林が放射能汚染対策として効果があるのではなかろうかと思うからである。当然、温泉浴自体の効果もあろう。この両面に於いて、温泉郷疎開が講ぜられるべきだと確信する。これは今のところ科学的知見に基づいてはいないが、後から証明されることもある。今は立派なカンではなかろうかと思っている。

 もう一つ、仮設住宅、医療チームや自治体職員の被災地派遣等を含め政府が今後支出する膨大な出費を考えると、日本全国の温泉郷避難の方が却って安上がりになるのではないかと算定する。にも拘わらず、なぜ疎開政策に向かわないのだろうか。れんだいこには解せない。

 仮設住宅の例と比較すると、これから用地確保、インフラを整備する必要もないし、既設の旅館を使えるのは思わぬ利点ではなかろうか。医療チームや自治体職員も勝手を知ったところでの派遣の方が効果的なのではなかろうか。この際、仮設住宅、医療チームの被災地派遣等に費やす費用の一部で、温泉郷旅館の施設整備、廃業旅館の活用も行えば一石二鳥三鳥だろう。

 温泉郷の収容能力はほぼ500名単位で可能であろうから、被災地住民がある程度まとまって住むことが可能と云う利点もある。いわゆる市街地の空室利用より勝るのではなかろうか。間接的な村興しにもなるのではなかろうか。そういう訳で、緊急予算の一部を温泉郷立て直しに注ぎ込んだ方が賢明と判断したい。

 もう一つ、顧慮せねばならないことは、菅派政治の救援対策が、被災地難民を救援するよりも、治安維持的な観点から閉じ込めようとしている気配が窺えることである。救援物資の滞貨が云われているが、被災後1週間経っても被災地への補給線が確保できないなどということが有り得て良い訳がない。石油、灯油等の過少割当制限、医薬品の供給不足等も本来の救援ならば有り得ない事態である。

 被災地に入る為の交通制限、規制も道路陥没だけの理由によるとは思えない。政府が被災地救援優先を打ち出せば、石油不足で往来できないなどという事態は起こらない筈である。こういうことが有り得ているのは、菅派政治の救援対策が逆指揮に向かっているとみなす必要があるのではなかろうか。れんだいこには、被災民が棄民化されようとしているとの疑念が消えない。

 被災地難民は自らが置かれている状況を客観化させ、ここは冷静に判断すべきではなかろうか。菅派政治に運命を委ねる愚だけは避けるべきだろう。岩手、宮城の被災民の避難は或る程度の期間で済むかも知れない。但し、こたびの被災を奇禍として、いっそのこと思い切った都市計画に基づき土地区画整理事業で復興させた方が良いかもしれない。

 他方、福島の原発汚染難民は相当長期間の離村が予想される。地下水汚染、作物汚染がより深刻化し、現地も立ち入り禁止区域にされる恐れが強い。これを思えば、江戸時代の大名再配置の転封的事態も考慮せねばならないと思われる。

 そういう総合的な見通しの中で、被災地の自治体の長、住民は身の振りどころを判断せねばならないところに置かれているのではなかろうか。この際、残る者は残り、移住する者は移住し、行き来する者は行き来するという柔軟な対応策が望まれているように思われる。何も残るべきか残らざるべきかで深刻に悩むことはない。空家の管理は、それこそ警察、自衛隊、役人の仕事だろう。壮年自警団も組織すれば良い。

 自治体は最低限直ちに被災住民証明書を交付し、被災住民の移動の自由を保障せねばならない。被災住民は移転先の自治体に被災住民証明書を提出すれば生活給付金が受けられる仕組みを確立せねばならない。この動きが全くないのは政治災害である。

 政府は当然これを財政的援助する必要があろう。問題は、政府が被災地復興資金を創出するのなら、こういう必要なところに手を回し、利権の為の利権的事業に費やさないことである。そう云う意味でも有能な政府が今ほど望まれていることはない。膨大な補償が予想されるが、これも今後の電力事業の総体的な見直しと被災業者の再起に資するものでなければならない。経団連企業や外資系企業の餌食にされたら堪ったもんではない。

