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2011年6月

2011年6月30日 (木)

「日本改造法案大綱」各論考その4、経済改造論(市場制社会主義考)

  「大綱」は次にいわば今日的な市場制社会主義論の先駆け理論を提起している。所有論のみならず産業形態論についても然りで卓越した見解を披歴している。俗流マルクス主義の如くな産業、事業の国有制理論を否定し、逆に民間的な事業活動の旺盛化を推奨している。その上で、「私人生産業の限度を資本壱千万円とす。海外に於ける国民の私人生産業また同じ」、「私人生産業限度を超過せる生産業は全てこれを国家に集中し国家の統一的経営と為す」と述べ、所有理論に於けるアイデアと同じような「私産限度制」を指針させている。これが北理論の白眉の第9政策である。

 北理論が「私人的生産業」を認める理由として、「国民自由の人権は生産的活動の自由に於て表われたるにつきて特に保護助長すべきものなり」と述べ、自由権の範疇で是認している。「マルクスとクロポトキンとは未開なる前世紀時代の先哲として尊重すれば可」と述べている。この辺りはマルクス主義がどう云おうと惑わされることのない確固とした北の分別だったように思われる。歴史は、北の認識方に軍配を挙げたように思われる。

 但し、「改造後の将来、事業の発達その他の理由によりて資本が私人生産業限度を超過したる時は全て国家の経営に移すべし」として大資本の国有化を指針している。その理由として、大資本化すると社会性を強め始めることにより国有化の方が相応しいことになり、故に転化させるべしとしている。企業が国家を超えるのは危険であるとして、国家の安寧秩序の観点からも国有化すべしとして次のように述べている。「積極的に見るとき大資本の国家的統一による国家経営は米国のトラスト、ドイツのカルテルをさらに合埋的にして国家がその主体たるものなり。トラスト、カルテルが分立的競争より遙かに有埋なる実証と理論によりて国家的生産の将来を推定すべし」。

 主要産業について混合経済体制論を打ち出し、公営事業と半官半民事業体、民営事業の適宜な仕分けを理想としている。本来これは「共産主義者の宣言」ではそうなっていたものを、その後の俗流マルクス主義が勝手に国有化オンリー論を打ち出した経緯があり、北の仕分け論の方がむしろ「共産主義者の宣言」の指針通りであるのは皮肉なことである。これが北理論の白眉の第10政策である。

 戦後憲法下での日銀の下での都市銀行、地方銀行と云う系列体制、国鉄に並列する形での民間電鉄体制等々を想起すれば良かろう。「親方日の丸式、護送船団方式」と云うことになるが、この仕組みが中曽根式民営化論によって毀損される前の1970年代までの日本経済の型であったことは衆知の通りである。

 「大綱」は「大資本家、大地主の独占排除」を打ち出している。「経済的貴族、黄金大名の権益独占を打破すべし」と述べ、概要「現時大資本家、大地主等の富はその実社会共同の進歩と共同の生産による富が悪制度の為に彼等少数者に蓄積せられたるものであるから社会に返還させるのは当然」と云う。言わずもがなであるが、少数者への富集中の排除を主張している訳で、私有財産制そのものの否定を唱えているのではない。これが北理論の白眉の第11政策である。戦後憲法下での公正取引委員会の役割などが北理論に基づいていると考えられよう。

 興味深いことは、現在、旧社会主義国がこぞって市場制社会主義論に向かおうとしていることであろう。先だっては遂にキューバが事業の国有制から市場制に転換する決議を見せた。旧ソ連、東欧諸国、中国然り。長い社会主義実験の廻り道をして漸く北式市場制社会主義論に戻った感がある。但し、これらの諸国が市場制社会主義論に転換したのか正真正銘の資本主義に向かい始めたのかは定かではない。しかし、今頃になって市場制社会主義に向かうとすれば、もっと早くに北理論に真摯に耳を傾け検討すれば良かったということになるのではなかろうか。

 「大綱」は次に、 「国家の生産的組織」として、銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省の7省を挙げ、それぞれの役割を記している。一々尤もな省ではある。「国家の非生産的組織」については言及していないが仮に外務省、自治省、法務省、厚生省、労働省を付け加えれば、戦後憲法下の省体制とさほど変わらない。

 続いて「莫大なる国庫収入」の項で、次のように述べている。「生産的各省よりの莫大なる収入はほとんど消費的各省及び下掲国民の生活保障の支出に応ずるを得べし。従って基本的租税以外各種の悪税は悉く廃止すべし。生産的各省は私人生産者と同一に課税せらるるは論なし」、「塩、煙草の専売制はこれを廃止し、国家生産と私人生産との併立する原則によりて、私人生産業限度以下の生産を私人に開放して公私一律に課税す」、「遺産相続税は親子権利を犯すものなるをもって単に手数料の徴収に止む」。

 これによると「基本的租税以外各種の悪税は悉く廃止すべし」とある。「国家生産と私人生産との併立する原則」を打ち出しており、「私人生産業限度以下の生産を私人に開放」ともある。今頃の言葉で云えば要するに規制緩和であろう。1980年以降の規制緩和が外国資本の参入の規制緩和であって、国内の民間事業に対しては規制強化に向かっているのは見事なお笑いと云うことになろう。

 北理論のこれらにつき、れんだいこに異存はない。若干の手直しと精緻さを追求すればなお面白いと思う。

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2011年6月28日 (火)

「日本改造法案大綱」各論考その3、経済改造論(私有財産制考)

  「大綱」は次に経済改造に向かっている。第2章「私有財産限度」、第3章「土地処分三則」、第4章「大資本の国家統一」に記されている。まず、俗流マルクス主義の如く私有財産制を否定するのではなく主として肯定している。具体的には高額所得制限を課す(一家で100万円の仕切りを設けて私有財産を認め、財産の規模が一定以上となれば国有化の対象とする)ことによって所得に釣り合いのとれた社会を構想している。これを仮に「私産限度制」と命名する。

 「限度以下の私有財産は国家又は他の国民の犯すべからざる国民の権利なり。国家は将来ますます国民の大多数をして数十万数万の私有財産を有せしむることを国策の基本とするものなり」(「私有財産の権利」の項)として、これにより社会主義的要素を兼ね備えた経済体制へと移行するとしている。これが北理論の白眉の第5政策である。戦後憲法に累進課税が導入されているが、北理論の反映と思われる。

 北の改造案はマルクス主義に似て且つ非なる二面性を持っているところに特徴がある。この場合の「似て非なる」とは、「似ているがまるで異なる」と云う意味ではなく、「一見否定しているようであるが、実質的により良いものを対置している。むしろ違うようで似ている面が強い」ように思われる。

 「大綱」は、私有財産制肯定につき次のように述べている。「個人の自由なる活動又は享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず」と述べ、私有財産は人間性の本源的なものであるとしている。その上で、「人は物質的享楽又は物質的活動そのものにつきて画一的なるあたわざればなり」と述べ、俗流マルクス主義の「貧富を無視したる画一的平等理論」を否定している。

 概要「私有財産制は自由の物質的基本の保証に関わっており、民主的個人の人格的基礎は即ちその私有財産である。私有財産を尊重せざる杜会主義は、如何なる議論を長論大著に構成するにせよ、要するに原始的共産時代の回顧のみ」と判じている。即ち、北理論によれば「適当の私有財産は個人の自由なる活動、又は享楽に関係しており進化の一つの原動力」とみなしていることになる。その上で「活発な経済活動が私的所有なしには展開しえない」との認識を示している。更に北は、私有財産制が労働意欲に関係することを見抜きいている。その上で、北式高額所得制限政策を自画自賛している。北理論のこの正しさは、歴史によって軍配が挙げられているのではなかろうか。

 「平等分配の遺産相続制」の項で、「長子相続制は家長的中世期の腐屍のみ」として「均等相続制」(「平等分配の遺産相続制」)に言及している。これも戦後日本国憲法に反映している。これが北理論の白眉の第6政策である。但し、均等相続制にしながら家督権継承者に一定の配慮をすべしとでもすれば、戦後憲法の均等相続制の弊害を修正せしめるであろうが、この方面の言及はない。

 次に、土地の私的所有制に言及している。私有と公有の両形態を認めた上で合理的な仕分けを弁じている。俗流マルクス主義の一律的国有化論、「画一的平等の土地分配論」を斥け、「物質的生活の問題は或る画一の原則を想定して凡てを演繹すべきに非ず」、「国家はその国情の如何を考えて最善の処分をなせば可なりとす」と判じている。革命ロシアの土地没収政策に対して「維新革命を五十年後の今に於いて拙劣に試みつつあるものに過ぎず」、「土地問題に於いて英語の直訳やレ―ニンの崇拝は佳人の醜婦を羨むの類」と弁じている。この言は、進行しつつあるソ連の社会主義的政策を「同時代に於いて批判」しているところに値打が認められる。

 「大綱」は、一般的な土地所有と都市の住宅地と農地とを区別して、一般的な土地所有については「日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす。この限度を破る目的をもって血族その他に贈与し又はその他の手段によりて所有せしむるを得ず」、「私有地限度以上を超過せる土地はこれを国家に納付せしむ」としている。

 農地については「農業者の土地は資本と等しい」として、「農業者の土地は資本と等しくその経済生活の基本たるをもって、資本が限度以内に於て各人の所有権を認められるる如く、土地も又その限度内に於て確実なる所有権を設定さるることは国民的人権なり」としている。「国家は皇室下附の土地及び私有地限度超過者より納付したる土地を分割して土地を有せざる農業者に給付し、年賦金をもつてその所有たらしむ。年賦金額年賦期間等は別に法律をもって定む」と述べ、自作農制の創出を促している。これが北理論の白眉の第7政策である。戦後の農地解放による自作農創出は、この北理論に照応していることになる。

 私有財産制、土地の私的所有制に関して次のように弁論している。「この日本改造法案を一貫する原理は、国民の財産所有権を否定するものにあらずして、全国民にその所有権を保障し享楽せしめんとするにあり。熱心なる音楽家が借用の楽器にて満足せざる如く、勤勉なる農夫は借用地を耕してその勤勉を持続し得る者に非ず。人類を公共的動物とのみ、考うる革命論の偏局せることは、私利的欲望を経済生活の動機なりと立論する旧派経済学と同じ。共に両極の誤謬なり。人類は公共的と私利的との欲望を併有す。従って改造なるべき社会組織また人性を無視したるこれら両極の学究的憶説に誘導さるることあたわず」。 

