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2011年7月19日 (火)

大国主の命論その4、出雲王朝政治考

 東出雲王朝の王権を争い熾烈な抗争を続けていた若き日の大国主の命は、この頃の名を、「おほなむち」(大己貴神、大汝命、大名持神)と云う。「ナ」が土地という意味であることを考えると既に相当の領地を相続経営していたことになる。その大国主の命は、「いなばの白兎譚」で寓意されている如く、東出雲王朝の八十神(やそがみ)とイナバの国のヤガミ(八上)姫の妻取り合いで勝利している。

 次に、「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」で寓意されている如く、西出雲王朝のスサノウの嫡女・スセリ(須世理、 須勢理)姫にも一目ぼれされ、スサノウによる幾度の試練をも乗り越え遂に西出雲王朝の王権を手に入れている。これにより、大国主の命は東西出雲王朝を統合し、一大出雲王朝を創始して行くことになった。

 よほど男ぶりが良かったのであろう、「あしはらしこを」(葦原色許男神、葦原醜男)とも命名されている。「しこを」とは、「強い男」の意で、これを良く評価する側は「色許男」と当て字し、悪く評する側は「醜男」と当て字している。大国主の命は、その日本一の有能色男ぶりで各地の豪族との同盟関係構築に成功している。合戦止むを得ない場合には合戦を、和睦できる場合には豪族の息女と交合する方法で処しているように窺える。嬬恋歌が残されているが、和歌の堪能者でもあった様子が伝わる。

 これはいわゆる政略結婚であるが、その背景には和戦的意味合いがあったと思われる。政略結婚の原義はこういう豪族間の閨閥同盟にあり、次第に単に両家の結びつきへと意義が広がったものと思われる。この伝統は世界共通のものであり、特段に珍しいものではない。大国主の命の政略結婚として有名なものは、ヤガミ(八上)姫、スセリ(須世理、 須勢理)姫の他に出雲の郡宇賀の郷のアヤト姫、神門の郡の朝山の郷でマタマツクタマノムラ姫、八野(やの)の郷ではヤヌノワカ姫、宗像の三女神の中の多紀理(タキリ)姫、神屋楯(カムヤタテ)姫、八河江姫、前玉姫、比那良志姫、活玉前玉姫、青沼馬沼押姫、若尽女神、もっとも有名なところとして高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫が挙げられる。

 この頃の大国主の命の立ち働きに対して「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」と記されている。この時代の大国主の命を形容して「やちほこの神」(八千矛神)と称されている。矛は武力の意であるからして、八千矛とは獅子奮迅の武力を振っていたことを寓意していよう。

 事実、大国主の命は東西出雲王朝を平定し、続いて全国平定に繰り出していた。伯耆、因幡の国を征服して古代出雲を足固めし、但馬、丹波、更に兵を進め播磨で韓の王子アメノヒヤリと戦って勝ち支配圏を拡げた。支配圏は更に「越の八口」まで進んだ。越とは、若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。八口の口とは「国」のことを云う。続いて、信濃、大和、紀伊まで連合国家的に傘下に収めた。更に奥州には「日高見国」もあった。こうして各地の豪族を平定し、まさに名実共の大国主の命となっている。出雲風土記は大国主の命を呼ぶに、「天の下造らしし大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。このようにして形成された当時の王朝を仮に「大出雲王朝」と命名する。

 大国主の命が精力的に王朝経営している時、強力な助っ人としてカンムスビ神の御子スクナヒコナ(少彦名)の神が現われ、以降両者は力を合わせて天下を創り治めた。出雲王朝に反目的な記述に終始している日本書紀にして次のように記されている。「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」。記述の出典は分からないが「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」と記されているとのことである。

 出雲王朝は、「鉄と稲」による農耕革命を推進し、当時に於ける国土改造計画に着手していった。これにより、縄文時代的採集経済から弥生式農耕経済へと転換させ、「葦原の中つ国」を「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国」へと発展させていった。出雲王朝は大国主の命の御代になって、政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面で躍進しており、そういう意味で大国主の命はまさに国作りの神であり、全国の国津神の総元締であると云う具合で、日本の神々のなかのスーパースターとなっている。英雄神としては、スサノオ尊やギリシア神話の英雄のように怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナ(少彦名)の神とコンビを組んで全国をめぐって国土の土木事業、農業技術、温泉開発に精出し、病気治療、医薬の普及、禁厭の法の制定といった数々の業績を残している。