 根本認識として、迫りくる危機が本当なのか謬言なのかの見極めにある。この点では東電、保安院、学者の弁に待たざるを得ない。その際は、危機でもないのに危機を煽るのは不謹慎であると同じように、危機なのに危機ではないと云うのも輪をかけた政治犯罪と心得ねばならない。全ては、この見立てにかかっている。誰か論ぜよ。常に肝腎なところから論ぜよ。

 2011.3.27日 れんだいこ拝

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2011年3月24日 (木)

れんだいこの緊急提言「大疎開政策論」

 2011.3.11日午後2時46分頃、東北太平洋側の三陸沖を震源とする東日本一帯に巨大地震が発生した。気象庁は当初マグニチュード(M)8・8と発表したが、3.13日、9.0に修正した。地震は大津波を呼び、これにより岩手、宮城、福島の太平洋海岸域一帯が壊滅的な被害を受けた。

 加えて福島第1原発、第2原発が小爆発炎上し、大量の放射能汚染を漏洩排出したまま現在に至っている。死者推定3万人以上、被災難民推定50万人に上る。こたびの地震の名称に混乱があるが、「2011三陸巨大震災」と命名すべきだろう。この対応を廻って、民主党菅政権の采配が智愚ぶりを見せており、混乱と第二次被害を一層助長させている。これに堪らず、れんだいこが緊急提言「大疎開政策論」を発表しておくことにする。

 一般的に、平時には平時の、危機には危機の対応が要請されるのは云うまでもない。最初に確認せねばならないことは、こたびの非常事態に対する菅政権の采配が、このイロハについて今に至るまで識別できておらず、平時の法で万事処理しようとしているように思える拙さである。且つ、こたびの災害は史上初の原発事故が伴っているにも拘わらず、最悪の炉心溶融(メルト・ダウン)まで視野に入れた予見できる危機対応ができていない。

 原発復旧に躍起になるものの被災民の難民化、安全地帯への避難対策につき小手先対応に終始しており、徒に避難可能日数を無駄にしている。総じて、被災対策と復興政策につき的確な見通しを持っておらず、大丈夫空言による鎮静化のみに傾注しており、何を為すべきかの有事対応ができていない。

 加えて、この間強めてきた官邸主導政治が裏目に出ており、官邸の掛け声がなければ誰も何も処理できないと云う悪しき待機主義がはびこっている。従来、現場主導が先にあり、これを政府政治が支援することで難局を処してきた。菅派の政治はこれに逆行しており、中央集権化の挙句に中央が無能逆采配でお茶を濁し、ないしは采配サボタージュに明け暮れている。

 更に加えて、この間災害時に次第に常用化されて来ている自衛隊の活用が貢献面と同時に規制強化面を露わにしてきており、民間的な支援活動を掣肘している負の面が窺えることである。これらが相まって、救援活動におっとり刀事態が露呈している。菅政府は10万人規模の大動員政策、続いて米軍支援を予定しているようだが、費用対効果が釣り合っているように思えない。

 或る意味で、被災民50万人が棄民化させられようとしている。初動としての生存可能者の人命救助は無論のことであるが、同時に為すべきは被災民の生活救援活動である。こたびは広域災害の為に避難箇所が数千数に及んでいるが、逐一の確認と的確な補給活動につき明らかに遅れている。徐々に実態確認、支援活動が開始されつつあるが、一刻も争う緊急性にも拘わらず放置されたまま数日間を経緯するお粗末さを見せている。これが偶然ならまだしも、意図的故意な治安維持的観点からの救援法として悪しき事例にならないことを祈る。以上、素描しておく。

 さて、事件発生から13日を経過した今、何を為すべきかで緊急提言しておく。れんだいこは、タイトルに記した通り大疎開政策を提起したい。先の大東亜戦争の際に同様の政策が採られていたが、こたびは温泉郷の活用を指針させたい。現在、各地方団体単位によるが公営住宅の空き室斡旋が行われつつあるが、それはそれとして進めれば良かろうが、この際の有能的対応としては、全国の温泉郷の復興を兼ねた温泉郷疎開政策を主とするべしと考えている。

