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2011年6月24日 (金)

「日本改造法案大綱」考その5、北理論の史的位置と意義考

 1919(大正8)年、北36歳の時、8月、北は約40日の断食後に霊感に導かれるかのようにして「国家改造案原理大綱」」(以下、単に「大綱」と記す)を草稿した。この時までの北は、大老国と化した清国が西欧列強の植民地化の憂き目で辛吟しており、孫文らの日本の幕末維新の中国版としての辛亥革命に賛意して革命軍に馳せ参じ、二度目の渡航で上海に寄寓していた。この経験から逆に照射された日本革命の在り方、アジアの在り方に思いを馳せ「時代の処方箋」を考案した。世界の現状を「国際的戦国時代」と捉え、「全世界に誇る大富豪の英国、地球北半の大地主の露国」を筆頭とする西欧列強に対抗する日本の使命を見出そうとしていた。

 「誠に幕末維新の内憂外患を再現し来れり」の危機感を抱きながら「来るべき可能なる世界平和」の創出を構想し、「先住の白人富豪を一掃して、世界同胞の為に真個楽園の根基を築き置くことが必要なり」とした。その際、日本を「東西文明の融合を支配し得る者、地球上只一の大日本帝国あるのみ」と位置づけ、「アジアの雄として屹立すべきである」とし、その上で真の世界連邦に向けての旗手足らんとした。その為に日本を精強国家に仕立てねばならぬとした。

 北は、「大綱」緒言で、「いかに大日本帝国を改造すべきかの大本を確立し、国論を定め、大同団結を以て終に天皇大権の発動を奏請し、天皇を奉じて速かに国家改造の根基を完うせざるべからず」と述べている。この趣意に基づき、日本をこの国家的使命に奮い立たせる為の国家改造を立案した。

 それは、日本独特の政治形態である天皇制をマルクス主義派の如く打倒する方向に向かうのではなく、むしろ天皇制を積極的に称揚善導し政治利用せんとした。この総路線に基づき全8章の日本改造論を唱えたのが「大綱」であり、いずれも国家組織の有機的改造論即ち構造改革論もしくは革命論となっている。全8章とは、第1章「国民の天皇」、第2章「私有財産限度」、第3章「土地処分三則」、第4章「大資本の国家統一」、第5章「労働者の権利」、第6章「国民の生活権利」、第7章の「朝鮮その他現在及び将来の領土の改造方針」、第8章「国家の権利」を云う。明治維新体制転換の大改造論であり、北式憲法草案となっている。

 このような気宇壮大な企てをした者が北以外に居るだろうか。こう問わねばなるまい。しかも、改造案の全編が大胆な提言であると同時に今日的に見ても評価に耐え得る珠玉の教示となっている。その多くが戦後憲法に結実していることは既に述べた通りである。これも既に指摘したが、右翼的国家主義理論の表装ではあるが、中身は左翼的なものであり、もっと云えばマルクス-エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」を強く意識して書かれた北式の焼き直し版であり、北式日本革命論として位置づけられるべき代物となっている。北を措いてこのようなものを創案し得る者が居ただろうか。これも既に述べたが、居たとすれば幸徳秋水、大杉栄以外には考えられない。北の「日本改造論」はこのセンテンスで読まれねばなるまい。

 それ以前にもその後も日本に多くのマルクス主義者が生まれたが、多くの者は教本を鵜呑みにし、お気に入りのフレーズを人より多く諳(そら)んじることでマルクス主義者ぶりを競ってきた。しかし、北は恐らくマルクス主義を貪るように読み、それまで形成してきた自己の史観とマルクス主義を徹底的に擦り合わせ、遂に北式マルクス主義を構築した。ここに北の異能性が見て取れよう。このことを一言言及しておきたかった。

 「大綱」は結びの「給言」でこう述べている。「マルクスとクロポトキンとを墨守する者は革命論に於いてローマ法皇を奉戴せんとする自己矛盾なり。英米の自由主義が各々その民族思想の結べる果実なる如く、ドイツ人たるマルクスの社会主義、ロシア人たるクロポトキンの共産主義が幾多の相異扞格せる理論をもって存立することは各々その民族思想の開ける花なり。その価値の相対的のものにして絶対的にあらざるは勿論のこと」。この言を深く味わうべきではなかろうか。

 更に、「故に強いてこの日本改造法案大綱を名づけて日本民族の社会革命論なりという者あらば甚だしき不可なし。しかしながらもしこの日本改造法案大綱に示されたる原理が国家の権利を神聖化するを見て、マルクスの階級闘争説を奉じて対抗し、あるいは個人の財産権を正義化するを見てクロポトキンの相互扶助説を戴きて非議せんと試むる者あらば、それは疑問なくマルクスとクロポトキンの智見到らざるのみと考うべし。彼らは旧時代に生れ、その見るところ欧米の小天地に限られたるのみならず、浅薄極まる哲学に立脚したるが故に、躍進せる現代日本より視る時、単に分科的価値を有する偏に先哲に過ぎざるは論なし」と述べている。「マルクス、クロポトキン何する者ぞ」の心意気が伝わる語りである。北のこの心意気に対するれんだいこ評は最後に記すことにする。

