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2011年4月

2011年4月28日 (木)

山一證券自主廃業経緯考その2

 1997.11.11日、富士銀行から最終回答があり、大型追加融資の不能の云い渡しに加え、過去の無担保融資分の担保差し入れが迫られた。

11.14日、富士銀行は山一を見限る最終通告をした。山一は必死で外資提携先を探していたが、最有力候補のクレディ・スイスとの交渉は延々として進まなかった。欧州の金融機関(コメルツ銀行とING)に最後の望みを託したが叶わず万策尽きた。11.22日からの三連休明けの資金繰りがピンチになっていた。株価が急落し始めた。

 同日夕方、野澤社長が大蔵省を訪問し、約2600億円の「含み損」が存在することを報告し資金繰りに窮していることを伝えた。長野厖士証券局長は,「もっと早く来ると思っていました。話はよく分かりました。三洋証券とは違いますのでバックアップしましょう」と答えたとされている。「11月14日金曜日。野澤は、大蔵省証券局長の長野に対して簿外損失の存在を初めて説明した」ともある。野澤社長の大蔵省訪問と同じ時間に五月女会長らは日銀を訪問し、大蔵省への報告と同じ内容を伝えた。

 11.15日(土)、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一証券の藤橋企画室長から説明を受けた。この日、山一が主幹事を務め最後まで資金供給を行っていた北海道拓殖銀行が経営破綻し、北洋銀行への営業譲渡を発表した。

 11.16日、藤橋常務と経理部長らが大蔵省に呼ばれ、小手川証券業務課長(現IMF理事)に含み損の概要、会社再建策、支援先の状況、外資との提携などについて説明をした。小手川は絶望感を持ち、長野局長に「今週中にも決断が必要です」と述べたとされる。

 11.17日、市場が次に狙うターゲットが山一証券であることが明らかになっていた。11.19日、野沢社長が再度証券局長を訪問した。この時、長野氏の態度は豹変しており、「感情を交えずに淡々と言います。検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」と突き放した。山一に対して、「会社更生法の手続きを踏むには時間が足りない」と伝え、更正法以外の処理の最終決断を促した(更生法では顧客資産の保全処置が取れないため、デフォルトを引き起こしてしまう)。

 その夜、証券局幹部ら10名前後が局長室に集合し、20、21日は株式市場が開いているため連休に入ってから発表することを申し合わせた。

 11.22日(土)午前3時頃、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」という電子ニュース速報を流した。午前8時、山一証券は急遽、臨時取締役会を開催した。この日の午後10時、大蔵省証券局長の長野が記者会見し、山一証券に2千億円を上回る簿外債務の存在を明らかにした。

 11.23日、断続的に取締役会を開いた。同日夜、野沢社長が大蔵省に証券取引法34条に規定に基づき「明日、(自主廃業を)決めます」と伝えた。

 11.24日(月)午前10時半、蔵相の三塚博と日銀総裁の松下康雄が相次いで記者会見し、日銀が山一証券に無担保・無制限の特別融資(日銀特融)を実施するなど顧客資産保護に万全の体制をとることを明らかにした。顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。(れんだいこ注)同じ日銀特融でも角栄の時の日銀特融と使われ方が真反対で、角栄の時は山一救済、こたびは山一潰しであったことになる。

 振替休日で休業日のこの日、山一証券の運命の日となった。午前6時、山一証券の本社(東京・中央区)で臨時取締役会が開かれた。野沢社長が、「自主廃業を決めざる得ない。決議してほしい」と切り出し、自主廃業に向けた営業停止を正式に決議した。この瞬間、創業百年の歴史を誇り、従業員7千5百人、顧客からの預り資産24兆円に達する四大証券会社のひとつであった山一証券の消滅が決まった。負債総額は3兆円を超え、事実上、戦後最大の倒産となった。

 午前11時半、野沢社長、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見に臨み自主廃業を発表した。弁護士の相沢が、山一証券が会社更生法の適用申請を断念した理由について、「山一は規模が大きく国際的取引も複雑にある。信用秩序維持や顧客資産保護に不可欠な日銀特融を会社更生法申請会社が受けた例がない」ためと説明した。会見最後に野沢は突然、マイクを持って立ち上がり、臆面もなく涙を流しながら次のように締めくくった。

 「私達が悪いんです。善良で能力ある社員達に申し訳なく思います。一人でも再就職できるよう、みなさんも支援してください」。

 「社長号泣」の様子は当時のマスコミによって大々的に報じられた。山一の破綻によって多数の従業員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害を及ぼした。

 11.27日、参院予算委員会に参考人として呼ばれた山一証券の行平氏が、巨額な簿外債務の発生経緯や実態を明らかにした。損失を隠したことについて「出てしまうと会社が存在しないため、右を取るか、左を取るかということになり、結局は山一証券の信用を保ち、収益を上げて償却できると判断した」と語った。


 12.13日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。1998.3.26日、レポート「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-」がまとめられ、4.16日、一般に公表された。

 1998.3.4日、行平と三木の元社長並びに元財務本部長の3名が、最大2720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに粉飾決算の容疑がついていた。(ちなみに2000.3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている)

 山一は自主廃業発表以降事務処理を進めたが、1998.6月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換した。1999.6.2日、山一は東京地方裁判所より破産を宣告された。

 山一本社所属の従業員や店舗の大多数は米国の大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。

 破産宣告後の手続は手間取ったが、最終的に2005.1.26日の債権者集会をもって終了した。同年2月、破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年余が経過しての終焉であった。