 衆知のように、温泉郷は日本の津々浦々に散在し癒しの場として利用されてきているが、このところの長期不況の波に洗われ、廃業旅館、空室の多い現業旅館が目立っている。この際、この社会資本を積極活用すべきだと提言したい。この動きは既に群馬県の水上温泉等を口火として全国的な民間の自主的な取り組みが始まっている。この動きを促進するのが政治の果たす役割であり、逆は逆であろう。

 菅政府は現在、仮設住宅の大々的な建設を指令しているが疑義がある。こたびの復興は大規模広域被災、原発被災と云う特殊性に照らして早急な再建は難しいと知るべきではなかろうか。今後、都市計画、区画整理事業を要するかなり長期的な再建計画と経緯が予見される。してみれば、被災民に対して、故郷に残りたい者、移動困難な者は現地対応し、残りの者は疎開させるべきではなかろうか。その順序も乳幼児を抱えた母子、続いて子供、青年、老人、壮年と云う風に順序立てるべきではなかろうか。

 その際、ライフライン基盤が既設してあり、且つ或る程度の規模で一括収容できる旅館の方が相応しいのではなかろうか。あらゆる観点から判ずるに、温泉郷の活用こそが最適と思う。間接的ながら村おこしにもなるのではなかろうか。医師や看護師派遣も、各都道府県単位で地元対応することができ、よりきめ細やかな支援と経費節減になるのではなかろうか。こう判ずれば、全国の温泉郷は自主的に、地方自治体の首長権限を取り付け行政の後押しを得ればなお良く、自治体の対応を待つまでもなく直ちに迎えのバスを送り込むべきである。掛け声だけでは何とも虚しい。

 それを思えば、菅政府の仮設住宅政策は無能の恐れが強い。まず仮設住宅の粗末さが注目される。1Kと2Kの2種が用意されているが、牛馬小屋に畳、ユニット式の風呂兼トイレ、テーブルのおけない流し台のみの台所、薄い壁仕切りを思うと、長期滞在できるものではない。この狭小廉価な仮設住宅建築に関わる総費用はライフラインの引き込み、調度品の調達等々を考えると案外バカ高いものになるものと思われる。誰が受注し施工するのか判明しないが、利権的な動きが考えられる。政府は、仮設住宅の受注先、総費用を開示しなければならない。

 日本列島全体から見て東北は随分と北方である。ここへ関係者を派遣する費用も疎かにできない。今現在、今後も含め派遣費用の総額を算定すれば、被災民を温泉郷に移転させ、そこへ要員を派遣した方が合理的実効的実践的ではなかろうか。そういう意味においては、各都道府県が押し進めている公営住宅の空き室供出対策より、温泉郷疎開政策の方が断然優れていると判断せざるを得ない。全国からの物資救援も、現地配送から引き続き温泉郷配送へ転ずればよい。現地配送でセンターに積まれながら配達されないと云う痴態は失せよう。

 問題は、この良案をなぜ取り組もうとしないのかにこそある。一つは、菅派政府の無能、一つは利権の介在、一つは棄民政策、一つは過剰管理政策のツケではなかろうかと愚考する。以上。

 大急ぎで提案したので中身が練れていないが、趣旨は十分書きあげたつもりである。この政策を真摯に行う政権が次の政権となるべしである。事態は一刻を争うと思う。福島原発も爆発事態が終息しているのか小康しているのか定かでない。いずれにしても放射能汚染問題がますます深刻化するはずであり、疎開政策こそが望ましいと信ずる。

 万一、メルトダウンしたとして、天文学的な被災が再発した場合、菅政権の政治責任は言語に尽くし難い。詫びて済む話でもない。最悪の事態を想定し最良の案で危機対応すべきではなかろうか。恐らく復興資金は100兆円を軽く越すと思われる。問題は、粗脳政権に采配させると、この100兆円も大幅に無駄に使われる可能性が高いと云うことである。ここは何とか田中角栄的な有能国士に登場して貰い、総力で国難に当たるべしである。

 2011.3.24日 れんだいこ拝

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2011年3月17日 (木)

「天皇陛下の三陸巨大震災に寄せる御言葉」考

2011(平成23).3.16日、天皇陛下が、三陸巨大震災の被災者や国民に向けたビデオメッセージを発表した。天皇陛下がビデオで国民に呼びかけるのは初めて。御言葉の全文は次の通り。

