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2011年7月27日 (水)

引用転載識別考

 久しぶりに著作権論に触れておく。ネットサイト上に「引用と転載の違いまとめ」と題する「面白い文章」に出くわした。執筆者は分からない。期日表示がないので、いつ頃の出稿なのかも分からない。そういう意味で一種怪文書染みている。http://mudantensai.blog.shinobi.jp/

 議論上、仮にこの御仁を「A」、れんだいこを「R」と命名する。Rは、Aの最も嫌う形での全文転載を敢行し、批判しておく。転載文は下記のサイト引用、転載、複製についてに格納しておき後日の証とする。Aが先にRの引用転載論を批判してくれているので叩き易い。

 どうやらA的著作権理解が標準らしい。そういう意味では、転載文は強権著作権派の引用転載論の水準を示していることになる。そういう意味で興味深い。Aは、概要「引用と転載の違いが分からない者が多いから示しておく」として次のように述べている。

 「引用:その文章を削除しても記事がなりたつ。著作者の許可がなくても行ってよい。転載:その文章を削除したら記事がなりたたない。著作者の許可がなければ違法」。

 引用と転載をこのように識別するのがいつ頃から定式化したのかは分からないが、随分いい加減なものだと思う。該当文が有る無しで記事が成り立つかどうか見分けることで引用と転載を識別すると云うのだが、随分裏側から見た規定である。この論法によれば、記事が成り立つ成り立たないを誰が判定すると云うのだろうかという新たな問題が発生する。将来、著作権判定士でも創ろうとしているのだろうか。ややこしい話ではある。ぬるぬるして気持ち悪い卑怯姑息な人種が好みそうな識別法である。

 「A的引用転載識別論」が通り相場なのかもしれないが、通り相場であろうとなかろうと愚論は愚論である。Rは断言しておく。現行の著作権法に従う限り、こういう解釈は著作権法の規定にはない。いわば「私的なAルール」のものでしかない。今日びこういう「私的なAルール」が流行っているのは確かだが、法文に裏付けられないと威勢を欠く。

 一般に、大した文章でもないのに著作権に固執し、勝手に利用させぬと敷居を高くして悦に入り、互いの首を絞め合って恍惚している。それで居て誰にも相手にされないと寂しがる。Rに云わせれば「知の変態」である。世間は広いので、いろんな方が居ることは認める。だが、そういう変態は仲間内だけに通用させれば良いだけのことで、世間に広めてもらうのは困る。説教してくれるなどはもっての外である。そういう類のものでしかない。

 この手の論法が最も進んでいるのが音楽業界でジャスラックが率先太郎している。著作権と音楽文化を守ると云う名目で、カラオケスナックを見つけては、「著作者(著作管理者)の断りもなくよくも勝手に営業利用してくれたな、ついてはショバ代出せ」とヤクザ論法そのままに恫喝しまくっている。著作権料はカラオケリース料に組み込まれている筈なので、そちらを高くするなりして解決すれば良いと述べ応じないと、客が詠った歌一曲につき幾ら出せと云って、過去にさかのぼって請求し、応じないと勝手に超高額の利息を乗せて裁判に付す。

 これで泣かされた経営者は数多い。挙句の果ては警察使って経営者を逮捕させている。店舗面積割合で課金するものだから大型店舗では超高額になり、悲鳴を上げてカラオケから撤退する店が続出している。この正義棒を所構わず振りまわすものだから、今や事務所でも不用意には音楽かけられない。旅行ツアーバスにカラオケがなくなっている気がするが、これに関係しているのかも知れない。ジャスラックは今日も摘発に向けて徘徊している。

 A論は、この手の連中が随喜の涙で歓ぶ援軍理論になっている。しかし、行政的にそうなっているだけで、著作権法上正しいかどうかとなると別の話である。この手合いは要するに強い者に巻かれろ式の時流に乗って口をパクパクさせているだけで、時流が代われば又別のことを云いだすのだろう。既に著作権先進国ではかっての私権万能著作権論から公共的著作権論への転換が始まりつつある。Aは、このバスにうまく乗れるのだろうか、乗り遅れるのだろうか、こういうところが気になる。

 もとへ。Rは、Aの云う如く「引用と転載の区別が付いていない」のではない。次のように区別している。「引用とは、被著作物の文章の一部の抜書きである。転載とは、被著作物の文章の関連する箇所全部の転写である」。A論規定に比して正面からズバリ概念規定している。この規定で何ら構わないと思う。著作権法はかく識別しており、それ以上の判断をしていないと読み取っている。これが間違いだと云うのなら、法文に基づいて指摘して貰いたい。

