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2011年7月

2011年7月31日 (日)

【渡部昇一著「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」考

 1983(昭和58)年、 10.12日、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。元首相を裁く判決文にしては随分失礼な暴挙と思われるが特段に問題にされていない。

 そういう判決文によって田中元首相は、検察側の主張通りに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本秘書も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。

 れんだいこが、ロッキード事件、ロッキード事件裁判、その判決文に注目する理由は、これがその後の国策捜査の嚆矢であると思うからである。この時の「司法の型」が延々とその後も繰り返され、主として戦後日本の在地土着系政治家叩き、潰しに悪用されて行くことになった。これが現在の小沢キード事件まで続いている。「法の番人の上からの法破り」であるが、これが公然白昼罷り通ってきた。この「検察不正」が、先の厚生労働省元局長・村木不当逮捕事件公判で満天下に明らかになり、検察内部が遂に自浄に乗り出し、現在まで揺れに揺れているのは衆知の通りである。

 もとへ。かの時、毎日新聞10.15日付け朝刊が、藤林益三・元最高裁長官に、白根邦男・社会部長のインタヴュー記事が掲載された。その中で、藤林氏は次のように語っている。

 概要「一審が本来のもので、一審にはそれだけの重みがある。法律家が他の雑音にとらわれず判断した結果は尊重して貰いたい。一審判決を軽く考えるのはやめて欲しい。このことは裁判の威信の問題でもある」。


 朝日新聞10.21日付け朝刊が、岡原昌男・元最高裁長官のインタヴュー記事が掲載された。その中で、岡原氏は次のように語っている。 見出しは「一審の重みを知れ、居座りは司法軽視・逆転無罪有り得ない」。

 概要「上級審で逆転無罪となるケースはほとんどなく、一審判決はそれほど思い。今回の田中元首相の居座りは、こうした司法軽視の姿勢をさらに強めるものであり、首相経験者として絶対に許されることではない」。

 既に述べたように、両氏ともロッキード事件、ロッキード裁判渦中の最高裁長官を務めた人物である。幾ら在任中の事件として責任があったにせよ、こう云う場合には「渦中の一人」として発言を差し控えるのが嗜みであろうに露骨に角栄訴追加担コメントしている。これはどういうことだろうか。

 よりによって元首相を裁く特殊な事案であると云う首相職の権威に対して配慮する姿勢が微塵もなく、逆に被告人の控訴を司法軽視と看做して「首相経験者として絶対に許されることではない」と恫喝している。察するに、この元最高裁長官二氏が日本国の最高権威である№1の天皇、№2の首相よりも、より権威のある筋からの差し金に従い、それ故に、こうも威猛々しくコメントしているのではなかろうか。これを逆に云えば、後ろ盾なしには恐れ多い裁判だったのではなかろうかと云うことになる。この推理を否定するなら他にどういう理由が考えられようか。

 秦野法相は、月刊誌「文芸春秋」12月号に寄稿し、角栄の人権擁護の観点から国連の人権宣言の趣旨を援用して、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」を批判した。これに対し、藤林、岡原両氏は、秦野発言に対し「法律のシロウトの云うこと」と反論している。しかし、これも失礼な話である。秦野法相は元警視総監である。その警視総監を「法律のシロウト」呼ばわりする神経が解せない。警視庁が愚弄されておりメンツに関わる初言であるが、警視庁が抗議したのかどうかは分からない。いずれにせよ軽率な暴言には違いない。

 当然、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」は、コメントした藤林、岡原両元最高裁長官だけの問題ではない。それを大々的に取り上げ、「角栄よ観念せよ」的論調を煽った毎日新聞、朝日新聞の記事姿勢も徹底的に批判されねばならない。しかし、当時のマスコミから内部批判が出た形跡がない。否それどころか「角栄よ観念せよ」的論調を競って記事にして、「権威のある筋」からの覚えめでたさを買おうとしていた:ゲスな生態ばかりが透けて見えてくる。

 ちなみに、当の角栄は判決に激怒した様子を伝えている。

 概要「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ。この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」(佐藤昭子伝他)。

 この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「田中所感」を読み上げた。

 概要「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。違法な行為がなかったことを裁判所の法廷を通じて、証明することが厳粛な国民の信託を受けている者としての義務である。私は無罪の主張を貫く為に直ちに控訴した。遠からず、上級審で身の潔白が証明されることを確信している。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後とも不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠の無い憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」。


 渡部氏は、この時点で、炯眼にも次のように述べている。

 「田中角栄氏の主張する通り、彼は本当に5億円はもらっていないのかも知れない、と云う見地からこの判決を見てみると、つまり田中収賄という予断なしで見てみると、首をかしげたくなるような重大なカ所が幾つかあるし、裁判の様相は一転して暗黒めいてくるのだ」。


 渡部氏は続いて、藤林、岡原両名に対し、法の番人の元最高トップたるものが一審の重みを語るが故に間接的に三審制の意義を否定しているところにも問題ありと批判している。これ又炯眼であろう。次のように述べている。

 「元最高裁長官たちは田中裁判への予断を述べ、三審制軽視論をぶった。これは憲法の精神に真っ向から反するものであるのに、その憲法の最高の番人だった人たちが、そんなことを云っても平気な世論の動向であると考えられたのであろうか。そうとすればこれは司法の堕落であり腐敗である。二人の元最高裁長官は大新聞のインタヴューに誘われて晩節を穢したと云うべきではないか。(中略)司法の節操はここに破れたり、と云うべきであろう」。


 故に、「角栄よ徹底的に争え」として次のように述べている。

 「『世論』を離れて田中裁判を冷静に見ると、これは実に恐ろしい要因を含んでいる。田中氏には絶対第一審で服してもらっては困る。徹底的に二審、三審と闘い抜き、そしてこのロッキード裁判が含有している恐ろしい諸要因を国民の前に明らかにしてもらわなければならない」。

 ロッキード裁判の検察司法の乱暴さは目に余る。この点については追々確認して行くことにする。渡部氏が中でも批判し抜いたのが、免責特権付きの外国人証言に対して反対尋問する機会が与えられぬまま証拠採用され、有罪とされたことに対してであった。次のように述べて結んでいる。

 「それを聞いた文明国の人は、百人が百人、千人が千人、万人が万人、一人残らず日本はそんなに野番国であったのか、と仰天することであろう。我々はそんなに国の恥を世界の目に晒すことはないのである」。


 こうした渡部氏の論調に小室直樹氏の識見が作用していたようである。「同氏は田中裁判に関連した本も二、三冊書いておられるし、いろいろのところで発言もしておられるから」、「小室氏が田中裁判について書かれた本を以前に読んだ時は、ただ『面白い指摘だな』と思っただけであったが、司法界に、あるいは日本全体にみなぎる『予断』という点に気付いた今では、『やはりそうだったのか』と改めて慄然とするのである」と述べており、注目していたことが分かる。

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2011年7月29日 (金)

月刊誌「諸君!」誌上での渡部昇一氏のロッキード裁判批判功績考

 1984.1月号「諸君!」に渡部昇一「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」が登場した。この論文が、「始めに結論ありき」の意思統一の下で角栄有罪に向けて事を押し進める当時のロッキード裁判批判の先鞭をつけた。その論旨を確認しておく。

 ところで、この時の渡部氏の立論に対するネット上での評判がすこぶる悪い。「渡部昇一の『暗黒裁判』論を読む」、「シリーズ・『田中角栄の真実』批判 」などが典型で「渡部非、立花是」からものしている。れんだいこには、その論旨の薄っぺらさに耐えられない。

 渡部論文を掲載した「諸君!」でも、誰が執筆したのかは分からないが「ウィキペディア諸君」に従う限り、その沿革史においてロッキード事件論争の際に「諸君!」が果たした役割について、恐らく意図的故意に欠落させている。一事万事で、現代世界を牛耳る裏政府たる国際金融資本帝国主義批判に繫がるような言論が著しく掣肘され言論統制されているのが通り相場なのだが、ここでも垣間見られる。そこで、れんだいこが是正し、「渡部是、立花非」の観点から一文をものしておく。

 その前に、これを掲載した「諸君!」について確認しておく。「諸君!」は㈱文藝春秋が発刊していた月刊オピニオン雑誌であり、1969.5月に7月号として創刊されている。当時の文藝春秋社長の池島信平氏が、「文藝春秋は売れすぎて言いたいことが言える雑誌ではなくなった、だから小数部でも言いたいことを言う雑誌を作ろう」との思いから創刊したと述べている。初代編集長は田中健五。当初の執筆陣は福田恆存、三島由紀夫、小林秀雄、竹山道雄、山本七平、江藤淳、林健太郎、田中美知太郎、高坂正尭、村松剛らであった。

 その後の論客として、順不同であるが、白洲次郎、清水幾太郎、山本夏彦、石原慎太郎、古森義久、佐伯啓思、中嶋嶺雄、西部 邁、野田宣雄、秦 郁彦、平川祐弘、渡部昇一ら。他に中曽根康弘、池部 良、山本卓眞、渡邉恒雄、/勝田吉太郎、岡崎久彦、佐々淳行、曾野綾子、深田祐介、屋山太郎、金 美齢、佐瀬昌盛、山崎正和、平沼赳夫、渡辺利夫、立花 隆、黒田勝弘、長谷川三千子、山内昌之、鹿島 茂、関川夏央、阿川尚之、東谷 暁、井上章一、荒木和博、石破 茂、坪内祐三、福岡伸一、佐藤 優、福田和也、櫻田 淳らが名を列ねている。以来40年を経て、2009.6月号を最後に休刊した。

 「諸君!」は、渡部論文を1月号に続いて3月号でも掲載した。1月号は「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」、3月号は「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」。同7月号で、立花「立花隆の大反論」、渡部「英語教師の見た『小佐野裁判』」が併載されている。同8月号で、匿名法律家座談会「立花流『検察の論理』を排す」、伊佐千尋・沢登佳人「『角栄裁判』は宗教裁判以前の暗黒裁判だ!」、同9月号で、立花「再び『角栄裁判批判』に反論する」、「『角栄裁判』論争をどう思いますか?」と題するアンケート特集が掲載されている。

 これを見れば、当時の論壇が朝日ジャーナルを始めとして反角栄一色に染まり、角栄訴追の大合唱に明け暮れる中、「諸君!」がただ一誌、異色の「始めに結論ありき的ロッキード事件」批判の姿勢を示していたことになる。この稀有の姿勢が当時の編集部の政治能力に基づいていたものなのか単に注目を浴び売れ行きを伸ばす為のものであったのかは分からない。いずれにせよ、当時の角栄包囲網に加担しなかった栄誉に与っている。このことはもっと注目されても良い史実と思う。然るに、「諸君!」のこの栄誉の痕跡が消されている。そこで、れんだいこが一筆啓上しておく。これが本稿の意義である。

 この時の渡部昇一氏の諸論は、「万犬虚に吠える―角栄裁判と教科書問題の誤謬を糺す」(PHP研究所、1994.4.1日初版)として発行されている。ここでは教科書問題はさて置き、角栄裁判を採り上げる。渡部氏は、「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」以前にも「諸君!」にロッキード事件絡みの寄稿をしているようである。その一は、1975.2月号に「腐敗の効用」、その二は1976.5月号に「公的信義と私的信義」、その三は1976.10月号に「小佐野賢治考」。計三本をものしている。

 それから6、7年鳴りを潜めていたが、1983.10.12日のロッキード第一審判決に合わせての10.15日付け毎日新聞朝刊に掲載された「ロッキード事件当時の最高裁長官にして最高裁免責証書を発行した張本人の元最高裁長官・藤林益三のインタビューコメント」、10.21日付けの朝日新聞朝刊に掲載された「元最高裁長官・岡原昌男のインタビューコメント」にコチンと来て、やおら「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」を書き上げ、1984.1月号「諸君!」に掲載されたと云う経緯のようである。

 ところで、この時の元最高裁長官・藤林益三、岡原昌男とは何者か。これを記しておく。両名は、本来ならコメントを自粛すべき事件関係者である。なぜなら、藤林は、1976(昭和51).2.4日、ロッキード事件が勃発し、喧騒が始まり、最高検察庁が「角栄逮捕を意思統一」し、東京地検(堀田力主任検事ら)が米国の裁判所に事件調査に出航した直後の5.25日、 最高裁判所判事から第7代最高裁長官に就任し、東京地検の「不起訴宣明書」を出すようにとの催促を受けて、藤林長官以下15名の最高裁判事全員一致による「不起訴宣明書」を提出している利害関係者であるからである。

 藤林氏は根っからの無教会派クリスチャンでもあった。無教会派とは、キリスト教会の各系統の中でユダヤ教教義を重視する宗派である。何か怪しいものが臭うではないか。岡原昌男とは、1977.8.26日、弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任している人物である。両者とも、「始めに結論ありき的ロッキード事件」渦中で角栄訴追側に与して訴訟指揮した人物である。

 普通、こういう利害関係者は、ロッキード第一審判決に関してノーコメントするのがマナーであろう。これを良識と云う。渡部昇一氏は、その良識のなさに呆(あき)れ、事件そのものには関心があったものの公判には門外漢として留意していなかったところ、やおら検察の論告の解析に入った。これにより、検察正義を擁護し抜く新種の御用評論家・立花隆の論調と鋭く対立し、両者間で論争し合う経緯を見せて行くことになる。

 その発端が「諸君!」1月号の渡部寄稿「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」である。今これを読むのに、「渡部VS立花」どちらに軍配を挙げるべきだろうか。立花ヨイショの渡部昇一の『暗黒裁判』論を読む」、「シリーズ・『田中角栄の真実』批判 」的評論に抗して、れんだいこが渡部ヨイショを試みることにする。

 2011.7.29日 れんだいこ拝

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2011年7月27日 (水)

引用転載識別考

 久しぶりに著作権論に触れておく。ネットサイト上に「引用と転載の違いまとめ」と題する「面白い文章」に出くわした。執筆者は分からない。期日表示がないので、いつ頃の出稿なのかも分からない。そういう意味で一種怪文書染みている。http://mudantensai.blog.shinobi.jp/

 議論上、仮にこの御仁を「A」、れんだいこを「R」と命名する。Rは、Aの最も嫌う形での全文転載を敢行し、批判しておく。転載文は下記のサイト引用、転載、複製についてに格納しておき後日の証とする。Aが先にRの引用転載論を批判してくれているので叩き易い。

 どうやらA的著作権理解が標準らしい。そういう意味では、転載文は強権著作権派の引用転載論の水準を示していることになる。そういう意味で興味深い。Aは、概要「引用と転載の違いが分からない者が多いから示しておく」として次のように述べている。

 「引用:その文章を削除しても記事がなりたつ。著作者の許可がなくても行ってよい。転載:その文章を削除したら記事がなりたたない。著作者の許可がなければ違法」。

 引用と転載をこのように識別するのがいつ頃から定式化したのかは分からないが、随分いい加減なものだと思う。該当文が有る無しで記事が成り立つかどうか見分けることで引用と転載を識別すると云うのだが、随分裏側から見た規定である。この論法によれば、記事が成り立つ成り立たないを誰が判定すると云うのだろうかという新たな問題が発生する。将来、著作権判定士でも創ろうとしているのだろうか。ややこしい話ではある。ぬるぬるして気持ち悪い卑怯姑息な人種が好みそうな識別法である。

 「A的引用転載識別論」が通り相場なのかもしれないが、通り相場であろうとなかろうと愚論は愚論である。Rは断言しておく。現行の著作権法に従う限り、こういう解釈は著作権法の規定にはない。いわば「私的なAルール」のものでしかない。今日びこういう「私的なAルール」が流行っているのは確かだが、法文に裏付けられないと威勢を欠く。

 一般に、大した文章でもないのに著作権に固執し、勝手に利用させぬと敷居を高くして悦に入り、互いの首を絞め合って恍惚している。それで居て誰にも相手にされないと寂しがる。Rに云わせれば「知の変態」である。世間は広いので、いろんな方が居ることは認める。だが、そういう変態は仲間内だけに通用させれば良いだけのことで、世間に広めてもらうのは困る。説教してくれるなどはもっての外である。そういう類のものでしかない。