 以下、「日本改造法案大綱の各論を寸描しておく。詳細な検証は他の論者に譲り、ここでは要点を確認することにする。「大綱」の言及順に精査するのではなく、テーマ別に整理統合して北理論を解析することとする。但し、単に解説するだけは興が湧かないので常時れんだいこコメントを付し対話式に確認することにする。その出来映えの評を賜わらん。

 北の著作は、1906(明治39)年の「国体論及び純正社会主義」、1919(大正8)年の「国家改造案原理大綱」、1935(昭和10)年の「支那革命外史」の三冊である。但し、「国家改造案原理大綱」は1923(大正12)年に「日本改造法案大綱」として改訂版が出されている。これを新刷と見れば4冊と云うことになる。本来は、これら全てに通暁しておけばなお能く理解でき、思考の発展経緯等々が分かるのであろうが今はまだ読めていない。その段階での解析とする。

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コメント

れんだいこさん、お気持ちは理解しますし、おかきになっておられることに、特に異存があるわけでは無いのですが、ご年齢から考えて、余りに遅すぎるというか、無残な感想を覚えます。小生、初発の頃から、ずうっと社会党でやってきましたが、北一輝は、それなりに尊敬する存在でありました。というよりも、当時の言わば「反体制勢力」が、堺利彦をある種の軸として、頭山満だの、ありとあらゆる思想傾向の「反体制勢力」の交流があったことに、深い感慨を持っています。それと比べれば、戦後の「新左翼」といわれる人たちの如何に無残な有様か。行動への責任もさることながら、思想の深いところでのまさしく無残さを、つとに思い致します。極論すれば、
国家社会主義独逸労働党(ナチスというゲスな呼び方ではありません)」の綱領にも、当時の社会情勢として、的確有効な方針があったのであって、そういうところを全く見ずに、「極左的行動」に邁進した、その政治スタイルをこど、恥じるべきだと思います。生意気言ってすみません。

投稿: Moonbase222 | 2011年6月25日 (土) 20時49分

>北を措いてこのようなものを創案し得る者が居ただろうか。これも既に述べたが、居たとすれば幸徳秋水、大杉栄以外には考えられない。北の「日本改造論」はこのセンテンスで読まれねばなるまい。

まことに御意にござります。この三人は幕末にたとえれば吉田松陰高杉晋作・勝海舟坂本竜馬に匹敵する器だったでしょう。この三人がことごとく昭和天皇直属憲兵によって横死の憂き目に遭わされたことが、太平洋戦争敗戦後の屈辱的奴隷契約地位協定締結になすすべなく至らしめた原因とさえ言えるように思います。

投稿: 通りがけ | 2011年6月25日 (土) 22時12分

 通りがけさん、Moonbase222さんちわぁ。コメント有難うございます。「幸徳秋水、大杉栄、北一輝の異能性」はかの当時においてマルクス主義を鵜呑みにせず、持論を自律せしめていたことだろうと思います。三人のその後をみたかったです。幕末では、例えるとすると「吉田松陰、久坂玄瑞、西郷隆盛」辺りかなぁ。勝海舟、坂本竜馬も入れても良いですね。但し、勝は長生きして評論的にすごしてしまいました。

「ご年齢から考えて、余りに遅すぎるというか、無残な感想を覚えます」についてですが仕方ないやね。若い頃は今みたいに勉強しなかったし、他にもすることあったからね。仮に時間があっても、右翼のイデオローグなぞどうでもいいや的感覚でしたから関心を寄せなかったかもしれません。やはり機縁というものが必要なのではないでせうか。

 戦後の「新左翼」についてですが、共産党の日共化、社会党の社民化に抗して新左派運動を企図したところまでは分かります。但し、実践面でも理論面でも、もっとのびのびして欲しかったですね。革命主義な余りに革命主義的に規律化し過ぎて排他的になってしまったように思います。でも気づけば良いではないですか。れんだいこは、政治運動の根底は生き方、思想に繫がっていると思っていますので、遅いとか焦りはないです。

 今は当分、北に嵌まりそうです。「支那革命外史」まで読み進めることになりました。面白いですね。戦後教育、戦後史学で教えられてきたことが如何に表相的か知らされております。そういう意味ではもっと早く読んでおけばよかったかな。とりあえずの返信です。

投稿: れんだいこ | 2011年6月26日 (日) 00時00分

れんだいこ先生、ご教示ありがとうございます。
不肖私めが思いまするに勝海舟がご一新後も生き延びたのは明治天皇の統治者としての賢明さの表れではないでしょうか。国士である、国のために長生きして政治への諫言を思うまま述べてくれよ、という懐の深さかと。
北ら三名の国士を愚か極まる憲兵の言うままに「不敬罪」の冤罪を着せて獄死させた昭和天皇の統治者としての暗愚さが対照的に判明したと思いました。

投稿: 通りがけ | 2011年6月26日 (日) 07時50分

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