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2011年8月22日 (月)

神武東征、神武の橿原宮即位譚その2

 日向国高千穂宮に住居していた高天原王朝天孫族の東征の時の様子が次のように記されている。

 「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」

 「美(う)まし國」とは、後の大和のことであり、万葉集第一巻第二首に次のように歌われている。

 「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち、国見をすれば、国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」。


 万葉集第二十巻四四八七番は、次のように詠んでいる。
 

 「いざ子ども たはわざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 大和島根は」。

 ここで歌われている大和がどこを指しているのかは議論の余地がある。但し、このように歌われる大和に向かって、高天原王朝天孫族の東征が為されたという神話的史実は間違いなかろう。

 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。

 「昔、タカミムスビ(高皇産霊尊)とアマテラス(天照大神)が、この豊葦原瑞穂国を祖先のニニギ(瓊瓊杵尊)にさずけた。ニニギは天の戸をおし開き、路をおし分けて進んだ。そのときの倭地は暗黒の世であったが、ニニギが正しい道を開き世を治めた。以来、父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨して一七九万二四七〇余年になる。しかし、遠い所の国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長が境を設け相争っている」。
 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 これによれば、高天原王朝天孫族は、出雲王朝系のニギハヤヒが先行して「東の美(う)まし國」とも云われる「葦原中国」に降臨し、日の本王朝を形成したのを知り、我らも向かわんとして東征に向かったことになる。

 行軍したのは、皇族のイツセ(五瀬)の命、イナヒ(稲飯)の命、ミケイリ(三毛入野)の命、ワケミケヌの命、子のタギシミミ(手研ミミ)の命、護衛のミチオミ(道臣)の命、大久米、途中で随行してきたシイネツ(椎根津)彦等々であった。

 この下りを仮に「天孫族の東征宣明譚」と命名する。天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征軍団の主領格の顔ぶれを伝えている。

 かくて、天孫族は日向の浜を発す。東征の旅程は古事記と日本書紀で異なっている。古事記 では、速吸の門を通過し筑紫の豊国の宇佐に着く。ウサツ彦とウサツ姫が服属して、足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫国の岡田宮に1年、安芸国の多祁理宮(たけりの宮)に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。日本書紀では、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。つまり、筑紫国の岡田宮と岡水門の違いが認められる。後のコースはほとんど同じであるが各地での滞在期間が異なっている。 

 速水の門(はやすいのと)に至った時、国津神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。浪速の渡りを経て、河内国の難波津に到着した。この下りを仮に「神武東征軍の行路譚」と命名する。

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