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2011年6月 7日 (火)

陸軍皇道派の有能人士考

 2.26事件で陸軍皇道派が一網打尽的に潰された。これは確認された史実であるが、確認されていない面があるように思われる。それは、皇道派の青年将校の行動がクーデターであったのは論をまたないとして、皇道派の軍人能力、政治能力は如何なものであったのかの問題に関してである。通説の卑下的評価は正しいのだろうか。政治能力は議論がややこしくなるのでひとまず措くとして、軍人能力に於いては極めて優秀な部隊統率能力を示しているケースが多く、青年将校のいずれもが部隊に信任厚い有能人士であったことを示している。こうなると、皇道派への悪口三昧的評価の見直しをせねばならぬのではなかろうか。これが本稿の問いである。

 これを証しようにも、一番肝心の面々が首謀者として死刑に処せられておるからして調べようがない。とすると、禁錮刑で生き残った兵のその後の生態及び軍歴で証左する以外にない。生き残り兵にしてかくもの優秀さが証明されれば、処刑された
青年将校ともなると更に優秀だった可能性があり、それを明らかにすることは遅きに失したとはいえ弔いにはなるであろう。

 もう一つは、青年将校達に影響を与えていた皇道派トップの能力を精査し、彼らの優秀さを証すれば、その薫陶に服していた青年将校も同じく優秀だった可能性があると云うことになるのではなかろうか。皇道派のトップリーダ―は真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将である。彼らは陸軍の最高要職故に処罰が手加減され死刑を逃れた。その彼らのその後の生態及び軍歴で優秀さが確認できれば間接的証明になるだろう。

 この面の論証が行われているように思われない。なぜなら危険であるからである。2.26事件の正当性を語れば、事件叛乱者が真に撃とうとしていたのは国際金融資本帝国主義であり、彼らに溶解されつつある祖国日本救済を至念していたことを明らかにすることになる。今現在に於いて戦勝側である彼らが許すべくもない。臭いものには蓋をして、知らしむべからず拠らしむべしを旨とする支配の琴線に触れよう。

 そういう理由でと思われるが、2.26事件を語ることは未だにタブーのように思われる。爾来、こう云う風に隠蔽されると封切りしたくなるのが、れんだいこの性分である故に、蓋を開けることにする。サイトは「補足・皇道派名将録考」に記す。未だ書きつけ始めたばかりである。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/kodohaco.htm)

 皇道派のトップリーダ―真崎、荒木、山下、小畑は共通して、2.26事件後閑職に追いやられている。次第に大東亜戦争に誘い込まれて行く成り行きを危ぶんでいる。その閑職期、それぞれが潔い身の処し方の中でも有能な立ち働きを示している。中でも「マレーの虎」と云われた山下大将は皇道派の鏡とも云うべき範を垂れている。2.26事件後左遷されたものの、太平洋戦争勃発時には、海軍の真珠湾奇襲と呼応するコンビプレーの最重要作戦として、ここ一番のシンガポール攻略戦で起用され、史上稀なる名作戦で勝利に導いている。

 本来なら陸軍中央に凱旋し重用されるべきであったが、あろうことか用済みとばかりに満州へ転任させられ、以降、大きな作戦を任されていない。このことは何を意味するのだろうか。こういう変調な指揮が戦史のいたるところに認められる。ところが敗色濃厚となるや再度南方作戦に駆り出され、最後のご奉公とばかりに奮闘努力している。敗戦となるやすぐさま戦犯としてフィリピンのマニラで軍事裁判にかけられ、捏造された容疑で指導責任を負わされ、絞首刑されている(享年60歳)。

 山下は法廷で一切の弁明を行わず簡明な雄弁をもって陳述している。「日本の軍体系の非能率の結果として、私は指揮を統一することができなかった。日本の連絡網は極めて貧弱であった。私は、次第に情況から切り離されることになり、接触感を失ってしまった。そのような状態のもとで、自分の為し得る限り最善の働きをした、と私は確信する。私は如何なる虐殺をも指令しなかった。私は私の軍団を指揮するために最大限の努力を払った」、「私に責任がないわけではない」、「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」云々。