 この手の論法が最も進んでいるのが音楽業界でジャスラックが率先太郎している。著作権と音楽文化を守ると云う名目で、カラオケスナックを見つけては、「著作者(著作管理者)の断りもなくよくも勝手に営業利用してくれたな、ついてはショバ代出せ」とヤクザ論法そのままに恫喝しまくっている。著作権料はカラオケリース料に組み込まれている筈なので、そちらを高くするなりして解決すれば良いと述べ応じないと、客が詠った歌一曲につき幾ら出せと云って、過去にさかのぼって請求し、応じないと勝手に超高額の利息を乗せて裁判に付す。

 これで泣かされた経営者は数多い。挙句の果ては警察使って経営者を逮捕させている。店舗面積割合で課金するものだから大型店舗では超高額になり、悲鳴を上げてカラオケから撤退する店が続出している。この正義棒を所構わず振りまわすものだから、今や事務所でも不用意には音楽かけられない。旅行ツアーバスにカラオケがなくなっている気がするが、これに関係しているのかも知れない。ジャスラックは今日も摘発に向けて徘徊している。

 A論は、この手の連中が随喜の涙で歓ぶ援軍理論になっている。しかし、行政的にそうなっているだけで、著作権法上正しいかどうかとなると別の話である。この手合いは要するに強い者に巻かれろ式の時流に乗って口をパクパクさせているだけで、時流が代われば又別のことを云いだすのだろう。既に著作権先進国ではかっての私権万能著作権論から公共的著作権論への転換が始まりつつある。Aは、このバスにうまく乗れるのだろうか、乗り遅れるのだろうか、こういうところが気になる。

 もとへ。Rは、Aの云う如く「引用と転載の区別が付いていない」のではない。次のように区別している。「引用とは、被著作物の文章の一部の抜書きである。転載とは、被著作物の文章の関連する箇所全部の転写である」。A論規定に比して正面からズバリ概念規定している。この規定で何ら構わないと思う。著作権法はかく識別しており、それ以上の判断をしていないと読み取っている。これが間違いだと云うのなら、法文に基づいて指摘して貰いたい。

 問題は、A論とR論のどちらが著作権法に照らして正しいのかと云うところにある。法を絶対基準にすべきかどうかは法哲学上難しいところだが、著作権を論じる場合には著作権法に依拠するのが賢明だろう。Aにも異存はあるまい。憲法論でいえば「9条問題」だと思えば良い。これがよく似ているんだ実は。両者とも、どう解するべきかが鋭く問われている。法文は関係ない、現実を優先させると云うのは反法治主義であり、Rの良しとせざるところである。Aが堂々そう主張するのなら、そう断ってからRを批判すべきである。その上で9条改正の動きがあるように著作権改正に向かえば良い。目下は9条があるように著作権法があり、これに従うべきだろう。

 Aは、Rに対して、「常識がわからない人の考え方の例として、ネットでみつけた、れんだいこさんという方の意見を引用します。※れんだいこさんは引用と転載の区別が付いていないので注意して読んでください」と前触れしている。Rは、云われっ放しは体に悪いので次のように云い返しておく。「著作権法がわからない人の考え方の例として、ネットでみつけた、Aさんという方の意見を転載します。※Aさんは引用と転載の区別に著作権法とは違う解釈を持ちこんでいるので注意して読んでください」。

 Rは、A論に対する反論を次のサイトで示している。これを確認する。

 「引用、転載、複製について
 「引用、転載、複製の際のルールとマナー考

 Aは、ご丁寧にも上記のうち「引用、転載、複製の際のルールとマナー考」をリンク紹介している。その上で、以下のようにRの立論に反論している。ついでに「引用、転載、複製について」も反論すれば、なお生産的な議論になろう。

 Aは、Rの諸論に対して次のように反論している。「1:私はお世話になったスレの利用者にちょっとだけ読んでもらいたかっただけです。宣伝してもらいたいとは思っていません。それが無断で転載されていたのですから有り難いわけがありません。2:たとえばプロになりたい人などは無断転載されても知名度があがるかもしれませんが、興味のない私には勝手に宣伝をしてあげたといわれても有難迷惑なだけです。3:dvamp(仮)はお客さんを呼び込むために私の著作物が利用しましたが、私は気持ち悪くおもい次の文章を書くのをためらっている状態です。これが表現の自由でしょうか?れんだいこさんは、表現の自由をうたっておきながら、『転載されたくなかったらインターネット空間に登場しなければいい』といって表現の自由を貶めていて、とても性質が悪いです」。

 Aのこの批判が適正だろうか吟味する。「批判1」を仮に「A式無断転載不許可論」と命名する。既に述べているが、この主張は著作権法に照らすと根拠がない。同法では、引用、転載につき出典元、出所元、著作者を明示することを要件としたうえで、情報交叉可としている。Rは、そう読みとっており、著作権法史の流れからすれば、そう読みとるべきだと思っている。A式の著作者の許可、不許可を絶対条件とさせ、不許可の場合には「引用可、転載不可」とするような規定はどこにもない。Aがこの論に固執するならば、著作権法上の法文で根拠を示さねばならない。

 「批判2」を仮に「無断転載有難迷惑論」と命名する。これまた著作権法に照らすと根拠がない。あるというのなら条文を示して貰いたい。ちなみに、法律は市民の有難迷惑にまで関与するような規定はない。

 「批判3」を仮に「表現の自由貶め論」と命名する。AとRには、「表現の自由」を始めとする自由権的権利の理解の差が横たわっている。これを論じても押し問答になるから触れない。

 総じて云えることは、Aが個人的に「我こう思う。故に我はこうする」と自主自律規制するのは一向に構わない。しかしながら、「我こう思う。故に我は相手にこう要求する」のだけは止してほしい、それは僭越過ぎると云うことである。AとRの間には、いわば、子供と大人が恋愛論を語る場合の質の差に似た違いが横たわっており、この認識の差を埋めるのは難しい。大人が子供に手を取り足を取る必要もないので止すが云い渡しておく。A君、著作権棒振り回すのは勝手だが、人を巻き添えにすると、これぐらいの反論は覚悟せよ。更に続けるなら、どちらかがもっと大恥を掻くことになる。Rは恥を掻くのも掻かすのも好まない。切れない包丁をむやみやたらに振りまわさないことだ。ご忠告申し上げておく。

 2011.7.27日 れんだいこ拝

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2011年7月19日 (火)

大国主の命論その7、国譲り考後篇

 いよいよ大詰めである。こうしてタケミカヅチは事代主とタケミナカタの双方を平定し、大国主の命との最後の談判が行われることになった。次のようなやり取りだった。タケミカヅチ「お前が申し出た二人の子は、アマテラス様の御子の命令に従うと申した。改めて問う、お前はどうなんだ」。大国主「子供が従うことになった以上私も、葦原中国を献上しアマテラスの支配に任せよう。但し、顕事の政治の世界からは身を引くが、幽事の神道の司祭者として生き延びることを保証して貰いたい。私どもが創始した母里の国を献上する代わりに、私の住む地が神領地として安堵され、そこに宮殿を建て、私どもが大事にして来た祭祀を行いたい。それさえ保障されるなら国譲りすることを約束する」。

 タケミカヅチ「その願い聞き届けよう」。大国主「もう一つ。我が王朝の有能な子供たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆が倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。タケミカヅチ「承った」。これを仮に「国譲り最後の談判譚」と命名する。

 大国主は、出雲の祭祀を司る広矛を差し出した。タケミカヅチは、高ミムスビの神に大国主の命の国譲り条件の申し出を伝えた。高ミムスビの神は、「勅」(みことのり)を発し、「今、汝が申すことを聞くに、深くその理有り」と了承した。次のような条件を付した。「1・汝は政治から手を引き、神事のみを司る。2・汝が住む天日隈宮の造営を認める。但し、高天原が送るアメノホヒの命が祭祀を司る。3・汝は国つ神と婚交せず、我が娘ミホツ姫を妻とせよ」。玉虫色のまま双方が条件を飲み、こうして政治支配権が出雲王朝から高天原王朝へ移った。出雲王朝が高天原王朝の軍門に屈し、且つ出雲王朝派はしぶとく生き残ったともみなせよう。

 いずれにせよ、国譲りは理不尽なものであった。その理不尽に徒に戦うのではなく、半ば抗戦し半ば和睦することで一定の勢力を温存し、お国の行く末を未来の歴史に託した。この判断のしなやかさが大国主の命の秘策であったのかも知れない。事実、出雲王朝の御代の影がその後の高天原王朝から出自する大和王朝の御世に付き纏っていくことになる。大和王朝の治世は、高天原派だけでは何事も進まなかった。必然、出雲派の協力が促され、相協力することで大和王朝史を綴っていくことになった。出雲王朝は、「眼には見えぬ幽り世の世界から、その霊威をあらわす」ことで隠然とした影響力を持ち続けていくことになった。

 但し、政治は残酷である。高天原派は内応した出雲派をもってり抵抗する出雲派を駆逐すると云う策謀を廻らし各地の平定戦に向かっている。しかしながら総じて言えば、高天原派と出雲派即ち天孫族と国津族は互いの至らないところを補いながら日本政治を舵取りして行った気配が認められる。こういうことが重なりあいながら国造り展開するのが日本史である。この流れが日本史の底流であり、ここを理解しないと何も見えなくなる。

 皇国史観は、この経緯に対して余りにも記紀神話の作為的記述に依拠し過ぎている。記紀神話の執筆者が裏筆法で出雲王朝の確固たる存在とその善政ぶりと幽事の世界への移行、その郷愁を伝えていると云うのに。皇国史観は、このキモの部分に対して余りにも粗雑な理解のままに天孫族の日本平定を鼓舞し過ぎている。その結果として偏狭な絶対主義的天皇制を作り上げ、そのイデオロギーで日本帝国主義の朝鮮、台湾、中国大陸侵略を聖戦化して行くことになった。これを陰に陽に後押ししたのが当時の国際金融資本である。当然、この策謀は今日も続いている。

 ところで、古代史上最大の政変「高天原王朝と出雲王朝の国譲り」は、他国のそれと比べて明らかに著しい違いが認められる。それは、決戦的絶滅戦争ではないということである。武闘と和議の二面作戦で最終的に手打ち和議し、勝者が敗者を徹底的には攻め滅ぼさないという特徴が認められる。この和合融和方式が日本政治史の原型となり、その後の日本政治史の至るところに立ち現われている。

 この「硬軟両様、手打ち、和合融和」と云う日本政治の質は現代に至るまで底流となって流れ続けており、日本が育んだ政治財産であると自覚すべきであろう。この所作は政治のみならず我々の生活諸事をも規制している。故に今後もこの型で処理して行くことになるだろう。これを称賛こそすれ卑下するには及ばない。

 思えば、聖徳太子の「和の政治」も日本政治のこの型を受け継いでいる。明治維新の五カ条の五誓文然り。これが日本政治のDNAになっている。日本政治には西欧的な(もっと云えばユダヤ的な)決戦的絶滅戦争型政治は馴染まないし馴染む必要もなかろう。むしろ、この日本政治の型を尊重していくことの方が望まれていると窺うべきではなかろうか。

 これを逆に云えば、「硬軟両様、手打ち、和合融和」と反する政治の型、例えば小泉政権時代の郵政政局での反対派絶滅政策、刺客騒動なぞは日本政治の型ではないということになる。小泉のDNAが日本人離れしていることを窺えば良い。菅の党内を二分する小沢派の冷遇人事も同様のものである。組閣人事の要諦からは有り得ない。菅のDNAが日本人離れしていることを窺えば良い。このところ、こういう日本政治の型でない手法が流行っており、マスコミが囃している。背後に教唆する者が居ると窺うべきだろう。

 もとへ。日本神話にはこういう日本の型が随所でメッセージされている。これを学ばないのであれば、単なる神話にしか過ぎないであろう。事実は、神話にことよせて随所に叡智をちりばめている故にギリシャ神話然り、愛読されるべき筋のものではなかろうか。戦後教育が、この辺りの素養教育を放棄したことが、今日の大量の軽薄政治家を増産しているのではあるまいか。菅派の政治家に共通して云えることは、こういう日本的政治の型に余りにも無知過ぎることである。日本人の顔をした実は身も心も国際金融資本に売り渡した売国亡国人ばかりである。政権に就かせてはいけない人士が大挙して巣くっているおぞましい姿である。

 これを如何にせんか。本稿はこれを解き明かすのが眼目であった。その為に新たな国体論を求めて書き始めた。解き明かせたかどうかは分からない。要するに、我々が求める国体論とは、遠の昔の倭国日本の政体から説き起こし、出雲王朝政体、国譲り後の大和王朝政体、その後の両者の掛け合いが続きながらはるけき今日まで至っている政体、これらを遠望する際に滲み出てくるものを探り出すべきであろう。それを国体として認め、大事に育み継承することが責務ではなかろうか。この自覚を持ち各々随所で処するべしとするのを国体論と云うのではなかろうか。

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大国主の命論その6、国譲り考中篇

 高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判の結果、舞台は文人頭の事代主(コトシロ主)と軍人頭のタケミナカタとの談判に移った。古事記は事代主の対応を次のように記している。「この時、事代主は、美保の崎にいた。アメノトリ船が向かい連れて来た。タケミカヅチが、大国主の命に対して述べたと同じことを伝えると、『かしこまりました。この国は、アマテラス様の御子に奉りましょう』と云い残して、拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた(「天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき」)。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」。

 事代主は、後々に七福神の恵比寿様として奉られることになる。これを仮に「事代主の談判譚」と命名する。

 事代主は、苦衷の末「国譲り」に応じた。同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのかは両説ある。後の史実で確認するのに、事代主は、大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表となった可能性がある。鴨族が遠祖を出雲王朝とするのか大和葛城地方の土着豪族とするのかは分からない。鴨族には高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。

 いずれにせよ、事代主派は闘いを避けることにより、国譲り後の大和王朝政権の一角に食い込むことになったのではなかろうか。「事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」は、新王朝での登用の約束談合による手打ちを寓意しているように窺う。

 事代主及びその系譜及び子孫はその後、大和王朝内で出雲王朝系の代表として一角を占め、次第に頭角を現し、特に大和王朝神道の確立に寄与した形跡が認められる。高天原王朝の神道司祭派と相提携しあるいは隠然と対立しつつイニシアチブを争った形跡が認められる。要するに、そうやって生き延びたと云うことであろう。あぁ歴史は何と奥深いものであるか。

 文人頭の事代主が戦いを避けたのに対し、軍人頭のタケミナカタは応戦した。タケミナカタは、古事記では「建御名方神」、続日本後紀では「南方刀美神」、延喜式神名帳は「南方刀美」と記している。大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供と云われる。タケミナカタは承知できないとして応じなかった。次のような問答が交わされた。両者とも「タケ」なので確認しづらいので外して確認する。ミナカタ「人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。ミカヅチ「そうだ。この国をもらい受けに来た」。ミナカタ「そんな理不尽が許されると思うのか」。ミカヅチ「これはアマテラス様のご命令だ」。ミナカタ「ならば一戦交えるのみ」。 

 こうして談判は決裂し、戦闘することになった。神話では、二人の力比べが始まり相撲をとったことになっている。これが史上に出て来る相撲の起源とも云われる。ミナカタがミカヅチの手を握り投げようとしたところ、ミカヅチの腕から先がツララになり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、ミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。次に、ミカヅチが同じようにミナカタの手を握ると、易々と手を握りつぶした上に、そのままミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、ミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩しているように思われる。

 力競べに負けたミナカタの軍勢は、追いかけてくる高天原王朝勢と戦いながら出雲から能登へ、そして科野(しなの、信濃)の国の洲羽海(すわの海、諏訪湖)まで逃げた。この時、現地の豪族の洩矢の神(もれりの神)が抵抗し、敗れて降伏したとの伝承がある。引き入れる派と反対する派が居たということであろう。これをミカヅチが追撃し、両者は再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したミカヅチと形勢不利を認めたミナカタは、手打ちすることになった。1・ミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。2・アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認める。双方これを受け入れ和議がなった。以降、ミナカタはヤサカトメの命(八坂刀売命)を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まった。これを仮に「タケミナカタの談判譚」と命名する。

 この神話は、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応ぜず、各地で戦闘を続け諏訪国に逃げ、決着つかず高天原王朝のタケミカヅチ優勢のままで両者が手打ちしたことを明らかにしている。この手打ちも日本政治の原型の一つである。これについては次章でも触れる。

 ちなみに、この神話により諏訪大社も出雲大社系譜であることが分かる。但し、諏訪大社は下社、上社に分かれている。これはタケミナカタ派が逃げ込んできたことと関係しているものと思われる。タケミナカタ派の逃亡ルーツも興味深い。出雲から能登へ行ったと云うことは能登に支持基盤があったことを意味しよう。同様に信濃の諏訪に向かったことも然りで、出雲王朝時代の連合国家の一つだったと思われる。タケミナカタ派は事代主派と違う生き方で生き延びたことが分かり興味深い。

 この下りは以上の如く簡略に記すが、神話故に荒唐無稽と云うものでもあるまい。案外と史実を書き記しているのではなかろうか。但し、寓意交りと時の政権の正統性を裏付ける側から記述するのが正史の常であるのでご都合主義的な脚色を免れ難い。これをどう理解し読み直すかが問われているのではなかろうか。いずれにせよ、皇国史観なるものの薄っぺらさを読み解かねばなるまい。その皇国史観を嫌悪してあるいは荒唐無稽さを笑って、その結果何も知らないのは却って良くないのではなかろうかと思う。

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大国主の命論その5、国譲り考前篇

 よりによってこの大国主の命の時代、天下の形勢は風雲急を告げつつあった。大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが恐らく韓半島経由と思われる高天原王朝が来襲せんとしていた。高天原王朝を天孫族、出雲王朝他日本の先住民族を国津族と云う。

 高天原王朝は、どういう経緯によってかは定かではないが次のように意思統一している。「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している。中でも大国主率いる出雲が強大国である。豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が治めるべき地として相応しい。天壌無窮の地なり。出雲に使者を派遣せよ」。日本書紀は次のように記している。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ我が子孫の王たるべき地なり。宜(よろ)しく皇孫をして統治に当たらせるべし。行牟(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんことを。まさに天壌無と窮り無けむ(天壌無窮なるべし)」。

 この宣言が、「天壌無窮の神勅」と云われるものである。高天原王朝はかく出雲王朝の君臨する「豊葦原の瑞穂国」に白羽の矢を立て支配権を譲るよう迫っていた。皇国史観は、この「天壌無窮の神勅」を是として大和王朝創建の始まりとしている。出雲王朝側からすれば迷惑千万な話でしかないが、神話上の史実である。

 当然、高天原王朝のこの動きは、大国主の命の治める出雲王朝にも伝わった筈である。大国主の命は、この非常事態に賢明懸命に対処している。これより「国譲り騒動譚」が始まる。日本古代史の、と云うより日本史上の最大政変勃発である。これに匹敵する史実は、鎌倉時代の蒙古襲来、戦国時代のバテレン上陸、江戸幕末の黒船来航、戦後の連合国軍進駐であろうが、それまでの支配政権がごそっと交代したと云う重みにおいては、この時の国譲り騒動に優るものはない。

 記紀が示す「国譲り騒動譚」をいつ頃の時代に想定すべきか。れんだいこは、紀元3世紀に所在していたとされる邪馬台国前の紀元1世紀前後の頃、中国の後漢時代と想定している。「後漢書東夷伝倭伝」は、朝鮮半島で、紀元105年、高句麗が遼東6県を侵した頃から184年までの80年間、倭国分裂大乱が記録されている。魏志倭人伝にも「その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」とある。

 その後、卑弥呼が王に共立され、この御代に邪馬台国が創建されている。魏志倭人伝に次のように記されている。「年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻なし。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし」。れんだいこは、「国譲り騒動譚」は、これに関わる政変の前段階の史実だったのではなかろうかと考えている。この辺りは今後の研究課題である。

 この説を補強する筋の話として、日本書紀には国譲り直前の次のような逸話を記している。「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。これが後に大物主の神登場の伏線となっているように思われる。

 大国主の命の大和行きは正妻スセリ姫との「ぬば玉歌」でも確かめられる。これは、大国主の命が大和の国に向うべく旅支度を始め、いざ立たんとする時に、大国主の命が詠い、スセリ姫が返歌した「永遠の別れを惜しむ嬬恋歌」と解するべきであろう。通説は、スセリ姫の返歌の一句「吾はもよ 女にしあれば、汝を除(置)て 男は無し。汝を除(置)きて 夫(つま)は無し」に着目しスセリ姫の嫉妬深さが窺われる歌と解しているがナンセンスであろう。それはそれとして、この歌は、史学的に「大国主の命の大和行き」を記していることに意味がある。

 この二つの神話は、出雲王朝と大和の三輪王朝との歴史的繋がりを伝えていることに意味がある。ちなみに、三輪山宮は現在も奈良県桜井市の三輪山を御神体として大神神社として祀られている。現在、三輪山の麓にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかとして脚光を浴びつつある。れんだいこ史観によれば、出雲王朝と三輪王朝は深い繫がりがある。現代史学は次第にこのことを明らかにしつつあるように思える。但し、両王朝が高天原王朝により滅ぼされ、史実から封殺された側の哀しい歴史の物語を持つことまで確認し得ていないように思われる。皇国史観は、これを隠蔽する側の史観であり、これを幾ら学んでも歴史の裏真実には辿り着けない。そういう仕掛けが加えられている。

 もとへ。高天原王朝は何度も使者を送り失敗させられる。最初は「言向和平」(ことむけやわす)談判から始まった。一番手使者としてアマテラスの息子のアメノオシホミミの命が送られ、大国主が治めている葦原中国へ向かおうと天の浮橋を渡った。しかし、それから先は抵抗が強く進むことができなかった。次に、アマテラスの息子のアメノオシホヒの命を派遣する。しかし、アメノオシホヒの命は、大国主に靡いてしまい、3年たっても復命しなかった。

 第三陣の使者としてアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を派遣する。この時、初めてアメノマカコ弓とアメノハハ矢を援軍として同行させている。大国主の命は、ウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせ、アメノワカ彦はシタテル姫の美しさにみとれ、これを妻として住まい始めた。こうして又も篭絡された。8年たっても復命しなかった。高天原王朝の使者がアメノワカ彦の元に派遣され詰問した。問答の結果、アメノワカ彦は射殺された。

 ここまでの流れを仮に「高天原王朝の出雲王朝攻略失敗譚」と命名する。「高天原王朝の出雲王朝攻略失敗譚」は、高天原王朝の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。

 留意すべきは、高天原王朝の使者は何故に籠絡されたかであろう。思うに、大国主の命との問答で、出雲王朝政治の理想に被れたのではなかろうか。問題はなぜ被れたかである。れんだいこは、出雲王朝政治の思想的にも実務的にも高度な政治が確立されていた故にではないかと推理している。使者は、出雲王朝に惚れ、山紫水明にして上下相陸み合い暮らしする素晴しき共同体を護ろうとし、それ故に戦争ではなく和平の道を探ろうとしたのではないかと推理している。その裏に大国主の命の得意とする政略結婚政策が有効に機能していたとも思われる。

 高天原王朝は、第四陣としてイツノヲハバリ神の息子のタケミカヅチ軍を送る。フツヌシ神も同行する。アメノトリ船神をそえて葦原中つ国へ遣わしたとあるので今度は大軍で押し駆けたと云うことになる。今度の軍使は篭絡されることを厳に戒められ、端から降伏するかさもなくば戦争によって決着させるとの決意で向った。これが最後の切り札となった。タケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの談判をする。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいて武威を示した。

 緊迫したこの雰囲気の中で次のような問答が交わされた。タケミカヅチ「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。 大国主「私達は、今まで農業を主として平和な共同体を築いてきた。ここで戦争をすると勝敗は別として元も子もなくなる。私はそれを憂う。国譲りの申出については、子供達が反対しなければ私は従う。私の一存では行かない。我が子が返答することになるでせう」。タケミカヅチ「子供たちの誰が権限を持っているのか」。大国主「事代主(コトシロ主)とタケミナカタの二人です。事代主は文をタケミナカタは武を受け持っております。その二人の了承を取り付けてください」。

 この談判によれば、大国主の命は即答を避け、判断を文人頭の事代主と軍人頭のタケミナカタに委ねたことが分かる。この二人が大国主の命の御子であったと記されているが、それはどうでもよい。肝腎なことは、この二人が政権後継者として№1、2に位置していたことを見て取るべきだろう。これを仮に「イナサの浜での直談判譚」と命名する。

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大国主の命論その4、出雲王朝政治考

 東出雲王朝の王権を争い熾烈な抗争を続けていた若き日の大国主の命は、この頃の名を、「おほなむち」(大己貴神、大汝命、大名持神)と云う。「ナ」が土地という意味であることを考えると既に相当の領地を相続経営していたことになる。その大国主の命は、「いなばの白兎譚」で寓意されている如く、東出雲王朝の八十神(やそがみ)とイナバの国のヤガミ(八上)姫の妻取り合いで勝利している。

 次に、「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」で寓意されている如く、西出雲王朝のスサノウの嫡女・スセリ(須世理、 須勢理)姫にも一目ぼれされ、スサノウによる幾度の試練をも乗り越え遂に西出雲王朝の王権を手に入れている。これにより、大国主の命は東西出雲王朝を統合し、一大出雲王朝を創始して行くことになった。

 よほど男ぶりが良かったのであろう、「あしはらしこを」(葦原色許男神、葦原醜男)とも命名されている。「しこを」とは、「強い男」の意で、これを良く評価する側は「色許男」と当て字し、悪く評する側は「醜男」と当て字している。大国主の命は、その日本一の有能色男ぶりで各地の豪族との同盟関係構築に成功している。合戦止むを得ない場合には合戦を、和睦できる場合には豪族の息女と交合する方法で処しているように窺える。嬬恋歌が残されているが、和歌の堪能者でもあった様子が伝わる。

 これはいわゆる政略結婚であるが、その背景には和戦的意味合いがあったと思われる。政略結婚の原義はこういう豪族間の閨閥同盟にあり、次第に単に両家の結びつきへと意義が広がったものと思われる。この伝統は世界共通のものであり、特段に珍しいものではない。大国主の命の政略結婚として有名なものは、ヤガミ(八上)姫、スセリ(須世理、 須勢理)姫の他に出雲の郡宇賀の郷のアヤト姫、神門の郡の朝山の郷でマタマツクタマノムラ姫、八野(やの)の郷ではヤヌノワカ姫、宗像の三女神の中の多紀理(タキリ)姫、神屋楯(カムヤタテ)姫、八河江姫、前玉姫、比那良志姫、活玉前玉姫、青沼馬沼押姫、若尽女神、もっとも有名なところとして高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫が挙げられる。

 この頃の大国主の命の立ち働きに対して「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」と記されている。この時代の大国主の命を形容して「やちほこの神」(八千矛神)と称されている。矛は武力の意であるからして、八千矛とは獅子奮迅の武力を振っていたことを寓意していよう。

 事実、大国主の命は東西出雲王朝を平定し、続いて全国平定に繰り出していた。伯耆、因幡の国を征服して古代出雲を足固めし、但馬、丹波、更に兵を進め播磨で韓の王子アメノヒヤリと戦って勝ち支配圏を拡げた。支配圏は更に「越の八口」まで進んだ。越とは、若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。八口の口とは「国」のことを云う。続いて、信濃、大和、紀伊まで連合国家的に傘下に収めた。更に奥州には「日高見国」もあった。こうして各地の豪族を平定し、まさに名実共の大国主の命となっている。出雲風土記は大国主の命を呼ぶに、「天の下造らしし大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。このようにして形成された当時の王朝を仮に「大出雲王朝」と命名する。

 大国主の命が精力的に王朝経営している時、強力な助っ人としてカンムスビ神の御子スクナヒコナ(少彦名)の神が現われ、以降両者は力を合わせて天下を創り治めた。出雲王朝に反目的な記述に終始している日本書紀にして次のように記されている。「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」。記述の出典は分からないが「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」と記されているとのことである。

 出雲王朝は、「鉄と稲」による農耕革命を推進し、当時に於ける国土改造計画に着手していった。これにより、縄文時代的採集経済から弥生式農耕経済へと転換させ、「葦原の中つ国」を「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国」へと発展させていった。出雲王朝は大国主の命の御代になって、政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面で躍進しており、そういう意味で大国主の命はまさに国作りの神であり、全国の国津神の総元締であると云う具合で、日本の神々のなかのスーパースターとなっている。英雄神としては、スサノオ尊やギリシア神話の英雄のように怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナ(少彦名)の神とコンビを組んで全国をめぐって国土の土木事業、農業技術、温泉開発に精出し、病気治療、医薬の普及、禁厭の法の制定といった数々の業績を残している。

 両者の興味深い掛けあい談議が記録されている。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神に次のような問うている。「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。スクナヒコナの神答えて「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。この遣り取りに対して、万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」。


 出雲王朝政治の特質は合議制にあった。毎年十月、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、諸事取り決めした。これを「神謀(はか)り」と云う。この間、各地の神は不在となるので和暦では10月を神無月と云う。但し出雲では神在月となる。出雲王朝は、この「神在月合議政治」により自由連合国家を形成していたと推定できる。これは、出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。

 並行して、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行う神道を確立して行った。特に、全国の八百万(やおよろず)の神が集う際に行われる神在祭が一大イベント化していた。即ち、出雲王朝時代に於いて日本式の祭政一致型政治が完成されていたと思いたい。留意すべきは、仮に午前中に寄り合い評定式で真剣に談じ合い、並行して神道行事を祀り、一服したところで盛大に祭ると云ういわば政治と宗教の有機的関係を見事に構築していたことであろう。これを日本の政治の型として確認しておきたい。この風習が今日でも町内会政治に残っていると窺いたい。

 次章で確認するが、出雲王朝の国譲り後、高天原王朝派が大和王朝を創建する。その大和王朝時代の政治の質を出雲王朝時代のそれと比較して見る時、大和王朝政治が支配被支配の度を強め、対比的に出雲王朝時代は徳政的な政治を特質としていたことが分かる。大国主の命は、支配権力を振るうよりは共同文化圏的な盟主的地位を良しとして、権力を善用していたのではなかろうか。出雲王朝には伝統的な共同体和合政治の型が見られる。その出雲王朝が国譲りで消滅し、大和王朝がいわゆる支配被支配政治に乗り出して以降、出雲王朝の御代が日本の母なる原郷となった。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、その謂れを知るべきだろう。

 ちなみに、大和王朝は、高天原王朝派の神道に出雲王朝神道を加えた別系の神道を生み出した。社を豪勢にして格式を尊ぶ神道である。出雲王朝神道では社は重視せず山そのもの川そのものと云う具合に自然そのものを信仰対象としていた。そういう違いが認められる。これにより、かっての出雲王朝時代の神道は出雲神道として識別せられねばならないことになる。更に云えば、出雲王朝神道も、大国主の命時代の神道とそれ以前の神道に違いが認められるので、大国主の命時代の神道を出雲神道と云うならば、それ以前の神道を古出雲神道と呼ぶべきかも知れない。