 この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9・0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。

 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。

 自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。

 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者とともにあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。

 被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。

 要旨を確認しておく。1・一人でも多くの人の救出、2・事態の更なる悪化の回避、3・食糧、飲料水、燃料などの調達による救済を要請している。次に、被災者の自力自活の姿勢を賛辞している。次に、自衛隊、警察、消防、海上保安庁等々の公務的挺身活動、諸外国の救援隊、国内のボランティア組織の労を謝辞している。次に、世界各国の元首からの見舞い電報に御礼している。最後に、日本国民の一億一心の復興を呼びかけている。

 平成天皇のこの御言葉は素晴しい。この文章を平成天皇自身が書き上げたのか、ライターがいるのかどうかは分からない。しかし、一党一派に偏せず全体を満遍なく見渡し、それぞれの要点を明確にし、且つどういう方向に舵取りして行くべきか指針している点で申し分のないメッセージとなっている。我々は、この御言葉を噛みしめるべきである。尊く拝するべきであろう。


 れんだいこがかって属した左派者の中には、天皇と云うだけで打倒対象、批判対象にしている者も少なくなかろう。しかし、れんだいこが反論しておく。天皇制は既成の左派理論では解けない。日本の歴史が育んだン千年来の制度であり、歴史財産であり、護持すべきものである。特に「上が下を思い、下が上を思う王朝楽土」を志向している点で出色のものとなっている。
 諸外国の諸王朝にして、ここまで「上が下を思い、下が上を思う王朝楽土」を志向している例はないか少ないのではなかろうか。それらの王朝は、ネオシオニズム式西欧革命の中で次々と打倒され共和政治に移行した。或いはネオシオニズム勢力に籠絡され変調利用されて今日に至っている。その時勢下で、奇しくも日本の天皇制だけが辛くも維持されて今日に至っていると考えるべきではなかろうか。
 今その皇室が危機に瀕しているいるのは衆知の通りである。これを安易に慶賀する者はネオシオニズムに籠絡された徒輩に過ぎない。そう考えるべきである。これを論証する機会は別稿に譲る。

 興味深いことは、平成天皇は、明治天皇から始まる近代天皇制系譜の中で大正天皇に近いことである。世上では明治天皇、昭和天皇の評価が高く、それぞれ誕生日が祝日化されている。それに比して大正天皇は受難の天皇であり、大正天皇だけ記念祝日化されていない。それは何故か。
 大正天皇は皇位継承後数年にして押し込められた。その理由は、当時のネオシオニズム勢力の仕掛ける好戦的な国家主義化に抵抗したからであった。それ故に脳病を理由に幽閉された。事実は、大正天皇は英明であり、英明である故にネオシオニズム勢力と確執した。これが真相である。この真相を隠して脳病論を吹聴したのが左右両翼の理論家どもであった。この虚構を剥がさねばならない。

 れんだいこが見るところ、平成天皇は、この大正天皇に親和している。親和とは最も近いと云う意味である。その能力が大正天皇に及ぶかどうかは別の問題であるが、大正天皇が目指した天皇の在り方、皇室の在り方を継承しているように思える。それは象徴天皇制であり、たまたま戦後憲法の規定に合うものとなっている。天皇の国事行為がより少なくなれば、より理想に近いだろう。
 そういう意味で、象徴天皇制は平成天皇をして初めて具現していると窺うべきだろう。日本悠久の歴史における皇室の主流は、この象徴天皇制である。してみれば、平成天皇の御代になって初めて本来の天皇制を確立している感がある。ここへ来て皇室の雲行きが怪しいとすれば、せっかく具現化した象徴天皇制が再度危機を迎えていると云うことになる。かく認識したいと思う。これを論証する機会は別稿に譲る。

 日本の天皇制が今後どのように推移するのかは分からない。願うらくは、こたびの天皇談話のように国と人民に温かい眼差しを見せる適宜なメッセージを送り得る主体として存続して欲しい。れんだいこは、かくみなし受け止め、一億一心の呼びかけに仲間入りしたいと思う。