 小作人問題に対しては、存在はやむを得ずとしている。理屈で解決できない長い歴史性の問題であるとして次のように述べている。「全てに平等ならざる個々人はその経済的能力享楽及び経済的運命に於いても画一ならず。故に小地主と小作人の存在することは神意ともいうべく、且つ杜会の存立及び発達の為に必然的に経由しつつある過程なり」。

 他方、都市の住宅地については私有を認めず、都市土地市有制を打ち出している。その理由として、都市の地価が騰貴するのは「土地所有者の労力に原因する者に非ずして大部分都市の発達による」ものであり、従って地価騰貴の利益を宅地所有者に与えることはできないとしている。都市居住者は市に借地料を支払い、地価の騰貴は借地料の騰貴となって市財政をうるおすという経済循環を想定していることになる。「五年目ごとに借地料の評価を為す」ともしている。これが北理論の白眉の第8政策である。戦後日本に於いては都市の土地も民有制にしているが、北理論は少なくとも固定資産税、都市計画税の先駆け理論となっているのではなかろうか。

 家屋については、「家屋は衣服と等しく各人の趣味必要に基づくものなり」として、規制不要論を唱えている。「ある時代の社会主義者の市立の家屋を考えし如きは市民の全部に居常且つ終生画一なる兵隊服を着用せしむべしと云うと一般、愚論なり」と判じている。他方、「国有地たるべき土地」の項を儲け、「大森林又は大資本を要すべき未開墾地又は大農法を利とする土地はこれを国有とし国家自らその経営に当るべし」、「全てを通じて公的所有と私的所有の併立を根本原則とす」と弁じている。

 北理論のこれらにつき、れんだいこに異存はない。若干の手直しと精緻さを追求すればなお面白いと思う。

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2011年6月27日 (月)

「日本改造法案大綱」各論考その1、政治改造論(議会制考)

  北は、かく象徴天皇制論、民族主義論、国家主義論、天皇親政クーデター発動論を述べた後、具体的には「三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令を布く」と云う。

  戒厳令下で最初に為すことは、華族、貴族院の廃止による宮中の一新、現時の枢密顧問官その他の官吏を罷免、天皇を補佐し得べき器を広く天下に求め天皇を補佐すべき顧問院を設け天皇が任命し議員50名とする、「華族や貴族院を廃止する代わりに審議院を置き衆議院の決議を審議せしむ。その審議院議員は各種の勲功者間の互選及び勅選による」としている。加えて、「特権的官僚閥、軍閥の追放。新たな国家改造を行うための議会と内閣の設置」を指針させている。

  憲法の3年間停止を主張した理由について、北は、二・二六事件の軍法会議法廷に於いて「戒厳令下に於て時局事態を収拾せられるに際し、不忠なるものが憲法に依り貴衆両議会を中心に、天皇の実施せられる国家改造の大権を阻止するを防止する為、論じてあるものであります」と述べている。法廷での北の弁明をもっと知りたいが、これ以上は分からない。どなたかサイトアップ頼む。

  華族、貴族院の廃止、その代わりとしての顧問院の設置なる政策は一考に値する。北理論では天皇の補佐機関として位置づけられているが、これを仮に議会の補佐機関として位置づけるとどうなるか。「器を広く天下に求める」とあることからすれば、政財官学報司警軍の八者機関及び労働界、文化人、スポーツ選手等で有能なる能力を証明したものから構成される機関として焼き直しできる良案ではなかろうか。参議院を有識者に限定縮小し、参議院の中に顧問院を組み込むとかの方法さえ考えられよう。現下の特徴の薄れつつある衆参二院制よりよほど実効的であるように思われる。こういう先駆け提案を随所にしているところが北理論の魅力であろう。

  次に、25歳以上の男子普通選挙の実施を指針させている。「納税資格の拡張せられたる普通選挙の義にあらず。徴兵が国民の義務なりという意義に於いて選挙は国民の権利なり」と位置付けている。「女子の参政権を有せずと」としている。これについては、別章「女性の保護政策考」で触れることにする。

  議会は「改造を協議せしむ」機関として位置づけられている。内閣について、「戒厳令施行中現時の各省の外に下掲の生産的各省を設け、さらに無任所大臣数名を置きて改造内閣を組織す」、「改造内閣員は従来の軍閥、吏閥、財閥、党閥の人々を斥けて全国より広く偉器を選びてこの任に当らしむ」とある。

 これらによれば、象徴天皇制下での議会の積極的活用を主張していることになる。表見的には「天皇親政独裁国家」となるが、南北朝時代の後醍醐天皇の御代の如くの公家政治復古に向かうのではなく、フランス革命以来の近代的な議会政治の役割を強めようとしていることになる。いわば「天皇制議会政治」とでもいうのだろうか。留意すべきは、単に普通選挙により人選するのみでなく、真に優秀な人士を各界から選出し参画させようとしている工夫が認められることである。これが北理論の白眉の第3政策である。戦後憲法では、男子普通選挙のみならず女子の選挙権も与えられているのは衆知の通りである。

 今思うに、戦後憲法下の二院制による議会制民主主義、議院内閣制の結果として菅派政権の如くな愚劣お化けの政治が現出している。日本政治の中枢にありながら合法的な売国政治を上から陣頭指揮しているところに特徴がある。こういう政治を生みださない為の仕掛けが必要であり、戦後憲法体制には何か重要な欠陥があると云うことになるのではなかろうか。これは憲法改正論シフトで云うのではない。護憲的立場から何か一つつっかえ棒が要るのではないかと思う。

 もとへ。北は、天皇制議会政治の翼賛団体として在郷軍人団会議を立ち上げ、改造内閣に直属したる常設機関とし、国家改造中の秩序維持と共に例えば各地方の私有財産限度超過者を調査し、その徴集に当らしむ等々様々な役割を果たさせようとしている。

 在郷軍人とは「かって兵役に服したる者」を云い、「その大多数は農民と労働者なるが故に、同時に国家の健全なる労働階級なり」と看做している。「ロシアの労兵会及びそれに倣いたるドイツその他の労兵会に比する組織である」としている。これによれば、在郷軍人団会議が「愛国的常識を持つ日本式労農ソビエト」と見立てられていることになる。「現在の在郷軍人会そのものにあらず。平等普通の互選により選出される」として民主化を要請している。立法機関を補翼する施行機関的役割を担う機関として活用が目論まれていることになる。これが北理論の白眉の第4政策である。

 してみれば、天皇親政の下で審議院、議会、在郷軍人団会議を三種の神器とする政治体制を構想していたことが分かる。北理論に陥穽があるとすれば、天皇親政、審議院、議会、在郷軍人団会議のそれぞれのベクトルが親和統合された場合の理想であり、対立し始めたらどうなるかであろう。クーデター式強権政治はクーデターによって覆され、それが繰り返されると云う泥沼に嵌まる恐れがなきにしもあらずであろう。そういう危惧があるが、一つの政治体制論としてみなせば傾聴に値するのではなかろうか。

 もう一つは、クーデター発動の権限者として天皇が政治利用される仕掛けにされているが、当の天皇自身の思惑はどうなのかということであろう。分かり易く云えば「有難迷惑」とされる場合もあろうし、時の天皇自身が国際金融資本側に取り込まれていたらどうなるのかという問題がある。現に、この理論的欠陥が2.26事件で露呈し、北自身が刑場に追い込まれることになった。歴史にイフが許されるなら、刑場から奇跡の生還をした北がどういう風に理論改造したか見てみたい。

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2011年6月26日 (日)

「日本改造法案大綱」各論考その1、政治改造論(天皇制考)

 「大綱」はまず政治改造論から説き起こしている。ここでは第1章「国民の天皇」の天皇論の要点を確認する。最初に天皇の位置に言及して、曰く「国民信仰の伝統的中心」、「国民の総代表」、「現代民主国の総代表として国家を代表する者」、「国家の根柱たるの原理」と述べ、ここに天皇制の本質と基盤を見出している。

 「日本国民の国家観は国家は有機的不可分なる一大家族なりという近代の社会有機体説を、深遠博大なる哲学的思索と宗教的信仰とにより発現せしめたる古来一貫の信念なり」とも述べ、ここに天皇制の論拠を見出している。これを仮に「象徴天皇制論」と命名する。これが北理論の白眉の第1政策である。北式天皇制論に於ける政治的活動を制約し、文化的象徴制の面を濃くしたものが戦後憲法に取り入れられていると考えられる。

 留意すべきは、これも「マルクス主義の北式改造」に由来していると考えられることである。俗流マルクス主義の王朝打倒論に反対し、堂々と天皇制護持論を打ち出していると読むべきだろう。北理論の場合、殆ど全て俗流マルクス主義との理論的確執から生まれていることを窺うべきだろう。北理論は全般にわたってマルクス主義の北式改造を試みており、結果的に反対の政策を打ち出しているが、北式革命の青写真即ち国家改造論を提示していると解するべきであろう。

 北は、1923(大正12)年の「改造法案」改題刊行に際して内容に若干の修正をしている。最も重要なものとして、「天皇は第三期改造議会までに憲法改正案を提出して改正憲法の発布と同時に改造議会を解散す」としていた規定を削除して次のように書き換えている。本文「国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討論することを得ず」。

 これによれば、天皇の絶対主義的権限を打ち出しているように思われる。してみれば、北理論は、天皇の権限と地位を「君臨すれども統治せず」式に留めるのではなく、天皇の神格化と絶対主義権限化を強めることにより能動的な政治的役割を果たさせようとしていることになる。

 その理由として、注4で「かかる神格者を天皇としたることのみに依りて維新革命は仏国革命よりも悲惨と動乱なくして而も徹底的に成就したり。再びかかる神格的天皇に依りて日本の国家改造はロシア革命の虐殺兵乱なくドイツ革命の痴鈍なる除行を経過せずして整然たる秩序の下に貫徹すべし」と述べている。これによるとフランス革命、ロシア革命の動乱的事態による流血、ドイツ革命の遅滞を防ごうとして、天皇制にこのような意味と役割を負託せんとしていることが分かる。逆に天皇制強化に向かおうとしていることになる。

 北は他方で、「皇室財産の国家下附」の項目を設け、「天皇は自ら範を示して皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す」、「皇室費を年約三千万円とし、国庫より支出せしむ。但し、時勢の必要に応じ議会の協賛を経て増額することを得」としている。これによれば、政治的には天皇制を強化するが、経済的にはむしろ皇室財産を制限しようとしていることになる。日本一の財産王としての絶対主義王政的な天皇制ではなく、財政的に議会に婚と炉―される天皇制を展望していることになる。これも戦後憲法に取り入れられているのは衆知の通りである。