 その出雲王朝神道の極意は「御魂の理」にあるように思われる。それは、御魂を「和魂」(にきみたま。和を表象する)、「幸魂」(さきみたま。幸を表象する)、「奇魂」(くしみたま。奇を表象する)、「荒魂」(あらみたま。武を表象する)に分け、局面に応じて御魂の威力を使い分け、そのつど相応しい霊力を呼ぶ神事を執り行う。いわば言霊思想を基底に据えている。絶対教義はなく、局面に応じて融通無碍に処する法を確立している。「御魂の理」は個々人の生活の作法にも応用され、やがて七福神信仰へと発展する。政治に使われた場合には、和魂で徳治主義、幸魂で産業振興、奇魂で奇瑞、不思議を、荒魂で武断政治を御することになる。この「御魂の理政治」が日本政治の原型とも云えよう。

 出雲王朝はこれに則った政治を執り行っていたように思われる。こういう構造を持つ出雲王朝神道は、世界の宗教と比べて高度に洗練されているところにも特徴がある。自然の摂理に合わせた共生、社会の摂理に合わせた和合と云う環境適合型のものであり、21世紀が要請する政治宗教の質を先取りしている感がある。そういう質を持つ出雲神道は出雲の地、その地縁の地の神社を通してのみならず修験道信仰の中にも取り入れられ生き延びて行くことになったと思われる。

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大国主の命論その3、大国主の命と田中角栄論

 れんだいこは格別に田中角栄を高く評価している。立花史観と日共史観に被れた者からすれば唾棄すべき観点であろうが、それは長年の巧妙な情報操作によって植え付けられたものであると了解しているので歯牙にもかけない。田中角栄のどこが何が凄いのか。それは、田中角栄が意図的か偶然の賜物なのかは別にして、時空2000年を超えて大国主の命政治を再現したところにあると見立てている。角栄の秘書・早坂氏はスサノウの命に例えたが、それは出雲王朝史に対する生半可さによるもので、正確には大国主の命とするべきであろう。

 そういう目で見れば、角栄の出自が越後であり、北一輝もそうであり、その越後が出雲王朝と格別に深い誼の土地柄であるからして因縁を感じる。かの地には出雲王朝頭脳が息づき、その伝統によって両者に出雲王朝頭脳が憑衣したと考えられる。付言しておけば、日本史上時に天才が現れるが、共通して出雲王朝頭脳が底バネになっていると思える節があることが興味深い。世界に称賛される日本とは、その内容を精査すれば漠然とした日本ではなく、出雲王朝頭脳及び精神、その文化伝統に対してであることに気づかねばならない。これが日本の原ふるさとであり、それほどお陰を受けていると思えば良い。

 出雲王朝頭脳とは、東出雲王朝の主たるヤツカミズオミヅの命の「国引き」、西出雲王朝の主たるスサノウの命の国土経営、大国主の命への政権移譲、両王朝統一の大国主の命の国土経営、国譲り等々の経緯に表れた世界最高レベルの政治頭脳及び思想及び文化伝統を云う。日本歴史の半分は、この出雲王朝頭脳により作られていると云っても過言ではない。そういうものとして受け止めてもらいたい。ここでは大国主の命に特化させて、その手腕を確認したい。如何に多方面に於いて日本に有益な役割を果たしているかが納得できよう。

 その大国主の命の政治のあれこれに言及して見ても、時代が違うのでさほどピンとこない。そこで、田中角栄の政治そのものが大国主の命政治の現代版であったと仮託させて、これを検証することで大国主の命政治を髣髴(ほうふつ)とさせてみたい。少しユニークな大国主の命政治論であり、書いているれんだいこが苦笑せざるを得ない。

 角栄は、政治の最初を土木、住宅、道路、水利事業より始めている。これを議員立法で処理している。角栄が直接手掛けた生涯の議員立法が33法、間接的に関与したものまで合わせると数え切れない。優に100法を超える。この記録は未だに破られない。と云うか、今日びの政治家には歴史の検証に堪え得るような議員立法を手掛ける能力そのものがない。

 現首相の菅が角栄批判を政治の原点とするとか、官僚批判で正義ぶるのは勝手だが、角栄の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。凡そ軽薄言辞を得意としているが、この点こそが真に角栄と対極的である。角栄は、陳情政治を肯定し、且つできることできないことを瞬時に仕分けし、できないことはその場で断り、できると約束したことは精力的且つ用意周到に根回しし政治家としての責任を全うした。よほど真っ当な政治であったと回顧すべきだろう。

 もとへ。大国主の命が東西出雲王朝の統合を経て最初に為したのが、土木、道路、水利、住宅事業等の建設省関係の仕事であったと思えば良い。角栄が次に為したのが、郵政省関係の仕事であり、テレビ時代の到来を見据え「民放テレビ36局の一括予備免許の一挙認可」を為し遂げている。大国主の命も又、当時における情報伝達手段の開拓に勤しんだと思えば良い。
角栄は次に厚生省関係の健保問題解決、社会福祉問題に取り組んでいる。大国主の命も又当時の健保問題、社会福祉問題に取り組んだと思えば良い。以下同様であるので繰り返さない。

 角栄は次に大蔵省関係の予算づくりに精出している。これにより高度経済成長の財源的基礎を舵取りした。毎次の国家予算書に企業のバランスシートを読む如くに目を配り、日本を優良企業に育てるべく指導し抜いた。この功績が注目されていないが、角栄政治の偉業である。大蔵大臣の時、「山一證券倒産の危機からの救済」に尽力している。赤字国債発行に対しては憲法に則り厳禁している。税収の原資を法人活動の旺盛化に求め、中小零細企業を育成保護した。現下の政治とは全く逆であることが分かる。

 文部省関係の大学管理立法「大学臨時措置法」の成立に尽力し、学問の府の有るべき姿を保全した。これは、今から思えば折からの学園バリストの流行に対する止むを得ない措置であったであろう。通産省関係の日米繊維交渉に尽力している。前任の宮沢通産相では何ららちがあかなかったが、今後の他の輸出産業の保護を考慮しつつの英断であった。いずれも当時の懸案事項を手際よく纏めているところに値打ちがある。

 次に、首相時代になってからであるが、外務省関係の日中友好条約、国交回復交渉、日ソ平和・北方領土返還交渉、中東政策、諸国友好外遊「自主全方位外交」、新潮流外交に尽力している。高齢化社会時代到来を見据えて社会福祉政策を措置している。今日これを放漫支出と評する学者が多いが、それはその後の政策の放漫であって、かの時点での角栄の政策はむしろ炯眼と評すべきだろう。

 当時のインフレ経済に対応して労働者側の人件費の大幅増で対処している。これが消費、貯蓄に繫がり日本経済を一挙に活性化させることになった。この時代ほど人民大衆が生き生きと働いた時代はない。最後に、ロッキード事件で刑事被告人に追いやられ、その傍らで中曽根政権が推し進めようとしている国鉄民営化に反対する堂々たる論文を放っている。こういう角栄政治の源流であり手本が大国主の命政治であり、当時に於ける英明政策を次から次へと施策したと思えば良い。

 特筆すべきは、角栄が内治の成功ばかりではなく外治に於いても成功し、世界の首脳と五分以上に渡り合っていることであろう。一事万事の原則で云えば何ら不思議ではない。内治を御し得る者が外治をも御し得るのであり、逆は逆である。大国主の命も又出雲王朝外交を堂々と展開し、成功裏に治めたものと推定できる。その政治は、角栄同様ハト派的なものであり戦争よりは経済的交流で絆を深めることに重点を置いていたものと思われる。分かり易く云えば、戦後憲法が詠う国際協調、諸国親善に精出したと思えば良い。軍事的指導者としても有能であったであろうが、和戦両様の構えで出雲王朝の経営に勤しんだのは想像に難くない。その概要は次章で確認することにする。

 こういう政治を善政と云う。確認すべきは、出雲王朝時代、そういう善政が確かに行われていたと云うことである。これが大和王朝建国前の日本史の史実である。最高権力者である命が、その政治責任を十全に果たし、一族郎党、家臣を心服させ、人民大衆を国家の宝として保護育成し「民のかまどの煙の上り」を思いやっていたということである。為政者が「民のかまどの煙の上り」に配慮する政治は、この時代にひな型が作られ、大和王朝の御代になっても受け継がれ、その後の日本政治の原点となったと云う点でも見逃せられない。この話がウソかマコトか、次にこれを確認する。

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2011年7月18日 (月)

大国主の命論その2、日本政治再生指針考

 国体論は国際金融資本帝国主義論と相関している。これを逆に云えば、国体論の忘却は国際金融資本帝国主義論の未熟さと比例していると云うことでもある。現代世界が国際金融資本帝国主義に牛耳られており、第二次世界大戦後、世界の各地で民族独立が果たされたものの、世界各国は相も変わらずと云うか却って国際金融資本による金融支配の受難に遭っている。

 この現実に抗して、世界史的にそれぞれの在地土着の政治がこの勢力との丁々発止の政治が要請されている時、日本はアジアでただ一人嬉々として彼らの支配の下に日本の国家と民族の運命を委ねようとしている。その姿は異常であり、お笑いであり、無能であり、明らかに政治犯罪である。トラック競技で云えば既に一周も二周も遅れて競り合っているに過ぎない。

 垣間見えるのは、この国の政治当局者の我一身の立身出世と引き換えに為す売国奴精神である。率先して売国奴としてのエージェント活動を請負うことで権力中枢に登用されることを願い、念願通りに登用されるや否や偉そうにふるまい、横柄な物言いをし始め、権力を乱用し、うたかたの春の夢に興じては用済みにされ次から次へと役者が代わっている。その姿に浅ましい貧相な精神を嗅ぎ取るのは、れんだいこだけはあるまい。

 この現象を思う時、戦後日本が忘却してきた日本国体論の再構築が今こそ必要ではなかろうかとするのが、れんだいこ史観である。こういう売国政治は1980年初頭の中曽根政権の誕生と共に始まった。転換点が1970年代半ばからのロッキード事件であった。これにより在地土着系の鉄の同盟を誇った田中派―大平派の政府自民党内二大勢力がはがい締めされ、代わって売国奴系の福田派―中曽根派が主流派に転じ、以来30年間亡国政治に耽ってきた。

 これにより、さしもの戦後日本も、それまでの世界史的に稀なる復興と発展の勢いが止まり、今やとめどない財政悪化、各種税率の高負担を両翼として死の苦悶に追いやられようとしている。これに軍事負担増、原発負担増がのしかかり現代日本が安売り丸投げされようとしている。

 この政治の最大功労者は中曽根、小泉、菅である。マスコミはこぞって中曽根、小泉を褒めそやして来た。そうすることで自身が登用されてきたと云う売文性がみられる。彼らは、目下の菅派のよほど素っ頓狂な政治に対しても、これを擁護し与野党連携の翼賛政治の必要を説いている。これほどバカげた論調はあるまいが遠の昔から文筆責任と云う感覚がない。昨日は鬼畜米英を唱え、翌朝には民主主義のペンを振ったのはつとに知られた話である。こういう文筆屋が最近はテレビに出てくるので顔が知られることになったが、案に違わずどの御仁も知性的ではない。単に世渡り上手の物書きのはしくれである生態を知らせているばかりである。この仕組みの裏で日本の国力がますます低下しつつあることが許し難い。

 2011.3.11日、三陸巨大震災は地震、津波、原発事故の三拍子揃った前代未聞の大災害となった。菅政権は自衛隊十万人出動を始め、計画停電、被災民への移動を制限する原油供給カットで対応した。原発事故に対しては真相を隠蔽し、日本人放射能汚染ストロングマン説を唱えつつ大丈夫論を鼓吹し続けた。これにより原発被災民は生体モルモットと化した。

 連日大騒ぎを演出したが、いざやっていることはかっての災害救援と比較しても却ってお粗末な対応ぶりを晒し続けている。先のソ連のチェルノブイリ原発事故以上の世界が唖然とする不始末対応をし続けている。事故に対する対応がロクにできぬうちから原発続投論を唱え、そのバカさ加減が明らかになると原発停止論を唱えたり引っ込めたり、その場しのぎの思い付きで政治遊びに耽っている。現代日本は、これに特段の違和感を持たないまま現在まで安穏に経緯していると云う形容し難い政治の不祥事を続けている。

 こういう政治のあれこれを逐一採り上げて批判してもキリがない。次から次へと問題が起っており、要するに一事万事の法理により全てがデタラメのまま現に推移している。故に、れんだいこの日本政治史綴りは意欲をなくしお手上げになっている。事態の深刻さは、自公政権、民主党の鳩山―菅政権と続く国際金融資本帝国主義身売り派によっては何も解決しない。菅派の中から誰がポスト菅を相続しようとも、事態がますます悪化するのは火を見るより明らかである。

 少なくとも、菅派政権時代に冷や飯を食わされてきた対極の側からの人材登用による新政権の下でなくては何も期待できない。日本の再生は、この水路よりのみ始まる。ところが、この水路を阻止せんとして反動勢力が束になって策動し続けており、為に日本の政治は何とも中途半端な、何をしているのか分からない朝令暮改を繰り返している。しかし、このバランスはいつか崩れる。我々は何としてでも反動勢力即ち国際金融資本派の阻止線を食い破り、真の人民大衆目線の政権を打ち立てねばならない。

 その日が近づきつつあるのか遠のきつつあるのか予断を許さない。事態は刻々変化しており、世界の政治状況も然りである。この潮の流れにより持久戦にシフトするのか急戦に転ずるのかが変わる。まもなく真価が問われる事態が生起しようが、我々にその能力があるだろうか。その前に我々の政治頭脳を整序しておかねばならないと思う。我々は何を求めて、どう事態を切り開いていくのか、針路をどこに据えるべきか等々を人民大衆的にクリヤーにしておかねばならないと心得る。

 個々の政策は別に論ずるとして、ここでは、戦前の皇国史観で曇らされ、戦後の歴史教育で消されている国譲り政変前の出雲王朝論、中でも大国主の命時代に精力的に推し進められた気宇壮大な日本改造政治を確認することにより、日本の真の国体論を獲得しておこうと思う。

 これについては、大田龍・氏の生前に話し合っておきたかったところである。大田氏には出雲王朝論の観点はなく代わりに飛騨王朝論を唱えていたと記憶する。しかし話し合えば大田氏なら容易に合点し得たと思っている。なぜなら、大田氏の論考は出雲王朝論に後ひと押しのところまで進みつつあったから。ゆっくりと話し合う機会がないまま大田氏は逝ったが、誰かが受け継がねばならない研究課題である。こう構えるのががれんだいこ史観である。駄弁か炯眼か、これを確認して欲しい。

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大国主の命論その1、皇国史観に代わる新国体論の必要性考

 ここで、「れんだいこの大国主の命論」をものしておく。このところのれんだいこの関心は犬養毅論で始まり5.15事件へ、5.15事件から2.26事件へ、2.26事件から北一輝論へ、北一輝論がはるけき出雲王朝論へ、出雲王朝論が大国主の命論へと向かわせている。この流れは、れんだいこには内的必然性がある。

 戦前の皇国史観は、記紀神話に基づいて出雲王朝を貶しつつ神武東征から始まる大和王朝創始譚を是とする建国神話を基底に据えている。これによる日本の国体論を構築している。これが絶対主義的天皇制賛美のイデオロギーとなっている。
先の大東亜戦争の敗戦がそういう皇国史観を解体した。それは良いととして問題が残されている。

 戦後の歴史教育は、皇国史観の否定と共に日本の古代史解明を疎かにした気配が認められる。邪馬台国論争のみが盛んで関心を引き付けるものの、肝腎な天皇制論、国体論については却って無知蒙昧になっている。マルクス主義の祖国性を抜きにした国際主義がこれを左から促進したと思われる。これにより、日本古代史に分け入るのは一部の歴史研究家のみであり、多くの者は関心さえ寄せない風潮を作りだすことになった。それが証拠に周辺の者に尋ねてみるがよい、殆どちんぷんかんぷんの手合いばかりだろう。