 2011.3.17日 れんだいこ拝

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2011年3月15日 (火)

三陸巨大震災

 三陸巨大震災

2011.3.11日 この日を忘れまい

1000年に一度の大地震と津波

3万人が呑みこまれた

新たな災害が加わった

経験のない原発爆発

目に見えない汚染の恐怖

被災難民50万

埋まっている人がまだたくさんいる

仏よ成仏せよ

黙祷

命からがら助かった者よ暖を取れ

寒いだろう せつないだろう

生き抜けろ

言葉で食糧で絆で暖をとれ

みんな見守っている

どういう助け合いができるのか

苦吟している

起ちあがっている

時間との勝負だ

難民よ災い転じて福となせ

知恵を出せ

起ちあがれ

日本の新たな再建がここから始まる

世界に微笑みかけよう

力強く生きてますと

支援に感謝しよう

お返ししますと

2011.3.11日 この日を忘れまい

 

 即興歌です。苦しいときには歌が必要です。伴奏つけて歌ってください。歌詞はどんどん代えてください。歌い繋いでください。著作権はありません。

 2011.3.15日 れんだいこ拝

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2011年3月13日 (日)

原発政策の罠考

 れんだいこが原発問題になぜ関心を持つのか。一つは、「ウソで固めた安全神話」を白日の下に晒さねばならないからである。原子力放射線はいわゆる悪魔である。この悪魔は、降灰と海洋汚染と地下汚染の三種からなる。二種で分けるとすれば表出汚染と浸透汚染という仕分けになろう。いずれも非常に危険なものであり、人体は無論生態系全体の環境に取り返しのつかない履歴を残し蝕み続けることになる。

 中でも最大の問題は、核最終廃棄物処理方法の杜撰さである。現在のところ地下に埋蔵する以外に方法がなく、缶詰にしたものを地中深くに格納するという原始的やり方で処理したつもりになっている。しかし何事も耐用年数がある。いずれ腐食し、更には地震による地殻変動に見舞われたらどうなるのか。原発推進科学者は、これに対する回答を持っていない。この状態のところへ、日々核最終廃棄物が量産されており、処分場候補地の選定が急がれている。こういう状態にある。

 この杜撰さが核問題の最大のポイントであろう。核最終廃棄物に対して科学処理を持たないままでの原発推進は、愚行というより取り返しのつかない犯罪であり、断じて許してはならない。にも拘らず、世界史的に見て山紫水明の稀有な国としての誉れを持つ日本は核先進国という名の核奴隷国にされており、予見される近未来、地下水汚染が必至の状態に至っている。

 世間の関心は専らこの方面にある。それはそれで構わない。この方面の研究も必要であり、れんだいこには知識がないので、その道の識者、専門家に任せたい。学ばせていただくばかりである。れんだいこが関心を持つのはもう一つの批判である。原発政策が何ゆえに如何にもたらされたのかを疑惑せねばならない。思うに、原発は、ネオシオニズムの産みの親である現代パリサイ派が食らいついた悪魔主義科学の産物であり、原発推進政策は彼らの拝金蓄財の為せる技であり、低劣な知性を証している。のみならずひょっとして彼らの世界支配政策の道具として用意周到に利用されている恐れがあるのではなかろうか。れんだいこはそう危ぶむ。

 今日地球環境破壊が世界的テーマになりつつあるが、この事態は如何にしてもたらされたのか。決して偶然であったり、諸科学の発達の必然的行程ではあるまい。世界の諸民族は或る宗派民族を除いて大概のところ地球環境との共生のうちに生息してきた。科学や産業もこの叡智の中で営まれてきた。特に我が日本はこれに長けている民族である。発酵文明と呼ばれるが、それは自然素材を上手に活かして調理するところに特徴がある。それが停滞性のものであれ漸進的なものであれ、世界の諸民族は概ね万事を自然環境と調和させつつ歴史を経ていた。考えてみれば、それで何らおかしくない。そうあるべきではなかったか。