 北は続いて天皇親政クーデター発動論を打ち出している。北史観によれば、日本は明治維新によって天皇を政治的中心としたる近代的民主国となったにも拘わらず、財閥や官僚制、それに尻尾を振っておこぼれや名誉を得ようとする政党政治家によってこの一体性が損なわれ、天皇制が捻じ曲げられているとした。この弊害を取り除かなければ幕末維新―明治維新以来の流れが全うしないとして天皇大権クーデターを発動し、あるべき天皇制の姿に戻すことを目論んでいる。

 北式クーデター論がこのように位置付けられていることを確認しておく必要があろう。それは、幕末維新―明治維新以来のいわば永続革命の夢を求めており、その方法として天皇親政クーデター発動論を主張していることになる。これは天皇の政治利用論である。その是非はともかく北の天皇制論が制度そのものの盲信パラノイア的なものではないことが分かる。

 留意すべきは、この手法も明らかにマルクス主義的階級闘争論に掉さしているところに意味がある。西欧的な革命はよしんば階級闘争論で遂行されようとも、日本には別途の日本式革命があり、それは「天皇親政型の政治革命」であるとして対置していることになる。その是非はともかく、マルクス主義式階級闘争論に代わる革命論として維新論を提起している点が注目されるべきだろう。

 なお、北式クーデター論は、ナポレオンクーデター、レーニンクーデターと等値させており、次のように述べて是認している。概要「クーデターを保守的権力者の所為と考うるは甚だしき俗見なり。クーデターは国家権力即ち社会意志の直接的発動と見るべし。その進歩的なるものにつきて見るも国民の団集そのものに現わるることあり。日本の改造に於いては必ず国民の団集と元首との合体による権力発動たらざるべからず」。

 ちなみに、北はマルクス及びマルクス主義に対して次のように述べている。但し、23年の改題刊行にあたって、この部分が削除されているとのことである。「マルクスの如きはドイツに生れたり雖も国家なく社会をのみ有するユダヤ人なるが故にその主義を先ず国家なき社会の上に築きしといえども、我が日本に於いて社会的組織として求むる時、偏に唯国家のみなるを見るべし。社会主義は日本に於いて国家主義そのものとなる」。

 これによれば、マルクス主義の国家無用論はマルクスのユダヤ人性によるものであり、本来の社会主義理論に於いては国家無用論は必然とならない、むしろ国家社会主義として達成されると指摘していることになる。歴史の軍配は、北理論の方に挙げているのではなかろうか。

 このことと関連させて、北は、民族主義、国家主義を打ち出している。マルクス主義の階級闘争論を一定認めつつも、民族主義、国家主義を溶解していることにつき次のように批判している。「階級闘争による社会進化は敢えてこれを否まず。しかし、人類歴史ありて以来の民族競争国家競争に眼を蔽いて何のいわゆる科学的ぞ」。

 これによると、北は、マルクス主義的階級闘争論は認めよう、但し、民族問題、国家問題に眼を塞いではならないとしていることになる。ここにも、北とマルクス主義の観点の差が見て取れる。しかして、これまた歴史の軍配は北理論の方に挙げつつあるのではなかろうか。これを北理論の白眉の第2政策と見立てたい。

 問題として、この民族主義、国家主義が自国利益中心の排外主義に陥ることなく世界と協調平和的なものとして創出できるかどうかであろうが、北理論はここを解明していない恨みがある。我々が知りたいのは、排外主義に陥ることのないような形での各国の伝統文化に根差した多様な民族主義、国家主義が有り得るのかどうか、有り得たとして戦後憲法の説く国際協調平和主義に連動するのかどうかということであるが、これについては考察していない。

 以上、簡略であるが北理論の天皇制論として確認しておきたい。

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2011年6月24日 (金)

「日本改造法案大綱」考その5、北理論の史的位置と意義考

 1919(大正8)年、北36歳の時、8月、北は約40日の断食後に霊感に導かれるかのようにして「国家改造案原理大綱」」(以下、単に「大綱」と記す)を草稿した。この時までの北は、大老国と化した清国が西欧列強の植民地化の憂き目で辛吟しており、孫文らの日本の幕末維新の中国版としての辛亥革命に賛意して革命軍に馳せ参じ、二度目の渡航で上海に寄寓していた。この経験から逆に照射された日本革命の在り方、アジアの在り方に思いを馳せ「時代の処方箋」を考案した。世界の現状を「国際的戦国時代」と捉え、「全世界に誇る大富豪の英国、地球北半の大地主の露国」を筆頭とする西欧列強に対抗する日本の使命を見出そうとしていた。

 「誠に幕末維新の内憂外患を再現し来れり」の危機感を抱きながら「来るべき可能なる世界平和」の創出を構想し、「先住の白人富豪を一掃して、世界同胞の為に真個楽園の根基を築き置くことが必要なり」とした。その際、日本を「東西文明の融合を支配し得る者、地球上只一の大日本帝国あるのみ」と位置づけ、「アジアの雄として屹立すべきである」とし、その上で真の世界連邦に向けての旗手足らんとした。その為に日本を精強国家に仕立てねばならぬとした。

 北は、「大綱」緒言で、「いかに大日本帝国を改造すべきかの大本を確立し、国論を定め、大同団結を以て終に天皇大権の発動を奏請し、天皇を奉じて速かに国家改造の根基を完うせざるべからず」と述べている。この趣意に基づき、日本をこの国家的使命に奮い立たせる為の国家改造を立案した。

 それは、日本独特の政治形態である天皇制をマルクス主義派の如く打倒する方向に向かうのではなく、むしろ天皇制を積極的に称揚善導し政治利用せんとした。この総路線に基づき全8章の日本改造論を唱えたのが「大綱」であり、いずれも国家組織の有機的改造論即ち構造改革論もしくは革命論となっている。全8章とは、第1章「国民の天皇」、第2章「私有財産限度」、第3章「土地処分三則」、第4章「大資本の国家統一」、第5章「労働者の権利」、第6章「国民の生活権利」、第7章の「朝鮮その他現在及び将来の領土の改造方針」、第8章「国家の権利」を云う。明治維新体制転換の大改造論であり、北式憲法草案となっている。

 このような気宇壮大な企てをした者が北以外に居るだろうか。こう問わねばなるまい。しかも、改造案の全編が大胆な提言であると同時に今日的に見ても評価に耐え得る珠玉の教示となっている。その多くが戦後憲法に結実していることは既に述べた通りである。これも既に指摘したが、右翼的国家主義理論の表装ではあるが、中身は左翼的なものであり、もっと云えばマルクス-エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」を強く意識して書かれた北式の焼き直し版であり、北式日本革命論として位置づけられるべき代物となっている。北を措いてこのようなものを創案し得る者が居ただろうか。これも既に述べたが、居たとすれば幸徳秋水、大杉栄以外には考えられない。北の「日本改造論」はこのセンテンスで読まれねばなるまい。

 それ以前にもその後も日本に多くのマルクス主義者が生まれたが、多くの者は教本を鵜呑みにし、お気に入りのフレーズを人より多く諳(そら)んじることでマルクス主義者ぶりを競ってきた。しかし、北は恐らくマルクス主義を貪るように読み、それまで形成してきた自己の史観とマルクス主義を徹底的に擦り合わせ、遂に北式マルクス主義を構築した。ここに北の異能性が見て取れよう。このことを一言言及しておきたかった。

 「大綱」は結びの「給言」でこう述べている。「マルクスとクロポトキンとを墨守する者は革命論に於いてローマ法皇を奉戴せんとする自己矛盾なり。英米の自由主義が各々その民族思想の結べる果実なる如く、ドイツ人たるマルクスの社会主義、ロシア人たるクロポトキンの共産主義が幾多の相異扞格せる理論をもって存立することは各々その民族思想の開ける花なり。その価値の相対的のものにして絶対的にあらざるは勿論のこと」。この言を深く味わうべきではなかろうか。

 更に、「故に強いてこの日本改造法案大綱を名づけて日本民族の社会革命論なりという者あらば甚だしき不可なし。しかしながらもしこの日本改造法案大綱に示されたる原理が国家の権利を神聖化するを見て、マルクスの階級闘争説を奉じて対抗し、あるいは個人の財産権を正義化するを見てクロポトキンの相互扶助説を戴きて非議せんと試むる者あらば、それは疑問なくマルクスとクロポトキンの智見到らざるのみと考うべし。彼らは旧時代に生れ、その見るところ欧米の小天地に限られたるのみならず、浅薄極まる哲学に立脚したるが故に、躍進せる現代日本より視る時、単に分科的価値を有する偏に先哲に過ぎざるは論なし」と述べている。「マルクス、クロポトキン何する者ぞ」の心意気が伝わる語りである。北のこの心意気に対するれんだいこ評は最後に記すことにする。

 以下、「日本改造法案大綱の各論を寸描しておく。詳細な検証は他の論者に譲り、ここでは要点を確認することにする。「大綱」の言及順に精査するのではなく、テーマ別に整理統合して北理論を解析することとする。但し、単に解説するだけは興が湧かないので常時れんだいこコメントを付し対話式に確認することにする。その出来映えの評を賜わらん。

 北の著作は、1906(明治39)年の「国体論及び純正社会主義」、1919(大正8)年の「国家改造案原理大綱」、1935(昭和10)年の「支那革命外史」の三冊である。但し、「国家改造案原理大綱」は1923(大正12)年に「日本改造法案大綱」として改訂版が出されている。これを新刷と見れば4冊と云うことになる。本来は、これら全てに通暁しておけばなお能く理解でき、思考の発展経緯等々が分かるのであろうが今はまだ読めていない。その段階での解析とする。

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2011年6月19日 (日)

「日本改造法案大綱」考その4、北理論の生命力考

 北理論のその後の生命力について言及してみたい。れんだいこは、先の大戦の終戦処理時に於ける昭和天皇最側近の近衛公の次の提言の意味が分からなかった。これを愚考する。

 1945(昭和20).2.14日、昭和天皇に次のように述べて敗戦への英断を催促している。これを「近衛上奏文」と云う。近衛は、次のようにソ連の赤化攻勢を危惧している。

 「国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。つらつら思うに、我が国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存じ候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存じ候」。

 近衛は次に、以下の如くソ連の赤化攻勢に呼応する国内諸勢力を指摘している。

 「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有りの候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有りの候。少壮軍人の多数は、我が国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にもこの主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、ただ彼らは軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るをもって、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼らを引きずらんとしつつあるものに御座候」。