 両者の興味深い掛けあい談議が記録されている。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神に次のような問うている。「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。スクナヒコナの神答えて「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」。この遣り取りに対して、万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」。


 出雲王朝政治の特質は合議制にあった。毎年十月、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、諸事取り決めした。これを「神謀(はか)り」と云う。この間、各地の神は不在となるので和暦では10月を神無月と云う。但し出雲では神在月となる。出雲王朝は、この「神在月合議政治」により自由連合国家を形成していたと推定できる。これは、出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。

 並行して、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行う神道を確立して行った。特に、全国の八百万(やおよろず)の神が集う際に行われる神在祭が一大イベント化していた。即ち、出雲王朝時代に於いて日本式の祭政一致型政治が完成されていたと思いたい。留意すべきは、仮に午前中に寄り合い評定式で真剣に談じ合い、並行して神道行事を祀り、一服したところで盛大に祭ると云ういわば政治と宗教の有機的関係を見事に構築していたことであろう。これを日本の政治の型として確認しておきたい。この風習が今日でも町内会政治に残っていると窺いたい。

 次章で確認するが、出雲王朝の国譲り後、高天原王朝派が大和王朝を創建する。その大和王朝時代の政治の質を出雲王朝時代のそれと比較して見る時、大和王朝政治が支配被支配の度を強め、対比的に出雲王朝時代は徳政的な政治を特質としていたことが分かる。大国主の命は、支配権力を振るうよりは共同文化圏的な盟主的地位を良しとして、権力を善用していたのではなかろうか。出雲王朝には伝統的な共同体和合政治の型が見られる。その出雲王朝が国譲りで消滅し、大和王朝がいわゆる支配被支配政治に乗り出して以降、出雲王朝の御代が日本の母なる原郷となった。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、その謂れを知るべきだろう。

 ちなみに、大和王朝は、高天原王朝派の神道に出雲王朝神道を加えた別系の神道を生み出した。社を豪勢にして格式を尊ぶ神道である。出雲王朝神道では社は重視せず山そのもの川そのものと云う具合に自然そのものを信仰対象としていた。そういう違いが認められる。これにより、かっての出雲王朝時代の神道は出雲神道として識別せられねばならないことになる。更に云えば、出雲王朝神道も、大国主の命時代の神道とそれ以前の神道に違いが認められるので、大国主の命時代の神道を出雲神道と云うならば、それ以前の神道を古出雲神道と呼ぶべきかも知れない。


 その出雲王朝神道の極意は「御魂の理」にあるように思われる。それは、御魂を「和魂」(にきみたま。和を表象する)、「幸魂」(さきみたま。幸を表象する)、「奇魂」(くしみたま。奇を表象する)、「荒魂」(あらみたま。武を表象する)に分け、局面に応じて御魂の威力を使い分け、そのつど相応しい霊力を呼ぶ神事を執り行う。いわば言霊思想を基底に据えている。絶対教義はなく、局面に応じて融通無碍に処する法を確立している。「御魂の理」は個々人の生活の作法にも応用され、やがて七福神信仰へと発展する。政治に使われた場合には、和魂で徳治主義、幸魂で産業振興、奇魂で奇瑞、不思議を、荒魂で武断政治を御することになる。この「御魂の理政治」が日本政治の原型とも云えよう。

 出雲王朝はこれに則った政治を執り行っていたように思われる。こういう構造を持つ出雲王朝神道は、世界の宗教と比べて高度に洗練されているところにも特徴がある。自然の摂理に合わせた共生、社会の摂理に合わせた和合と云う環境適合型のものであり、21世紀が要請する政治宗教の質を先取りしている感がある。そういう質を持つ出雲神道は出雲の地、その地縁の地の神社を通してのみならず修験道信仰の中にも取り入れられ生き延びて行くことになったと思われる。

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