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2011年4月28日 (木)

山一證券自主廃業経緯考その2

 1997.11.11日、富士銀行から最終回答があり、大型追加融資の不能の云い渡しに加え、過去の無担保融資分の担保差し入れが迫られた。

11.14日、富士銀行は山一を見限る最終通告をした。山一は必死で外資提携先を探していたが、最有力候補のクレディ・スイスとの交渉は延々として進まなかった。欧州の金融機関(コメルツ銀行とING)に最後の望みを託したが叶わず万策尽きた。11.22日からの三連休明けの資金繰りがピンチになっていた。株価が急落し始めた。

 同日夕方、野澤社長が大蔵省を訪問し、約2600億円の「含み損」が存在することを報告し資金繰りに窮していることを伝えた。長野厖士証券局長は,「もっと早く来ると思っていました。話はよく分かりました。三洋証券とは違いますのでバックアップしましょう」と答えたとされている。「11月14日金曜日。野澤は、大蔵省証券局長の長野に対して簿外損失の存在を初めて説明した」ともある。野澤社長の大蔵省訪問と同じ時間に五月女会長らは日銀を訪問し、大蔵省への報告と同じ内容を伝えた。

 11.15日(土)、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一証券の藤橋企画室長から説明を受けた。この日、山一が主幹事を務め最後まで資金供給を行っていた北海道拓殖銀行が経営破綻し、北洋銀行への営業譲渡を発表した。

 11.16日、藤橋常務と経理部長らが大蔵省に呼ばれ、小手川証券業務課長(現IMF理事)に含み損の概要、会社再建策、支援先の状況、外資との提携などについて説明をした。小手川は絶望感を持ち、長野局長に「今週中にも決断が必要です」と述べたとされる。

 11.17日、市場が次に狙うターゲットが山一証券であることが明らかになっていた。11.19日、野沢社長が再度証券局長を訪問した。この時、長野氏の態度は豹変しており、「感情を交えずに淡々と言います。検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」と突き放した。山一に対して、「会社更生法の手続きを踏むには時間が足りない」と伝え、更正法以外の処理の最終決断を促した(更生法では顧客資産の保全処置が取れないため、デフォルトを引き起こしてしまう)。

 その夜、証券局幹部ら10名前後が局長室に集合し、20、21日は株式市場が開いているため連休に入ってから発表することを申し合わせた。

 11.22日(土)午前3時頃、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」という電子ニュース速報を流した。午前8時、山一証券は急遽、臨時取締役会を開催した。この日の午後10時、大蔵省証券局長の長野が記者会見し、山一証券に2千億円を上回る簿外債務の存在を明らかにした。

 11.23日、断続的に取締役会を開いた。同日夜、野沢社長が大蔵省に証券取引法34条に規定に基づき「明日、(自主廃業を)決めます」と伝えた。

 11.24日(月)午前10時半、蔵相の三塚博と日銀総裁の松下康雄が相次いで記者会見し、日銀が山一証券に無担保・無制限の特別融資(日銀特融)を実施するなど顧客資産保護に万全の体制をとることを明らかにした。顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。(れんだいこ注)同じ日銀特融でも角栄の時の日銀特融と使われ方が真反対で、角栄の時は山一救済、こたびは山一潰しであったことになる。

 振替休日で休業日のこの日、山一証券の運命の日となった。午前6時、山一証券の本社(東京・中央区)で臨時取締役会が開かれた。野沢社長が、「自主廃業を決めざる得ない。決議してほしい」と切り出し、自主廃業に向けた営業停止を正式に決議した。この瞬間、創業百年の歴史を誇り、従業員7千5百人、顧客からの預り資産24兆円に達する四大証券会社のひとつであった山一証券の消滅が決まった。負債総額は3兆円を超え、事実上、戦後最大の倒産となった。

 午前11時半、野沢社長、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見に臨み自主廃業を発表した。弁護士の相沢が、山一証券が会社更生法の適用申請を断念した理由について、「山一は規模が大きく国際的取引も複雑にある。信用秩序維持や顧客資産保護に不可欠な日銀特融を会社更生法申請会社が受けた例がない」ためと説明した。会見最後に野沢は突然、マイクを持って立ち上がり、臆面もなく涙を流しながら次のように締めくくった。

 「私達が悪いんです。善良で能力ある社員達に申し訳なく思います。一人でも再就職できるよう、みなさんも支援してください」。

 「社長号泣」の様子は当時のマスコミによって大々的に報じられた。山一の破綻によって多数の従業員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害を及ぼした。

 11.27日、参院予算委員会に参考人として呼ばれた山一証券の行平氏が、巨額な簿外債務の発生経緯や実態を明らかにした。損失を隠したことについて「出てしまうと会社が存在しないため、右を取るか、左を取るかということになり、結局は山一証券の信用を保ち、収益を上げて償却できると判断した」と語った。


 12.13日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。1998.3.26日、レポート「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-」がまとめられ、4.16日、一般に公表された。

 1998.3.4日、行平と三木の元社長並びに元財務本部長の3名が、最大2720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに粉飾決算の容疑がついていた。(ちなみに2000.3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている)

 山一は自主廃業発表以降事務処理を進めたが、1998.6月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換した。1999.6.2日、山一は東京地方裁判所より破産を宣告された。

 山一本社所属の従業員や店舗の大多数は米国の大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。

 破産宣告後の手続は手間取ったが、最終的に2005.1.26日の債権者集会をもって終了した。同年2月、破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年余が経過しての終焉であった。

 「最後の山一社長」としての使命を全うした野沢氏は、名古屋支店長時代に上場を勧めた事があるコンピュータ周辺機器メーカーのハギワラシスコムの社長・河瀬翔之に要請されて同社の子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任した。

 以上が山一証券消滅の経緯である。これが自然な経済現象、近代的経営転換期特有の痛みと思う者は幸せである。思わない者は、我が社会に仕掛けられている諸事万事における不正な企みを覗くべきである。

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コメント

どちらも読まさせていただきました。読みやすかったです。山一は2度ほど大きく取り上げられましたが、全然内実は知りませんでした。「国粋主義的傾向を持つ山一が解体ターゲットにされたと窺うべきではなかろうか。軍事売国奴、原発売国奴、医薬売国奴等々に続く金融売国奴の荒技だったと思われる。」
 今回の被災もゴミ原発を売国奴が売り付けた結果当然起こるべくして起こった。
原爆反対。しかし核の平和利用は賛成には危惧感があったです。

投稿: sizimi | 2011年5月 3日 (火) 12時59分

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