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2011年7月19日 (火)

大国主の命論その6、国譲り考中篇

 高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判の結果、舞台は文人頭の事代主(コトシロ主)と軍人頭のタケミナカタとの談判に移った。古事記は事代主の対応を次のように記している。「この時、事代主は、美保の崎にいた。アメノトリ船が向かい連れて来た。タケミカヅチが、大国主の命に対して述べたと同じことを伝えると、『かしこまりました。この国は、アマテラス様の御子に奉りましょう』と云い残して、拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた(「天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき」)。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」。

 事代主は、後々に七福神の恵比寿様として奉られることになる。これを仮に「事代主の談判譚」と命名する。

 事代主は、苦衷の末「国譲り」に応じた。同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのかは両説ある。後の史実で確認するのに、事代主は、大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表となった可能性がある。鴨族が遠祖を出雲王朝とするのか大和葛城地方の土着豪族とするのかは分からない。鴨族には高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。

 いずれにせよ、事代主派は闘いを避けることにより、国譲り後の大和王朝政権の一角に食い込むことになったのではなかろうか。「事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」は、新王朝での登用の約束談合による手打ちを寓意しているように窺う。

 事代主及びその系譜及び子孫はその後、大和王朝内で出雲王朝系の代表として一角を占め、次第に頭角を現し、特に大和王朝神道の確立に寄与した形跡が認められる。高天原王朝の神道司祭派と相提携しあるいは隠然と対立しつつイニシアチブを争った形跡が認められる。要するに、そうやって生き延びたと云うことであろう。あぁ歴史は何と奥深いものであるか。

 文人頭の事代主が戦いを避けたのに対し、軍人頭のタケミナカタは応戦した。タケミナカタは、古事記では「建御名方神」、続日本後紀では「南方刀美神」、延喜式神名帳は「南方刀美」と記している。大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供と云われる。タケミナカタは承知できないとして応じなかった。次のような問答が交わされた。両者とも「タケ」なので確認しづらいので外して確認する。ミナカタ「人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。ミカヅチ「そうだ。この国をもらい受けに来た」。ミナカタ「そんな理不尽が許されると思うのか」。ミカヅチ「これはアマテラス様のご命令だ」。ミナカタ「ならば一戦交えるのみ」。 

 こうして談判は決裂し、戦闘することになった。神話では、二人の力比べが始まり相撲をとったことになっている。これが史上に出て来る相撲の起源とも云われる。ミナカタがミカヅチの手を握り投げようとしたところ、ミカヅチの腕から先がツララになり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、ミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。次に、ミカヅチが同じようにミナカタの手を握ると、易々と手を握りつぶした上に、そのままミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、ミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩しているように思われる。

 力競べに負けたミナカタの軍勢は、追いかけてくる高天原王朝勢と戦いながら出雲から能登へ、そして科野(しなの、信濃)の国の洲羽海(すわの海、諏訪湖)まで逃げた。この時、現地の豪族の洩矢の神(もれりの神)が抵抗し、敗れて降伏したとの伝承がある。引き入れる派と反対する派が居たということであろう。これをミカヅチが追撃し、両者は再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したミカヅチと形勢不利を認めたミナカタは、手打ちすることになった。1・ミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。2・アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認める。双方これを受け入れ和議がなった。以降、ミナカタはヤサカトメの命(八坂刀売命)を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まった。これを仮に「タケミナカタの談判譚」と命名する。

 この神話は、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応ぜず、各地で戦闘を続け諏訪国に逃げ、決着つかず高天原王朝のタケミカヅチ優勢のままで両者が手打ちしたことを明らかにしている。この手打ちも日本政治の原型の一つである。これについては次章でも触れる。

 ちなみに、この神話により諏訪大社も出雲大社系譜であることが分かる。但し、諏訪大社は下社、上社に分かれている。これはタケミナカタ派が逃げ込んできたことと関係しているものと思われる。タケミナカタ派の逃亡ルーツも興味深い。出雲から能登へ行ったと云うことは能登に支持基盤があったことを意味しよう。同様に信濃の諏訪に向かったことも然りで、出雲王朝時代の連合国家の一つだったと思われる。タケミナカタ派は事代主派と違う生き方で生き延びたことが分かり興味深い。

 この下りは以上の如く簡略に記すが、神話故に荒唐無稽と云うものでもあるまい。案外と史実を書き記しているのではなかろうか。但し、寓意交りと時の政権の正統性を裏付ける側から記述するのが正史の常であるのでご都合主義的な脚色を免れ難い。これをどう理解し読み直すかが問われているのではなかろうか。いずれにせよ、皇国史観なるものの薄っぺらさを読み解かねばなるまい。その皇国史観を嫌悪してあるいは荒唐無稽さを笑って、その結果何も知らないのは却って良くないのではなかろうかと思う。

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