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2011年8月22日 (月)

神武東征、神武の橿原宮即位譚その1

 れんだいこの2011古代史の旅は、出雲王朝の国譲り、邪馬台国史の書き換えへと歩を進めた。これで落着としたかったのだが、先の「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考」に対し、れんだいこツイッターに「miyuki」さんから次のような最上級のお誉めの言葉をいただいた。「こんばんわぁ! れんだいこさんの『古代史の旅』。画面で無くて紙の印刷物でゆっくり読みたかったのでプリントアウトさせて頂きました。明日、お茶しながら、ゆっくりまったり読ませて頂きまァーす」。これに意を強くし、邪馬台国滅亡史の裏面の流れであったと思われる高天原王朝の「神武東征、神武の橿原宮即位譚」を再確認する。

 れんだいこ史観によれば、アマテラスの曾孫(4代目)の代になって高天原王朝は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東国の美(う)まし国「葦原中国」平定遠征に向かう。この時の「葦原中国」が邪馬台国ではないかと窺っている。

 古事記と日本書紀にほ、神武東征軍が日向を立って橿原に都を定めるまでのいろんなエピソードをほぼ同じ内容で記している。つまり、ここの部分の記述に相当神経が払われ規制されていたことを窺わせる。この伝説か史実か未だ不詳との論もあるが、れんだいこはある程度史実に基づいているのではなかろうか、骨格的にはほぼ間違いない史実ではなかろうかと推理している。

 神武軍一行は日向を発し、大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し、吉備、難波、熊野と経由して大和に入る。難敵の諸豪族を討ち取った末に大和を平定して、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり、大和朝廷を建国する。この天皇家が理論上万世一系として平成の現在まで続いているということになっている。

 皇国史観は、この経緯を是として、平定される側に対する平定する側の正義を説く。しかし、れんだいこは、この時、神武軍にヤラレタのが在地土着系の元々の日本の諸豪族であり、その連合国家としての出雲王朝系邪馬台国連合が理想的な神人和楽政治を敷いていたのであり、これを征伐する戦争は決して聖戦ではなかったと見立てる。

 ここでは、両者の正義を平衡的に取り上げ、両派の聖戦と手打ちぶりを確認してみたい。これが国譲り譚に続く日本政治の原型即ち日本の「元々の国の形」となっており大事にしたいと思うからである。国体論を云うのなら、ここに戻らねばならない。北一輝は早熟の天才であったが、国体論に於いて皇国史観に被れており、ここの元一日に戻っての国体論を創り直すべきであった。北に後少しの余命があれば、その可能性があったのではないかと惜しんでいる。「
プレ大和王朝」その他を参照する。

 2006.12.4日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝

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