 れんだいこは違うと思う。敗戦により戦前的規制が取り払われた意義は、徒な天皇制賛美に向かう皇国史観と決別する絶好機会となるべきであった。それは古代史から遠ざかるべきではなく、本来のもっと豊饒な日本建国史、民族史の研究に水路を開くべきだった。このことは即ち出雲王朝論、先住民アイヌ史の解明に向かうことを必至とする。

 しかしながら、そういう機会を手にした戦後も、戦前同様に出雲王朝論を抹殺し続けている。これは何を意味するのだろうか。れんだいこが普通に読んでも、記紀神話でさえかなりの分量で出雲王朝の先行的存在を記している。いわゆる古史古伝、出雲風土記となると更に精緻に出雲王朝史を書きつけている。古代史のかくも精緻な文書が残されていることは日本の誉れであり宝であり、もっと大事にせねばなるまい。

 これを前提にして日本政治史上最大の「国譲り政変」が意義を持つ訳で、この流れを無視するのは無謀と云うべきだろう。記紀神話研究者が殊更に出雲王朝を抹殺してきた研究なるものは、よほど愚昧なものでしかない。この連中は恐らく裏筆法が理解できない天然粗脳なのではなかろうか。難しく書き云うのは正体が粗脳故かも知れない。

 この方面の研究をなおざりにするところに国体論の毀損が始まる。「国体論の毀損がひいては政治の貧困がもたらされる要因である」と考えるのが、れんだいこ史観である。付言すれば、国体論とは国家の連綿史を解き明かすもので、皇国史観はその変種のものでしかない。そういう皇国史観の否定と共に国体論まで滅却するのは「赤子をたらいごと流す」愚挙に等しい。普通、これを本末転倒と云う。

 国体論の滅失毀損は国家及び民族のアイデンティティの喪失であり亡国の始まりである。皇国史観の否定は皇国史観的国体論の否定に留まるべきで、新たな国体論の始まりを要請している。にも拘わらず新たな国体論の構築に向かわない戦後の歴史研究は去勢されたものでしかない。去勢された歴史観がなぜイケナイのかと云うと、家の土台足る基礎と同じ意味で、国の土台足る国体論を曖昧にするならば、その咎で国家及び民族の基盤が揺らぐことになるからである。即ち、多くの売国奴を生み出す道を開くからである。こう確認すべきではなかろうか。

 「国体論の毀損がひいては政治の貧困がもたらされる要因である」所以はここにある。目下の政治状況と戦後以来の国体論の毀損は、一見関係ないように思われるが大いに関係がある。戦前に於ける北一輝の国体論の称揚はこの意味で真っ当な指摘であった。だがしかし、北一輝の国体論は国体論の重要性を指摘した点では炯眼であったが、その国体論の中身は粗雑なものであった。
皇国史観をそのままに受け入れていることに難がある。北一輝の諸論の限界性がここに認められる。

 れんだいこ史観に映ずるのは、2000年来の自公政権政治も2009政権交代による民主党の鳩山―菅政権政治の日本の歴史に対する素養の余りにもな軽薄さである。一言で云えば、国体論がない。この貧層さが、連綿と練られ今日まで営々と造りあげられてきている国としての日本及び民族をいとも安易に衰亡の道へ誘っていると思わざるを得ない。このような貧相な政治家が大量輩出、登用され政権を御していることの危うさが危惧されねばならない。一々誰彼を挙げないが、菅政権のその種の人材登用は異常である。

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2011年7月 7日 (木)

「政治用和法押し込め煎じ薬」考

 2011.2.17日、小沢系議員16人が会派離脱し「菅政権退陣秒読み」が云われたものの、かの時から既に5か月近くになろうとしている。その後3.11三陸巨大震災が発生する。その対応もデタラメで、被災民は無論のこと瓦礫の後始末も原発事故も処方が進んでいる様子がない。原発路線を継続するのか撤退するのかの姿勢さえ定まらない。党内不一致は政権発足の時からであるが今では閣内不一致も甚だしく、代議士会での辞任騒動では「云った云わない」なる珍論で居直り続けている。

 議会制民主主義、憲政の常道からすればオワっており、今頃は小沢政権下で新たな政治が始まっている筈なのだが、「誰が何と云っても辞めない、俺は首相で在り続けたい」なる一徹居士で首相職に居座り続ける現象が起っている。まさに首相餓鬼道を地で行っているが、日本国憲法は、こういう首相の発生を予定しておらず、法的には如何ともし難い。まさに憲法の想定外の首相権力なるものが発生していることになる。

 しかしながら、日本経済はこの間、地滑り的な失速を起しつつある。大企業はいざ知らず、中小零細企業レベルではもう猶予がない。一刻も早く政治転換し、日本再生へ向かわなければ収拾つかない経営破綻連鎖の恐れを強めつつある。経済は生き物だから政治が変われば風向きが代わり、苦しいながらも清新溌剌とし始め、設備投資も含めた新たな槌音が聞こえ始めるだろう。このままでは決定的に危ない。

 政財官学報司警軍の権力中枢の上層部にはこの危機感がない。粗脳ばかりを意図的故意に登用した結果であり、如何ともし難い。この手合いに説教しても、聞き届ける知能が元々不足しているので意味がない。政変で人材を代える以外にない。普通、これを革命と云う。維新とも云う。名前はどうでも良い、中身を替えることが肝要である。この主体が生まれてないところに日本人民大衆の不幸がある。

 この状況に効くと思われる処方箋を呈示する。処方名を「政治用和法押し込め煎じ薬」と名付ける。まず為すべきことは、現在の官邸にそっくりな模型官邸を作ることである。菅夫婦をそこへ強制移動させる。その理由は、菅夫婦が官邸を殊のほか気に入っている様子なので、ソフトランディングの為に同じものをプレゼントする。

 次に、菅が首相職を殊のほか気に入っている様子なので、同じように国会模型を作り、そこへ出勤して貰う。俳優の卵を出入りさせ、現在の国会と同じようなやり取りをして貰う。吉本の芸人も送り込めば良かろう。お迎えは志村けんが良かろう。バカ殿風の髪結い姿で登場し、「殿、お移りください」と述べ、カゴの中に上手に引き入れて貰えば良い。後はお猿の駕籠屋でひたすら走り込めば良い。場所は福島原発の正門辺りが良かろう。怖いと云うのなら、東電の敷地内が良かろう。それも嫌と云うのなら、どこかの無人島が良かろう。

 この間、並行してシャドーキャビネットを造る。民主党は、政権前までは用意していたが2009衆院選で政権を取って以来消失させている。しかし、鳩山、菅と二代続けて2009衆院選マニュフェスト詐欺に耽っている以上、これを監視するシャドーキャビネットが必要である。菅政権から徹底的に干されている小沢派が主体となり人選すれば良い。

 いつでも政権移譲可であることを知らしめれば良い。国民は、その顔ぶれの方が頼もしいと思えば安心して菅辞めろの合唱に列なることができよう。岡田が乗り出して、そういうものは造らせないとするだろうが、構わない造ればよい。そもそも岡田代表の民主党時代、それは小泉政権下であるが、何か一つでも良いことがあったか。選挙作戦まで外資系PR会社に依頼していたではないか。あんな者が出張ると世の中が暗くなる。民主党は早急にシャドーキャビネットを立ち上げよ。

 菅派は、総員で模擬国会の方へ移ればよい。所詮お遊びの政治をしているのだから、俳優の卵と吉本芸人と一緒にお笑いした方が似合いだろう。注目されぬと寂しいと云うのであれば、テレビ中継してやれば良い。ニュースで、今日はこんなお笑いを演じましたと報道すれば良かろう。ここへ自公の遊び人グループも一緒すれば良い。仲間内の気安さで盛り上がり、二次会、三次会にも向かえば良い。韓国クラブが好きらしいのでネオンをチカチカつけてやれば良い。社民党も共産党も加われば良い。やぁやぁこんにちわと本当は仲良しグループであることを自然に見せれば良かろう。

 これが、れんだいこ処方箋「和法押し込め煎じ薬」である。妙薬と思う。戦を好まず事なかれ主義を得手とする日本人用にマイルドにしてある。これを、れんだいこ掲示板№3移転記念投稿とする。

 2011.7.7日 れんだいこ拝

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2011年7月 3日 (日)

「日本改造法案大綱」各論考その12、日本文明論、徴兵制考

 北式日本革命論には、これを単に日本の問題としてではなく、当時の世界情勢に於ける日本解放、アジア解放、世界解放と云う解放ベクトルが介在していたことを知るべきであろう。こういう企て自体をナンセンスとしている今日の基準から批判するのはほどほどにして、敗戦前の当時の思考様式として読み取る必要があるのではなかろうか。 

 北理論は根底で仏教文明をアジア思想の精髄とみなしており、その伝統が日本文化のなかにうけつがれていると捉えていた。北理論は、曰本文明の中に息づいている「仏子の天道」を世界化的に開花させることによって、即ち広宣流布させることによって日本式世界秩序の構築に向かうべしという図式を画き次のように述べている。

 「欧米革命論の権威等ことごとくその浅薄皮相の哲学に立脚して遂に『剣の福音』を悟得するあたわざる時、高遠なるアジア文明のギリシアは率先それ自らの精神に築かれたる国家改造を終ると共に、アジア連盟の義旗を翻して真個到来すべき世界連邦の牛耳を把り、もって四海同胞みなこれ仏子の天道を宣布して東西にその範を垂るべし。国家の武装を忌む者のごときの智見遂に幼童の類のみ」(「緒言」の項)

 北が日蓮系の法華経信者であることは知られている。これによって、日本式仏教文明をアジア思想の核として「仏子の天道」を世界に広宣流布すべしとしているように思える。しかしながら思うに、日蓮系の法華経はそのように戦闘的教義を内蔵しているが、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、禅宗系各派では互いの聴き分けを重視しておりいわば共生的である。日本神道でも、皇国史観系では戦闘的教義を内蔵しているが、それ以前の古神道では自然とも社会とも共生的である。してみれば、日蓮系の法華経の型でもって日本文明を説き、これをアジア、世界に広宣流布せんとするのは少々やり過ぎではなかろうか。北式理論未だ練られておらずと断定する所以である。

 「大綱」は、徴兵制に関して、庸兵制ではない徴兵制を導入すべしとして次のように述べている。「国家は国際間に於ける国家の生存及び発達の権利として現時の徴兵制を永久にわたりて維持す。徴兵猶予一年志願等はこれを廃止す」。「現役兵に対して国家は俸給を給付す。兵営又は軍艦内に於いては階級的表章以外の物質的生活の階級を廃止す。現在及び将来の領土内に於ける異民族に対しては義勇兵制を採用するものあるべし」。

 日本式徴兵制につき次のように賛辞している。「兵営又は軍艦内に於ける将校と兵卒との物質的生活を平等にする所以は自明の理なり。古来将は卒伍の飲食に後れて飲食すというが如く、口腹の欲に過ぎざる飲食に差等を設けて部下の反感を平時に養成し戦時にも改めざる如きはほとんど軍隊組織の大精神を知らざるものなり。敗戦国又は亡国の将校が常に兵卒の粗食飢餓を冷視しておのれ独り美酒佳肴を列べしは一の例外なき史実なり。これに反して皇帝に堕落せざる以前のナポレオン軍の連勝せし精神的原因は、彼の無欲とその物質的生活が兵卒と大差なかりし平等の理解に立ちしが故なり。日本の最も近き将来はナポレオンの軍隊を必要とす。

 乃木将軍が軍事眼より見て許すべからざる大錯誤を為してかの大犠牲を来たせしにも拘わらず、彼が旅順包囲軍より寛過されし理由の一は己自ら兵卒と同じき弁当を食いし平等の義務を履行せしが故なり。士卒を殺して士卒に赦さるる将軍は日本の最も近き将来に於いて千百人といえども足れりとせざる必要あり。まさかに兵卒と同じき飲食にては戦争に堪えずという者あるまじ。これその飲食を為す兵卒が戦争するあたわずというもの。かかる唾棄すべき思想が上級将士を支配するとき、その国の往くべき唯一の途は革命か亡国かなり。労兵会を作らしむべき宮廷の権臣と腐欺将校とは、実に日本に「レニン」の宣伝を導くべき内応者なりというべし。但し家庭等の隊外生活に於いて物質的差別あるべきは兵卒が等しくその範囲に於いて貧富に応じたる自由あるが如し」。

 日本の企業社会における上司と一般社員が社員食堂で同じ飯を食う作風があるが、これが日本の型である。この型が崩れる時、「その国の往くべき唯一の途は革命か亡国かなり」と云う。この言も示唆的である。

 以上で、れんだいこの「日本改造法案大綱」解析を終えるものとする。いろいろ教示される点が多く勉強にはなったと思う。今日的にはいろいろ欠陥も認められるが、かの時代のインテリの方が質が高かったと思える点も多々ある。総評としては好人物だった気がする。諸賢の評を賜りたい。

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「日本改造法案大綱」各論考その11、日ソ対決論、日米協調論、日米決戦予兆論考

 「大綱」は、次のような日ソ対決論を述べている。いずれ支那を北方より脅威せるロシアとの抗争が避けられず、支那保全主義の見地に立つと日本の極東シベリア領有が課題となっており、その為にはまず内外蒙古を抑えねばならないとしている。ロシアの外蒙古進出に押されて内蒙古防衛に止まるようでは稚拙であり、日本のアジア連盟の盟主化の道に反する。国家の積極的開戦権を駆使して、レ―ニン率いるソ連政府に向って堂々と極東シベリアの割譲を要求すべしとしている。

 北理論は、千島、樺太どころか「極東シベリアの割譲を要求すべし」としている。軍事防衛と云うものの「キリなし普請」ぶりを見る思いがするのはれんだいこだけだろうか。いやはや大変な時代のムードがあったことになる。今日の惨状日本からすれば畏敬すべき気宇壮大な好戦論と窺うべきかも知れない。

 「大綱」は、次のような日米対決論を述べている。既に来るべき日米開戦を感じ取って次のように述べている。「米国の恐怖たる日本移民。日本の脅威たるフィリッピンの米領。対支投資に於ける日米の紛争。一見両立すべからざる如きこれらが、その実如何に日米両国を同盟的提携に導くべき天の計らいなるかの如き妙諦は今これをいうの『時』にあらず。偏にただこの根本的改造後に出現すべき偉器に待つものなり」、「内憂を痛み外患に悩ましむる全ての禍因ただこの一大腫物に発するをもってなり。日本は今や皆無か全部かの断崖に立てり」。北の対米論は、米国との軋轢を「一大腫物」としており、「日本は今や皆無か全部かの断崖に立てり」と認めている。米国を手強いと認め、その後揺れ動く様を見せている。或る時は日米協調を、或る時は日米決戦に備えよと云う。

 これは、北が感知した国際動向論のなさしめる戦略戦術によってもたらされていのであろうが、北のこの分析と感覚は正しかったことは歴史が証左している。問題はここでも国際金融資本帝国主義論を介在せしめているかどうかにある。北理論にこれがない、仮にあっても弱いことは既に指摘したが、このことが致命的となって確固とした対米論の確立を毀損しているように思われる。その割には対ソ対決論だけが確固としている。これはどういう意味だろうか。普通には、根底的なところでの北の事大主義性が垣間見られるとすべきではなかろうか。

 北のその後の対米論の変遷が興味深いので確認しておく。これは「支那革命外史」の付録の 昭和7.4.17日付けの「対外国策に関する建白書」、昭和10.6.30日付けの「日米合同対支財団の提議」で展開されている。

 「対外国策に関する建白書」では、今後の日本を悩ましめるのは「日米戦争あるのみ」で、「日米戦争を考慮する時は則ち日米二国を戦争開始国としたる世界第二大戦以外思考すべからざるは論なし」と予見している。その上で、第二次世界大戦では英国が米国の側につくこと、ソビエトロシアが好機とみて日本攻撃に向かうこと、支那がこれに呼応し排日熱、排日政策を強めることをも予見している。次のように述べている。「要するに米露何れが主たり従たるにせよ、日米戦争の場合に於ては英米二国の海軍力に対抗すると共に支那及びロシアとの大陸戦争を同時に且つ最後まで戦わざるべからざるものと存じ候」。

