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2011年8月23日 (火)

神武東征、神武の橿原宮即位譚その7

 天孫族と国津族の手打ちにより、戦争状態が集結した。天孫族は引き続き各地の豪族を平定して行った。次のように記されている。

 「翌年の春、天孫軍は、諸将に命じて兵卒を選抜させ訓練させた。添県(そほのあがた)の波の丘岬(おかざき)にニイキトベ(新城戸畔)という女賊がおり、和珥(わに)の坂下にはコセハフリ(居勢祝)、臍見(ほそみ)の長柄の丘岬にはイハフリ(猪祝)という者がいて、その三ヶ所の土賊は勢力が強く帰順しなかった。ワケミケヌの命は、精兵を遣わして皆殺しにした。また高尾張邑(たかおわりのむら)にツチグモ(土蜘蛛)がいて、身丈が短く手足が長く侏儒(しゅじゅ)と似ていた。ワケミケヌの命軍は葛の網を作って覆い捕えて殺した。そこでその邑を改めて葛城とした。磐余の地の元の名は片居または片立という。天孫軍が敵を破り兵が溢れたので、磐余と改称した。ある人がいうのには、『イワレヒコが昔、厳瓮の供物を食し、出陣して西片を討った。そのとき磯城のヤソタケルがそこに屯娶(いわ)みし、天孫軍と戦ったがついに滅ぼされた。それで屯娶み、つまり兵が多いという意で、磐余邑という』」。

 これを仮に「天孫族の国津族残党狩り譚」と命名する。この下りは、いわば最終戦を記していることになる。女賊が平定されたことを記している。これまで触れなかったが、国津軍には女軍が組織されており、中には女酋長の豪族も居たことが明らかにされている。如何にも卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国連合にありそうな記述ではなかろうか。

 第四皇子なるワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり、初代天皇として即位した。日本書紀は月日を全て干支で記しており、「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」と記述し、古事記には年月が記されていない。次のように通説されている。

 「こうして、ワケミケヌの命が大和を平定してカムヤマトイワレ彦命となり、畝傍山東南の橿原に宮殿造営を開始した。かくて、大和朝廷を創始した。カムヤマトイワレ彦命は後に神武天皇と称名したので、神武天皇が大和朝廷初代天皇となる。神話上は、この皇統が平成の現在まで続くという事になっている」。

 新唐書日本伝は次のように記している。「みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。彦の子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す」。

 「先代旧事本紀」、「天孫本紀」が次のように記している。

 「大歳(おおとし)辛酉(しんゆう)正月(むつき)庚申(こうしん)の朔(ついたち)に、天孫イワレ彦命、橿原宮に都を造る。初めて即皇位(あまつひつぎしろしめ)す。号(なづけ)て元年(はじめのとし)と曰(い)う。皇妃、姫タタライスズ姫を尊(とうとび)て立てて皇后と為す。即ち、大三輪の神女なり。宇摩志麻治の命、先ず天瑞宝(あまのみつのたから)を献(たてまつ)る。叉神楯(かんたて)を堅(たて)て以って斎(ものいみ)します。五十櫛(いそくし)と謂う。叉は今木を布都主剣(ふつのぬしのつるぎ)に刺しめぐらし、大神を都内(みあらかのうち)に奉斎(いわいまつ)る。即ち、天璽瑞宝(あまのしるしみづのたから)を蔵(おさめ)て以って天皇(すめらみこと)の為に鎮(しず)め祭る」。  

 これを仮に「神武天皇即位譚」と命名する。この下りは、天孫族がやむなく迂回して紀州熊野に上陸し、国津族の内部分裂を誘いながら大和に侵入し、ワケミケヌの命が即位してカムヤマトイワレ彦命となり大和王朝を創始した経緯を伝えている。神武天皇の即位日を「辛酉の年の春正月庚辰朔」とし、それが西暦の紀元前660年に当たることへの疑問については「皇紀2600年考」で述べたので繰り返さない。

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