 近衛は次に、以下の如く軍部内の革新派の動きに神経を尖らせている様子を伝えている。

 「そもそも満州事変、支那事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、これら軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存じ候。満州事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、『事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる』と公言せしは、この一味の中心人物に御座候。これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(これを右翼と云うも可、左翼と云うも可なり。いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと存じ候。この事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、この結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖はこの間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけこれら革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼らの主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳なく、深く責任を感ずる次第に御座候」。

 近衛は次に、以下の如く軍部内の革新派と国内の共産勢力との合体を危ぶみ、その動きに神経を尖らせている様子を伝えている。その上で、共産革命より日本を救う為、国体護持の為に一日も速かなる戦争終結への聖断を促している。

 「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを加えつつありと存じ候。かかる主張をなす者は、いわゆる右翼者風なるも、背後よりこれを扇動しつつあるは、これによりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達っせんとする共産分子なりと睨みおり候。一方に於て徹底的英米撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。

 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展可致と存じ候。戦局の前途につき、何らか一縷でも打開の望みありと云うならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争をこれ以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存じ候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信つかまつり候」。

 ここで、「近衛上奏文」を引き合いに出すのは、先の大戦末期に「軍部の革新派」がそれほどに恐れられていたことを確認したいが為である。ここで云う「軍部の革新派」とは文面から見て皇道派を指しているように思われる。軍部の革新派即ち皇道派ではないものの、主力は皇道派を指しているものとして了解したい。皇道派は2.26事件で徹底的に殲滅解体されたが、それは表向きの話であって裏では隠然とした勢力を保持していたのではなかろうか。これを皇道派の生命力、北理論の生命力として確認しておきたい。

 「敗戦末期に於ける皇道派の台頭」、これを抑えるのが、早期終戦の理由の一つであった。この事実は案外知られていないのではなかろうか。為政者が何の為にかほどに皇道派を恐れていたのだろうか。この辺りは秘密のヴェールに包まれている。

 ところで、「近衛文麿上奏文」による「共産革命の危機」はどの程度現実味があったのであろうか。れんだいこは従来、北の「日本改造法案大綱」を読み、その生命力を知るまで次のように評していた。

 「私は、その後の推移から見て、一種のマヌーバーではないかと受け止めている。まったく根拠がないというわけではないが、今日でも支配当局が自己撞着的な窮地に陥った場合にその方針を転回させる際の常用策として容易に利用されている『共産党を利する、共産主義者を台頭せしめる』という言い回しの一つであって、単に格好の大義名分的な警句でしかないのではなかろうか、と穿つ。従って、実際に充分な根拠があったとはみなせず、又その言い回しでもって、あたかも革命の情勢が到来していたと左翼が我田引水するのは当たらないように思われる」。

 しかし、 北の「日本改造法案大綱」を読み、その生命力を知った今次のように考えている。以下訂正しておく。

 「先の大戦の終戦期、天皇派が最も危惧したのは北理論を信奉する皇道派の動向であった。皇道派が共産革命派と提携することを最も恐れ、『この一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉り存じ候』とある通り、共産革命の危機よりも、皇道派の動向に神経を尖らせていたことが分かり興味深い。これが早期終戦の裏側の舞台であったことになる。皇道派の実力、徳性がかくも恐れられていたことが判明する。それほどに恐れられる皇道派とは何者ぞ何故ぞ、ここが興味深い」。

 2011.6.19日 れんだいこ拝

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「日本改造法案大綱」考その3、北式維新の歪みと限界考

 そういう効能を持つ「国家改造案原理大綱」であるが、北式維新論を手放しで礼賛することはできない。その特徴を一言で云えば建軍主義であろう。これに日本型天皇制論が絡んでいる。日本型天皇制論とは、イタリアの伝統的な古典的政治論としての元々の意味での祭政一致的なファシズムのようなものであり、巷間で唾棄されている強権政治形態としてのファシズムではない。北理論は、日本型天皇制ファシズムによる建軍主義に基づく維新論を唱え、そのようなものとしての日本型革命を展望していると云う構図を見せている。その是非を論ずればキリがないので割愛するとして、北理論の歪みと限界を確認しておくことにする。

 北式維新論の歪みとは、その建軍主義論の陥穽に起因している。北によれば、日本文明の上下紐帯的質が西欧的侵略主義に対抗し得るものであるとして、日本文明の汎アジア化、世界席巻化を企図して、それが為に好戦主義理論を生み出している。建軍主義は好戦主義の戦略戦術理論となっている。しかし、ここで考えなければなるまい。幕末維新から明治維新を経ての日本の近代化過程で発生した好戦主義そのものが、北が拒否する西欧思想そのものによって造られたものではないのか。

 これをもっと精密に云えば、幕末維新から明治維新の過程で大手を振って侵入した国際金融資本帝国主義こそが戦争と革命の震源地であり、その為の軍資金として国債を乱発させ、消費税のような大衆課税を宛てさせ、にも拘わらず財政危機に陥らせ、そうすることで裏から金融コントロールする形で各国を籠絡させると云う支配の方程式を編み出している。これを思えば、北式好戦主義論は、そのお膳立てにまんまと乗っているのではないのか。

 北理論は、西欧的侵略主義に対置させて日本文明の質論を唱えているが、結果的に、その日本文明の質論を通して建軍主義、好戦主義と云う国際金融資本帝国主義の戦略戦術に乗せられている。日本文明の質論は、果たして北のように建軍主義、好戦主義へと繋げるものだろうか。本来の日本文明の質論は、それでもってアジアの団結と平和を求め、西欧列強の植民地政策に対抗する為に使われるべきものであって、北式建軍主義、好戦主義が導き出される必然性はない。

 北理論は、西南の役で散った西郷どんの維新論を悪しき方向に転じているのではないのか。当然その他の抵抗主義論、反戦平和論等も考えられるところ敢えて、国際金融資本帝国主義の策略に乗っているところが臭い。そういう意味では、北ほどの思想家をしても時代の事大主義に陥っていると思わざるを得ない。北自身にそういう事大主義的な気性があるのかもしれない。これが北式維新論の歪みであると思う。

 この北式維新論の歪みはそのまま北理論の限界に繫がっている。北理論の限界とは、北が国際金融資本帝国主義論を獲得していないことに見て取れる。これにより北理論の総体が足元を掬われる結果に導かれているように思われる。尤も、北の時代、今日の如くな国際金融資本帝国主義論はなかった。それ故に、北がこの理論に基づく戦略戦術を打ち出しえなかったことを咎めることはできない。

 興味深いことは、北は、直に国際金融資本帝国主義論を語ることはなかったものの、驚くべきは手探りで国際金融資本帝国主義論の数歩手前まで論を張っていることである。「英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり」なる言説が一例であるが、そういう言い回しでもって欧米的な西欧列強による支配の狡猾さ、悪辣さを見抜き警鐘乱打している。それに対抗せんが為に日本を維新革命の根拠地とする世界席巻論を打ち出している。が、述べたように容易に帝国主義国家の仲間入りでしかない好戦論へ誘われている。

 北は、この辺りをもう少し極めるべきであった。北にあと少しの寿命があり、執筆活動が許されたならば日本で初めて国際金融資本帝国主義論を説いた第一人者に成り得ていた可能性があると思われる。そういう意味で、北の早世が惜しい。同じような早世組に幸徳秋水、大杉栄が居る。幸徳は大逆事件の咎で1911(明治44)年に、大杉は関東大震災に乗じて甘粕事件で1923(大正12)年に、北一輝は2.26事件の首謀者として1937(昭和12)年に処刑された。れんだいこの判ずるところ、「幸徳秋水、大杉栄、北一輝」の三名こそは、日本左派運動の真正の有能者であり、日本近代思想の中で国際金融資本帝国主義論の扉を開けかけていた異能士であった。それ故に理不尽な処刑が強制された、このことにより戦前の日本の思想家の能力の背丈が著しく低くなったと思わざるを得ない。誰か、かく共認せんか。

 ところで、国際金融資本帝国主義論は比較的新しい理論であり、大田龍をもって嚆矢とする1990年代の所産理論である。太田氏は国際金融資本帝国主義論とまでは述べていない。こう述べたのはれんだいこであり、故に造語責任はれんだいこにある。大田氏が国際金融資本論を説きながら、それに帝国主義論を結びつけなかったのは、「西欧列強の各国ごとの不均等発展による市場争奪が戦争原因とする理論」を要とするレーニン式帝国主義論に拘泥しており、帝国主義をして各国ごとの政体分析に留めるのを常識としていたことに起因しているように思われる。

 れんだいこは、国際金融資本そのものが裏国家でありと看做しており、これに帝国主義を規定したとして何ら問題ないとして垣根を取り払い、造語することに成功したと自負している。その国際金融資本帝国主義の支配イデオロギーがネオシオニズムであり、哲学がユダヤ教タルムードである。その他エトセトラで構成されている。これが近代から現代を支配する支配思想である。

 もとへ。北には、このような史観がない。ここに北理論の致命的な欠陥が認められる。北は、この欠陥を抱えたまま建軍主義且つ日本型天皇制ファシズムによる維新革命論を唱え、それが2.26事件の暴発を生み、それが北自身を絞首刑へ導く結果になった。その背景には、北及び2.26事件決起青年将校らが国際金融資本帝国主義論へと至らぬうちに「若葉のうちに、その芽を摘まれた」と思わねばならない。

 そういう意味で、2.26事件に連座し処刑された北は、2.26事件との関わり故に責めを負い処刑されたのではない。かの程度の容疑であれば禁錮刑で足りて居たものを即断で処刑されているところに意味がある。その理由は、早晩、北思想が国際金融資本帝国主義派の陰謀を嗅ぎ分け、警鐘乱打して行く危険性があった故に始末されたと判ずる以外にない。

 北は、国際金融資本帝国主義者に無警戒なまま国際金融資本帝国主義者によって処刑された。その北の2.26事件連座時の公判に於ける弁明を確認したいが分からない。北は、どのように罪を被りあるいは容疑を否認したのだろうかを知りたい。

 北の公判記録は探せば手に入るのか歴史の表に出ないよう秘されているのか分からない。もし公開されているのなら、どなたかがサイトアップして欲しい。インターネット上に出てくる情報は政治論に限って云えば軽薄な類のものしかなく、肝心要のものは厳として規制されている気がしてならない。当然、基準は国際金融資本帝国主義にとって好ましいか好ましくないのかである。そうとしか考えられない。我々は、そう云う情報コントロール下に置かれており、そういう意味での表見民主主義の上で安逸させられていると思うべきであろう。