 ところが、かの宗派民族の偏執教義を更に先鋭化させ、偏狭さで塗り固めている現代パリサイ派が歴史に公然登場し始めてより、近代科学の成果を彼ら流の際限のない自然支配に応用し始めてより、進歩発展の名の下に公害を意に介さない無分別な工業に手を染め、その悪魔主義と営利主義が相乗して乱開発となり、遂に地球環境破壊まで辿り着いており、今日、地球崩壊カウントが数えられる事態にまで至っているのではないのか。

 地球環境破壊は、自然と共生せず支配することしか知らない現代パリサイ派主義的科学とその資本主義がもたらしたものであり、彼らは未だにこの道を驀進中である。彼らの思惟は、地球環境に為すすべを持たない。なぜなら、拝金蓄財を全ての価値に優先させる作法を維持する限り、地球環境対策はそれをブレーキさせるものでしかないからである。地球環境対策に向かえば、忽ち彼らの根本テーゼが崩れる。イデオロギッシュな彼らは、最終的に拝金蓄財の道を選ぶ。そういう訳で、彼らは今日もゴールド飽くことなくを求めて世界を渉猟し続けている。

 その昔、イエスが、神の御言葉をもって対峙し激しく論難したことはゆえないことではなかった。世界は明らかに、イエスが危惧した通りにサタニズムに犯されつつある。賢明なる諸民族は一刻も早くこの仕掛けに気づき、このワナから抜け出す方法を編み出さねばならない。

 そういう目で見れば、れんだいこには、日本に於ける各地への原子力発電所の配置が米軍基地の配置とダブって映る。どうやら良からぬ目的で意図的に原発が導入された節が見えてくる。今や我が日本は原発奴隷国家に成り下がっている。こうなると、大和民族は外敵にやられる危険よりも、原発で崩壊させられる可能性が高いのではないのか。

 政治が真っ当なら、北朝鮮のテポドンに狂騒するぐらいなら、それ以上に危険性の高い原発問題に対してはもっと大騒ぎして万全の策を講じるべきであろう。しかるに、その昔にネオシオニズムの傭兵的立ち回りをすることで出世権力を得る秘密契約を結んだタカ派系政治家は、今もなお原発推進旗振り役として忠勤している。正力-中曽根-ナベツネラインがこの水路を創った。以降日本列島にウラン網を仕掛け始め、今や十重二十重に囲もうとしている。これが許されることだろうか。

 原発問題は、かような観点からも検証されねばならないのではなかろうか。先の柏崎原発事故から学ぶべきは、目先の対策を廻る鶴首会議ではない。我が国のエネルギー政策の根本的な問い直しを諮問すべきであり、そのマニュフェストを作成することである。原発と一刻も早く決別せよ。これがれんだいこ提言となる。

 こう書きあげてそのままにしていたが、2011.3.11日、東北東域巨大震災が発生し、東京電力の福島第1原発、第2原発がもろに被害を受け、福島第1原発1号機が爆発、第1原発3号機が予断を許さない状況にある。日本原発史上、最も危ぶまれていたメルトダウン事態に突入しつつある。

 よしんば爆発を防げても、この間排出し今後排出する放射能の汚染は日本及びその人民大衆に甚大な被害を与えることは間違いない。日本は第二の敗戦局面に入ることを覚悟せねばなるまい。この事態に、小泉以来の名うてのシオニスタンである菅政権が国政を与っていたいたことの偶然と必然は別途精査を要するであろう。

 2007.7.23日、2011.3.13日再編集 れんだいこ拝

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2011年3月 3日 (木)

馬弓良彦氏の「戦場の田中角栄」を評す

 元田中角栄番記者の馬弓良彦氏が、「戦場の田中角栄」(毎日ワンズ、2011.1.14日初版)を著わした。先の同じく角栄番記者であった増山榮太郎氏の「角栄伝説ー番記者が見た光と影」(出窓社、2005.10.20日初版)に遅れて5年半後に続いたことになる。本書を仮に「馬弓本」と命名したい。当時の角栄番記者の回想録をもっともっと著わして欲しいと思う。既に相当数鬼籍の者も居るだろう。健在の人士は、在りし日の角栄を歴史に遺しておくべきである。どこで役立つやら分からない。