 国際情勢がかく流動しているのに対し、「大正8年より昭和6年秋に至る迄の日本歴代政府の方針は無方針の方針なり」と叱責している。その上で、「日本は昭和六年九月十八日を以て明かにルビコンを渡り候。江南の大軍未だ屯して帰らずと雖も衰亡政策の道は閉じて再び返る能わず前路大光明と大危機に直面したるものに御座候」と見立てている。「昭和六年九月十八日を以て」とは、柳条湖事件勃発から始まる満州事変発生を指している。この辺りの北の歴史観は的確で、満州事変以降の日本は次第に泥沼に誘われ、遂に日米決戦へと向かうことを余儀なくされるのは衆知の通りである。

 「対外国策に関する建白書」より3年後の「日米合同対支財団の提議」では論がもっと進められている。北は、日米決戦論が次第に深刻さを増している状況下で、「日米を相戦はしむることからの回避」に呻吟している。その為の方法として、日本の独占的な支那支配権を転換させ、日米共同統治に向かうよう指針させている。その為に日米経済同盟の必要を訴えている。これは名案であるとして次のように述べている。

 「米国と合同し混和したる日米財団なる時は反政府的勢力排日的勢力と雖も一切の疑惑猜疑なく一に只謳歌万歳を叫ぶのみと存じ候。特に排日的勢力の期待する所は日米戦争によりて日本が敗戦するか甚しき弱小国に墮するかに依りて日本の支那に加ふる所を免かるべしと云う目的の下に言動する者に有りて、日米の基本的提携を眼前に見るに於てはその排日的理論も目的も雲散霧消すべきは御推想可遊ばされ候。則ち支那の親日的勢力は何等後顧又は脚下の憂なくして日本との根本的捏携に猛進し得べく、その親米的に走りし者も亦自ら日本の傘下に来り投ずべく、説明の要なき自明のことに御座候」。

 且つ、それでも日米決戦が避けられない場合には、秘策としてかっての日英同盟のような日仏同盟を模索して対抗すべしとしている。「四年前日仏同盟に関する建自書奉呈仕候。以後フランスの現状はヒットラーの出現に狼狽して共産ロシアと結ぶ等の次第にして暫く冷静にその推移を見るの外なく候。只日仏同盟の目的は実に英帝国の海軍力を東西に二分すべき大事に有りて、支那に於て日米合同財団よりフランスを除外せるが為に、日仏の間に著しき疎隔を来すまじきは目的の別個に在る点より御了承なさるべしと存じ上げ候。現在の世界状勢及びその推移を大処達観する時、大日本帝国は太平洋に於て米国、大西洋に於てフランスと契盟する外なく、又運命必ず然るべきを確信罷り在じ候。第二世界大戦を極東に於て点火せしむる勿れ。しかも欧洲の天地再び戦雲に蔽わるるなきは何人がこれを保せん。日仏の事、日米の事、閣下等に於て誠に誠に最大最重の儀と奉じ存じ候」。

 なかなかの策士ではある。その後の歴史は、北が予見、危惧した通りの経緯を見せたことは衆知の通りである。れんだいこ見解を述べれば、北が2.26事件で連座することなく延命したとして、北が日米決戦の趨勢に対応能力を持っていたかどうかは甚だ疑問である。なぜなら、米英の背後に鎮座するのは国際金融資本であり、その彼らが太らせた豚たる日本帝国主義の殲滅に鉄の意思で向かい始めており、これは日本の独占的な支那支配権の放棄、支那からの完全撤退しか道はなかったとて思われるからである。常勝の日本軍にそのような分別ができる筈もあろうまい。

 北理論は、米国、英国、仏国、独国、露国をそれぞれの帝国主義的権益での闘争と見立てている。しかしながらその背後に巨大な国際金融資本が蠢いているとすれば、日仏同盟で米英同盟に対抗するなぞ漫画的な話になる。つまり何の役にも立たない論をぶって建言していることになる。この辺りが策士としての北の限界だったのではなかろうか。

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「日本改造法案大綱」各論考その10、大東亜共栄圏構想、開戦聖戦考

 「大綱」は、後の大東亜共栄圏構想に繫がる次のような方針を掲げている。将来の新領土として朝鮮、台湾、支那、濠州、インド、極東シベリアまで構想し、日本を「東西文明の融合を支配し得る者地球上只一の大日本帝国あるのみ」と位置づけている。

 「先住の白人富豪を一掃して世界同胞の為に真個楽園の根基を築き置くことが必要なり。単なる地図上の彩色を拡張することは児戯なり。天道宣布の為に選ばれたる日本国民はまさに天譴に亡びんとする英国の二の舞を為さざるは論なし」。「三年後の施政権返還」を構想しており、「理由は、既に移住し居住するほどの者は大体に於いて優秀なるをもってなり。第二に白人の新移住者、インド人、支那人の移住者が取得するところを、既に早く日本国民たりし彼らに拒絶すべき理由なきをもってなり。第三の理由は東西文明の融合を促進する為に、特に日本の思想制度に感化せられたる彼らの移住を急とするが故なり」。

 大東亜共栄圏創造の為に次のように好戦論、聖戦論を弁じている。「支那インド七億の同胞は実に我が扶導擁護を外にして自立の途なし」(「緒言」の項)、「国家は自已防衛の他に不義の強力に抑圧さるる他の国家又は民族の為に戦争を開始するの権利を有す。(即ち当面の現実問題としてインドの独立及び支那の保全の為に開戦する如きは国家の権利なり)」、「国家はまた国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す。(即ち当面の現実問題として濠州又は極東シベリアを取得せんが為にその領有者に向って開戦する如きは国家の権利なり)」。

 「他の民族が積極的覚醒の為に占有者又は侵略者を排除せんとする現状打破の自己的行動が正義視せらるる如く正義なり。自利が罪悪にあらざることは自滅が道徳にあらざると同じ。従って利己そのものは不義にあらずして他の正当なる利己を侵害して己を利せんとするに至って正義を逸す」、「日本に加冠せられたる軍国主義とはインド独立のエホバなり。この万軍のエホバを冒涜して誣妄を逞しうするいわゆる平和主義なるものは、その暴戻悪逆を持続せんとしてエホバの怒を怖るる悪魔の甘語なりとす。英人を直訳する輩はレ―ニンを宣伝するよりも百倍の有害なり」。

 北は、戦争には自衛戦争だけでなく、不当に抑圧されている外国や民族を解放するための植民地解放戦争、人類共存を妨げる西欧列強の帝国主義支配に対する戦争があるとしている。西欧列強との抗争を前提にする領土紛争は国家の権利としていた。国内における無産階級(労働者階級)が階級闘争を行うことが正当化されるのであれば、世界の資本家階級であるイギリスや世界の地主であるロシアに対して日本が国際的無産階級として争い、オーストラリアやシベリアを取得するためにイギリス、ロシアに向かって開戦するようなことは国家の権利であると主張していた。世界に与えられた現実の理想は、いずれの国家、いずれの民族が世界統一を成し遂げるかだけであり、日本国民は本書にもとづいてすみやかに国家改造をおこない、日本は世界の王者になるべきであるとしていた。

 結びの「給言」で次のように述べている。「全世界に与えられたる現実の理想は何の国家何の民族が豊臣徳川たり神聖皇帝たるかの一事あるのみ。日本民族は主権の原始的意義、統治権の上の最高の統治権が国際的に復活して、『各国家を統治する最高国家』の出現を覚悟すべし」、「英国を破りてトルコを復活せしめ、インドを独立せしめ、支那を自立せしめたる後は、日本の旭日旗が全人類に天日の光を与うべし。世界の各地に予言されつつあるキリストの再現とは実にマホメットの形をもってする日本民族の経典と剣なり。日本国民は速やかにこの日本改造法案大綱に基づきて国家の政治的経済的組織を改造しもって来るべき史上未曽有の国難に面すべし。日本はアジア文明のギリシアとして既に強露ぺルシャをサラミスの海戦に砕破したり。支那・インド七億民の覚醒実にこの時をもって始まる。戦なき平和は天国の道にあらず」。

 「過去に欧米の思想が日本の表面を洗いしとも今後日本文明の大波濤が欧米を振憾するの日なきを断ずるは何たる非科学的態度ぞ。エジプト、バビロンの文明に代りてギリシア文明あり。ギリシア文明に代りてローマ文明あり。ローマ文明に代りて近世各国の文明あり。文明推移の歴史をただ過去の西洋史に認めてしかも二十世紀に至りてようやく真に融合統一したる全世界史の編纂が始まらんとする時、ひとり世界史と将来とに於いてのみその推移を思考するあたわずとするか。インド文明の西したる小乗的思想が西洋の宗教哲学となり、インドそのものに跡を絶ち、経過したる支那またただ形骸を存してひとり東海の粟島に大乗的宝蔵を密封したるもの。ここに日本化し更に近代化し世界化して来るべき第二大戦の後に復興して全世界を照す時往年のルネサンス何ぞ比するを得べき。東西文明の融合とは日本化し世界化したるアジア思想をもって今の低級なるいわゆる文明国民を啓蒙することに存す。

 天行健なり。国は興り国は亡ぶ。欧州諸国が数百年以上にジンキス汗、オゴタイ汗ら蒙古民族の支配を許さざりし如く、アングロサクソン族をして地球に濶歩せしむるなお幾年かある。歴史は進歩す。進歩に階梯あり。東西を通じたる歴史的進歩に於いて各々その戦国時代につぎて封建国家の集合的統一を見たる如く、現時までの国際的戦国時代につぎて来るべき可能なる世界の平和は、必ず世界の大小国家の上に君臨する最強なる国家の出現によりて維持さるる封建的平和ならざるべからず」。

 次に「インド独立問題」に言及して次のように述べている。第一次世界大戦中に於けるインド独立運動があり失敗したのは、日本が「日英同盟の忠僕」として働いていたことが関係している。今後は、日本が実力援功に向かわねばならない、その為に海上支援を重視し英国海軍を撃破せねばならない。その為に、日本は、英国の海上軍国主義を砕破するに足るべき海軍力を強化し「日本はこの改造に基づく国家の大富力をもって海軍力の躍進的準備を急ぐべし」としている。次に対ロシアとの緊張関係から「支那保全主義を堅持する」としている。「支那保全にかける日英開戦は既に論議時代にあらざるなり」との認識を示している。

 北理論のこういう大東亜共栄圏構想、日本の世界史的使命論をどう窺うべきだろうか。当時の時代的雰囲気が生んだものには相違ない。この雰囲気に乗った以上は北理論的戦略戦術が生まれるのも必然かもしれない。北理論には日本の帝国主義化そのものを疑う視線はない。それ故にこういう展望に至ったのも致し方ないのかと思う。総評をすれば軍略家ではあるが経世家ではない気がする。

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「日本改造法案大綱」各論考その9、朝鮮、台湾、樺太統治論考

 「大綱」は以上、日本改造論を縷々述べた後、これらの社会改革は日本本土だけでなく朝鮮、台湾にも及ぶとして植民地統治問題について言及している。まず朝鮮問題から始め、軍事的地政学的見地から日本が朝鮮を支配下に置くべきとしている。朝鮮併合の正当化を次のように弁舌している。

 「実に朝鮮は含併以前自決の力なかりしことは八十歳の老婆の如く、合併以後未だ自決のカなきこと十歳の少女の如し。末節枝葉に於いて如何なる非難あるにせよ、朝鮮はロシアの玄関に老婆の如く窮死すべかりしものを、日本の懐に抱かれて少女の如く生長しつつあるはこれを無視するあたわず。既に日本の懐に眠れる以上、日本建国の天道によりて一点差別なき日本人なり。日本人とし日本人たる権利に於いてその生長と共に参政権を取得すべきものなるは論なし」。

 その際、日本の属邦、植民地に位置づけるのでなく、その地位は内地と平等でなければならず、日韓合併の本旨に照して日本帝国の一部として日本内地と同一なる行政法の下に置き、日本の一行政区として北海道と等しく西海道とせねばならぬとしている。これが朝鮮統治の眼目であり、日本改造論の諸原則、諸施策をそのまま拡張せねばならないとしている。

 そういう意味で、日本には朝鮮統治の能力が問われているとして次のように弁じている。「由来、朝鮮人と日本人とは米国内の白人と黒人との如き人種的差別あるものにあらず。単に一人種中最も近き民族に過ぎざるなり。従って過般の暴動と米国市中の黒白人争闘とを比較するときのその恥辱の程度に於いて日本は幾百倍を感ぜざるべからず。朝鮮間題は同人種間の問題なるが故にいわゆる人種差別撤廃問題の中に入らず。ただ偏に統治国たる日本そのものの能力問題たり、責任問題たり、道義間題たりとす」。

 その上で、現下の朝鮮政策を次のように批判している。「実に現時の対鮮策なるものは甚だしく英国の植民政策を模倣したるが故に、根本精神よりして日韓合併の天道に反するものなり。朝鮮が日本の西海道なる所以を明らかにするとき百般の施設悉く日鮮人の融合統一を来たさざるものなく、独立問題の如き希うといえども生起せざるは論なし」。東洋拓殖会杜が英国の東インド会社の統治を真似て植民地経営している様子に対して次のように批判している。「朝鮮に於けるいわゆる拓殖政策なるもの又実に欧人の罪悪的制度を直訳したるもの多し。日本は全てに欠いて悪摸倣より蝉脱してその本に返らざるべからず」(「三原則の拡張」の項)」。

 但し、朝鮮人の参政権即ち政治参加については、朝鮮が朝鮮として主権国家足り得るまでの間の「約十年と云い約ニ十年と云う年限」に於いては認められないとして次のように弁じている。「医学に万能の薬品なきに拘わらず政治学に参政権を神権視することは欧米の迷信なり。かの投票神権説に累せられて、鮮人にまず参政権を与えて政治的訓練を為すべしと考うるは、その権利の根本たる覚醒的生長を閑却したる愚人の云為なりとす。日本は真個父兄的愛情をもって、かかる短時日間にこの道義的使命を果たし、もって異民族を利得の目的とせる白人のいわゆる植民政策なるものに鉄槌一下せざるべからず」。

 即ち、地方自治の政治的経験を経てから日本人と同様の参政権を認め、日本の改革が終了してから朝鮮にも改革が実施される。将来獲得する領土(オーストラリア、シベリアなど)についても文化水準によっては民族に拘わらず市民権を保障する。その為に人種主義を廃して諸民族の平等主義の理念を確立し、そのことで世界平和の規範を打ちださねばならない云々と論じている。

 朝鮮に続き台湾、樺太等の改造に言及しており、朝鮮統治を準用すべきとして次のような要諦を述べている。「私有財産限度、私有地限度、私人生産業限度の三大原則を決定するに止め、漸を追いてその余を施行し、十年ないし二十年後に於いて日本人と同一なる生活権利の各条を得せしむるを方針とす。但し日本内地の改造を終り戒厳令を撤廃すると同時に三大原則の施行に着手す」、「将来の新領土は異人種異民族の差別を撤廃して日本自らその範を欧米に示すべきは論なし」。

 新領土では土着人を司令官として行政に当たらせるべしとして次のように述べている。「将来取得すべき新領土の住民がその文化に於いて日木人とほぽ等しき程度にある者に対しては、取得と同時にこの改造組織の全部を施行すべし。但し日本本国より派遺せられたる改造執行機関によりて改造せらるるものなり」、「その領土取得の後移住し来れる異人種異民族は、十年間居住の後国民権を賦与せられ、日本国民と同一無差別なる権利を有すべし。朝鮮人台湾人等の未だ日本人と同一なる国民権を取得すべき時期に達せざる者といえども、この新領土に移住したる者は居住三年の後右に同じ」。