 「最後の山一社長」としての使命を全うした野沢氏は、名古屋支店長時代に上場を勧めた事があるコンピュータ周辺機器メーカーのハギワラシスコムの社長・河瀬翔之に要請されて同社の子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任した。

 以上が山一証券消滅の経緯である。これが自然な経済現象、近代的経営転換期特有の痛みと思う者は幸せである。思わない者は、我が社会に仕掛けられている諸事万事における不正な企みを覗くべきである。

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山一證券自主廃業経緯考その1

 山一証券の自主廃業経緯を確認しておく。情報的意味で「ウィキペディア山一証券」、「海を往く者」の「山一証券は自主廃業ではなく潰すべきだった」(2011/03/19)、「誰が会社を潰したか」その他を参照する。但し、経緯の分析判断はれんだいこが行うことにする。

 時は、橋本龍太郎政権下の動きである。ちなみに橋本首相の在任期間は1996.1.11日~1998.7.30日である。前任は村山富市であり、在任期間は1994.6.30~1996.1.11日である。その前任は羽田孜で、在任期間は1994.4.28日~同年6.30日である。その前任は細川護煕で、在任期間は1993.8.9日~1994.4.28日である。その前任は宮澤喜一で、在任期間は1991.11.5日~1993.8.9日である。

 やっと、ここまで辿り着いた。ここまで辿り着く必要があったのは、この宮沢首相時代に金融再編のビッグバーン政策が敷かれたからである。これにより日本の金融界は戦後営々と蓄えた富をハゲタカファンドにお供えすることになった。山一証券解体は、この政策によりもたらされた国策見せしめ政策であったと思われる。この顛末を確認しておく。

 伏線となる話を確認しておく。山一証券(以下、単に「山一」と記す)は、1991.12月と1992.1月の2回、「飛ばし」について大蔵省に相談している。当時の松野允彦証券局長が簿外で処理するように指示したという疑惑がある。これについて、1998.2.4日の衆院大蔵委員会に参考人として出席した松野は、「(山一の)三木さんから飛ばしの相談を受けた」と認めた。飛ばしの処理についても、「仲介先として国内企業に限るということではない」と助言したことを認めたが、「違法な指示はしていない」と主張した。

 これを評して「監督官庁の不透明な行政指導」との評が為されているが、これが事実なら「監督官庁が指導責任を負うべき行政指導」だったことになり只では済まされまい。独り山一証券のみではなく大蔵省の連帯責任問題が問われるべきだろう。

 1995.11月より翌年2月にかけて、旧四大証券(山一・日興・野村・大和)の一角に位置していた山一が、旧大蔵省大臣官房金融検査部及び証券取引等監視委員会による定例検査が行われ、「既に再建計画は機能しない状況にあると認められる。したがって、このような厳しい状況を踏まえ、今後の対応方針を早急に検討する必要がある」と宣告された。

 この頃より、大規模な金融制度改革である金融ビッグバン政策が金融界を席巻して行くことになる。(れんだいこ注)金融ビッグバン政策とは要するに国際金融資本即ち外資のハゲタカファンドによる日本の金融界(銀行、証券、保険)の再編支配の為のご都合主義的理論であり、大蔵省行政当局がこれに率先して旗振りをしただけのことに過ぎない。これにより国粋主義的傾向を持つ山一が解体ターゲットにされたと窺うべきではなかろうか。軍事売国奴、原発売国奴、医薬売国奴等々に続く金融売国奴の荒技だったと思われる。

 1996.12月、山一の当時の首脳陣(会長・行平次雄、社長・三木淳夫と五人の副社長、一部の役員と監査役)が東京都内のホテルニューオータニに人目を避けるように集まり、山一ファイナンスの不良債権
償却の具体的方法等について話し合った。席上、山一ファイナンス㈱への1997(平成9).3.31日までの1500億円融資支援が決定された。日興証券が「系列ノンバンク2475億円の支援金を拠出する」と発表した翌日のことであった。

 1997.3.25日、野村證券に対して東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。容疑は総会屋小池隆一への利益供与であった。(れんだいこ注)その後の経緯から見て、野村證券、日興証券、大和証券は外資系として存続させ、伊勢神宮の「一番神楽」即ち氏子のトップの座として国粋主義的な社歴を濃厚にしている山一は見せしめ的に切り捨てると云う判断に立っていたと思われる。従って、東京地検による野村證券揺さぶりは、そのシナリオに基づく「正義吹聴」型国策捜査だったと思われる。

 この間、山一の業績回復は悪化し、マスコミにより「山一の飛ばし疑惑」が報道されるなど逆風が一段と強まった。既に、コスモ証券が730億円の飛ばしに伴う損失を出して大和銀行に救済買収され、翌1994.3月には、勧角証券が同じく飛ばし絡みで五百億円の損失を抱えていたことが発覚し、第一勧業銀行から資本面の支援を受けていた。「山一の飛ばし疑惑」を初めて報じたのが「或る経済誌」で1992年。
以来、山一に巨額の飛ばしがあるといううわさが繰り返し市場に流れていた。

 1993.2月、英経済誌「エコノミスト」が「山一に九千億 山一破綻とは何だったのか 円の飛ばし」と報道し、「山一の飛ばし疑惑」は海外の市場にも広く知られるようになっていた。「山一の飛ばし疑惑」がマスコミに報道されるたびにその疑念は増幅された。(れんだいこ注)マスコミの企業批判報道には警戒せねばならない。殆どの場合に於いて、良からぬ企みによる仕掛けが裏に入っている場合が多い。これは、政界の目下の小沢どん叩きも然りである。