 問題は、A論とR論のどちらが著作権法に照らして正しいのかと云うところにある。法を絶対基準にすべきかどうかは法哲学上難しいところだが、著作権を論じる場合には著作権法に依拠するのが賢明だろう。Aにも異存はあるまい。憲法論でいえば「9条問題」だと思えば良い。これがよく似ているんだ実は。両者とも、どう解するべきかが鋭く問われている。法文は関係ない、現実を優先させると云うのは反法治主義であり、Rの良しとせざるところである。Aが堂々そう主張するのなら、そう断ってからRを批判すべきである。その上で9条改正の動きがあるように著作権改正に向かえば良い。目下は9条があるように著作権法があり、これに従うべきだろう。

 Aは、Rに対して、「常識がわからない人の考え方の例として、ネットでみつけた、れんだいこさんという方の意見を引用します。※れんだいこさんは引用と転載の区別が付いていないので注意して読んでください」と前触れしている。Rは、云われっ放しは体に悪いので次のように云い返しておく。「著作権法がわからない人の考え方の例として、ネットでみつけた、Aさんという方の意見を転載します。※Aさんは引用と転載の区別に著作権法とは違う解釈を持ちこんでいるので注意して読んでください」。

 Rは、A論に対する反論を次のサイトで示している。これを確認する。

 「引用、転載、複製について
 「引用、転載、複製の際のルールとマナー考

 Aは、ご丁寧にも上記のうち「引用、転載、複製の際のルールとマナー考」をリンク紹介している。その上で、以下のようにRの立論に反論している。ついでに「引用、転載、複製について」も反論すれば、なお生産的な議論になろう。

 Aは、Rの諸論に対して次のように反論している。「1:私はお世話になったスレの利用者にちょっとだけ読んでもらいたかっただけです。宣伝してもらいたいとは思っていません。それが無断で転載されていたのですから有り難いわけがありません。2:たとえばプロになりたい人などは無断転載されても知名度があがるかもしれませんが、興味のない私には勝手に宣伝をしてあげたといわれても有難迷惑なだけです。3:dvamp(仮)はお客さんを呼び込むために私の著作物が利用しましたが、私は気持ち悪くおもい次の文章を書くのをためらっている状態です。これが表現の自由でしょうか?れんだいこさんは、表現の自由をうたっておきながら、『転載されたくなかったらインターネット空間に登場しなければいい』といって表現の自由を貶めていて、とても性質が悪いです」。

 Aのこの批判が適正だろうか吟味する。「批判1」を仮に「A式無断転載不許可論」と命名する。既に述べているが、この主張は著作権法に照らすと根拠がない。同法では、引用、転載につき出典元、出所元、著作者を明示することを要件としたうえで、情報交叉可としている。Rは、そう読みとっており、著作権法史の流れからすれば、そう読みとるべきだと思っている。A式の著作者の許可、不許可を絶対条件とさせ、不許可の場合には「引用可、転載不可」とするような規定はどこにもない。Aがこの論に固執するならば、著作権法上の法文で根拠を示さねばならない。

 「批判2」を仮に「無断転載有難迷惑論」と命名する。これまた著作権法に照らすと根拠がない。あるというのなら条文を示して貰いたい。ちなみに、法律は市民の有難迷惑にまで関与するような規定はない。

 「批判3」を仮に「表現の自由貶め論」と命名する。AとRには、「表現の自由」を始めとする自由権的権利の理解の差が横たわっている。これを論じても押し問答になるから触れない。

 総じて云えることは、Aが個人的に「我こう思う。故に我はこうする」と自主自律規制するのは一向に構わない。しかしながら、「我こう思う。故に我は相手にこう要求する」のだけは止してほしい、それは僭越過ぎると云うことである。AとRの間には、いわば、子供と大人が恋愛論を語る場合の質の差に似た違いが横たわっており、この認識の差を埋めるのは難しい。大人が子供に手を取り足を取る必要もないので止すが云い渡しておく。A君、著作権棒振り回すのは勝手だが、人を巻き添えにすると、これぐらいの反論は覚悟せよ。更に続けるなら、どちらかがもっと大恥を掻くことになる。Rは恥を掻くのも掻かすのも好まない。切れない包丁をむやみやたらに振りまわさないことだ。ご忠告申し上げておく。

 2011.7.27日 れんだいこ拝

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