 小畑敏四郎を例証する。2・26事件後、辞表を提出している。すぐさま予備役に編入されている。日中戦争にあたって第14師団長となったが健康上の問題で召集解除となった。1945.9.2日の降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎を督励して、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばし出席させている。梅津に対して対等以上の貫禄があったことが読み取れる。その後、近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務めている。1947(昭和22).1.10日、死去(享年61歳)。注目すべきは、小畑は大東亜戦争指導者を終始冷やかに眺めている素振りが見えることであり、山下同様に肝腎の時には駆り出され一働きしていることである。
 
 もう一人挙げておく。事件後自害した野中四郎の弟の野中五郎の生きざまも壮烈である。事件の為に何かと苦労したと云う。 大東亜戦争開戦時にはハワイ真珠湾攻撃。続いて、フィリピン島クラークフィールド基地攻撃、香港攻撃、コレヒドール攻撃、ポート・ダ゛―ウィング攻撃、ギルバート諸島沖航空戦、マーシャル諸島沖航空戦、アッツ島艦船攻撃、ガダルカナル島飛行場攻撃などに転戦に転戦を重ねている。
 最後は、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721海軍航空隊(神雷部隊)の陸攻隊隊長となり指揮を執っている。「桜花」の欠陥を看破り「この槍、使い難し」、「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言、特攻そのものに批判的であり、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせたいと考えていたと云う。「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」との親分肌で接し、故に彼の率いる部隊は「野中一家」と呼ばれたほど堅い絆で結ばれていた。1945.3.21日、第一神風特別攻撃隊(神雷部隊)に出撃命令が下され出撃した。米空母部隊に攻撃を試みるも野中予言の通り、次から次と迎撃戦闘機に撃墜され全滅戦死した(享年35歳)。野中隊の最期は米戦闘機のガンカメラに収められ、今でも鮮明なカラー映像で見ることができる。

 こういうことを何の為に語ろうとしてるのか。既に述べたが、皇道派の精神には何の曇りもなく、御国に生命を捧げていることを確認せんとしようとしている。仮に2.26事件の青年将校が処刑されずに居たら、生き残った兵士以上の活躍をし、戦局はもっと違った展開になっていたのではなかろうか。それは何も戦勝祈願の見地から云うのではない。開戦となれば生命を捧げるも、開戦前の国際情勢の読み方、外交交渉の駆け引き等々においても史実と違う展開を呼び込んでいたのではなかろうか。そういう可能性があり得たのではなかろうかと愚考したい訳である。

 思えば、大東亜戦争は、皇道派と対立する統制派の指揮下で担われたことになる。それは、皇道派の能力を干し、皇道派を封殺したままの聖戦に過ぎなかった故に、軍事能力的に見れば片肺飛行であった。大政翼賛会運動で国を挙げて突き進んだが粗脳船頭ばかり多い危ういものであった。しかも、統制派の内部は既にかなりな程度に国際金融資本エージェント網に浸食されていた。皇道派にはそういうことが見られない。ここが皇道派と統制派の大きな違いであろう。とするなら、大東亜戦争の帰趨は、知る者にはかなり早くから見えていたのではないのか。そういうことを考えるのも一興であろう。

 ちなみに、戦前軍部の戦史犯罪が認められるとしたなら、それは統制派的軍規の弛緩によるものであり、皇道派の指揮下では有り得なかった。戦前軍部の戦史善政が認められるとしたなら、それは皇道派的規律によるものである。これはさすがに云い過ぎだろうか。そうまで云いたくなるほどに皇道派の正義と能力が認められるのであり、このことはもっと正当に評価されて然るべきだろう。皇道派を悪しざまに罵ることで左派証明している者が居るとしたら典型的なサヨであろう。こう云う風に考えると、政治状況は戦前も戦後も今もそんなに変わっていないということになる。

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