 2011.6.19日 れんだいこ拝

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「日本改造法案大綱」考その2、北式維新革命論の青写真考

 北式維新革命論には、左翼から見て首肯し難い点が多々あるのも事実である。れんだいこから見て、北思考の癖及び限界を指摘するのは訳はない。これについては別サイトで考察する。しかし、それを割り引くならば、北式革命論の興味深い点は日本をどう云う風に改造しようとしていたのか、その出来栄えにある。何と、マルクス―エンゲルスが著わした「共産主義者の宣言」本文2の「プロレタリアと共産主義者」の末尾に示していた「社会主義革命の青写真的過渡的政策」を忠実に咀嚼し、大胆に取り入れている。当時に於いて、この件(くだり)を北ほどに忠実に理解し、日本改造施策にせんとしていた者は他には居ないのではなかろうか。この点で、北は当代随一の頭脳足り得ていたのではなかろうかと評したい。

 恐れ入るべきは、「日本改造法案大綱」が指針させた諸政策が何と戦後日本憲法にふんだんに取り入れられていることである。それは天皇制社会主義とでも云えるものであり、天皇象徴制から始まり、国家組織の分業構成、官民の協働的関わりによる国営、半官半民、民営事業による相互連携事業論、高額所得制限、労働者の諸権利、国民の諸権利、被疑者人権の擁護、女性の保護、子供の保護と教育の重視等々「進歩的」もしくは「革新的」部分が多少内容を変えながらも広範多岐に亘って取り入れられている。

 北思想がかくも歴史の試練に耐え、戦後日本憲法の中に息づいていることに感嘆せざるを得ない。してみれば、戦後の護憲運動が、「日本改造法案大綱」を「右翼のバイブル」と看做して歯牙にもかけないのは一種の背理であるように思われる。

 このことに関して、三島由紀夫が「北一輝論」(全集34巻、新潮社)の中で次のように述べている。

 「私は以前にも述べたが、北一輝が「日本改造法案大綱」で述べたことは、新憲法でその七割方が皮肉にも実現されたという説をもつている。その「国民の天皇」という巻一は、華族制の廃止と普通選挙と、国民自由の回復を声高に歌い、国民の自由を拘束する治安警察法や新聞紙條令や出版法の廃止を主張し、また皇室財産の国家下付を規定している。これらはすべて新憲法によつて実現されたものであり、また私有財産の限度も、日本国民一人の所有しうべき財産の限度を三百万円とする、と機械的に規定したが、実質的には戦後の社会主義税法により相続税の負担その他が、おのづから彼の目的を実現してしまつた。

 また大資本の国家統一については、北一輝白身が注をつけて、大資本の国家的統一による国家経営は、米国のトラスト、ドイツのカルテルをさらに合理的にして、国家はその主体たるものであるという、国家社会主義の方法を設けたが、新憲法以後の日本の資本主義は、すでに修正資本主義の段階に入つて、資本主義自体が内的な改革を成就していたのである。ことに巻五の「労働者の権利」は、今読んでも驚くばかりの進歩的な規定であつて、労働時間の八時間制、また労働者の利益配当が純益の二分の一を配当されるべしという、社会主義的な規定とか、労働者の経営及び収支決算参加、その他の條項及び幼年労働の禁止や婦人労働についても、社会主義国の先端的な労働法規定を定めている。

 しかし、北一輝の「改造法案」からただ一つ新憲法が完全に遮断したものこそ、巻八の「国家の権利」である。この巻八の「国家の権利」を讀むたびに、私は戦後の日本が国家と呼びうるかどうか、新憲法が描いてゐるイメージとしての国は、果たして国家と呼びうるかどうかということに対して、いまさら疑問なきをえない。北一輝は、国家としての当然の要請として徴兵制を維持し、また、兵営または軍艦内においては、階級的表象以外の物質的生活の階級を廃止するということをもつて、軍隊の悪弊を打破し、また眞の国民兵役の確立のために当然の、現代のヨーロッパ諸国と少しも違はない義務を課してゐる。そしてまた、開戦の積極的な権利を国家主権の本旨としているところは、十九世紀的な国家観のそのままの祖述であつて、これは何も北一輝一人の独創ではない。

 このように『日本国憲法』と『日本改造法案大綱』は驚くほど似通っている。面白いのは、その「日本国憲法」を右翼とは真逆の共産党や社民党が必至で擁護しようとしているところである。もちろん彼らは9条のみを守ろうとするのが主眼であるが、それにしても右翼のバイブルを左翼が必至で守ろうとする図は、なんとも皮肉というか面白い。

 結局のところ、右翼と左翼は同根なのではないか。つまり、左翼も根本的なところで天皇の存在さえ認めさえすれば、考え方において右翼とそう大差はないのではないかと思う。北一輝は便宜上天皇を持ち出しているが、基本的に実はそこにはあまり重きを置いていない。ともかく、北一輝が右からも左からもある種尊敬の眼差しで見つめられている点が、両者の考え方に大差がないことの証左ではないかと思う。問題はやはり天皇。極論すれば、両者の決定的な違いは、天皇を日本の文化・伝統の中心と捉え、国体の中心に据えるか否か‥‥。ただ、その一点の違いだけではないかと思う」。

 三島は、作家的筆力で「北式日本改造法案」が戦後の日本国憲法に驚くほど結実しているサマを指摘している。国粋民族主義系の三島をして、このように云わしめていることを確認すべきだろう。付言すれば、後段の「それにしても右翼のバイブルを左翼が必至で守ろうとする図は、なんとも皮肉というか面白い」と記している点が逆に面白い。れんだいこに云わせれば、三島が北の「改造法案」を「右翼のバイブル」とみなしている点が皮相的であり逆に面白い。こう云い換えておく。「北式日本改造宣言を右翼のバイブルとしている図そのものがなんとも皮肉というか面白い。その転倒を知らず、三島が『右翼のバイブルを左翼が必至で守ろうとする図は、なんとも皮肉というか面白い』と述べ、その謂いがそのままに通用しているところがなお皮肉というか面白い」。

 ところで、れんだいこは、戦後憲法論に於いて、その出自の解析を通じて、それが仮にGHQ内左派のニューディーラー派により作成された経緯があるにせよ、日本の歴史的実情に明るく、極めて有益な諸規定をしていることに対して、誰か隠れた知恵者が居るのではなかろうかと推定した。この疑問が、今「日本改造法案大綱」を読むことにより解けた気がする。北理論が知恵者の正体だったのではなかろうかと云う感慨を覚えている。北理論を能く知る者が、GHQ内左派に入り込んで知恵を授けたのではなかろうかと確信している。

 「日本改造法案大綱」を右翼のバイブルにしようが左翼のバイブルにしようが一向に構わないのだけれども、戦後憲法に「北式日本改造法案」が濃厚に影を落としていることだけは共に認めねばなるまい。

 2011.6.19日 れんだいこ拝

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2011年6月18日 (土)

「日本改造法案大綱」考その1、北理論の左右判別考

 2.26事件の検証を通じて、事件を起動した青年将校の多くが北一輝の「日本改造法案大綱」をバイブルとしていることを知り、勢い確認したくなった。これまで北を知らぬ訳ではなかったが評論知識に過ぎず著作を読んだことはなかった。これと思う書物はやはり極力原文で読まねばならない。という思いでネット検索したところ「北一輝『日本改造法案大綱』」に出くわした。読み易くする為にれんだいこ文法に則り焼き直すことにした。サイトは「れんだいこ版『北一輝の日本改造法案大綱』」。 

 「北一輝『日本改造法案大綱』」 (http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/shiryou1/Nihonkaizou.html

「れんだいこ版『北一輝の日本改造法案大綱』」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/2.26zikenco/ideoroguco/top.html

 やはり原書を読まねばならない。直ぐに気づいたことは、これはマルクス―エンゲルス共著「共産主義者の宣言」の北式焼き直しであり、「北式日本改造宣言」であるということだった。こうまで云うのは云い過ぎであるにせよ、北が同書でマルクス主義の諸理論、諸言説(以下、単にマルクス主義と記す)と徹底的に対話していることは間違いない。北の趣意が「共産主義者の宣言」の日本式適用に力点を置いているのか、マルクス主義を否定せんが為にあれこれ言及しているのか、そこら辺りが今のところ判然としないが、強く意識していることは間違いない。

 判然としない理由は北思想、北史観(以下、単に北理論と記す)が玉虫色になっており一筋縄では解けないからである。玉虫色の一番の要因は北理論が未だ形成途上のものであり確固としたものに定まっていない為であろう。北が絞首刑されずに居たら、その後どのように発展して行き、最終的にどのように纏められたのか、それを見てみたかった気がする。

 はっきりしていることは、史実が見せた如くの「右翼のバイブル」ではないということである。むしろ本来は「マルクス主義の北式理論」として俎上に乗せられるべきものであった。全8章の仕分けとその内容がマルクス主義を強く意識して対話式に書かれたものであることは自明である。「日本改造法案大綱」は、マルクス主義を吟味し、逐一その是非を北式に問い、採るべきものは採り排すべきところは排し北式に焼き直しているところに特徴が認められる。結果的にマルクス主義を「前世紀の旧革命論、旧世紀の革命論」と評して対抗的に北理論を打ち出しているが、述べたようにマルクス主義の否定ではなく、北式創造的発展理論と評すべき余地がある。

 そういう意味では「巻五 労働者の権利」の「労働賃銀」の項の「注二」末尾での「社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」の発言が注目されるべきだろう。これによれば、否定しているのは「マルクス主義の空想的糟粕」であり、マルクス主義そのものの否定ではないということになる。北理論の真骨頂は空想的糟粕を棄却するとしながらもマルクス主義のエッセンスを汲み取っているところにあるように思われる。これは何もマルクス主義に対してばかりではない。西欧的なるもの文明の一切に対して、日本的なるもの文明を対置し、これに依拠しながら西欧的なるものの善し悪しを取捨選択すべしとしているように思える。ここに北理論の思想的質が認められると思う。

