« 皇紀2600年考その1 | トップページ | ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2 »

2011年8月20日 (土)

ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その1

「皇紀2600年考」で、初代天皇たる神武天皇即位が邪馬台国の時代よりも900年前の出来事とするのは意図的故意の詐欺記述であることを指摘した。日本書紀は何故にそういう詐欺記述をしたのか、これを詮索する必要がある。狙いは、神武天皇即位を邪馬台国時代よりもはるか昔の話にすることにより、出雲王朝の国譲り、それより始まる大国主の命と邪馬台国との深い関係を隠す為であった。その隠蔽工作フィクションであった。れんだいこはかく解する。

 ならば、初代天皇即位はいつごろの話なのか、これを推理したい。出雲王朝の国譲り、神武天皇の東征譚、邪馬台国史は案外歴史的に近い出来事だったのではないかと見立てている。場合によっては、出雲王朝の国譲り後に邪馬台国に於ける女王卑弥呼の共立があり、国譲りの主役である大国主の命(又はその次代の後継者)がこれに関わっているのではないかと推理している。

 即ち、国譲り後の大国主の命の履歴と邪馬台国に於ける女王卑弥呼の共立は同時代的な史実だったのではないかと思っている。邪馬台国女王卑弥呼の御代は60年余続き、晩年に天孫族の総攻撃を受け、卑弥呼はその激動のさ中に死去する。邪馬台国連合は後継ぎに13歳の台与を立て懸命に巻き返しを図ったが善戦空しく滅亡させられた。代わりに登場したのが大和王朝である。こう構図したい。

 邪馬台国史は、出雲王朝の国譲りから大和王朝の建国までの間の架け橋の如くに介在している貴重な国史なのではなかろうか。記紀神話は、この史実を不自然過ぎる形で隠蔽しているのではなかろうか。これを論証したいが、人をして得心させる論証を為すには古代史文献に通暁する必要があり、れんだいこの能力と労力では今更無理である。故に大まかな見通しだけ綴っておきたい。ここでは断片的なことをのみ記し確認しておく。邪馬台国論については「
邪馬台国の研究」、出雲王朝論については「出雲王朝神話考」に記している。ここでは、国譲り前後の大国主の命の大和との関係を確認しておく。

 大国主の命の履歴は「
出雲王朝神話考」の「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」と「大国主の命考」に記している。それによると、大国主の命の出雲王朝経営に有力な助っ人としてスクナヒコナの命が登場していたが、「或る日、スクナヒコナの神は、淡路島でアワの茎に乗って遊んでいたところ、茎のしなりにはじかれ常世国に飛んでいってしまった」。大国主の命が嘆いていたところ、概要「大和の三輪山のオオミワの神である大トシの神が登場し、大国主の命は以降、大トシの神と共に国土経営して行った」(古事記)とある。これが、れんだいこの知る限り、大国主の命と大和の関わりの初見である。

 日本書紀には、国譲り直前の次のような逸話を記している。「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。この記述の意義は、国譲り直前時点において大国主の命と三輪山が繫がっていることを伝えていることにある。出雲王朝と大和―三輪山の深い歴史的繋がりを見てとることができる。

 古事記は、大国主の命が大和の国に向ったことを記している。国譲り前の履歴なのか後の履歴なのかは分からないが国譲り後のことではないかと思われる。とすれば、国譲り譚で、「大国主の命は国譲り後、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びた」としているのは半面の史実であり、実際には出雲王朝の政権を明け渡した後、大和へ向かったと解するべきではなかろうか。これは事代主の命も然りであり、国譲り後、「拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」とされているが、実際には大和へ向かっている形跡が認められる。

 この時、大国主の命と正妻のスセリ姫が永遠の別れになることを覚悟してと思われる情熱的な惜別恋慕の歌を交わしている。これを仮に「大国主の命とスセリ姫のぬば玉歌」(略称「ぬば玉歌」)と命名する。 「ヌナカワ姫の元から戻ってきた大国主の命に対して、正妻のスセリ姫の嫉妬が激しかった」なる言を添えている解説があるが余計であろう。歌意の解説は「
出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」に記し、ここでは省く。「ぬば玉歌」逸話の重要性は、大国主が大和の国に向ったことを示唆していることに歴史的意味がある。

 ところで、「ぬば玉歌」で、大国主の命が大和入りしたことが判明するが、大和入り後の大国主の命の足跡を記すものが奇妙なほど何もない。関連として大和三輪の大神神社を始めとする数社で祭神として祀られていることが判明するぐらいのものである。これを不自然と思うのは、れんだいこだけだろうか。ちなみに、この頃の大和は葦原中国と呼ばれていたようである。思うに豊葦原の瑞穂の国が倭国全体、出雲―大和が葦原中国と呼ばれていたようである。

 2011.8.20日 れんだいこ拝
 

|

« 皇紀2600年考その1 | トップページ | ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1453913/41291299

この記事へのトラックバック一覧です: ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その1:

« 皇紀2600年考その1 | トップページ | ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2 »