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2011年7月19日 (火)

大国主の命論その5、国譲り考前篇

 よりによってこの大国主の命の時代、天下の形勢は風雲急を告げつつあった。大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが恐らく韓半島経由と思われる高天原王朝が来襲せんとしていた。高天原王朝を天孫族、出雲王朝他日本の先住民族を国津族と云う。

 高天原王朝は、どういう経緯によってかは定かではないが次のように意思統一している。「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している。中でも大国主率いる出雲が強大国である。豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が治めるべき地として相応しい。天壌無窮の地なり。出雲に使者を派遣せよ」。日本書紀は次のように記している。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ我が子孫の王たるべき地なり。宜(よろ)しく皇孫をして統治に当たらせるべし。行牟(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんことを。まさに天壌無と窮り無けむ(天壌無窮なるべし)」。

 この宣言が、「天壌無窮の神勅」と云われるものである。高天原王朝はかく出雲王朝の君臨する「豊葦原の瑞穂国」に白羽の矢を立て支配権を譲るよう迫っていた。皇国史観は、この「天壌無窮の神勅」を是として大和王朝創建の始まりとしている。出雲王朝側からすれば迷惑千万な話でしかないが、神話上の史実である。

 当然、高天原王朝のこの動きは、大国主の命の治める出雲王朝にも伝わった筈である。大国主の命は、この非常事態に賢明懸命に対処している。これより「国譲り騒動譚」が始まる。日本古代史の、と云うより日本史上の最大政変勃発である。これに匹敵する史実は、鎌倉時代の蒙古襲来、戦国時代のバテレン上陸、江戸幕末の黒船来航、戦後の連合国軍進駐であろうが、それまでの支配政権がごそっと交代したと云う重みにおいては、この時の国譲り騒動に優るものはない。

 記紀が示す「国譲り騒動譚」をいつ頃の時代に想定すべきか。れんだいこは、紀元3世紀に所在していたとされる邪馬台国前の紀元1世紀前後の頃、中国の後漢時代と想定している。「後漢書東夷伝倭伝」は、朝鮮半島で、紀元105年、高句麗が遼東6県を侵した頃から184年までの80年間、倭国分裂大乱が記録されている。魏志倭人伝にも「その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す」とある。

 その後、卑弥呼が王に共立され、この御代に邪馬台国が創建されている。魏志倭人伝に次のように記されている。「年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻なし。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし」。れんだいこは、「国譲り騒動譚」は、これに関わる政変の前段階の史実だったのではなかろうかと考えている。この辺りは今後の研究課題である。

 この説を補強する筋の話として、日本書紀には国譲り直前の次のような逸話を記している。「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。これが後に大物主の神登場の伏線となっているように思われる。

 大国主の命の大和行きは正妻スセリ姫との「ぬば玉歌」でも確かめられる。これは、大国主の命が大和の国に向うべく旅支度を始め、いざ立たんとする時に、大国主の命が詠い、スセリ姫が返歌した「永遠の別れを惜しむ嬬恋歌」と解するべきであろう。通説は、スセリ姫の返歌の一句「吾はもよ 女にしあれば、汝を除(置)て 男は無し。汝を除(置)きて 夫(つま)は無し」に着目しスセリ姫の嫉妬深さが窺われる歌と解しているがナンセンスであろう。それはそれとして、この歌は、史学的に「大国主の命の大和行き」を記していることに意味がある。

 この二つの神話は、出雲王朝と大和の三輪王朝との歴史的繋がりを伝えていることに意味がある。ちなみに、三輪山宮は現在も奈良県桜井市の三輪山を御神体として大神神社として祀られている。現在、三輪山の麓にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかとして脚光を浴びつつある。れんだいこ史観によれば、出雲王朝と三輪王朝は深い繫がりがある。現代史学は次第にこのことを明らかにしつつあるように思える。但し、両王朝が高天原王朝により滅ぼされ、史実から封殺された側の哀しい歴史の物語を持つことまで確認し得ていないように思われる。皇国史観は、これを隠蔽する側の史観であり、これを幾ら学んでも歴史の裏真実には辿り着けない。そういう仕掛けが加えられている。

 もとへ。高天原王朝は何度も使者を送り失敗させられる。最初は「言向和平」(ことむけやわす)談判から始まった。一番手使者としてアマテラスの息子のアメノオシホミミの命が送られ、大国主が治めている葦原中国へ向かおうと天の浮橋を渡った。しかし、それから先は抵抗が強く進むことができなかった。次に、アマテラスの息子のアメノオシホヒの命を派遣する。しかし、アメノオシホヒの命は、大国主に靡いてしまい、3年たっても復命しなかった。

 第三陣の使者としてアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を派遣する。この時、初めてアメノマカコ弓とアメノハハ矢を援軍として同行させている。大国主の命は、ウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせ、アメノワカ彦はシタテル姫の美しさにみとれ、これを妻として住まい始めた。こうして又も篭絡された。8年たっても復命しなかった。高天原王朝の使者がアメノワカ彦の元に派遣され詰問した。問答の結果、アメノワカ彦は射殺された。

 ここまでの流れを仮に「高天原王朝の出雲王朝攻略失敗譚」と命名する。「高天原王朝の出雲王朝攻略失敗譚」は、高天原王朝の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。

 留意すべきは、高天原王朝の使者は何故に籠絡されたかであろう。思うに、大国主の命との問答で、出雲王朝政治の理想に被れたのではなかろうか。問題はなぜ被れたかである。れんだいこは、出雲王朝政治の思想的にも実務的にも高度な政治が確立されていた故にではないかと推理している。使者は、出雲王朝に惚れ、山紫水明にして上下相陸み合い暮らしする素晴しき共同体を護ろうとし、それ故に戦争ではなく和平の道を探ろうとしたのではないかと推理している。その裏に大国主の命の得意とする政略結婚政策が有効に機能していたとも思われる。

 高天原王朝は、第四陣としてイツノヲハバリ神の息子のタケミカヅチ軍を送る。フツヌシ神も同行する。アメノトリ船神をそえて葦原中つ国へ遣わしたとあるので今度は大軍で押し駆けたと云うことになる。今度の軍使は篭絡されることを厳に戒められ、端から降伏するかさもなくば戦争によって決着させるとの決意で向った。これが最後の切り札となった。タケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの談判をする。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいて武威を示した。

 緊迫したこの雰囲気の中で次のような問答が交わされた。タケミカヅチ「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。 大国主「私達は、今まで農業を主として平和な共同体を築いてきた。ここで戦争をすると勝敗は別として元も子もなくなる。私はそれを憂う。国譲りの申出については、子供達が反対しなければ私は従う。私の一存では行かない。我が子が返答することになるでせう」。タケミカヅチ「子供たちの誰が権限を持っているのか」。大国主「事代主(コトシロ主)とタケミナカタの二人です。事代主は文をタケミナカタは武を受け持っております。その二人の了承を取り付けてください」。

 この談判によれば、大国主の命は即答を避け、判断を文人頭の事代主と軍人頭のタケミナカタに委ねたことが分かる。この二人が大国主の命の御子であったと記されているが、それはどうでもよい。肝腎なことは、この二人が政権後継者として№1、2に位置していたことを見て取るべきだろう。これを仮に「イナサの浜での直談判譚」と命名する。

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