 「誰が会社を潰したか」は次のように記している。

 「山一の業績不振は大手四社の中で突出しており、九二年三月期には五百三十二億円、九三年三月期には四百四十六億円という巨額の最終損失を計上していた。ここでコスモや勧角のように飛ばし絡みの巨額損失が表面化すれば、会社の存続にかかわる事態に発展するのは間違いない。山一に対する証券記者の取材は、常にこの「飛ばし疑惑」を意識して進めなければならなかった」。

 4.15日、山一は記念すべき創業百年を迎えた。倒産前の士気の上がらない記念日となった。4.28日、山一の1997.3月期決算が発表された。1500億円を特別損失に計上した結果、期末の株主資本は4434億円に急減し、1647億6300万円という過去最大の当期損失となった。財務的な余力を失った。

 6月、大蔵省は、証券取引審議会(蔵相の諮問機関)の総合部会における最終報告で、手数料の自由化と免許制から登録制への移行を打ち出した。市場メカニズムを基礎とした事後行政への180度の転換を意味していた。(れんだいこ注)これにより外資系金融が日本市場へ参入する舞台が整えられ、日本金融界の整理統合の名による食い散らし、収奪、傘下化のハゲタカ作戦の号砲が鳴った。

 7.30日、山一本社に東京地検の強制捜査が入り逮捕者を出した。大手リース会社「昭和リース」への損失補填に絡んで当時の社長・三木、副社長・白井が再逮捕された。同日発表した1997.9月中間決算は、四大証券のなかで唯一の経常損益が赤字になった(経常利益はわずかに15億円)。山一の収益環境は日に日に厳しくなり抜本的な経営再建策が急務となった。

 このような状況下で会長と社長の交代が行われた。8.11日、行平・三木をはじめとする取締役11名が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格した。山一には東大、一橋大閥が形成されていたが、野沢氏は法政大学出身のいわば叩き上げであった。(れんだいこ注)その後の経緯から見て、倒産前提の汚れ役引き受けとして抜擢させられたことを意味する。

 9.24日、前社長の三木が利益供与問題で逮捕された。10月初旬、「飛ばし」による簿外債務として2600億円あることが判明させられた。山一はメインバンクである富士銀からの支援と外国金融機関との資本提携に最後の一縷の望みを託した。10.6日、常務の渡辺と前副社長の沓澤が富士銀行を訪れ、再建計画を説明し支援を求めた。10.23日、山一の中間決算発表日となり、記者会見で27億円の経常赤字の発表と利益供与事件拡大を謝罪させられた。当日、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。

 11.3日、三洋証券が上場証券会社として初めて会社更生法の適用を申請し倒産した。11.6日、米格付け会社のムーディーズ・インベスターズ・サービスが、「投資適格級」すれすれだった山一証券債の格付けを「引き下げの方向で検討」と発表した。

11.7日、山一証券株が一時、159円まで急落した。翌週、山一側が約2900万株買い越したが売りの勢いには勝てなかった。その後も株価は下げ止まらず、14日には一時100円を割り込んだ。山一はこうして次第に追い詰められて行った。

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2011年4月22日 (金)

日共の原子力政策史考

 タイトルに「日共の原子力政策史考」と記したが、本意は「日共の原子力政策転換史考」である。現在の反原発姿勢を顧慮して敢えて穏和に表記した。気になって仕方がないことがあるので以下、確認しておく。

 案外知られていないが、日共の原発政策史は現在の言行と1970年代のそれは一致しない。1970年代前半までの日共は、原子力利用政策に対してそれ自体に反対ではなく、むしろ容認してきた形跡が認められる。その昔、この問題を廻っても「原水禁」と「原水協」が対立した。社会党系の「原水禁」が反対姿勢を打ち出したのに比して、日共系の「原水協」はむしろ協力的姿勢をとった。これが史実である。

 当時の日共は、政府の原発政策に対し、「民主・自主・公開の三原則が守られればこれに賛成する。民主的規制の元での慎重な開発を期待する」、「原発は核武装化には使用させない、平和利用であればよい。民主的政権であれば軍拡に使うことはない」という態度をとった。それは、政府・電力資本の原発政策を裏から容認するもの以外の何物でもなかった。肝腎なところで果たす宮顕ー不破系日共党中央の「左」から果たす役割がここでも透けて見えてくる。ここが確認したい。これが本稿の執筆趣意である。こういうところを踏まえないと正確な日共論が生まれない。

 日共の1970年代の原発政策論が開示されれば、在りし日の原発容認姿勢の日共が確認できるのだが、この党は宮顕系党中央以来、かっての理論、政策等の資料を隠匿する癖がある。サイトにも当時の政策が出てこない。よって、れんだいこの記憶を辿ることにする。思い出すのに、物理学専攻を吹聴する不破が大きく写真付きで登場し、得々と「何でも反対の社会党と違うところとして原発政策容認」論をぶっていたと記憶する。

 このことは、「反原発を訴えていた日本社会党と差異化を図り、距離をおいていた」、「日本共産党は、民主的・平和的な原子力であればよいという路線で、原発反対派の日本社会党・原水禁に対抗してきた」と他の方が記しており裏付けられる。れんだいこの記憶とも一致する。

