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2011年5月 2日 (月)

俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」書評その2

 以下、本書の白眉部分を抜き書きして確認しておく。

 秦野章氏の角栄擁護論を是認エールしている。これを確認する。「あとがき」で次のように述べている。

 「ロッキード事件と『田中裁判』についての私の考え方は、政治的にきわめて不公平な形で処理されてはいないか、法律的にきわめて不適正なやり方で裁かれてはいないか、というに尽きる。(中略) 私は自分の八年間の仕事の一部をまとめたこのささやかな一冊が、言論の機能を通じて国家の基盤の安泰を保とうとする一つの試みであると自負するものである」。

 (れんだいこ評) これが本書の眼目と云うことであろう。

 目新しい論点として、ロッキード事件時の最高裁判事の岡原、最高裁長官の藤林両氏の一審判決直後のコメント「一審有罪判決は重みのあるもので、二審以降の判決は事実審ではなく一審を審査するためにうるものであって、一審が有罪と出た以上、三審の確定判決までは無罪の推定で行くべきだと云うのは誤り」なる主張に対して次のように批判している。

 「岡原、藤林両氏は、週刊誌で、秦野発言を『法律のシロウトの云うこと』と云っているが、秦野氏も警視総監も務めた刑事警察のベテランである。岡原氏は、思想検事上がりであって、秦野氏以上に刑事事件について、法的にも実際的にも知っているとは思われない。藤林氏に至っては、会社法の専門家だそうで、刑事事犯にはそれこそ『シロウト』だし、三木政権下の最高裁長官として、ロッキード社のコーチャン、クラッタ―に対する検察の不起訴宣明という政治的措置を、なんの法律的な権限もないのに最高裁として保証するという、おそらく将来にわたって最高裁の汚点として論争の対象になる行為を敢えてした責任者である。こういう立場であれば、本人もコメントを避けるのが元裁判官としての常道だろうし、コメントを取るほうも、最低限微妙な立場を読者にわからせる注をつけるべきだろうに、それもせず、元最高裁長官の肩書を事大主義的に使って、いかにも大権威が公正な批評をしているようにみせかけているのである」。

 (れんだいこ評) 全くの正論であろう。

 秦野氏の「政治家に古典道徳の正直や清潔などという徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」の名文句を次のように補足して庇っている。

 概要「秦野氏の言は『政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい』と云う風にマスコミに紹介されているが、全文を読んでみると明らかに違う。秦野氏はまず、マックス・ウェーバーの古典的講義『職業としての政治』をひき、政治家に問われるのは結果責任であることを説く。善意でやったことでも失敗すれば悪い政治で、結果が良くなければ政治家は評価されないというのは、常識と云ってよい。その上で秦野氏は、政治家を評価するポイントしては、業績や、政策、能力など、色々あるのだということを言った上で、政治家の評価基準として、正直や清潔さなどという古典的徳目のみを取り上げるのは、八百屋で魚を求めるようなもの、と云っているのである」。

 (れんだいこ評) 俵氏の云おうとすることは分かるが、ややまだるっこい。秦野氏の言の要約としての「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい」はさほど問題があるとは思わない、否簡潔明快にしている要約だと思う。そう受け止めたうえで堂々と「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚をくれというのに等しい」を議論すれば良い。「倫理」の質が問題になるが、政治家の本業は政治能力であり倫理基準ではないことを積極的に確認すれば良いのではなかろうか。れんだいこには、この方がよく分かる。

 「秦野発言」に対するマスコミの論評の不公正さについて次のように批判している。 

 「秦野氏の云う『マスコミによる人民裁判』とは、まさにこういう手口による、問答無用の、ファッショ的断罪であって、大方のマスコミは、田中角栄氏に対するばかりか、その異様なあり方を正当に批判した秦野法相に対しても、まさに批判されたその通りの手口で、不当無法に逆襲しているのである。また野党も、自民党内の一部政治家も、党利党略、派利派略からか、それとも生来のズサンな頭脳で大方のマスコミの詐術を見抜けないのか、マスコミの重ね重ねの誤りに便乗して、秦野氏追及の構えを見せているのである。みっともよい図とは到底いえない。(中略)全文を読んだ人の中には、秦野発言はもっともだ、新聞はこの発言の報道の仕方を含めてやり方が汚い、という声ばかりで、秦野発言批判の声は、さっぱり出てこなかったという。秦野法相だけでなく、最近の新聞のあり方に対して、強い不満と批判を持っている人は、多いのだろう」。

 (れんだいこ評) マスコミのエエ加減さはロッキード事件論評を嚆矢とするのではなかろうか。問題は、この偏向が何を基準にしているかであろう。秦野氏も俵氏も触れないが、背後に国際金融資本の情報操作があり、この良からぬ勢力に教唆されてオウム返しに紙面を作っている論調仕掛けの不正さに求めるべきではなかろうか。その後の言論は、これを請負う言論屋であり言論家ではないと云うことである。

 検察の論告求刑「懲役5年、追徴金5億円判決」に対するマスコミの異様な過熱報道について次のように批判している。

 「三審制が確立されている日本の裁判で、判決が確定するどころか、下級審の判決にさえ至らない論告求刑の時点で、裁判制度に疎い者には断罪が下されたと錯覚を与えるような紙面をわざと作り、そうした錯覚の上に多分に乗っかかりつつ、議員辞職、政界引退という本来確定判決が出て有罪となったのちにはじめて生じる問題をいち早く迫ると云うのも、異常というほかない。司法の独立、裁判の尊重、そして最終的に有罪が確定する以前の被告人の人権の保障、こういった日頃唱えているお題目はきれいさっぱり忘れてしまって、一切の民主的、人権的手続きを無視した前近代的論法で、ひたすら断罪し糾弾してやまないのは、単に偏向しているとか、大衆に迎合しているとかいう以上の、格別の背景を感じさせさえするのである」。 

 (れんだいこ評) 俵氏の指摘は尤もな良識のものである。末尾の「格別の背景を感じさせさえする」と述べているが、何を見つめていたのだろうか。

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