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2011年4月28日 (木)

山一證券自主廃業経緯考その1

 山一証券の自主廃業経緯を確認しておく。情報的意味で「ウィキペディア山一証券」、「海を往く者」の「山一証券は自主廃業ではなく潰すべきだった」(2011/03/19)、「誰が会社を潰したか」その他を参照する。但し、経緯の分析判断はれんだいこが行うことにする。

 時は、橋本龍太郎政権下の動きである。ちなみに橋本首相の在任期間は1996.1.11日~1998.7.30日である。前任は村山富市であり、在任期間は1994.6.30~1996.1.11日である。その前任は羽田孜で、在任期間は1994.4.28日~同年6.30日である。その前任は細川護煕で、在任期間は1993.8.9日~1994.4.28日である。その前任は宮澤喜一で、在任期間は1991.11.5日~1993.8.9日である。

 やっと、ここまで辿り着いた。ここまで辿り着く必要があったのは、この宮沢首相時代に金融再編のビッグバーン政策が敷かれたからである。これにより日本の金融界は戦後営々と蓄えた富をハゲタカファンドにお供えすることになった。山一証券解体は、この政策によりもたらされた国策見せしめ政策であったと思われる。この顛末を確認しておく。

 伏線となる話を確認しておく。山一証券(以下、単に「山一」と記す)は、1991.12月と1992.1月の2回、「飛ばし」について大蔵省に相談している。当時の松野允彦証券局長が簿外で処理するように指示したという疑惑がある。これについて、1998.2.4日の衆院大蔵委員会に参考人として出席した松野は、「(山一の)三木さんから飛ばしの相談を受けた」と認めた。飛ばしの処理についても、「仲介先として国内企業に限るということではない」と助言したことを認めたが、「違法な指示はしていない」と主張した。

 これを評して「監督官庁の不透明な行政指導」との評が為されているが、これが事実なら「監督官庁が指導責任を負うべき行政指導」だったことになり只では済まされまい。独り山一証券のみではなく大蔵省の連帯責任問題が問われるべきだろう。

 1995.11月より翌年2月にかけて、旧四大証券(山一・日興・野村・大和)の一角に位置していた山一が、旧大蔵省大臣官房金融検査部及び証券取引等監視委員会による定例検査が行われ、「既に再建計画は機能しない状況にあると認められる。したがって、このような厳しい状況を踏まえ、今後の対応方針を早急に検討する必要がある」と宣告された。

 この頃より、大規模な金融制度改革である金融ビッグバン政策が金融界を席巻して行くことになる。(れんだいこ注)金融ビッグバン政策とは要するに国際金融資本即ち外資のハゲタカファンドによる日本の金融界(銀行、証券、保険)の再編支配の為のご都合主義的理論であり、大蔵省行政当局がこれに率先して旗振りをしただけのことに過ぎない。これにより国粋主義的傾向を持つ山一が解体ターゲットにされたと窺うべきではなかろうか。軍事売国奴、原発売国奴、医薬売国奴等々に続く金融売国奴の荒技だったと思われる。

 1996.12月、山一の当時の首脳陣(会長・行平次雄、社長・三木淳夫と五人の副社長、一部の役員と監査役)が東京都内のホテルニューオータニに人目を避けるように集まり、山一ファイナンスの不良債権
償却の具体的方法等について話し合った。席上、山一ファイナンス㈱への1997(平成9).3.31日までの1500億円融資支援が決定された。日興証券が「系列ノンバンク2475億円の支援金を拠出する」と発表した翌日のことであった。

 1997.3.25日、野村證券に対して東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。容疑は総会屋小池隆一への利益供与であった。(れんだいこ注)その後の経緯から見て、野村證券、日興証券、大和証券は外資系として存続させ、伊勢神宮の「一番神楽」即ち氏子のトップの座として国粋主義的な社歴を濃厚にしている山一は見せしめ的に切り捨てると云う判断に立っていたと思われる。従って、東京地検による野村證券揺さぶりは、そのシナリオに基づく「正義吹聴」型国策捜査だったと思われる。