 いつの国政選挙だったか忘れたが、新聞紙面に各党の政策対照表が紹介されており、その中でもこのことが詠われていた。「さざなみ通信」の2011.3.22日付け投稿「
共産党の原子力政策の変遷について」が次のように証言している。「今の原子力は危険だ。しかし、今の技術水準をそのまま将来に延長して、原子力の潜在的な可能性まで否定すべきではない。原子力には夢も希望もある。正しい研究開発をすれば、科学の発達は無限だから、安全に原子力を利用できるようになる」、「原子力発電を禁止することは国民の間に意見の一致ができていないと主張していた」。ということは、いまどきの「共産党と社民党以外、みんな原発推進だね」なる言は、歴史検証に耐える言ではなく素人のそれであることになる。

 チェルノブイリ事故後、反原発機運が高まった。「原子力は現段階の科学に於いて制御不能なものであり、この状態での開発は許されないのではないのか、余りにもリスクが大きすぎるのではないのか」との疑問が広まった。これにより、日共的な「自主・民主・公開の三原則の下での民主的規制による開発促進政策」にも疑惑が向けられるようになった。日共は当初は、チェルノブイリ原発事故を発端とする1980年代後半の反原発運動に対して「非科学的」と批判していた。原子力の平和利用を理由に、チェルノブイリ事故直後の時点までは推進派の立場を堅持していたことが分かる。
 
 日共がいつ原発に消極的な姿勢を示すようになったのか、これがはっきりしない。「左翼政党は、基本的政策を転換するときには激しい議論が行われ、時として組織内の対立まで起きるような種類のものだが、日本共産党の原子力政策についての路線変更が全く不明確であり、痕跡もなくなっている」(「
原発事故雑感」)とある通りである。そういう意味で、いつの時点からかは不明であるが、日共は原発反対スタンスに転換した。それはまことに結構なことである。

 良くないのは、その際にいつもの通りで自己批判が一切ない。昨日までの政策に口を拭い、翌日から何の断りもなくコロッと方針を替えて憚らない。日共理論のヌエ性、姑息性がここでも確認できよう。現在の日共は、「いかなる国の核実験反対」への転換と同様に過去の原発容認政策に頬かむりしたまま「昔から反対でした」的にすり替えている。

 今日では次のように述べている。2011.4.1日付けの赤旗の「原発の危険を告発 国民の命守る日本共産党(上)」は早くも次のよう述べている。「1976年1月、日本共産党の不破哲三書記局長(当時)は、『原子力は本来、危険性をはらみ、未完成の技術だ』と指摘。そのため『原子力開発に取り組むには、今日の技術が許す限りの安全体制をとらねば非常に危険なことになる』という根本問題を指摘していました。当時、政府は4900万キロワット、約50基分の原発大量増設計画を開始。日本共産党は安全最優先の立場から、無謀な原発大量増設計画に反対してきました」。以下、不破が如何に原発政策に反対してきたかを縷々述べている。

 次のようにも述べている。「福島原発が爆発事故を起こし、放射能を振りまいている問題で、この危険性を日本共産党国会議員団は、繰り返ししてきました。 詳しくは、共産党のホームページから吉井秀勝衆議院議員のページに入れば、国会での質疑を見ることが出来ます」。かく、いかにも昔からの原発反対の音頭取りのような顔をしている。拉致事件の際の論理論法と同じである。風向き次第でケロッとして口を上手に廻し新しい状況に合わせている。

 日共式原発論を仔細に見れば、そういう過去の痕跡をとどめていることが分かる。日共の原発反対論の比重は危険性反対論であり、原発そのものの反対論ではない。要するに「大丈夫な原発推進論」と云うべきしろものである。これが日共の原発論の本質である。ところがその後、代替エネルギー論が登場してきた。こうなると次のように云い始める。「再生可能エネルギーの開発・利用を広げ、原発依存のエネルギー政策を転換します(2010年7月、参議院選挙政策より)」。適当な論文か過去の質疑を持ち出して、代替エネルギー論の昔からの旗振り役の顔をしている。かなり作法が悪いということになるのではなかろうか。

 本稿の締めくくりとして、あるべき原発論を確認しておこう。我々は、原発政策そのものに反対である。なぜなら、福島原発事故が次々と明らかにしているように、稼働中の原発が天災、事故等に遭うことによる大気中への放射能漏れ危険性、平素からの放射能汚染冷却水の外部排水による海洋汚染の危険性、何より最終核廃棄物の原始的な地下格納庫処理方式の余りにも杜撰な危険性等々の問題があるからである。

 これらの問題に未解決なままの原発稼働は狂気の沙汰と云わざるを得ない。これらによる水脈汚染、土壌汚染等の被害は長期化且つ広域化するものであり、将来に取り返しのつかない負荷を抱えていることになる。「大丈夫な原発推進論」などは有り得ない。如何なる堅固な原発も軍事攻撃には耐えられない。これらを思えば端から手を染めぬのが賢明であり分別というものであろう。

 原発反対派の「広島長崎の原爆を経験している日本が、原発政策を推進するのはナンセンス」なる主張も良いが、それは情緒論である。我々は、そういう情緒論のみならず以上のような唯物論的な論拠によって警鐘乱打している。これが我々の原発論である。

 一刻も早い代替エネルギーへの転換こそが国策となるべきであり、その新技術を廻る競争こそが近未来の科学競争である。原発のように自然の摂理に反するのではなく、自然の摂理をうまく応用した科学に転ぜねばならない。ここに科学の質の歴史的転換がある。科学を云うならば、こういう科学競争に向かわねばならない。

