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2011年8月23日 (火)

神武東征、神武の橿原宮即位譚その5

 天孫族はヤソタケル攻略に乗り出し、遂に本格的な軍事戦に向かう。苦戦する天孫族に次々と神託が下されている。次のように記されている。

 「九月、ワケミケヌの命は宇陀の高倉山に登り敵情を望見した。国見丘にはヤソタケル(八十梟帥)がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。またエシキ(兄磯城)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地で、道は塞がれ、通るべきところがなかった。ワケミケヌの命は打つ手に窮し、神に祈って寝た。夢に天神が現れて神託を下した。『天の香具山の社の中の土を取って平瓦八十枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を造り天神地祇(てんじんちぎ)を祀れ。身を清めて呪詛せよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう』 。ワケミケヌの命が、夢の教えにかしこまっているとき、オトウカシが奏上した。『倭の国の磯城邑に磯城のヤソタケル(八十梟帥)がいます。葛城邑にも赤銅のヤソタケル(八十梟帥)がいます。この者らも皆、皇軍に逆らい戦おうとしています。そこで、天の香具山の赤土で平瓦を造り、天神地祇をお祀り下さい。そうすれば敵を討ち払いやすくなるでしょう』。 

 ワケミケヌの命は、夢の教えとオトウカシの言葉が一致したことを喜び、早速密使を走らせ、神託の通りに行動した。シイネツヒコに古い服と蓑笠をつけさせ老人の姿にし、オトウカシに箕を着させて老婆の姿にして言った。『お前ら二人、香具山に行って、頂きの土をこっそり取ってこい。事の成否はお前らにかかっている。しっかりやってこい』。しかし、道は敵兵が塞いでいた。シイネツヒコは、『わが君が、この国を定められるものならば行く道が自ら開け、もしそうでないなら敵が道を塞ぐだろう』と神意に占い、出発した。道を塞ぐ敵兵は二人の様子を見て、『汚らしい老人どもだ」とあざけり笑い、道を開けて行かせた。二人は無事、香具山について土を取って帰った。


 ワケミケヌの命は大いに喜び、この土で多くの平瓦や手快(たくじり=丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮(いつへ=御神酒瓷=おみきかめ)などを造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀った。そして神意を占った。『私は今、沢山の平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで天下を居ながらにして平げるだろう』。飴はたやすくできた。また神意を占った。『御神酒瓷を丹生の川に沈めよう。魚が酔って浮き流れるようであれば、私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければことを成し遂げられぬだろう』 。瓷を川に沈めると、その口が下に向き、しばらくすると魚は皆浮き上がって口をバクバク開いた。シイネツヒコはそれを報告した。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、丹生の川上の沢山の榊を根こそぎにして、諸々の神を祀った。この時から祭儀の御神酒瓷の置物が置かれるようになった。ワケミケヌの命がミチオミに命じた。『タカミムスビを私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛(いつひめ)と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする』。

 冬になると、ワケミケヌの命は厳瓮の供物を食し、兵を整えて出陣した。まず国見丘のヤソタケルを撃ち斬った。そして歌った。『伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう』 。残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。そこでミチオミに命じた。『お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑に造り、盛んに酒宴を催して、敵をだまし、討ち取れ』。ミチオミは、忍坂邑の大室に強者を選んで侍らせた。『酒宴たけなわになった頃、私は立って舞うから、お前らは、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ』。 敵を誘いこみ、座について酒を飲んだ。

 陰謀のあることを知らない敵は、心のままに飲み、酔った。ミチオミは頃を見計らって、立って歌った。『忍坂の大きい室屋に、人が多勢入っているが、入っていても御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつつ)、石椎(いしつつ)で敵を討ち敗かそう』。この歌を聞いて一斉に頭椎の剣を抜き、敵を皆殺しにした。こうして葛城邑のヤソタケル(八十梟帥)を攻め滅ぼした。

 ワケミケヌの命軍は大いに悦び歌った。『今はもう今はもう敵をすっかりやっつけた。今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ』。来目部が歌って大いに笑うのは、これがそのいわれである。また歌っていう。『夷(えみし)を、一人で百人に当る強い兵だと人はいうけれども、抵抗もせず負けてしまった』。その時、ワケミケヌの命が言った。『戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵は滅んだが、その仲間は多い。その実状は分からないから、同じ所にいては危険だ』。ワケミケヌの命軍は、その地を捨てて別の所に移った」。

 これを仮に「ヤソタケル(八十梟帥)攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の計略、謀略が優り、国津軍のヤソタケル(八十梟帥)殲滅経緯を物語っている。これに相当文量費やされていることは、よほどの難事であったことと、ヤソタケル(八十梟帥)征伐戦がよほど重要な地位を占めていたと云うことであろう。ヤソタケルは、漢字の八十梟帥が意をそのまま表しており、武勇ある者の集団に対して名づけたものと推定され、国津族の正規軍だったと思われる。梟帥は、「コソ」、すなわち「許曽」、「居西」などに通じる烏丸系集団の頭目の称号とする説もある。

 300年前後の大和にもっとも大きな集落があったのは桜井市の初瀬川の流域即ち磯城(師木)のヤソタケルの一族が支配していた地であったとされる。葛城邑(今の御所市付近)のヤソタケルは、忍坂邑(今の桜井市付近)の俄作り大室でだまし討ちにされた。ニギハヤヒが降臨したのは哮峯は葛城山中であり、綏靖朝や孝昭朝の都は葛城であったことからも分かるように、葛城の地は二ギハヤヒ系の重要な拠点であったと思われる。その拠点のヤソタケルが滅ぼされたことになる。大和王朝史は葛城の地を押さえることに腐心しているが、元々国津族の拠点であったと云うことが関係していると思われる。

 天孫族の国津族狩りは続いた。次のように記されている。

 「天孫軍は、国津神族の内部分裂を誘いながら進撃し、平伏しなかった土クモ族を攻め滅ぼした。神武天皇即位前紀己未年二月、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が帰順せず討たれた。これが土蜘蛛の初見となる」。

 これを仮に「土クモ族攻略譚」と命名する。この下りは、天孫族が引き続き各地の土クモ族討伐に向かったことを明らかにしている。この時征伐されたツチグモ族とは何者か。漢字では「土蜘蛛」、「都知久母」と表記される。日本書紀は「高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」と記し、まさに「蜘蛛」的に描いている。記紀の記述は卑しく描いているが、逆に勇猛果敢な土着勢力の姿を髣髴とさせている。

 察するに、「蜘蛛」とは蔑称であり、クモを出雲の雲と読み、出雲系の流れを汲む各地の豪族と読むべきではなかろうか。ツチグモ族の最強軍団は大和葛城山を根城にしていたと思われ、葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚がある。これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。

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