 今や虚像を膨らました上での角栄批判の時代が終わり、在りし日の真実の角栄像を確認し、角栄を再評価すべきである。せっかくの政権交代したものの相変わらずの政治のテイタラクを見せつけられている今、それ故に余計に角栄が懐かしい。

角栄の時代の日本政治には躍動感があった。対米従属ながら次第に自律せしめんとする「あすの日本」への胎動があった。その趨勢の総帥であった角栄が金脈批判、それに続くロッキード事件で政治活動を掣肘されるや、反作用として対米盲従派が政界を牛耳ることになり今日に至っている。この政治事象をそろそろ客観化すべきではなかろうか。

 「増山本」の評の時にも述べたが、角栄についてはこれまであまたの著作が為されている。角栄ほどその見解が批判と擁護に分かれる人物は珍しい。れんだいこはおおかたの角栄本に目を通しているが、読めば観点が余計に歪んでくる本と為になる本がある。「増山本」は当然後者の有益本である。「馬弓本」も然りである。これがれんだいこの総評となる。

 馬弓氏は、増山氏と同じく早大文学部卒である。増山氏が時事通信社の政治記者であったのに比して、馬弓氏は毎日新聞社の政治記者である。表紙カバーのプロフィールに「60年から政治部に所属し、自民党各政権を現場で取材。田中内閣発足時から番記者を担当し、その間『人間田中角栄』を著す。その後、編集局編集委員などを経て、取締役に就く」とある。

 これによると増山氏の後輩のようである。れんだいこは更に一回り後輩の法学部卒である。早稲田には何でこう角栄シンパが生まれるのだろう。思うに、在野精神の為せる技ではなかろうか。権力におもねずの精神と頭脳が、角栄をそれとして評価し得るのではなかろうか。

 増山氏は、添え書きで、「本書は、戦後政治の結晶として『総中流社会』をもたらし、巨悪論によって追われた田中政治を再検討・再評価するものです」、「私自身、長年の政治記者生活の総決算のつもりです」と記している。馬弓氏は、プロローグで次のように語っている。「戦後政界の風雲児である田中角栄元首相の生涯を描き、その政治家としての再評価を試みたいと思っている。(中略)テレビをはじめとするメディアには番組作りや企画に、政治家に対する相当な先入観が存在していて、むしろ虚実の距離は膨らむきらいがある。なかでも挙悪と決めつけられた田中角栄の実像と虚像のギャップは、とくに大きい。その乖離は、わが国政党政治の裏地の、見逃せない綻(ほころ)びである。政治家田中角栄を是とするか否とするかとは別の次元で、誰かがそれを繕うべきであろう。かって私が公にした『人間田中角栄』に、知り得て語らなかった真相のすべてを追加する必要があると思う」。

 「増山本」は既成の角栄本と重複しないよう随所に有益な新証言、逸話を持ち込み、角栄研究本の新ページを切り開いたが、「馬弓本」これまた同様の知見を披露している。特に、幼年期、青年期、兵役期の角栄に他本に見られない光を当てており、流布されている証言、逸話に対しても真意を窺い、政治能力の検証に於いても吟味を深くしている。

 著名は「戦場の田中角栄」とあるが、れんだいこなら「角栄ラブソディー」とでも命名したい。このネーミングの方が相応しい角栄愛歌論を開陳している。(ラブソディーのブはプのようである。どちらでも良いが、こういう言葉があるのかどうか知らないがラブと表記したい)

 増山氏は、あとがきで、「おそらく田中氏のような天才政治家はこれまではもちろんのこと、これから二度と現われることはあるまいというのが、本書を書き終わっての私の結論である」と記している。「馬弓本」は次のように結んでいる。「私が見た田中角栄は、断固とした、そしていささか不逞の表情を見せる、得がたい闘士であった」。

 見事なメッセージである。「増山本」の評の際に記したが繰り返しておく。「思えば、角栄と身近に接してその息遣いさえ知っている者ほど好意的且つ信奉的であり、角栄の人となりが偲ばれる。佐藤昭子女史の『私の田中角栄日記』、辻和子女史の『熱情ー田中角栄をとりこにした芸者』は、角栄の裏表のない生き様をいずれも称えている。秘書早坂茂三は、角栄政治の何たるかを縷々語り続け、噛めばかむほど味があった好人物ぶりと政治能力の高さを評している」。