 2011.4.22日再編集 れんだいこ拝

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2011年4月21日 (木)

宮沢 賢治の「雨ニモマケズ」考

 詩人、童話作家の宮澤賢治(1896(明29).8.27日―1933(昭和8).9.21日)の「雨にも負けず」の詩を急に確認したくなった。(原文はカタカナ文であるが却って読み難いので、れんだいこ文責で表記替え、段落替え編集した)。

 雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 

 丈夫な体を持ち 慾はなく 決して瞋(いか)らず いつも静かに笑っている

 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ 

 あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず

 野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋に居て 

 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 

 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 

 南に死にそうな人あれば 行って恐がらなくてもいいと云い 

 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないから止めろと云い

 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 

 みんなにでくのぼうと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず 

 そういうものに 私はなりたい

 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩

 宮澤賢治が生まれ育った岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)は震災、津波の多い土地柄であった。賢治が生まれた1986(明治29).8.27日の約2ヶ月前の6.15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生している。誕生から5日目の8.31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生している。賢治が死亡した1933(昭和8年).3.3日にも「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生している。

 賢治と震災はよほど縁があったことになる。同時に、三陸地方が昔より震災、津波被害を受け易い土地柄であることが分かる。幼少時代の賢治は、人民大衆が天災、冷害などによる凶作により困窮する姿を目撃しながら育っており、これが人間形成に大きく影響したと見られる。

 現在、三陸地方は三陸巨大震災に喘いでいる。恐らく宮澤賢治が詠った「雨二モマケズ」が心の中に生きているのだろう、被災民は粘り強く耐えつつ伝統的な協同精神を発揮して適応せんとしている。「雨二モマケズ」が希望の歌になり明日への展望を模索していることだろう。そういう気づきから、この詩を確認したくなった。

 良い詩である。賢治の信仰と生きざまは浄土真宗から日蓮宗へと転じているようであるが、どういう精神行程によったものだろうか。浄土宗系の彼岸主義、日蓮宗系の此岸主義の差により、此岸主義的現実救済を良しとしたのだろうか。

 れんだいこには、賢治の根底にあったものは仏教的慈愛に基づく精神と云うより、もっと歴史的に古い縄文的地霊の古神道的共同精神であり、これが息づいており、こういう詩ができているのではないかと窺う。どちらでも良いが、互い寿命のある身、助け合いの精神が大事と云う諭しであろう。

 付言しておけば、この地方に賢治時代にはなかった原発問題と云う新たな災害が来襲しており、この難問は未だ解けない。今後も予断を許さない。賢治が生きていたらどう詠うのだろうか。願うらくは天災対策でも大変なこの地域に、これ以上変な人工災害までもたらしてくれるな。


 2011.4.21日 れんだいこ拝

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2011年4月19日 (火)

角栄政治と中曽根政治、福田政治との差異考その2

 ところが、「ロッキード事件」以来風向きが変わる。角栄が捕縛される度合いに応じて中曽根の台頭が著しくなり、遂には中曽根の方が「田中君云々」なる傲慢不遜な謂いを為すようになった。角栄の生前中は貫目の違いで無理であったが、角栄が政治能力を失うや、こう発言するようになった。角栄全盛時代の史実は、中曽根は角栄の前では子ども扱いされる風見鶏に過ぎなかったと云うのに。

 1980年代前半、鈴木政権の後を受けた中曽根政権の登場により恐ろしいことが始まった。中曽根は日米の反動権力と結託して、「大国的国際責任論」、「戦後の総決算」を標榜しつつ、それまで営々と積み上げてきた世界史上未曽有の奇跡的復興を遂げ、その後の高度経済成長政策も成功裏に推移しつつあった戦後構造の見直しに着手した。

 これにより、角栄の日本列島改造論に基づく諸計画の解体シナリオに手を染めていった。「日本列島改造論」に対することごとくその否定に向った。これが、その後の日本経済失速の要因であると思われる。この解体計画が小泉政治に色濃く継承され、2011年現在は菅政治に引き継がれ今日に至っている。延々30年近くの解体事業のお陰で、今や気息えんえんとする日本に変わり果てている。

 この経緯に対し、今なお角栄を悪く云う者多い。対極的に中曽根が誉めそやされ続けている。こやつら、この歴史観に漬ける薬が欲しいと思う。一体、角栄政治のどこがオカシイと云うのか。れんだいこがことごとく論破して見せよう。一体、中曽根政治のどこがヨロシイと云うのか。れんだいこがことごとく論破して見せよう。

 こたびの福島原発事故により、いつ果てるともしれない危難が日本経済を直撃している。この政策を敷いた中曽根、1970年時点で早くも代替エネルギーをも視野に入れていた角栄。この両者の政治能力をそれとして評価する歴史論が、今ほど望まれていることはない。その起点に助する為にこの一文を捧げる。

 締めくくりとして、「角栄、福田、中曽根の寸評逸話」を確認しておこう。評論家の赤塚行雄氏は、著書「田中角栄の実践心理術」の中で歴代の首相田中角栄、福田赳夫、中曽根康弘の3人を比較する次のような寸評逸話を伝えている。