 この間、山一の業績回復は悪化し、マスコミにより「山一の飛ばし疑惑」が報道されるなど逆風が一段と強まった。既に、コスモ証券が730億円の飛ばしに伴う損失を出して大和銀行に救済買収され、翌1994.3月には、勧角証券が同じく飛ばし絡みで五百億円の損失を抱えていたことが発覚し、第一勧業銀行から資本面の支援を受けていた。「山一の飛ばし疑惑」を初めて報じたのが「或る経済誌」で1992年。
以来、山一に巨額の飛ばしがあるといううわさが繰り返し市場に流れていた。

 1993.2月、英経済誌「エコノミスト」が「山一に九千億 山一破綻とは何だったのか 円の飛ばし」と報道し、「山一の飛ばし疑惑」は海外の市場にも広く知られるようになっていた。「山一の飛ばし疑惑」がマスコミに報道されるたびにその疑念は増幅された。(れんだいこ注)マスコミの企業批判報道には警戒せねばならない。殆どの場合に於いて、良からぬ企みによる仕掛けが裏に入っている場合が多い。これは、政界の目下の小沢どん叩きも然りである。

 「誰が会社を潰したか」は次のように記している。

 「山一の業績不振は大手四社の中で突出しており、九二年三月期には五百三十二億円、九三年三月期には四百四十六億円という巨額の最終損失を計上していた。ここでコスモや勧角のように飛ばし絡みの巨額損失が表面化すれば、会社の存続にかかわる事態に発展するのは間違いない。山一に対する証券記者の取材は、常にこの「飛ばし疑惑」を意識して進めなければならなかった」。

 4.15日、山一は記念すべき創業百年を迎えた。倒産前の士気の上がらない記念日となった。4.28日、山一の1997.3月期決算が発表された。1500億円を特別損失に計上した結果、期末の株主資本は4434億円に急減し、1647億6300万円という過去最大の当期損失となった。財務的な余力を失った。

 6月、大蔵省は、証券取引審議会(蔵相の諮問機関)の総合部会における最終報告で、手数料の自由化と免許制から登録制への移行を打ち出した。市場メカニズムを基礎とした事後行政への180度の転換を意味していた。(れんだいこ注)これにより外資系金融が日本市場へ参入する舞台が整えられ、日本金融界の整理統合の名による食い散らし、収奪、傘下化のハゲタカ作戦の号砲が鳴った。

 7.30日、山一本社に東京地検の強制捜査が入り逮捕者を出した。大手リース会社「昭和リース」への損失補填に絡んで当時の社長・三木、副社長・白井が再逮捕された。同日発表した1997.9月中間決算は、四大証券のなかで唯一の経常損益が赤字になった(経常利益はわずかに15億円)。山一の収益環境は日に日に厳しくなり抜本的な経営再建策が急務となった。

 このような状況下で会長と社長の交代が行われた。8.11日、行平・三木をはじめとする取締役11名が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格した。山一には東大、一橋大閥が形成されていたが、野沢氏は法政大学出身のいわば叩き上げであった。(れんだいこ注)その後の経緯から見て、倒産前提の汚れ役引き受けとして抜擢させられたことを意味する。

 9.24日、前社長の三木が利益供与問題で逮捕された。10月初旬、「飛ばし」による簿外債務として2600億円あることが判明させられた。山一はメインバンクである富士銀からの支援と外国金融機関との資本提携に最後の一縷の望みを託した。10.6日、常務の渡辺と前副社長の沓澤が富士銀行を訪れ、再建計画を説明し支援を求めた。10.23日、山一の中間決算発表日となり、記者会見で27億円の経常赤字の発表と利益供与事件拡大を謝罪させられた。当日、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。

 11.3日、三洋証券が上場証券会社として初めて会社更生法の適用を申請し倒産した。11.6日、米格付け会社のムーディーズ・インベスターズ・サービスが、「投資適格級」すれすれだった山一証券債の格付けを「引き下げの方向で検討」と発表した。

11.7日、山一証券株が一時、159円まで急落した。翌週、山一側が約2900万株買い越したが売りの勢いには勝てなかった。その後も株価は下げ止まらず、14日には一時100円を割り込んだ。山一はこうして次第に追い詰められて行った。

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