 日本の統治の質の違いにつき、従来の西欧列強の如くな収奪主義による植民地経営に列するのではなく「真の公平無私」で臨むべきであるとしている。それまでの朝鮮の内乱につき次のように批判している。「今の総督政治が一因ならずとは云わず。しかも根本原因は日本資本家の侵略が官憲と相結びて彼らの土地を奪い財産を掠めて不安を生活に加え怨恨を糊ロの資に結びたることに存するを知らざるべからず」。

 欧米列強の帝国主義、植民地主義に対して次のように批判している。「英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり」。その欧米列強の帝国主義、植民地主義に対する抗戦権を主張し次のように述べている。「国際間に於ける無産者の地位にある日本は、正義の名に於いて彼らの独占より奪取する開戦の権利なきか」と問い、「国際的無産者たる日本がかの組織的結合たる陸海軍を充実し、さらに戦争開始に訴えて国際的画定線の不正義を匡すことまた無条件に是認せらるべし。もしこれが侵略主義軍国主義ならば日本は全世界無産階級の歓呼声裡に黄金の冠としてこれを頭上に加うべし」。

 以上、北理論が欧米列強の帝国主義、植民地主義とは違う質の日本型統治を鼓吹していることが分かる。分かるが、所詮は日本帝国主義の掌中の話であり、仮に朝鮮、台湾、樺太を統治したとして、当地での民族独立運動にどう向き合おうとするのだろうか。朝鮮、台湾、樺太を幼稚扱いするのは無理とすべきではなかろうか。北理論に共通していることであるが常に半ば肯定し半ば否定する、あるいは半ば否定し半ば肯定すると云う二面性、優柔不断性を有しているのが特徴であり、ここでもその見解が見事に表れていると云うべきではなかろうか。

 れんだいこ史観、観点によれば、日本軍が他国に軍靴を乗り入れること自体がそもそも無謀であり、諸国の維新派に対する裏方支援辺りを原則とすべきではなかろうか。軍靴を乗り入れたうえでのあれこれの細工を凝らす、その際欧米列強の植民地主義とは違う政策で歓心を買うと云うのは単に調子の良い話ではなかろうか。却って無間地獄に陥る破目に遭う恐れが強く、史実はその通りになった。そもそも日本軍の朝鮮、台湾統治、続く中国大陸への蚕食活動は国際金融資本の入れ知恵で促進された面があり、ここを批判的に捉えることなく統治の方法を問うとする北理論は当時の帝国主義的動きに加担した変種理論として捉えるべきではなかろうか。

 補足すれば、この当時、日本が樺太の統治まで視野に入れていることが興味深い。日本が戦勝国で在り続けるならば樺太を取り込んでいた可能性が強い。ということは敗戦国になった場合、どういう目に遭わされることになるのか。勝っても負けても権利が通用するとするのはやや調子が良過ぎることになりはすまいか。この辺りにつき、北方領土返せ論、日共の如く全千島列島返還請求当然論者に尋ねてみたい。

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2011年7月 2日 (土)

「日本改造法案大綱」各論考その8、その他諸政策考

 「大綱」は、「国民人権の擁護」の項で、国家権力による基本的人権侵害抑止政策を打ち出している。曰く「日本国民は平等自由の国民たる人権を保障せらる。もしこの人権を侵害する各種の官吏は別に法律の定むる所によりて半年以上三年以下の体刑を課すべし」、「末決監にある刑事被告の人権を損傷せざる制度を定むべし。また被告は弁護士の他に自己を証明し弁護し得べき知己友人その他を弁護人たらしむべき完全の人権を有すべし」。

 注1で、「人権を蹂躙して却って得々たること我が国の官吏の如きは少なし。これ欧米諸国より一歩を先んぜんとする国民的覚醒を裏切る大汚濁なり。体刑と明示せる所以はその弊風実に体刑をもってせずんば一掃するあたわざる官吏横暴国なるをもってなり。この戦慄より来たる反省改過は鏡にかけて見るが如し」。

 注2で、「末決監にある被告を予備囚徒として待遇しつつあることは純然たる封建の遺風なり。これを反対に無罪なる者と仮定するとき現時の如き凌辱なし。警察また然り。要するに有罪を仮定するが故に末決期の日数を刑期に加算する等のことあるにて明らかなり。この根本にして明白ならば末決監中の人権蹂躙は自ずからにして跡を絶つべし」。

 注3で、「被告人は罪人にあらず従って弁護人の自由を無視又は制限さるる理由なし。特に職業弁護人と限らるるが為に被告の平常事件の真相に通ずる者をもって直接に法官と対せしむるあたわず。為に事件の鑑察、法の適用に於いて遺憾多く、被告の不利及び延いて法官の判断を誤り法の威厳を損傷する甚だしき現状なり」。

 これが北理論の白眉の第31政策である。れんだいこは、戦後憲法が第32条「裁判を受ける権利」、第33条「逮捕に対する保障」、第34条「抑留・拘禁に対する保障」、第35条「住居侵入・捜索・押収に対する保障」、第36条「拷問及び残虐な刑罰の禁止」、第37条「刑事被告人の諸権利」、第38条「不利益な供述の強要禁止、自白の証拠能力」、第39条「刑罰法規の不遡及、二重刑罰の禁止」、第40「刑事保障」と云う具合に7条にわたって最高法規である憲法に於いて細かに規定していることに対し肯定的に驚いていたが、北理論の影響があったのではなかろうかと感慨している。これはかなり必然性の高い推論なのではなかろうか。

 「勲功者の権利」の項で、勲功者表彰制度を打ち出している。曰く「国家に対し又は世界に対して勲功ある者は、戦争・政治・学術・発明・生産・芸術を差別せず、一律に勲位を受け、審議院議員の互選資格を得、著しく増額せられたる年金を給付せらるべし。婦人また同一なるは論なし。但し政治に干与せざる原則によりて審議院議員の互選資格を除く」。

 注1で、「国民は平等なると共に自由なり。自由とは即ち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることはますます国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり。かの勲位を忌み上院制を否む革命的思想家は、人類の化程度を過上に評価せる神学者的要求に発足する者なりと見るべし」、注2で、「勲功に伴う年金が現時の如き消極的の小額なるは不可なり。全ての光栄はそれを維持すべき物質的条件を欠くべからず」。これが北理論の白眉の第32政策である。戦後憲法下での各種勲章制度がこれに当たると思われる。

 「英語教育廃止」、国際語としてエスペラント語の第二国語化政策を打ち出している。草稿では「現代日本の進歩に於て英語国民が世界的知識の供給者にあらず又日本は英語を強制せらるる英領インド人に非ればなり」と述べるに止っていたが、改題刑行にあたっては、「英語が日本人の思想に与えつつある害毒は英国人が支那人を亡国民たらしめたる阿片輸入と同じ」と断じ、キリスト教、デモクラシー、平和主義非軍国主義などを列挙している。そして、「言語は直ちに思想となり思想は直ちに支配となる」のであるから、「国民教育に於て英語を全廃すべきは勿論、特殊の必要なる専攻者を除きて全国より英語を駆逐することは、国家改造が国民精神の復活的躍動たる根本義に於て特に急務なりとす」として、英語文化を排撃せんとしている。その上で第二国語としてエスペラント語を推奨した。

 即ち、英語がキリスト教と同じく西欧列強の植民地主義の道具として使われていることに対して警告していることになる。但し、代わりの言語としてエスペラント語を推奨するとはどういう得心であろうか。ここではエスペラント語論は省くとして、エスペラント語を推奨するよりも、母国語を尊重し、次に英語のみならず独語、仏語、伊語、露語等々任意に精通させるべしとして一向に構わないのであろうか。ここでも北理論の統制的潔癖主義を感じる次第である。

 北理論がエスペラント語を推奨した背景に日本語軽侮論が介在しているように思われる。曰く「国民全部の大苦悩は日本の言語文字の甚だしく劣悪なることにあり。その最も急進的なるローマ字採用を決行するとき、幾分文字の不便は免るべきも言語の組織そのものが思想の配列表現に於て悉く心理的法則に背反せることは英語を訳し漢文を読むに凡て日本文が転倒して配列せられたるを発見すべし」。このような「我自ら不便に苦しむ国語」を将来拡張した領土内の諸民族に押しつけるわけにはゆかないと云う。

 そこから「合理的組織をもち簡明正確で短曰月の修得可能なエスペラントを異民族間の公用語とせよ」という。もしこのことが実現されるならば、劣悪なる曰本語は自然淘汰され、「50年の後には国民全部が自ら国際語を第一国語として使用するに至るべく、今日の日本語は特殊の研究者に取りて梵語ラテン語の取扱を受けるに至るだろう」とまで述べている。

 この主張は、日本語の中に特殊曰本的なものを求め擁護せんとするいわゆる「日本主義者」の観点と決定的に対立する。しかし北は「言語の統一なくして大領土を有することは只瓦解に至るまでの華花一朝の栄のみ」としている。北は、エスペラント国際語によって近代化、世界化を構想していたことになる。

 さて、これだけは決定的に白眉政策と云う訳にはいかない。北理論の未熟さがここに決定的に表れていると看做すべきだろう。れんだいこによれば、母国語が保護されるに値する言語であるならば徹底的に磨かれ、民族のアイデンティティとして尊重されるべきである。日本語は世界に優れた言語であり、北理論の如く卑下するものではない。これについては別の機会に論じたい。

 同時に国際語をも持つべきである。この時、国際語をエスペラントに絞る必要がありやなしやを問わねばなるまい。英語、仏語、独語、その他その他必要如何は時代の要請と各々の必要が自律的に決めて行けば良かろう。母国語も国際語も歴史の淘汰に堪え得る言語が生き延びるとすればよいのではなかろうか。

ともあれ、北理論が目指した趣意は分かる。英語は帝国主義、植民地主義の臭気を濃くしている為に排撃した。それに代わる言語として日本語を押し付ける訳にもいかないとしてエスペラント語に注目したのであろう。しかし、ごく近年に創造されたエスペラント語が歴史の試練に耐える言語である保証はない。あれこれ考えると、やはり早計な勇み足であろう。

 以上が北理論の日本改造論提言集である。知らぬより知っておいた方が有益であろう。れんだいこは不肖にも知らぬままに今日まで過ごして来た。今ようやく知り得て安堵している。やや遅きに失したことが不明の至りであった。しかし、れんだいこ同様に今日まで知らぬ方も居られようから、ここで一緒に確認していただければ本望である。

 この後は、「大綱」最終章の対外政策論、日本使命論に入る。これで完結する。これがなかなか難しい。簡単に予告しておく。

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「日本改造法案大綱」各論考その7、児童保護政策、社会的弱者政策考

 「大綱」は、児童の保護と義務教育制、男女平等教育政策を打ち出している。児童の保護位置づけについて「児童の権利として児童そのものを権利主体とせるは、父母の如何に拘わらず、第二の国民たる点に於いて国民的人権を有するをもってなり」、「児童の権利は自ずから同時に母性保護となる」と弁じている。

 児童の保護政策として「幼年労働の禁止」を掲げている。曰く「満16歳以下の幼年労働を禁止す。これに違反して雇傭したる者は重大なる罰金又は体刑に処す。尊族保護の下に尊族に於いて労働する者はこの限りにあらず」としている。その理由の一つとして「実に国家の生産的利益の方面より見るも幼童にして残賊するものよりもその天賦を完全に啓発すべき教育を施したる後の労働が幾百倍の利益なるは論なし」と弁じている。これが北理論の白眉の第23政策である。戦後憲法第27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」がハーモニーしている。

 国民教育の権利として「10年間義務教育、学費、昼食無料制」を打ち出し次のように記している。概要「国民教育の期間を、満6歳より満16歳までの10ケ年間とし、男女を同一に教育す。満15歳未満の児童は一律に国家の養育及び教育を受くべし。国家はその費用を児童の保護者を経て給付す。学制を根本的に改革して、十年間を一貫せしめ、日本精華に基づく世界的常識を養成し、国民個々の心身を充実具足せしめて、各々その天賦を発揮し得べき基本を作る。無月謝、教科書給付、昼食の学校支弁を方針とす。男生徒に無用なる服装の画一を強制せず。校舎はその前期を各町村に存する小学校舎とし、後期を高等小学校舎とし、一切物質的設備に浪費せず」。

 これが北理論の白眉の第24政策である。戦後憲法体系では9年間義務教育制にしているが、教科書有料、昼食有料制である。早く北理論を適用すれば良かろう。戦後憲法第26条「教育を受ける権利、教育の義務、義務教育の無償」がハーモニーしている。

 体育についてもユニークな弁を展開している。「丹田の鍛冶」を心がけるべきとしている。その理由として、「単に手足を動かし器具に依頼し散歩遠足をもって肉体の強健を求むる直訳的体育は実に根本を忘れて枝葉に走りたる彼らの悪摸倣なり。特に女子をして優美繊麗のままに発達したる強健を得せしむるには丹田の根本を整うる以外一の途なし」。これが北理論の白眉の第25政策である。「丹田の鍛冶」につきどのようなものか分からないが、恐らくかなり有益な提言ではなかろうかと思われる。

 「児童の自由遊戯論」を展開して次のように述べている。「男女の遊戯は撃剣・柔道・大弓・薙刀・鎖鎌等を個人的又は団体的に興味づけたるものとし、従来の機械的直訳的運動及び兵式訓練を廃止すべし。変性男子の如き醜き手足を作りてしかも健康の根本を培わざる直訳体操は特に厳禁を要す。兵式体操を廃止する所以は、その形式また実に丹田の充実を忘れたる外形的整頓に促われたるものによるも一理由なり。兵役に於いてすべきことは全て兵営に於いてすべし。国民教育の要は根本の具足充実にあり。単純なる遊戯として男子が撃剣柔道に遊び女子が長刀鎖鎌を戯るるはその興味に於いてべースボール、フートボール等と雲泥の相違あり。精神的価値等を挙げて遊戯の本旨を傷くべからず。これは生徒の自由に一任すべし。現今の武器の前に立ちてこれらに尚武的価値を求むるに及ばず」。

 即ち、軍事教練式体育に反対し、子供は子供の感性で自由に好きな技芸、スポーツに取り組み、伸び伸びさせるが良いとしていることになる。これが北理論の白眉の第26政策である。

 「基礎教育有益論」を次のように述べている。「男女共中学程度終業をもって国民たる常道常識を教育せらるるもの。ようやく文字を解し得るか得ざるかの小学程度をもって国民教育の終了とするは国民個々の不具と国家の薄弱を来すものなり。これ教育すべき国家の窮乏せると、教育せらるべき国民に余裕なかりしをもってなり。一貫したる十年間の教育は、その終了と同時に完全具足したる男女たるべく、さらにその基本をもって各々その使命的啓発に向って進むを得べし」。即ち、義務教育で基礎をきっちりと教え、その後は独学でも歩めるようにするのが肝要なりとしていることになる。これが北理論の白眉の第27政策である。

 「男女平等教育政策」を次のように述べている。「女子を男子と同に一教育する所以は、国民教育が常識教育にしてある分科的専攻を許すべき齢にあらざると共に、満十六歳までの女子は男子と差別すべき必要も理由もなきをもってなり。従って女学校特有の形式的課目女礼式、茶湯、生花の如きまた女子の専科とせる裁縫、料理、育児等の特殊課目は全然廃止すべきものとなる。前者を強制するは無用にして有害なり。後者は各家庭に於いて父母の助手として自ら修得すべし。女子に礼式作法が必須課目ならば男子にも男子のそれがしかるべく、茶の湯、生花が然るならば男子に謡曲を課せざれば不可。車夫の娘にビフテキの焼方を教授し外交官の妹に袴の裁方を説明し、月経なき少女に育児を講義する如き、今の女子教育の全ては乱暴愚劣真に百鬼夜行の態なり。学校は全てにあらず。各人の欲するところに随い各家の生活事情に応じて学ぶべき幾多のものを有す」。

 即ち、子供を早くより余りに型に嵌めてはいけない、成長に応じて相応しい礼儀作法を与え習得させるのがよろしいと諭していることになる。これが北理論の白眉の第28政策である。