 「中曽根首相時代、ある自民党福田派の政治家が入院した。この政治家は日頃、角栄に対して批判的言動を繰り返していた。この政治家の入院を聞きつけて真っ先にお見舞いに訪れたのは、角栄だった。『国政のためにも、自民党のためにも、一日も早く治って、戻ってきてくれ』。角栄はそう云うと、ベッドに寝ている政治家の足元にそっと紙袋を差し込んだ。そしてそのまま帰った。中を開けたら紙袋の中に300万円が入っていた。

 次に、派閥のボス福田が見舞いに訪れた。一通りのお見舞いの言葉を述べた後、ぎごちない様子で、白地の封筒を取り出し、『こういう時だ。何かと不自由するだろう。これはほんの心ばかりのものだが』と云って差し出した。しかし、あまりにぎこちない福田の様子に、病人の方が恐縮し、『先生、お気遣いなく。私のことなら大丈夫ですよ』と礼儀として遠慮の言葉を述べたところ、『そうか、それならいいんだが』と、ホッとした様子で封筒を仕舞い込んだ。

 次に、中曽根がやってきた。一応の見舞いの挨拶を述べると、中曽根首相はおもむろに茶色の事務封筒を取り出して、『これ』と差し出した。病人は、福田のときに遠慮して貰い損ねたので、今度はその封筒を掴んだ。ところが、中曽根が、差し出したその封筒をなかなか放さない。お互いに封筒の端を握ったままの状態となった。『この政局の難局にあってはねぇ、君。政治家として心せねばならない要諦は云々』。中曽根はそう云いながらもなお封筒を放さない。封筒の端と端とを握り合ったまま『政治家たるもの、いついかなる時に於いても、初心に戻って己の云々』。遂に、病人の方が根負けして手離した」。

 この逸話は三者の性格を見事に描いている点で面白い。と云うか傑作であろう。これに匹敵するのが戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のホトトギス譚であろう。これを確認しておく。江戸時代に松浦静山(まつらせいざん)が随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書いた言葉とのことである。

 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」が秀吉、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」が家康。これになぞらえれば、「要らぬでも、まぁ取っておけよ紙袋」が角栄、「そうか要らぬのか、ならば返して貰おう白封筒」が福田、「渡す前、説教づくめのただでは渡さぬ茶封筒」が中曽根ということになろうか。

 2011.04.19日 れんだいこ拝

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角栄政治と中曽根政治、福田政治との差異考その1

 2011.3.11日の三陸巨大震災、特に福島原発事故が、れんだいこに田中角栄と中曽根康弘の政治の質の違いを炙り出させた。ここで角栄政治、中曽根政治について再考しておく。爾来、田中角栄については「田中角栄論」、中曽根康弘については中曽根康弘論でそれぞれ考察している。サイトの分量の差は、対象人物の質の差を表象している。ここで、この両者の天敵性について確認しておくことにする。

 その昔、2チャンネル」の「政治版」の「田中角栄part4 」の「名無しさん@3周年」氏の2006.4.28日付け投稿で次のような記述が為されている。これを転載する。

 「角栄は権力を掴み取ることにかけては天下一品だったが、持続させる力は皆無だった。 中曽根は理念のない風見鶏だが、権力というものを知り尽くし、様々な形で利用しながら掌握していく手法は天下一品だった。 角は早々とポシャってしまったが、最後に笑ったのは中曽根であった」。

 これが、角栄と中曽根を評する世間一般の見方なのだろうか。この見立てをどう評すべきか。れんだいこは異見を持つ。この論者は、角栄の政治能力より中曽根のそれの方が優ると云いたいのだろうが事実はどうか。れんだいこ史観によれば角栄の方が数段勝り、中曽根などは風見鶏であちこちするぐらいしか態を為さなかった。

 その関係がロッキード事件を境に逆転する。なぜ角栄が失脚し、中曽根がその後の政局を握ったのか。これには秘密の要因がある。その扉をあけると、角栄が現代世界を牛耳る国際金融資本ユダヤに終始距離を置き、中曽根が身も心もサインアップしていたことが分かる。為に角栄が罠を仕掛けられ、中曽根は如何なる窮地でも救われた。国際金融資本ユダヤは角栄を恐れるあまり失脚せしめた。中曽根は手駒に使うのに按配が良かったので利用され、褒美として大勲位の称号が与えられた。それだけのことである。

 中曽根芸は小泉に踏襲された。中曽根はレーガンと「ロン―ヤス」日米関係を取り持ち、小泉はブッシュと親密な関係を結んだ。これが小泉の歴代3位長期政権の秘密である。決して政治能力の為せる技ではない。中曽根よりもなお忠実に政策忠勤したことによってである。中曽根と小泉は何度も窮地を救われている。そのたびに云いつけられた通りのお仕事を命ぜられ売国奴してきた。それだけのことである。そう読み取ればよいだけのことである。こう読まない「名無しさん@3周年」氏の「角栄の政治能力より中曽根のそれの方が優った」論は何と愚昧なのだろう

 もとへ。田中角栄と福田赳夫の因縁の対決をもって「角福戦争」が云われる。確かに政治手法を廻って相容れざるものがあったので、「角福戦争論」には根拠がある。しかし、両者はハトタカ混交に特質を持つ戦後自民党政治の良き理解と実践者として土俵を同じくしており、その意味で「角福戦争」とは、同じ土俵上での同志的紐帯下での佐藤派相続争いのような観があり壮絶な権力闘争になった。しかし、例えて云えば、角栄と中曽根の関係との比較で言えば「近くて遠い」関係ではなかったか。このことを、越山会の金庫番・佐藤昭子女史は、著書「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」の中で、「角栄の角福戦争論」として次のように語らせている。

