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2011年8月28日 (日)

「文系頭脳の原発批判論」その3、理系頭脳の粗雑を嗤う

 文系的アプローチが次に申しておくべき肝要事は、原発推進派の頭脳のお粗末さに関してである。れんだいこは文系人間である。未だにテレビがどういう仕組みで映るのか、なぜ鉄の船が浮かぶのか、飛行機が空を飛ぶのか、車が走るのか、海をまたぐ橋がどういう構造計算でできるのか、パソコンの仕組みも知らない。そういう意味で理系人間を尊敬してきた。

 福島原発事故は、その理系の粋であると思われる原子物理学者を大勢テレビに登場させたが、初めて理系頭脳の粗雑ぶり、社会的責任感のエエ加減さを知らせることになった。これは発見であった。

 ひょっとして原発従事者、推進者は必ずしも理系人間ではないのかも知れない。そう思えば相変わらずれんだいこの理系頭脳崇拝は続く。が、否原発こそ理系頭脳を象徴的に表象していると思うこともできる。この場合は理系頭脳を嗤うことができる。以下、これについて思うところを記したい。

 原発の危険性を、原子論や原発構造論の観点から専門的に述べるのは小出裕章(京都大学原子炉実験所・助教)、今中哲二(京都大学原子炉実験所・助教)氏らの良心的な理系学者に任せる。反原発活動家の広瀬隆(早大理工学部応用化学科卒)、第一次ブント活動家の藏田計成(早大)氏らも早くから警鐘運動している(藏田氏は文系かもしれない)。れんだいこは、文系頭脳で原発の非を警鐘乱打させてみたい。原発危険論は理系知識の観点からのみ語られる必要はない。文系からも次のように批判することができる。

 原発がなぜイケナイものかと云うと悪魔科学であるからである。これが結論になる。こういう判断は理系頭脳の発想からは出てくまい。理系と文系にはこういう違いがある。原発がなぜ悪魔科学なのか。それは悪魔の習性を見事に備えているからである。その悪魔が纏いついているとしか思えない科学であるが故に悪魔科学と見定め、手を染めてはいけないと弁えるのが知恵と云うものだろう。原発理論の創始者とも云えるアインシュタイン自身がこのことを鋭く指摘している。

 悪魔はどういう風に取りついているのか。それは、文明に便宜を与えるものとして囁きながら、便宜以上の不幸を背中合わせにして住みつき吸血していることにある。この吸血は何も原発にばかり取りついているのではない。軍事にも政治経済文化精神のあらゆる分野に見られるのが近現代史の特徴である。

 原発で云えば要するに、電力生成中に地球環境に馴染まない冷却水を使用し続けねばならず、これを廃棄しようにも最早廃棄できない種類の放射能汚染にまみれており、これを承知で稼働している。その冷却水をこっそり排出しているということであろう。尋常感覚では、こういうものを商品化したり使用してはいけない。

 次に、これが最も驚くべきことだが、使用済み核燃料の最終廃棄物の科学的分解処理ができず、何と地中奥深くに格納する以外に方法がないと云う極めて原始的無責任な後始末方法のままに稼働されていることにある。青森県の六ヶ所村が処分地になっているが、この地は今後とも永久に厄介な荷物を抱え続けて行く宿命を担わされており、もはや如何ともし難い。しかも、既に満杯と云うことのようである。そういうこともありモンゴル平原の地中に埋める計画が進行中とのことである。

 原発がそういう不完全性のものであれば人類が手を染めてはいけない。少なくとも研究段階に止める代物である。これが文系頭脳の弁えである。ところが、原発推進系の科学者は、これを意に介さずお構いなしに今日まで原発開発を続けており、行政がこれを後押ししている。最近では輸出に精出している。将来、トンデモの国家間賠償が予見されよう。これを平気で押し進める理系頭脳のお粗末さを嗤うだけでは済まされない。子々孫々にまで害を及ぼしタタる科学を当面の利益の為に平然と導入して恥じない没倫理観、価値観を糾弾せねばならない。

 思えば、理系頭脳には、手前が関わる研究が社会にどういう影響、効果、利福あるいはその逆のものなのか、これを問う能力が欠損しているのかも知れない。しかしまてよ、同じ理系でも医学の場合には生体実験、臓器移植等において生命倫理基準が課せられている筈である。最近とみに杜撰になりつつあるが、かって脳死判定を廻って各界の識者が叡智を寄せたのは衆知の通りである。

 それを思えば、原発系理系頭脳と云う風に限定的に捉えるべきかも知れない。原発系理系頭脳には社会倫理が異常に欠損している。脳内にこれを顧慮するコードがないのかも知れない。これを非として強く糾弾しておきたい。

 こたび初めて原発推進組の生身の姿を映像で確認することができた。テレビに次から次に登場したが、推進派の誰一人からも知性を感じ取れる者はいなかった。終始云い訳と大丈夫論を奏でていた。逆に原発批判派にこそ叡智と良心を感じた。

 同じ科学者でも原発推進派と批判派を比べれば、推進派の手合いは、研究費と生活費と出世と小権力さえ与えられれば、後のことは知らんと云って容易に済ませられる精神の破廉恥漢ではなかろうか。理系頭脳の中でも極めつきの倫理観の欠如した連中なのではなかろうか。

 ヒゲヅラで登場する者がかなりいたが、ヒゲを取ればかなり間抜けな顔をしていたのではなかろうか。肩書は立派だが、肩書をはずしてじっくり観察すれば驚くべく知能が低い連中なのではなかろうか。こういう連中が我が物顔で世渡りしながら、人類の前途を台なしにさせるような危険な仕事を平気の平左でしていることを弾劾せねばならない。

 電力なければどうするんだとの反論が聞けそうだが返答しておく。そのロジックは、原発推進派がエコエネ開発の芽を摘み、規制し続けてきた悪事を踏まえて云わねばならない。少なくとも原発に投ずる費用と等分のものをエコエネ開発にも投じていたら、既に日本はこれほどまでに原発に偏る電力供給体制にならなかったのではないのか。否既に不要になっているかも知れない。

 そういう悪事を働いておりながら、電力不足論を云うのは悪代菅の言であろう。つまり、電力をどうするんだと詰問されれば、止むをえん当座は認めよう、但し急速度でエコエネ開発に転換せねばならない、お前はこのことを認めるのか認めないのかと逆に詰(なじ)ってみたい。

 2011.8.28日 れんだいこ拝

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コメント

党首! 小生の眼にはむしろ、「原発事業においては、理系が権限与えられているのか?」と思いました。

投稿: TAMO2 | 2011年8月28日 (日) 21時02分

TAMO2さんちわぁ。「検証学生運動下巻」の評も頼みますよ。思ったことを述べてくだされば良いです。「原発事業においては、理系が権限与えられているのか?」についてですが、文系が指図しても研究開発は理系です。当然責任があると思います。医師は結果責任と隣り合わせで仕事しておりますし、それに比すれば大いなる堕落と思います。それと危険性、最終処理のお粗末さについては分かっているはずです。それを分からないふりしていることが許せないです。

投稿: れんだいこ | 2011年8月28日 (日) 22時05分

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