 北の履歴のユニークなところは、多感な青年期に孫文らの辛亥革革命に共鳴して黒龍会特派員として合流し、革命軍と行動を共にしていたことであろう。中国大陸まで出かけての八面六臂時代、歴史は大きく鼓動していた。「日本改造法案大綱」が執筆されたのは1919(大正8)年、8月、上海に於いてであるが、この当時の情勢は、2年前の1917年10月にロシアに於けるポルシェヴィキ10月革命、その1年後の1918年8月、日本で米騒動が勃発していた。マルクス主義式革命論が世界の新思潮になって押し寄せ始めていた。北は中国革命に身を投じながら、この歴史の鼓動を上海で聞き、やおら日本革命論の創造を企図し始めたように思われる。

  こうして北は「日本改造法案大綱」を執筆し始める。マルクス主義に注目し、これと真剣に向かい合い、北式解答を引き出した。この北式日本革命の青写真草稿が「日本改造法案大綱」である。中国革命に身を投じた者は他にも居るが、北にして初めて中国革命の経験から日本革命を照射したところが真骨頂と云えるであろう。北は、マルクス主義革命の波に連動すべきか、迂闊に乗れないのか、阻止すべきかを問い、相応の熟成練成を経て対抗的な日本革命の書を著わした。これが「日本改造法案大綱」であり同書の歴史的地位ではなかろうか。かく位置づけたいと思う。

 北は本書を書いた目的と心境について、概要「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ、本書執筆に至った」と述べているとのことである。この言辞が事実とするなら、どう評すべきか。既に述べたように、マルクス主義を批判一蹴しながらマルクス主義に依拠していると云う二面性を見せているのが北理論の特徴であり、マルクス主義が否定されているとも云えるし受容されているとも云える玉虫色になっている。はっきりしていることは、この言をもって「右翼のバイブル」と看做すのは早計と云うことであろう。同書の片言隻句でもって「右翼のバイブル」とするのは字面主義に陥っているのではなかろうか。「右翼のバイブル」とするには同書がよほどマルクス主義に拘り過ぎていることが却って不自然過ぎよう。

 「日本改造法案大綱」の本当の狙いはマルクス主義の否定ではなく、マルクス主義の生硬な適用を拒否して、北式改造による焼き直しを通しての日本革命の展望だったのではなかろうか。どう焼き直したのかと云うと、マルクス主義の人民大衆救済的理論面を受容しつつ、当時のマルクス主義が国際共産主義運動と云う名の下での実はコミンテルン指導下の一元的な世界支配主義運動であるに過ぎないことを喝破して、これを危ぶんだ。むしろ各国の歴史や伝統に即した多元的なマルクス主義であるべきとして、運動の軌道を在地土着的なものへ転換せしめた。その巧拙は別として、当時に於いて早くも自律的なマルクス主義運動を企図したのが北であった点で、その功績は大きいと位置づけるべきではなかろうか。

 北の真意をれんだいこ式に解説すれば、北自身が明瞭には述べていないので意訳し過ぎることになるがこうなのではなかろうか。即ち「国際金融資本が裏で糸を引き操る国際共産主義運動の環としての徒なマルクス主義ボリシェヴィキ派革命に乗ぜられるのではなく、むしろこれに対抗して、在地土着的な日本式維新革命論を生み出す必要がある」。この観点から北式にマルクス主義を改造し、全8章にわたって政策提案したのが「日本改造法案大綱」であると窺うべきではなかろうか。

 特徴的なことは、在地土着的内発的な日本革命の在り方を訴求した結果として「天皇制維新革命論」を提起しているところであろう。北は、国際共産主義運動の環としての下僕的な日本革命に対抗して日本文明的質を称揚し、「四海同胞の人道を世界に宜布せんとする」大アジア主義を掲げ、日本を環の主軸とする世界維新運動を展望している。これに天皇制が噛み合わされていると云うのが北式理論の構図であろう。この巧拙は別に論ずることにする。

 史実は、「日本改造法案大綱」は「右翼のバイブル」と化したのであるが、それは当時の左右両翼の見識の低さを証するものでしかないのではなかろうか。「右翼のバイブル」と化したことにつき根拠がない訳ではない。天皇制親政政治論、国家主義論、ク―デター論、戒厳令強権政治論、アジアの盟主としての日本論、大東亜共栄圏構想論、西欧列強の植民地化戦争に抗する為の逆攻勢戦争論等々により、この限りにおいて根拠が認められる。

 但し、れんだいこが同書を読む限りにおいては、本質は断じて右翼の理論ではない。むしろ「在地土着的に焼き直された北式マルクス主義革命論による日本革命」を展望しており、そう云う意味でマルクス主義の変種理論として位置づけられるべきように思われる。つまり、「日本改造法案大綱」は「右翼のバイブル」のみならず、そのままでは使えないものの「左翼のバイブル」となっても何らおかしくはない代物(しろもの)であったように思われる。

 或る事象が逆に評されて歴史に通用した例は決して珍しいことではない。戦後日本の最優良にして最高の有能政治家であった田中角栄を「諸悪の元凶」視して政治訴追して行った例も然りであろう。あるいは古事記、日本書紀であれほどまでに出雲王朝を記しているのに過小評価されるのも然りであろう。野坂や宮顕や黒寛の如く日本左派運動の撲滅人が名指導者の如く奉られたまま生を終えるなども然りであろう。北式理論も、この仲間入りしているように思われる。「北理論の左右判別考」が、北理論解析の際の最初の仕事となった。更に言及したいことを追々書きつけて行く予定である。

 2011.6.18日 れんだいこ拝

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2011年6月 9日 (木)

皇道派思想考(その先駆性、狂気性、限界と深奥考)

 皇道派青年将校の軍人としての有能さにつき「皇道派名将録考」で確認したが、ここでは皇道派の思想、理論を検証しておくことにする。皇道派の思想、理論には、「先駆性、狂気性、限界と深奥性」が見てとれるからである。ここまで問わないと、れんだいこの2.26事件考は完結しない。

 爾来、学者は事件の検証まではするが、こういう思想性や政治観が問われる局面になると尻切れトンボになるケースが多い。何事も精緻な検証は必要であるからして、学者の労を軽視するものではないが、研究は実践指針まで至らないと本当の研究にはならない。学者にそれを願うのは無理な面もあるので、れんだいこが手掛ける。

 皇道派の思想、理論を知るには、2.26事件で見せた一部始終の経緯が格好の教材である。故に、2.26事件の経緯解析に基づいて皇道派の思想、理論を確認し、その先駆性、狂気性、限界と深奥性を指摘しておくことにする。但し、これを論証的に為すとかなり紙数を費やすことになる。ここでは結論部分のみ書きつけることにする。

 まず、皇道派の先駆性を確認する。皇道派は、5.15事件同様に時の体制批判を呼号したが、5.15事件と違って明らかにもう一つ先の真の敵を嗅ぎ取り、それは国際金融資本であるとして、その魔手批判にまで及んでいる形跡が認められる。この批判の矛先の深さが5.15事件と違うところである。れんだいこは、国際金融資本の日本政治容喙に対する拒否の姿勢を鮮明にしていた点で、これを皇道派の先駆性として称賛したい。

 だがしかし、その後の日本政治は皇道派を壊滅させたことにより、皇道派が獲得せんとしていた国際金融資本批判の目線そのものを失うことになる。皇道派亡き後の統制派主導の聖戦は、豚の子戦略で太らされた豚が上手に料理される滅びの過程に他ならない。意見するとすれば、大東亜戦争末期の特攻隊の精神は、統制派の粗脳戦略戦術に義憤して、皇道派の末裔が辿り着いた最後のお国ご奉公だったと思われる。特攻隊を、この観点から評する視座が欲しいと思う。

 次に、皇道派の狂気性を確認する。皇道派は、クーデター手法で叛乱決起した。この手法そのものが狂気と看做せよう。かの時点で、どこまでが必然性のものであったのか、他の方法がなかったのかの検証をせねばなるまい。皇道派青年将校の一網打尽的結果になったことを思えば、もっと賢い方法があったと云わざるを得ないところ、性急に仕損じている。これも狂気と云わざるを得ない。つまり、既にここまでに於いて二面の狂気性を示している。

 但し、ここまでの狂気論は平俗なものであり、これから記す狂気論こそ検討せねばならない。それはつまり、皇道派が昭和天皇の聖断を引き出さんとしたこと自体が狂気だったのではなかろうか。皇道派が当てにしていた昭和天皇自体が既に国際金融資本に取り込まれていたとしたらどういうことになるのか。皇道派は、明治維新以来の近代天皇制論を持っていない。それ故に、近代的天皇制の天皇制史上の変調さを正しく捉えて居らず、為に昭和天皇親政を期待して担ぎ出そうとして、昭和天皇自身の聖断により処罰されるという皮肉な結果になった。こうなると喜劇のような悲劇であろう。

 昭和天皇論は、大正天皇押し込め以来の昭和天皇創出過程を検証すれば容易に獲得される筈のものである。昭和天皇が去る日の皇太子としての摂政時代に於いて、国際金融資本に手なづけられていることを読み取ることはさして難しくはない。皇道派は、ここを見ずに、昭和天皇に過大な期待をして伝統的な天皇制論に基づく天皇親政の御代を求めて裁可を仰ごうとしていた。れんだいこは、ここに狂気を認めたい。

 してみれば、2.26事件の狂気は、一部軍部の暴走による反乱決起と云う狂気性、不首尾に終わる可能性が強いところを敢えて決起した狂気性もさることながら、既に国際金融資本に取り込まれている昭和天皇を聖君として仰ぎ、その絶対主義的権力に依拠して新体制を創出せんとしていたところに、より重度の狂気性を認めざるを得ない。

 次に、皇道派の限界と深奥性を確認する。皇道派は、2.26事件クーデターに於いて、軍上層部は無論のこと各界各層からの呼応を期待していたが予期通りに進展せず、遂には逆に反乱軍として始末される結果となった。結果論から云えば、2.26事件クーデターは容易に失敗したのであり、失敗そのものが限界を証していると判ぜざるを得ない。但し、問題は単純ではない。その失敗を通じて、失敗の要因を解析せんとしており、その出来映えに深奥性があるように思われるので、これを確認しておく。

 皇道派は、担ぎ出そうとしていた昭和天皇その人に処断されたが、或る意味で「昭和天皇の裏切り」は織り込み済みであった。既にそういう見識を示している。故に、2.26事件の被告人で昭和天皇に哀訴した者は誰一人いない。昭和天皇を叱りつける人士が居るばかりである。その彼らの真意は、昭和天皇に期待していたというよりも、昭和天皇を伝統的歴代の在るべき天皇制に回帰せんことを欲していたのであり、或る者は、聞く耳を持たずいきなり断固とした鎮圧を命じた昭和天皇を難詰している、と云うか弾劾している。