 「福田君と私が総裁の座を争うようになったのは、時の状況がそうさせたんで、好んで争ったわけではない。保守本流論からすれば、福田派と田中派は別な河の流れじゃないんだ」。

 田中角栄と福田赳夫の関係は上述の如く受け取るべきだろう。政治観そのものを廻ってもっと本質的な意味でことごとく角栄政治と対立しているのは中曽根康弘のそれではなかろうか。両者は奇しくも同じ大正7年生まれ同士である。余計ながられんだいこの親父も大正7年生まれである。だから、れんだいこは彼らの息子の世代となる。二人の政治は何から何まで見事なほど対比的であり、共に首相まで上り詰めた時代の双壁である。歴史は時にこういう演出をする。

 この「角栄対中曽根の深層での政治的対立問題」は是非とも明らかにしておかねばならないと考える。ボンクラマスコミの不明の見識、愚昧さは「角福戦争」のみ語り、角栄と中曽根は一見相通じているかの描き方を通説としている。「田中曽根政権」なる標語を生み出して得々としている。そういうジャーナリズムを見させられてきたが、それは表層しか見ない凡庸な見解であり、実は、角栄と中曽根は本質的に相いれないものであり、始終地下で暗闘していた。当然、側近取り巻きも然りである。

 戦前の大東亜戦争時代の兵役の肩書からして違う。角栄は新潟県生まれの陸軍上等兵、中曽根は群馬県生まれの海軍主計中尉。中曽根が戦地に赴いたことはなく、実際には女衒のようなことをしていたらしい。ちなみに兵役時代の上等兵的下位の肩書の者で首相になったものは角栄だけである。これが戦後民主主義の為せる技であった。角栄こそは戦後民主主義が生んだ蓮華であった。こう視座を据えるべきであろう。

 興味深いことに、両者の政治の始発からして次のように違う。角栄は、東京大空襲で焼かれた廃墟に佇み、深く戦後復興を思念し、得手とする土木建設から手始めし、その通りの政治家人生を全うした。これに比して、中曽根は、広島原爆を四国の高松から見て、これからは原子力の時代だと直感し、原子力利用を思念し、その通りの政治家人生を全うしている。両者は奇しくも1947(昭和22).4.25日の第23回総選挙で衆議院議員として初当選している。この時の同期に鈴木善幸も居る。

 両者健在の頃は、断然角栄が圧倒していた。角栄が戦後保守系ハト派に在籍しつつ順調に出世階段を昇って行ったのに比して、中曽根はタカ派に在籍しつつ常に傍流の悲哀をこぼしていた。角栄隆盛時代にあっては、中曽根は「三角大福」の中にも入れず、その後塵を拝しつつ軽挙妄動を繰り返していたに過ぎない。角栄は「中曽根君」と呼び、格下扱いしていた。これが史実である。


 2011.04.19日 れんだいこ拝

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2011年4月11日 (月)

三陸巨大震災1カ月経過に寄せて

 三陸巨大震災から1カ月が経過した。報道が次第に少なくなりつつあるが事態は何ら変わっていない。仮設住宅が少し建てられ、抽選入居が始まったぐらいが最新の動きで、その他は余りにもゆったりし過ぎている。原発事故も一見小康状態のように思えるが、爆発前の静けさかもしれない。仮に封鎖し得たとしても、地下水、土壌汚染がこれから本格化する訳で、なんにも解決していない。と云うか解決する訳のものでもない。原発の恐ろしさに全く無知のサマを見せつつ推移している哀しい現実が見て取れる。

 それにしては被災民は穏やか過ぎる。これが噂に聞く東北気質なのだろうか。確かに無限の助け合いが各地で生まれ、多くのボランティアが駆け付け、日本的思いやり、相身互いの精神が如何なく発揮されている。全国各地からの救援物資が次々と送られた。義援金も史上最多の額となり感動を呼んでいる。原発コントロールセンターでは決死隊がお国の一大事に駆け付け、今も懸命の修復工事に挑んでいる。これら全てがすばらしいと云えば云える。

 しかし、話をそう簡単に終わらせる訳にはいかない。人民大衆レベルで、これだけ草の根式和の政治を実現しているのに対し、最高権力体の日本政府の政治は何をしたのだろうか。不自然過ぎるほどににめぼしいものがない。と云うか、救援よりも日米初の合同軍事実地訓練している形跡が認められる。ここを主にしており、よって救援が後回しになっている気がする。これが菅派政治の正体であろう。こういうところに馬脚が現れるとしたものだろう。

 思い出すのは、のっけからの自衛隊の10万人動員、計画停電、俄かに登場した頻繁過ぎるACジャパン広告、米軍のともだち作戦、菅の現地入り等々。しかし、これらが本当に必要なものだったかどうか疑わしい。逆に、それらの裏で本当に必要な手当てが殆ど何もできていないように思われる。この落差が何とも、れんだいこの気分を損ねている。

 こたびの事故は、地震と津波と原発の3種からなっている。それぞれに必要な手当てをすることが必要と思われるのに、政府の指揮は原発対策に専念しており、被災民の救援については後回しにされている気がしてならない。灯油、ガソリン制限もイカガワシイ。被災地優先を指示すれば解決する筈なのに、あの寒気の中に放置した感がある。交通規制にも疑問がある。道路陥没の注意を促す為の規制であったのかどうか疑わしい。多くのボランティアが足止めされ、救援物資を滞貨させる始末になった。

