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2011年5月 2日 (月)

俵孝太郎氏の「田中裁判もう一つの視点」書評その3

 「マスコミの検事主張丸のみ報道ぶり」批判の勢い余って、「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」について次のように述べている。

 「たとえば現共産党中央委員会議長、宮本顕治被告の事件に関しては、逮捕され、起訴された当時、いわゆる記事解禁を受けて検察側の主張をマル写しにした断罪記事を大々的に載せ、宮本被告を殺人者扱いしたが、その後公判の経過で例の『リンチ事件』が殺人の名には値しないものであることが明らかになっても、これを報道しようとはしなかった。宮本被告は、最上級審で傷害致死と判決されたのだが、マスコミが検察側の一方的主張をもとに伝えた『リンチ殺人』の汚名は、容易なことでは消えずに長く残されたのである」。

 (れんだいこ評) 俵氏のこの指摘はいただけない。と云うか本書の値打を大きく毀損している。そもそも俵氏の「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」についての認識が狂っている。当事件は、不屈の再建を担い続けた戦前共産党の最後的解体に繫がる事件であり、党内スパイ摘発と云う流布されている通説に反して真相は、スパイ派の宮顕派が党内最後の労働者派の中央委員・小畑氏をスパイ容疑で査問リンチし続け、隙を見つけて逃亡を図った小畑氏を査問側が寄ってたかって押さえ込み圧殺したと云う査問過程上の殺人事件である。その際、宮顕は主犯であり、抑え込みの役割からみて小畑圧殺の直接的下手人でもある。これが真相である。これを冤罪理解せんとしている俵氏の惜しむべき軽薄性が見て取れる。

 むしろ俵氏は気づかねばならない。俵説に立っても、ならばそういう履歴を持つ同類の宮顕がなぜ、角栄に対しては冤罪であることをゆめ想定せず率先的に角栄批判に興じているのか、そのアンバランスさを疑惑すべきではなかろうか。この観点から、日共宮顕式のロッキード事件徹底糾弾運動のウソ性に疑惑を投ずるべきではなかろうか。これをしているようには思えないので俵氏の軽薄性のみが残る結末となっている。あるいは、このくだりをわざわざ挿入言及することで間接的に日共宮顕批判をしているのかもしれない。そういう節も読み取れる。この場合にはまま許される。

 れんだいこのこのカンが当たり、読み進めて行くと次のような記述に出くわした。「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」についての誤認識はそのままながら、次のように述べている。

 「私などは将来疑い深いし、疑獄事件はえてして裁判の結果無罪判決、つまり検察の敗北に終わり易いものであり、かっての帝銀事件のように、検察のファッショと云われてもやむを得ないような空中楼閣的『事件』もあることを承知しているから、無邪気に検察の嫌疑を最終事実とすることはできない。仮に検察の嫌疑を最終事実とするなら、共産党の宮本委員長はリンチ事件殺人犯だし、松川事件は共産党のしわざ、創価学会の池田会長は買収の選挙犯罪者にされても仕方ない筈である。ならば共産党や公明党は、骨身に徹して検察の嫌疑を鵜呑みにしまいと注意してしかるべきなのに、この際検察の嫌疑の当否を疑ってみる考え方は持ち合わせていないらしい。マスコミや世論は、なおさらのことである」。  

 (れんだいこ評) そういうことである。共産党はかっての共産党ではなく今や日共と呼ばれる看板騙しのヌエ政党である。そういう政党だからであろうが、「宮顕戦前履歴のリンチ査問致死事件」については冤罪、角栄の首相犯罪については有罪の二枚舌を平気で使い分けている。この両事件での舌の使い方を比較してみるのも面白かろう。

 本書執筆当時に騒動化しつつあったグラマン疑惑について、ロッキード事件と比較して次のように述べている。

 「百数十日にわたった航空機疑惑(グラマン疑惑)の捜査が終結し、事件の全貌が明らかになったとは云えぬまでも、その輪郭はほぼ浮かび上がってきた。一言に云って、事件の表面化はロッキード事件が先だったが、事件の発生そのものは今回の航空機疑惑の方がはるかに古く、ロッキード事件は替え歌、ロッキード事件で現に刑事被告人の座にある田中角栄氏は単なる替え歌の歌い手、航空機疑惑こそ元歌、そして時効と職務権限と金銭授受の趣旨のカベによって刑事訴追とは関係なくて済んだのが松野頼三氏、あるいは松野氏の背後に潜む単数か複数かはさておいて保守政権のまさに奥の院に座す『巨悪』こそが元歌の歌手と云うことが、はっきりした。(中略) 

 航空機疑惑のキーポイントの一つである『海部メモ』は、十年も前から流布されているが、検察はこれを久しく怪文書扱いし、ニセ物視してきた。ロッキード事件の捜査の際に、それより古く発生していた航空機疑惑の関連資料が、有森国雄氏と云うキーパーソンの存在もあり、検察の手に入っていなかった訳はないのに、どういう訳か、検察はロッキード事件だけに焦点を絞り、同時並行してメスを入れてもいいはずの航空機疑惑については、放置してきた。そして、その中で、いわば元歌歌手の一人である松野頼三氏は、福田派を代表して送り込まれた『クリーン三木』政権の政調会長として、ロッキード事件の真相の徹底究明、関係者の責任の徹底追及を、声高に叫んでやまなかった」。 

 (れんだいこ評) その通りである。俵説の「ロッキード事件替え歌、グラマン事件元歌」論は表現も面白く且つ鋭く見抜いている。それにしても、元歌の松野、中曽根が見逃され、替え歌の角栄のみが徹底追及されたロッキード事件とは何だったのだろうと云う原点疑惑が残されていることになる。これにはしゃいだマスコミ、日共の胡散臭さも銘記されねばなるまい。

 本書の結びはこうである。

 「『大衆はつねに神のごときものだ』という言葉を、私は冒頭で述べたように、世論、大衆の判断は常に正しいものだという風には、理解しない。大衆はしばしば操作されるし、容易く間違う。日本人のように、熱しやすく冷めやすい民族、集団としての思考や行動になじみ、全体主義の政治の下にあったことが久しい国民では、なおさらのことであろう。しかし、世論や大衆をもてあそぶ者は、いつか必ず痛烈なしっぺ返しを受け、返り血にまみれる。その作用を通じて、大衆は『神のごときもの』になりうるのだと、私は思う」。 

 (れんだいこ評) 良い言である。

 2011.5.2日 れんだいこ拝

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