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2011年8月23日 (火)

神武東征、神武の橿原宮即位譚その8

 カムヤマトイワレ彦命の即位以降を神武天皇と呼ぶことにする。神武天皇は、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築き、橿原宮に遷都した。この時、「掩八紘而爲宇」(「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為す」)の「八紘一宇詔勅」を発令している。日本書紀巻第三、神武天皇の条(「橿原遷都の詔 皇宗 神武天皇」)は、次のように記している。

 「我、東(ひんがしのかた)を征(う)ちしより、ここに六年となりたり。頼(こうぶ)るに皇天(あまつかみ)の威を以ってして、兇徒(あだども)就殺(ころ)されぬ。辺(ほとり)の土(くに)未だ清(しづま)らず、余(のこ)りの妖(わざわ)い尚あれたりと雖(いえど)も、中洲之地(うちつくに)、復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都をひらき郭(ひろ)めて、大壮(おおとの、みあらか)を規(はか)り摸(つく)るべし。而(しか)るを今、運(よ)、この屯(わか)く蒙(くらき)に属(あ)いて、民(おおみたから)の心素朴(すなお)なり。巣に棲(す)み穴に住みて、習俗(しわざ)惟(これ)常となりたり。それ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。苟(いやしく)も民に利(さち)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わん。まさに山林をひらき払い、宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、つつしみて宝位(たかみくら)に臨みて、もって元々(おおみたから)を鎮(しづ)むべし。

 上(かみ)は則(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養いたまいし心を弘めん。然(しこう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、亦(また)可(よ)からずや。観(み)れば、夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)は、蓋(けだ)し国のもなかの区(くしら)か。治(みやこつく)るべし」。

八紘の由来は、淮南子(えなんじ)巻七 精神訓の「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」とされている。淮南子(えなんじ)とは、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年―紀元前122年)が学者(劉安・蘇非・李尚・伍被ら)を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。「淮南鴻烈」(わいなんこうれつ)ともいう。10部21篇。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。

 「八紘」は「8つの方位」、「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する。「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味する。「八紘を掩(おほ)ひて宇とせん」とは、天下を一家の如く覆い、家族的な和気藹々(あいあい)の絆によって諸国を統合し世界平和を建設せんとする意味の指針である。日本は昔より、こういう造語が上手い民族である。恐らく「敷島の大和の国は言霊の助ける国ぞ真幸くありこそ」(万葉集・柿本人磨呂)とあるような言霊思想と関係している。

 これを仮に「八紘一宇詔勅発令譚」(略して「八紘一宇譚」)と命名する。「八紘一宇譚」は、出雲王朝の国譲りに続いて邪馬台国の国譲りにも成功した大和王朝が「八紘一宇」の建国国是とでも云うべき宣言として拝したい。

 それによれば、これまでのような戦争手法によってではなく、これからは諸国家和合により国土経営に勤しむと云う誓いのようなものだと悟らせていただく。これのどこまでが本音でどこからが建前なのかは分からぬが、日本建国時の申し合わせとして確認しておきたい。

 その後の日本史は、戦争政策と和合政策が縄をなうように混ざり合い、時に応じて好戦派と和合派が舵取りしつつ歴史を刻んできたと読みたい。その背後では常に天孫派と国津派、その内部でも各派が合従連衡しつつ暗闘してきたと読みたい。このようにして綾為してきたのが日本史だ拝したい。尤も、この特徴は黒船来航までの日本史までであり、黒船後は新たに西欧的ネオシズムと云う化け物が日本に吸着した。これとの調整は今後の課題であるように思われる。

 補足として次のことを確認しておく。日本書紀の「八紘爲宇」につき、明治から大正、昭和初期に活動した日蓮系国柱会の田中智学が「八紘一宇」に作り直して、これを日本民族の世界戦略の大目標とすべきであると提言した。この造語が風靡するようになり、戦前の1940(昭和15).7.26日、第2次近衛内閣が基本国策要綱を策定し、大東亜共栄圏建設を指針とした際に、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」と掲げるに至った。

 続く大東亜戦争で、「天皇にまつろわぬものを平らげる」精神として「八紘一宇」が称揚された。当時の皇国史観は、「尽忠報国、挙国一致、神州不滅、鬼畜米英、勇戦力闘、無敵皇軍、一億玉砕、忠君愛国、滅私奉公、堅忍持久、忠勇無双、八紘一宇、天穣無窮」等々の四字熟語を多造していた。日本人の民族性にどこか波長が合うのだろうと思われる。

 締めとして一言しておけば、「八紘一宇」の本来の意味は、戦争から和合への政策転換として意味を持つ言霊であると云うことである。戦前の皇国史観は、これを戦争政策イデオロギーとして喧伝したが背教であろう。戦後は、その背教性を暴くのではなく、皇国史観用語故に一律に一掃してしまった。国旗としての日の丸、国歌としての君が代も同じ運命を辿っている。反戦平和思想としては特段には問題ないのかもしれないが、それ自体の学としては戴けないものがあると思う。

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