 「十年一貫の国民教育の必要」を次のように弁じている。「社会主義者のある者の如く一切の犯罪なき理想郷を改造後の翌日より期待するは空想なり。もとより現今の政治的経済的組織より生ずる犯罪の大多数は直ちに跡を絶つべきは論なし。国家の改造とはその物質的生活の外包的部分なり。終局は国民精神の神的革命ならざるべからず。十年一貫の国民教育が改造の根本的内容的部分なり」。即ち、義務教育を重視して子供の能力、人格をしっかり磨くことが理想社会の第一歩であるとしていることになる。これが北理論の白眉の第29政策である。

 「国家扶養の義務」の項で、貧民保護、不具廃病者援助政策も打ち出している。「貧困にして実男子また養男子なき六十歳以上の男女、及び父又は男子なくして貧困且つ労働に堪えざる不具廃疾は国家これが扶養の義務を負う」、「兵役義務の為に不具廃疾となれる者の国家扶養の義務は別に法律をもってその扶養を完うすべし」。「不具廃疾者をその兄弟遠族又は慈善家の冷遇に委するは不幸なる者に虐待を加うると同じ。その母又は女子に負荷せしめざる所以は、愛情ありといえども扶養能力なきが故に、結局その兄弟又は娘の夫の負担となりて、立法の精神を殺すものとなるをもってなり」。

 この辺りは、戦後憲法25条の最低限文化的生活生存権規定の先取りをしているのではなかろうかと思われる。これが北理論の白眉の第30政策である。してみれば、北理論はかなりな程度に於いて戦後憲法に採用され今も生きていることが分かり興味深い。

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「日本改造法案大綱」各論考その6、女性保護政策、姦通罪考

 「大綱」は、「女性の社会的地位の向上、男女同権思想、母性保護」を打ち出しており、これも先駆的である。戦後憲法では第24条で「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」を規定しているが、これは北理論とハーモニーしているのではなかろうか。

 注目すべきは、北理論では女子参政権反対を弁じていることである。これは女性蔑視ではないと云う。いわば男と女のサガの差による社会的役割の違いを認め、女性には伝統的な良妻賢母主義に基づく内助の功的在り方があり、日本式婦道を維持せんが為に敢えて女性の政治への参加資格を取り上げているのだと云う。これを次のように諭している。

 「欧州の中世史に於ける騎士が婦人を崇拝しその春顧を全うするを士の礼とせるに反し日本中世史の武士は婦人の人格を彼と同一程度に尊重しつつ婦人の側より男子を崇拝し男子の春顧を全うするを婦道とするの礼に発達し来れり。この全然正反対なる発達は社会生活の凡てに於ける分科的発達となりて近代史に連なり、彼に於て婦人参政運動となれるもの我に於て良妻賢母主義となれり」。即ち、日本と欧米では伝統と歴史が違うのであり、「日本型良妻賢母主義」は日本の良き伝統なのであり育むべきであるしている。

 女性が下手に男性化するのではなく、女性として保護され認められるならば「妻としての労働、母としての労働が人格的尊敬をもって認識」されるようになり、そうするとわざわざ政治の如くな「口舌の闘争」に引き入れる必要はない。婦人を政治に近づけるのは「人を戦場に用うるよりも甚だしい愚策」であり、日本婦人には「欧米婦人の愚昧なる多弁、支那婦人間の強好なる口論」とは違う婦道が確立されており、これを育むのが良い。婦人参政権間題は「西欧思想の直訳の醜」である云々。これが北理論の白眉の第21政策である。

 これを白眉政策とするには是非論があろう。但し、れんだいこは面白い知見と思う。見て取るべきは、北はここでも「西欧的な近代的個人主義」を単に先進国制度として直訳的に受け入れるのではなく、十分に咀嚼した上で欧米文化、政治の導入を取捨選択する姿勢を見せていることであろう。

 これ以外に於いては「女性労働の男女平等自由制」、「女性教育の男女平等国民教育制」を推奨している。これにより、裁縫、料理、育児等の女子だけの特殊課目の強制を廃止せんとしている。男性による婦人労働に対する侮蔑言動につき、「これを婦人人権の蹂躙と認む。婦人はこれを告訴してその権利を保護せらるる法律を得べし」と述べている。更に改題刑行の際には、「但し改造後の大方針として国家は終に婦人に労働を負荷せしめざる国是を決定して施設すべし」と述べている。これが北理論の白眉の第22政策である。

 北は女性観につき次のように記している。「大多数婦人の使命は国民の母たることなり。妻として男子を助くる家政労働の他に、母として保姆の労働をなし、小学教師に劣らざる教育的労働をなしつつある者は婦人なり。婦人は既に男子のあたわざる分科的労働を十ニ分に負荷して生れたる者。これらの使命的労働を廃せしめて全く天性に合せざる労働を課するは、ただに婦人そのものを残賊するのみならず、直にその夫を残賊しその子女を残賊するものなり。この改造によりて男子の労働者の利得が優に妻子の生活を保証するに至らば、良妻賢母主義の国民思想によりて婦人労働者は漸次的に労働界を去るべし」、

 「婦人は家庭の光にして人生の花なり。婦人が妻たり母たる労働のみとならば、夫たる労働者の品性を向上せしめ、次代の国民たる子女を益々優秀ならしめ、各家庭の集合たる国家は百花爛漫春光駘蕩たるべし。徳に杜会的婦人の天地として、音楽・美術・文芸・教育・学術等の広漠たる未墾地あり。この原野は六千年間婦人に耕やし播かれずして残れり。婦人が男子と等しき牛馬の労働に服すべきものならば天は彼の心身を優美繊弱に作らず」。北の女性観が伝わるくだりである。

 「婦人人権の擁護」の項で、「男子の姦通罪」新設を唱えている。「現行法律が売淫婦人をのみ罰して買淫男子を罰せざるは片務的横暴であり、国家は両者共に法律をもって臨むべきで、拘留罰金を適当とする。有婦の男子の蓄妾又は姦通罪を課罰す」としている。他方、「売淫婦の罰則を廃止しそれを買う有婦の男子はこれを拘留し又は罰金に処す」としている。「もしこの立法が行なわれざるならば忌むべき婦人労働となり婦人参政権運動となるべし」と述べている。

 さて、これを白眉政策とすべきだろうか。フェミニストなら喜びそうだが、れんだいこは採らない。戦後憲法秩序が採用していないのは偉いところと見立てる。但し、現下の状況から考えるのに3S政策の一つとして性の解放と云う名の愚民化政策が煽られている面があり、これに対抗すると云う意味で北理論式正しさを理解できない訳ではない。問題は過剰規制の難しさにあるとコメントしておく。性問題は生問題と直結しており一筋縄では解けないと読む。

 恋愛自由論について次のように弁じている。概要「自由恋愛論の価値は恋愛の自由を拘束する時代の政治的経済的宗教的阻害者を打破せんとする点にある。全ての自由が社会と個人とその人の利益の為に制限さるる如く、恋愛の自由また国民道徳とその保護者との為に制限せらるるは論なし。この一夫一婦制は理想的自由恋愛論の徹底したる境地なり。但し今はこれを説くの時期到来せず」。

 関連して、「純潔結婚論」を唱えており、次のように弁じている。「独身の男子を除外せるは決してその性欲を正義化する所以にあらず。婦人が純潔を維持する如く男子がその童貞を完うして結婚することは双方の道義的責務なり。これを罰せざる理由は、末婚婦人が純潔を破るも法律の干与せざると等しく道徳的制裁の範囲に属するをもってなり」。

 北理論の趣意は分かるが、ここまでの様々な改造的提案に照らして何となく不似合いな感じがする下りである。しかし、これを逆に照射すれば、北理論はマルクス主義を改造して日本改造に資するよう様々な有益提言をしているが、この男子の姦通罪規定新設提案の如くまだまだ粗雑なのではなかろうかと逆に思えてくる。れんだいこ史観に照らせば、男女の問題も社会も国家もそう容易くは解けない。むしろ複雑怪奇として、その中で一つ一つ筋道を手繰っていくぐらいで丁度良い。

 「純潔結婚論」のくだりで「道徳的制裁の範囲に属する」としているのなら、同じ理由で法の制裁の範疇に非ずとした方が良いのではなかろうか。この「男子の姦通罪規定」新説提言は逆に北式クーデター論の威勢の良さの危うさまで透かせているように思えてくる。北にもう少し寿命が許され、せめて還暦辺りまで生き延びたら、もう少し違う見解を創造したのではなかろうかとも思う。そういう意味でも北の絞殺刑が惜しく悔やまれる。

 かような政策提言する北を右翼のイデオローグとして理解するのは甚だ困難である気がしてならない。せめて左派的にも面白い人物とみなすべきではなかろうか。

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2011年7月 1日 (金)

「日本改造法案大綱」各論考その5、基本的人権論、労働者保護政策考

 「大綱」は、政治体制論、経済体制論、国家機構論を述べた後、国民の基本的人権論に言及している。まず「国民自由の恢復」の項で「従来国民の自由を拘束して憲法の精神を毀損せる諸法律を廃止す。文官任用令。治安警察法。新聞紙条例。出版法等」としている。その理由として注で「各種閥族等の維持に努むるのみ」としている。

 これによれば強権的支配政治を排して、特に言論の自由を強く主張していることが読み取れよう。北は、国家主義を基調としながら西欧的近代思想の個人主義、自由主義を尊重せんとしていた。「国民は平等なると共に自由なり。自由とは則ち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることは益々国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり」と述べており、自由を個々人の能力、条件の違いを通じて実現されるべきものと捉えていたことになる。この点で右翼的思想家のなかでは異色であった。これが北理論の白眉の第12政策である。

 「大綱」は次に、労働者保護について多くの頁を割いている。このこと自体、北理論の左派性を証左していることになるのではなかろうか。その労働政策は、「労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制」という観点から成り立っている。具体的には次のような内容になっている。

 労働者を「力役又は智能を以て公私の生産業に雇傭せらるる者」と規定し、「軍人、官吏、教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものとしている。

 国家改造後には、各人の能力、個性に応じた労働の自由契約が実現され、職業選択の自由が尊重されるべきとしている。これにつき「自由契約とせる所以は国民の自由を凡てに通せる原則として国家の干渉を背理なりと認むるによる。等しく労働者と言うも各人の能率に差等あり。特に将来日本領土内に居住し又は国民権を取得する者多き時国家がー々の異民族につきその能率と賃銀とに干渉し得べきに非ず」と説明している。

 且つ「現今に於ては資本制度の圧迫の下に労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃金契約を為しつつあるも改造後の労働者は真個その自由を保持して些の損傷なかるべきは論なし」と断じている。

 留意すべきは、北理論の労働観が西欧思想に濃厚な「労働=苦役観」と違う点である。北は、「人生は労働のみによりて生くる者に非す。又個人の天才は労働の余暇を以て発揮し得べき者にあらず。何人が大経世家たるか大発明家、大哲学者、大芸術家たるかは、彼らの立案する如く杜会が認めて労働を免除すという事前に察知すべからずして悉く事後に認識せらるるものなればなり」として徴兵制の如くの強制労働を課すことに反対している。これが北理論の白眉の第13政策である。

 このくだりに関連して「社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」と述べている。既に述べたが、社会主義の原理を認め、「それに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」としており、この観点は痛く刺激的である。

 次に「労働賃銀の能力制」を打ち出している。その理由につき次のように述べている。「等しく労働者というも各人の能率に差等あり」、「現今に於いては資本制度の圧迫によりて労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃銀契約をなしつつあり。しかも改造後の労働者は真個その自由を保持して聊かの損傷なかるべきは論なし」。これによると、能力給を認めるのが自然であるということと、最近流行りの「自由契約の名の下での低賃金制」を許さないとしていることになる。これが北理論の白眉の第14政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されてきたものである。

 次に「幼年労働の禁止制その他労働者保護政策」を打ち出している。労働者の保護、これに伴う権利として「15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制」を基礎とし、日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応時手賃銀を加算すべし」としている。即ち、適正な労働時間、月給制、労働に応じた正当な報酬を受けるべしとしていることになる。これが北理論の白眉の第15政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されている。

 更に、労働者は単に労働能力を売るのみならず半期ごとに利益配当給付されるべきであるとしている。即ち、労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だとしている。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失を顧みずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとして半期毎の給付を行うべしとしている。これが北理論の白眉の第16政策である。今日的なボーナス論に先駆的言及していることになる。この観点も戦後憲法大系に反映されている。

 次に、労働者代表の経営計画及び決算への関与を認めようとしている。その論拠として次のように述べている。「企業家は企業的能力を提供し労働者は智能的力役的能力を提供す。労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費のみ。一方の提供者には生活費のみを与えてその提供の為に生れたる利益を与えず。他方の提供者のみ生活費の他に全ての利益を専有すべしとは、その不合理にして無智なることほとんど下等動物の杜会組織というの他なし。労働者が経営計画に参与するの権はこの一方の提供者としてなり」。これが北理論の白眉の第17政策である。

 「労働的株主制の立法」の項で、労働者の株主権についても言及している。「労働者をして自らその株主たり得る権利を設定すべし」と述べて是認し、「これ労働と資本とが不可分的に活動するものなり。事業に対する分担者としての当然なる権利に基づきて制定さるべし。別個生産能率をも思考すべし」。かく述べて生産性の向上に繫がるとしている。あるいは又「労働的株主の発言権は労働争議を株主会議内に於いて決定し、一切の社会的不安なからしむべし」として労働争議の未然防止に繫がるとしている。これが北理論の白眉の第18政策である。興味深いことは、北理論には間接的な形態ながら労働者の生産管理思想が滲んでいることが見て取れることである。はっきりとは言及していないが、生産管理思想の手前まで関心を寄せている。

 労働争議是認を打ち出している。即ち「この改造を行わずして、しかも徒に同盟罷工(ストライキのこと―筆者注)を禁圧せんとするは大多数国民の自衛権を蹂躙する重大なる暴虐なり」という。但し、「争議当事者は労働省の裁決に服さねばならない」としており、抗議権を認め闘争権までは容認していない。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとしている。監督官庁として内閣に労働省を設け、労働者の権利を保護するを任務とさせる。労働争議は別に法律の定むるところによりて労働省が裁決する。裁決に対し、生産的各省個人生産者及び労働者は一律に服従すべきものとしている。これが北理論の白眉の第19政策である。

 以上から見れば、北理論の労働問題論は資本主義的な企業活動を是認したうえで、労働者保護に向かおうとしていることになる。評価すべきは、その目線が社会的強者である資本家の方に向いているのではなく、弱者の労働者側に置かれていることであろう。戦後日本の労働組合が、労働組合でありながら資本側の傭兵として立ち回る傾向が強いのに比して反対の姿勢を見せていると云うことになる。

 他にも、借地農業者(小作人)の擁護を打ち出している。「農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応じて賃銀に加算すべし」とし、以下、労働者保護の諸原則を準用している。小作争議が激発しつつあった改題刊行時に、「私有地限度内の小地主に対して土地を借耕する小作人を擁護する為に、国家は別個国民人権の基本に立てる法律を制定すべし」と追加している。注で「小地主対小作人の間を規定して一切の横暴脅威を抜除すべき細則を要す」としている。これが北理論の白眉の第20政策である。

 付言すれば、「一切の地主なからしめんと叫ぶ前世紀の旧革命論を、私有限度内の小地主対小作人の間に巣くわしむべからず。旧杜会の惰勢を存せしむる全てのところに、旧世紀の革命論は繁殖すべし」と述べており、小作争議の擁護というよりも争議の原因除去に力点を置いていることになる。

 こういう政策提言を1919(大正8)年段階で為しているところに意味があろう。北理論が歴史の動向に後れをとっておらず、むしろ先駆的であることが分かる。それと、かような政策提言する北を右翼のイデオローグとして理解するのは甚だ困難である気がしてならない。せめて左派的にも面白い人物とみなすべきではなかろうか。

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