 その時、彼らが見つめていたのは、かって存在していたとされる民のかまどの煙を思いやる「王制」的親政政治の姿であった。しかも、大和朝廷以来のそれではなく、それ以前の出雲王朝時代の「命(みこと)制」的親政政治までを視野に入れていた形跡がある。天皇制論の行きつく先は、そんじょそこらの大和朝廷以来のそれではなく、それ以前の出雲王朝時代のそれまで遡らなければ正しく理解できない。皇道派のみが既にして「縄文天皇制」を視野に入れた天皇制論を獲得していた可能性が認められる。これを論証せんとすれば、当時の資料に分け入らなければならない。これを為すのは今後として、今はこの程度の言に留める。

 ざっと以上、簡略過ぎる皇道派思想及び理論の確認であるが、要点を抽出したつもりである。恐らく、この観点は狂うまい。以後、その肉付けをして行くことにする。れんだいこがなぜ皇道派を論ずるのか。それは、比較的近い時代の混迷期の史実であり、2011年現在の混迷の解析に役立つと直感するからである。

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2011年6月 7日 (火)

陸軍皇道派の有能人士考

 2.26事件で陸軍皇道派が一網打尽的に潰された。これは確認された史実であるが、確認されていない面があるように思われる。それは、皇道派の青年将校の行動がクーデターであったのは論をまたないとして、皇道派の軍人能力、政治能力は如何なものであったのかの問題に関してである。通説の卑下的評価は正しいのだろうか。政治能力は議論がややこしくなるのでひとまず措くとして、軍人能力に於いては極めて優秀な部隊統率能力を示しているケースが多く、青年将校のいずれもが部隊に信任厚い有能人士であったことを示している。こうなると、皇道派への悪口三昧的評価の見直しをせねばならぬのではなかろうか。これが本稿の問いである。

 これを証しようにも、一番肝心の面々が首謀者として死刑に処せられておるからして調べようがない。とすると、禁錮刑で生き残った兵のその後の生態及び軍歴で証左する以外にない。生き残り兵にしてかくもの優秀さが証明されれば、処刑された
青年将校ともなると更に優秀だった可能性があり、それを明らかにすることは遅きに失したとはいえ弔いにはなるであろう。

 もう一つは、青年将校達に影響を与えていた皇道派トップの能力を精査し、彼らの優秀さを証すれば、その薫陶に服していた青年将校も同じく優秀だった可能性があると云うことになるのではなかろうか。皇道派のトップリーダ―は真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将である。彼らは陸軍の最高要職故に処罰が手加減され死刑を逃れた。その彼らのその後の生態及び軍歴で優秀さが確認できれば間接的証明になるだろう。

 この面の論証が行われているように思われない。なぜなら危険であるからである。2.26事件の正当性を語れば、事件叛乱者が真に撃とうとしていたのは国際金融資本帝国主義であり、彼らに溶解されつつある祖国日本救済を至念していたことを明らかにすることになる。今現在に於いて戦勝側である彼らが許すべくもない。臭いものには蓋をして、知らしむべからず拠らしむべしを旨とする支配の琴線に触れよう。

 そういう理由でと思われるが、2.26事件を語ることは未だにタブーのように思われる。爾来、こう云う風に隠蔽されると封切りしたくなるのが、れんだいこの性分である故に、蓋を開けることにする。サイトは「補足・皇道派名将録考」に記す。未だ書きつけ始めたばかりである。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/kodohaco.htm)

 皇道派のトップリーダ―真崎、荒木、山下、小畑は共通して、2.26事件後閑職に追いやられている。次第に大東亜戦争に誘い込まれて行く成り行きを危ぶんでいる。その閑職期、それぞれが潔い身の処し方の中でも有能な立ち働きを示している。中でも「マレーの虎」と云われた山下大将は皇道派の鏡とも云うべき範を垂れている。2.26事件後左遷されたものの、太平洋戦争勃発時には、海軍の真珠湾奇襲と呼応するコンビプレーの最重要作戦として、ここ一番のシンガポール攻略戦で起用され、史上稀なる名作戦で勝利に導いている。

 本来なら陸軍中央に凱旋し重用されるべきであったが、あろうことか用済みとばかりに満州へ転任させられ、以降、大きな作戦を任されていない。このことは何を意味するのだろうか。こういう変調な指揮が戦史のいたるところに認められる。ところが敗色濃厚となるや再度南方作戦に駆り出され、最後のご奉公とばかりに奮闘努力している。敗戦となるやすぐさま戦犯としてフィリピンのマニラで軍事裁判にかけられ、捏造された容疑で指導責任を負わされ、絞首刑されている(享年60歳)。

 山下は法廷で一切の弁明を行わず簡明な雄弁をもって陳述している。「日本の軍体系の非能率の結果として、私は指揮を統一することができなかった。日本の連絡網は極めて貧弱であった。私は、次第に情況から切り離されることになり、接触感を失ってしまった。そのような状態のもとで、自分の為し得る限り最善の働きをした、と私は確信する。私は如何なる虐殺をも指令しなかった。私は私の軍団を指揮するために最大限の努力を払った」、「私に責任がないわけではない」、「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」云々。

 小畑敏四郎を例証する。2・26事件後、辞表を提出している。すぐさま予備役に編入されている。日中戦争にあたって第14師団長となったが健康上の問題で召集解除となった。1945.9.2日の降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎を督励して、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばし出席させている。梅津に対して対等以上の貫禄があったことが読み取れる。その後、近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務めている。1947(昭和22).1.10日、死去(享年61歳)。注目すべきは、小畑は大東亜戦争指導者を終始冷やかに眺めている素振りが見えることであり、山下同様に肝腎の時には駆り出され一働きしていることである。
 
 もう一人挙げておく。事件後自害した野中四郎の弟の野中五郎の生きざまも壮烈である。事件の為に何かと苦労したと云う。 大東亜戦争開戦時にはハワイ真珠湾攻撃。続いて、フィリピン島クラークフィールド基地攻撃、香港攻撃、コレヒドール攻撃、ポート・ダ゛―ウィング攻撃、ギルバート諸島沖航空戦、マーシャル諸島沖航空戦、アッツ島艦船攻撃、ガダルカナル島飛行場攻撃などに転戦に転戦を重ねている。
 最後は、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721海軍航空隊(神雷部隊)の陸攻隊隊長となり指揮を執っている。「桜花」の欠陥を看破り「この槍、使い難し」、「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言、特攻そのものに批判的であり、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせたいと考えていたと云う。「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」との親分肌で接し、故に彼の率いる部隊は「野中一家」と呼ばれたほど堅い絆で結ばれていた。1945.3.21日、第一神風特別攻撃隊(神雷部隊)に出撃命令が下され出撃した。米空母部隊に攻撃を試みるも野中予言の通り、次から次と迎撃戦闘機に撃墜され全滅戦死した(享年35歳)。野中隊の最期は米戦闘機のガンカメラに収められ、今でも鮮明なカラー映像で見ることができる。

 こういうことを何の為に語ろうとしてるのか。既に述べたが、皇道派の精神には何の曇りもなく、御国に生命を捧げていることを確認せんとしようとしている。仮に2.26事件の青年将校が処刑されずに居たら、生き残った兵士以上の活躍をし、戦局はもっと違った展開になっていたのではなかろうか。それは何も戦勝祈願の見地から云うのではない。開戦となれば生命を捧げるも、開戦前の国際情勢の読み方、外交交渉の駆け引き等々においても史実と違う展開を呼び込んでいたのではなかろうか。そういう可能性があり得たのではなかろうかと愚考したい訳である。

 思えば、大東亜戦争は、皇道派と対立する統制派の指揮下で担われたことになる。それは、皇道派の能力を干し、皇道派を封殺したままの聖戦に過ぎなかった故に、軍事能力的に見れば片肺飛行であった。大政翼賛会運動で国を挙げて突き進んだが粗脳船頭ばかり多い危ういものであった。しかも、統制派の内部は既にかなりな程度に国際金融資本エージェント網に浸食されていた。皇道派にはそういうことが見られない。ここが皇道派と統制派の大きな違いであろう。とするなら、大東亜戦争の帰趨は、知る者にはかなり早くから見えていたのではないのか。そういうことを考えるのも一興であろう。

 ちなみに、戦前軍部の戦史犯罪が認められるとしたなら、それは統制派的軍規の弛緩によるものであり、皇道派の指揮下では有り得なかった。戦前軍部の戦史善政が認められるとしたなら、それは皇道派的規律によるものである。これはさすがに云い過ぎだろうか。そうまで云いたくなるほどに皇道派の正義と能力が認められるのであり、このことはもっと正当に評価されて然るべきだろう。皇道派を悪しざまに罵ることで左派証明している者が居るとしたら典型的なサヨであろう。こう云う風に考えると、政治状況は戦前も戦後も今もそんなに変わっていないということになる。

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2011年6月 5日 (日)

5.15事件と2.26事件の相似と差異考

 先に「昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説」を確認し、犬養木堂論の一端を述べたが追加しておく。木堂をどう評するべきかは興味深い課題であるように思われる。木堂の素養に注目するのに、「遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)」に列なるとある。「5歳の時、父から四書五経の素読を受ける」、「6歳の時、庭瀬藩医森田月瀬に漢学を学ぶ」とある。これによれば、木堂は幼少期に徹底的に日本式学問を仕込まれていたことになる。長ずるに及び西欧学を学ぶが、既に脳格形成されていた日本式学問の上に西欧学を吸収したのであって、その他大勢のインテリの如くの「身も心も西欧被れ」にはならなかったことを意味している。

 犬養家は幕末まで地主階層の家柄であった。そういう意味で、木堂の学問形成の仕方は、旧地主階級の明治維新以来の文明開花の受容の仕方に於ける標準を示しているのではなかろうか。どこの馬の骨か分からぬ者の近代化被れではなく、正式に日本式素養教育を受けた側の者の近代化被れであった点が興味深い。

 木堂は、日本の在地土着系頭脳と精神が西欧政治理論を取り入れ調和させた人物と云うことになる。青年期を経てジャーナリストになり、その後政治家に転身するが、「日本的素養を身につけつつ西欧学を咀嚼した稀有の政治家」足り得ていた格好の教材人物と評し得るのではあるまいか。木堂の政治家としての史的価値は、他の凡庸なインテリ、政治家と違って、西欧政治理論を学びながら取り込まれず、あくまでも日本系政治家としての感性と能力で明治維新後の日本のあるべき姿を求めて牽引しようとしていた点にあり、この点がもっと高く評価されても良いと思われる。こらっ菅派よ聞いとるか。お前らの真反対の政治の先達を評しているんだ、神妙に耳を傾けよ。