 ところで、「増山本」の時にも指摘したが、願うらくは、「世界で最も成功した社会主義国ニッポン」を底上げした要職時代の角栄の逸話をもう少し詳しく聞かせて欲しかった。今や、この水準での角栄論を為さねば新たなページは開けないのではなかろうか。「馬弓本」は、それ以前の角栄論として一つのピリオッドを打ったのではなかろうか。そういう気がする。

 「馬弓本」の「増山本」に対する前進として、「増山本」がロッキード事件に拘わらず角栄の政治能力を称揚するスタンスであったのに比して、「馬弓本」はロッキード事件の冤罪性を確固とさせているところにある。これをどうしても主張したかったようで最後にわざわざエビローグの章を設け、首相権限論を法理解剖しながら「田中角栄無罪論、常識外れのロッキード裁判、ロッキード事件の謎、闇将軍の逆襲、架空疑獄の真相」と題して検察の訴追理論の空疎性を難詰している。今後は、この「馬弓本」の観点が下敷きにされるべきであろう。

 欲を言えば、角栄は単に冤罪であったのではなく、児玉-中曽根系の収賄を角栄に濡れ衣させられた節がある。今後は更にここを突いて行くべきではなかろうか。児玉-中曽根系のうち児玉は始末された。ならば無傷で守られた中曽根とは何者ぞと云うことになろう。この中曽根は後のグラマン事件、リクルート事件でも逃げ延び、大将軍の名声を博して今日に至っている。誰がこれを奇異に思わないだろうか。ロッキード事件の闇の本筋はここにある。分かり易く云えば、悪玉が守られ善玉が成敗されるこの不正を許せようかと云うことになる。

 れんだいこは、「増山本」の評の際に次のように記した。「角栄は不幸なことにロッキード事件で虎バサミされ、以降その政治能力が羽交い絞め封殺された。右派と左派が奇しくも連衡し、日本政界から実に惜しい人物を訴追していった。今なおしたり顔して角栄批判に興じている手合いを見るが、食傷である」、「小泉名宰相論に興じるメディアの嬌態下の今、『増山本』の素顔の角栄論は貴重である。他の角栄番記者よ、今からでも遅くないそれぞれの実録角栄像を語り伝えて欲しい。『角栄は日本政治史上孤高の座を占めている』と判ずるれんだいこは、このことを強く願う」。この言は、今なお通用する。

 「馬弓本」の「増山本」に対する後退局面も指摘しておきたい。「増山本」は角栄政治の左派性に光を当てていた。れんだいこは次のように評している。「『角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明』はこれからもっとも急がれるところであり、ひょっとしてロッキード事件勃発の最深部の真相かも知れない。『増山本』は、ゴルバチョフ談話『世界で最も成功した社会主義国ニッポン』を紹介しながら、この方面への関心を誘っているところに良質さを見せている。この観点は、増山氏が実際に接していた当時には見えずして、今になって遠望して気づかされた角栄観なのではあるまいか」。この方面での「馬弓本」の記述は弱い。これは、馬弓氏の政治スタンスから来る限界であろう。

 実は、れんだいこの角栄評は、これからの角栄論の課題である「角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明」に於いて、「角栄政治の本質左派性」解析を既にスルーしている。スルーの意味は、「角栄政治の本質左派性」解析不要と云うのではない。「角栄政治の本質左派性」解析を経て、更に次の「角栄政治の土着左派性の解明」に向かっていると云うことである。従って、「角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明」を正確に云いなおせば、「角栄政治の土着左派性の解明を経ての角栄政治の本質左派性の解明」と云うことになる。こういう段階に来ている。

 この段階の角栄論は未だないので、れんだいこの独壇場になろう。「増山本」、「馬弓本」、「れんだいこ本」の三冊が揃って角栄復権三部作が完結するのではなかろうか。れんだいこは、そういう使命感を深くした。そういう意味で、「馬弓本」に御礼申し上げておく。以上、簡単ながら頼まれもせぬ「馬弓本」批評を献じさせていただく。今日は日がらが良いので、書きあげた今このままブログ投稿しておく。

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