 菅が表に出ず、枝野が一人奮闘して刻々の状況説明を行った。しかし、東電、保安院、原子力委が行うべきところを代弁しているに過ぎず、要するに大丈夫を繰り返しただけに過ぎない。本当は、政府のやることは他にあるのではなかろうかと、れんだいこは思っている。本来は、被災現地対策、被災住民の救援、震災復興の展望、原発の爆発対策に仕分けして向かうべきところ、原発事故の状況をマルチ舌で劇画的に解説して見せただけに過ぎない。

 そういうことをいろいろ解説なり批判してもキリがないので、以下、云いたいことを書きつけておく。れんだいこなら、こういう陣頭指揮をする。どうぞ新政権で参考にしてほしい。何なら、れんだいこを任命して欲しい。

 その1として、被災住民の救援として被災証明書を直ちに発効し公布する。全国各地の温泉郷疎開を斡旋措置する。これがなぜ適宜なのかは論をまたないので割愛する。被災民は被災証明書を持って家族単位、町内単位、市単位で移動すれば良い。この方が却って安くつくし被災民も体育館暮らしから抜け出せる。

 その2として、震災復興として総合復興計画を策定する。その責任者を任命しプロジェクトチームを作り大権委任する。片付け費用は最も合理的方法で経費節減する。多少荒っぼくともこの際は仕方ない。なぜなら富を生まないからである。その為に、可燃ごみの現地焼却即ち野焼きを認める。震災より1カ月経過して放置のままの現状は異常である。これは法律の過剰規制でしかない。

 この際、復興都市計画青写真を策定し、大胆に土地区画整理事業に乗り出し市街地整備を図る。道路も極力碁盤の目状に造り変えてみたらどうだろうか。土地所有者間の調整に汗を流し合理的な再配分する。

 その3として、原発推進政策から撤退し、代替エネルギーの開発に取り組む。その為に電力事業の公営事業体を創設し、民間電力会社と競合化させる。既存の民間電力会社は原発に傾斜し過ぎており、容易なことでは転換が難しかろう。電力会社は業界挙げて農林漁業補償に向かうべきである。政府のテコ入れ資金導入を極力少なくし、電力会社の全金融資産を吐き出させねばならない。役員の高給報酬はもはや許されない。年収1千万円上限ぐらいでちょうど良い。

 他にもいろいろあるが最低これぐらいの見通しを持つべきではなかろうか。要点は、カネの使い方である。粗脳政治が使うと死にゼニになる。有能政治が使うと後々に効果が出てくる使い方をする。禁物は、死にゼニに利権を絡ませ大盤予算化することである。これを厳重に取り締まらねばならない。れんだいこの診断によると全治15年と見る。早ければ10年ぐらいで回復するだろう。

 長文は饒舌化するので、以上簡単にスケッチしておく。

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2011年4月 7日 (木)

つち音高く(三陸巨大震災に寄せて)

 もう一首、歌を献じる。

 つち音高く(三陸巨大震災に寄せて)

 廃墟にたたずみ 涙ぐむ
 運命のいたずら 嘆くがよい
 深い絶望 堅い決意
 心に刻もう   三陸巨大震災
 友よ つち音高く絆を結べ

 家が流され   役場も失い
 船が壊され   道路も割れた
 死に人(ひと)三万 難民三十万余
 語り伝えよう  三陸巨大震災
 友よ つち音高く絆を結べ

 百年先を見据えよう
 千里の道に歩を進めよう
 さぁふるさとを興せ
 子供が祖父になり祖母になり
 その時の子供が祖父になり祖母になる頃
 ふるさとが蘇るだろう
 忘れるな   三陸巨大震災
 友よ つち音高く絆を結べ

 2011.4.7日 れんだいこ拝

 現代は異常に歌が失われている。あるのかも知れないが心に響かない。歌がなければ心がすさむ。歌があれば命が励む。命が励めば何事か為し得る。心に響く歌を生み出し口ずさめ、語り合え。そして静かなひと時を持て。そのどれもが大事。この大事なことが疎かにされ、嫌な知識が頭と身体を蝕んでいる。偏狭な著作権が歌を閉ざそうとしている。云いたい者は云うが良い。汚い手を出すが良い。我々は歌い合い語り合う歌を持つ。著作権偏狭時代に抗して、この歌を捧げる。著作権フリーのこの詩に誰か曲をつけて欲しい。

 三陸巨大震災

 2011.3.11日 この日を忘れまい
 1000年に一度の大地震と津波
 3万人が呑みこまれた
 新たな災害が加わった
 経験のない原発爆発
 目に見えない汚染の恐怖
 被災難民50万
 埋まっている人がまだたくさんいる
 仏よ成仏せよ
 黙祷

 命からがら助かった者よ暖を取れ
 寒いだろう せつないだろう
 生き抜けろ
 言葉で食糧で絆で暖をとれ
 みんな見守っている
 どういう助け合いができるのか
 苦吟している
 起ちあがっている
 時間との勝負だ
 難民よ災い転じて福となせ
 知恵を出せ
 起ちあがれ
 日本の新たな再建がここから始まる
 世界に微笑みかけよう
 力強く生きてますと
 支援に感謝しよう
 お返ししますと
 2011.3.11日 この日を忘れまい

 即興歌です。苦しいときには歌が必要です。伴奏つけて歌ってください。歌詞はどんどん代えてください。歌い繋いでください。著作権はありません。

 2011.3.15日 れんだいこ拝

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