 木堂は長い政界遊泳の果てに遅咲きの76歳にして首相になり、5.15事件で凶刃に倒れたが、このことそのものが木堂が有益な政治家足り得ていたことを証しているのではなかろうか。歴代首相史に於いて、襲撃、暗殺、変死、疑獄に巻き込まれた者ほど有能だったのであり、名宰相と持て囃された者にロクな者がいないことが透けて見えてくる。

 革命家に例えれば、畳の上で往生した革命家ほど嘘っぽいのと同じである。生存中に名宰相と評され、後世の史家からも同様に評されているのは戦後では吉田茂ぐらいのものではなかろうか。その他はニセモノばかりである。してみれば、木堂は戦前の在地土着派系有能政治家であったが故に葬られたのではなかろうか。この構図は、田中角栄のロッキード事件にも当て嵌まろう。こういう史観が欲しいと思う。

 
さて、ここでは、「5.15事件と2.26事件の相似と差異」を確認しておく。5.15事件も2.26事件も、時の軍部の暴走によるクーデター事件として同じ土俵で評されているが、その質は大きく違うのではなかろうか。2.26事件反乱軍の意識に於いては「5.15事件に続け」なるものがあったかも知れないが、それは意識止まりの話であり、歴史的役割は百八十度異なる。

 5.15事件は、檄文では2.26事件の決起文と同じような愛国至情を述べているが、結果的に当時の国際金融資本勢力が一部の軍部や民間人の軽薄分子を唆(そそのか)して、当時稀有なる在地土着系政治家の有能者を葬ったのであり、2.26事件は逆に、国際金融資本に籠絡されていない在地土着系の一部軍部が、国際金融資本勢力が牛耳る時の社会体制に叛旗を翻したと云うのが実相ではなかろうか。

 2.26事件反乱将校たちの背景には皇道派と統制派の確執が伏在していたが、もっと大きく見ればそういうことになるのではなかろうか。とすれば、5.15事件と2.26事件は真反対の性格を持つ事件だったと云うことになる。一部の軍部の犯行と云う点では共通しているが、それは表面的な一致であり、内実は打倒対象とするものが真反対だったのではなかろうか。かく視座を据えたい。

 それ故に、5.15事件と2.26事件では反乱者の処罰が雲泥の差になる。5.15事件の犯人たちの最高刑は無期懲役で僅かに橘孝三郎一人、後は禁固刑であり、しかも数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についている。これに比して、2.26事件の犯人たちには苛酷な処分が待ち受け、「自決2名、謀者17名死刑、69名有罪」となっている。
この比較は別サイトで確認することにするが、この違いを説明するのに、他の理由が考えられるだろうか。

 歴史は、その後の勝者の史観で語られるのを常とする。第二次世界大戦の勝者は国際金融資本帝国主義派であった。故に、国際金融資本帝国主義派の都合に良い歴史が捏造され語られることになる。5.15事件の真相を隠す為に、5.15事件を2.26事件と極力同じレベルで吹聴し「単なる軍部の暴走事件」と評することになる。2.26事件然りで、反乱軍が見据えていたのは国際金融資本帝国主義派の日本溶解であり、これを拒否せんが為の決起であった、と云う点が隠蔽される。

 歴史の真相はこうである。犬養首相は、ジャーナリスト時代からの「東亜の平和」を唱える大アジア主義者、アジア同胞主義者であり、宮崎滔天、頭山満らの国士系在野右翼政治家と気脈通じて明日のアジアを支える逸材足る中国の孫文、蒋介石、インドのガンジー、ネルー、ラス・ビハリ・ボースらを日本に亡命させ、面倒を見た経歴を持つ。次代のアジアを担う人材を庇護しネットワークを形成していたことになる。

 そういう犬養首相の政治能力に於いて、日支連帯の絆の呼びかけによる満州事変解決は有り得た可能性があり、それ故にそうはさせじとする国際金融資本帝国主義派が裏で糸を引いて犬養首相を刺殺せしめた。こう捉えるべきではなかろうか。5.15事件以降、日本は国際金融資本帝国主義派に手玉にとられること露骨になり、満州事変が拡大し日中戦争の泥沼に踏み込み、遂に大東亜戦争への突入を余儀なくされることになった。

 2.26事件とは、この流れに掉さした有能軍人たちによる反乱だったのではなかろうか。皇道派が仕掛けたが、「昭和維新断行、尊皇討奸」の雄叫びは、天皇親政を標榜すると云う限界を持っていたが、真に企図していたのは「国体擁護」の方であり、その意図するところは国際金融資本に籠絡された「元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党」に支配される政治からの転換即ち「明治維新の反転による昭和維新」だったのではなかろうか。2.26事件を評する視座をこのように据えなければならないのではなかろうか。

 結果的に日本は完膚なきままに叩き潰され敗戦を余儀なくされた。既に軍部内に国際金融派のエージェント網が構築されており、彼らのアジェンダに基づいて操作されていた。特に海軍が酷かった。陸軍は在地系と籠絡系、中間派が三対立していた。軍部内にかくもエージェント網が張り廻らされていたなら勝てる戦も勝てまい。そういう眼で見れば、日米開戦の火ぶたとなった真珠湾攻撃そのものからして情報が筒抜けだった形跡が認められる。その他重要戦史ではことごとく負けるように誘導されている気配が認められる。

 ちなみに、戦後の極東国際司法裁判所で断罪されたA級戦犯とは軍部内の非エージェント派であったと逆に証される。A級戦犯を極悪非道人と評すれば評するほど反戦平和主義者であるかのように論ぜられることが多いが、A級戦犯論はこの視座からも捉えられるべきではなかろうか。その他問いたいことは多々あるが割愛する。本稿で「5.15事件と2.26事件の相似と差異」が確かめられれば本望である。

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2011年6月 2日 (木)

昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説

昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説レコード」が残されており、これを筆録しておく。

http://www.youtube.com/watch?v=gR4nVdEF1DE

 「我々が、このたびの選挙に臨んで、自分の主張を述べ、これに対するところの反対の党派の主張と、この間に全国民において公平なる審判を下されることを求めなければならない。我々の主張を大別して、ごく簡単にこれをひっくるめて云えば、応急の問題と根本の問題との二つに分かれる。応急の問題が何であるかと云えば、他に対しては満州の事変を如何に解決するのか。こういうことが一つ。それからまた内にあっては、現在の不景気を如何にしてこれを不景気を回復するのか、活気を与えるのか、これが応急の問題であります。

 それから根本の問題としては、他においては隣国、シナに対して、全体の国際関係を如何に改善するのか。この根本が定まらなければ、僅かに満州の問題が治まったと云って、隣国の関係が治まるものではない。それ故に、この根本をどうするかということについては我々は多年の研究と抱負を持っておる訳で、これを行いたい。

 それから内に向かっては、現代の不景気をどう挽回するかという応急問題だけでは仕方がない。根本から云えば、産業政策の元になる**いかにして日本の産業を振興し得るか。また如何にして日本の産業を統制し、もう少しこれを合理的に発達させることができるか。これが根本の問題である。

 それから一人それのみではない。長い維新60年間の間に殆ど不規律不統制に発達した全てのもの、全てのものといえば何であるかと云えば政治組織、これを改めなければならない。執務の取り方、もう少し簡易にできる。全てこのひっくるめて云えば、行政、財政の根本的立て直しを行わなければならぬ。これが政府の側である。政府の側ばかりではない。民間全体の全てのものに向かって、大革新、大覚醒を行わなければならぬと云う時期が当然来ている。

 それをこれまでの如くに姑息にただ移されてはいつまでたってもこの形勢は治らんのであります。それ故に、我々は、今後の解散と云うことは決して好まない。解散の一番必要な**というのは全てのものを安定させる。政府も無論これに於いて基礎を安定させる、一人政府ではない、エェ内にあっては全ての事業に着手するものが、このままこの政府の方針の通りに行くんであれば、又元へ帰って前内閣のようになるんであるかと気がかりの間は思い切って着手ができない。それ故に、ぜひともここで安定させるということが必要。

 一人それのみではない。エェ隣国の関係を根本的に定めようと云えば、従来のごとき方針ではとても相手になる訳のものではない。それ故に現代の内閣がいつまで続くんであるか、この方針なら自分も考えようがあるということは確かにこの隣国も考えておるのであるから、どうしてもこれに向かっての基礎を定めることが必要である。

 如何なる仕事においても、決して半年や一年で完成するものではない。どんなに少なく急速力でやっても、4年間もしくは5年間かからなければ一つの政治が完成すると云うことはできない。いわんや60年間続いて、楕力に楕力で重なっていたと云うこの***新たな仕事を始めるというのは少なくとも4、5年はどうしてもかかる。それ故に、我々は全国民に訴え、この日本の体制、全てのものの衰えておると云うこの老朽した日本に活気を与える為には、諸君は大奮発をして我々に援助をせられることを求める。

 これは極めて明瞭であります。現内閣が行っていた通りにしたならば日本の産業はどうなる、日本の外交はどうなる。これを考えて、我々が現在主張するところのものに解消したならば、いずれが是であり、いずれが非であるかということは最も分明にこれは判断できられるものであるから。私は謹んで全国民に向かって、この公平なる審判を下されるということを私は求めるんであります。諸君は国の為に非常な大努力をせられんことを希望いたします
」。

 この「昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説」がどう大事なのか、それは一つには政治に対する真面目さが溢れていることが見てとれるからである。当時の日本は現在の日本よりもなお一層困難な政治課題を抱えていた。一つは外の満州事変であり、もう一つは内の国内不景気であった。両者が相呼応して混迷の度を増しつつあった。

 犬養首相は、待ったなしの局面で迫り来る大国難に身命を賭し、外の平和、内の景気振興に向けて見識高く懸命に対処せんとしていた。このことが分かるのが上述の「昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説」である。御年77歳の高齢の身であった。「5.15事件」のほぼ半年前の肉声である。

 2011.6.2日、内閣不信任決議を一蹴して安堵した菅首相への煎じ薬として与えておこう。気に入った文句を見出して政権延命に活用するのも良かろうが、政治に対する真摯な思いを嗅ぎ取って貰った方がなお良い。政治事象を論理的に分析し判断しているサマを感じ取っていただければ十分である。

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