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2011年8月23日 (火)

神武東征、神武の橿原宮即位譚その4

 天孫族が再度大和侵攻を画策している時、ヤタガラス(古事記で「八咫鳥」、日本書紀で「頭八咫鳥」)が現われ、その協力を得て天孫軍は熊野から大和の宇陀に至った。その時の様子が次のように記されている。

 「この頃、ワケミケヌの命は夢を見た。アマテラスがワケミケヌの命に伝えた。『ヤタガラスを遣わすから、これに案内させなさい』。はたして、ヤタガラスが大空から舞い降りてきた。ワケミケヌの命は、『まさに夢の通りだ。アマテラスが私たちを助けてくれている』。ヒノオミ(日臣命=大伴氏の先祖)は、オオクメ(大来目)を率いて、カラスの導くままに山を越え、路を踏み分けて、ついに宇陀(うだ)の下県(しもつこおり)に着いた。そこを宇陀の穿邑(うかちのむら)と名づけ、ヒノオミをほめた。 『お前は忠勇の士だ。よく導いてくれた。お前の名を改めてミチオミ(道臣)としよう』」。

 これを仮に「ヤタガラス帰順譚」と命名する。「ヤタガラス」をどう理解すべきだろうか。独眼流れんだいこ観点は、「ヤ」は八という数字で表徴される「かなり多くの」、「タ」は分からないが、「鳥」という言葉に表象される情報に長けた部族と解する。つまり、「ヤタガラス」に寓意されるような相当数の現地部族が靡き、道案内を買って出たということであろう。即ち、「天孫降臨譚」の「サルタ彦の水先案内」と相似している。このグループも後々神武王朝の枢要の地位を得ることになる。天孫族にとって、「ヤタガラス」の出現は有り難かったようで、「熊野の神使」即ち天皇を始め貴人を先導する霊鳥「ミサキガラス」として称えていくことになる。

 ヤタガラスを豪族名と考えると、この一族とは何者か。旧事紀は、大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子にしてニギハヤヒの使いをしたタケツノミ(建角身命)としているとのことである。逸話の内容から判ずるに託宣系の者であろうが「大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子」とするのは如何なものだろうか。

 延喜式神名帳に「八咫烏は賀茂県主建角身命なり」とあり、新撰姓氏録には「鴨県主と賀茂県主は同祖で、神武が大和に入ろうとして熊野山中で路に迷ったとき鴨建津見命が烏と化して先導した功によって八咫烏の称号を賜わった」とある。これよりすれば、ヤタガラスは出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族ということになる。即ち、出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族が寝返って、天孫系に誼を通じたことになる。この功績で、賀茂氏一族は大和王朝の重臣の一員となり命脈を保つことになる。奈良県宇陀郡榛原町高塚字八咫烏には八咫烏神社が鎮座し、祭神は建角身神である。

 天孫族は、ヤタガラスを使ってシキヒコ(磯城彦)兄弟攻略に乗り出し成功する。その時の様子が次のように記されている。

 「十一月、天孫軍は、師木(磯城)邑の兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の攻略に向かった。使者を送って兄のエシキを呼んだが返答がなかった。そこでヤタガラスを遣わした。ヤタガラスは、エシキに誘いをかけた。『天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ』 。エシキは、『天神が来たと聞いて憤(いきどお)っている。何の用があって呼びだすのか」 と怒声を浴びせ、弓を構えて射た。ヤタガラスは弟のオトシキの家へ行った。『天神の子がお前を呼んでいる。さあさあ』。オトシキは、『天神が来られたと聞いて朝夕畏れかしこまっていました。ヤタガラスよ、お前が呼びに来てくれて嬉しいよ』。オトシキはヤタガラスの来訪を歓迎し、平な皿八枚に食物を盛ってもてなした。

 オトシキはヤタガラスに導かれてワケミケヌの命の軍営に参上した。『わが兄は、天神の御子がおいでになったと聞いて、ヤソタケルを集めて武器を整え決戦する構えです。速やかに準備されるのがよいでしょう』。ワケミケヌの命は云う。『エシキはやはり戦うつもりらしい。呼んでも来ない。どうすればいいか』。このワケミケヌの命の問いに諸将は答えた。『エシキは悪賢い敵です。まずオトシキをやり、そのときエクラジ(兄倉下)とオトクラジ(弟倉下)も一緒にやって説得すれば、いかがでしょう。どうしても従わないなら、それから兵を送っても遅くはないでしょう』。

 オトシキは兄を説得したが効果はなかった。シイネツ彦は一計を案じた。『まず女軍を遣わして忍坂の道から行くのがいいでしょう。敵は必ず精兵を出してくるでしょうから、こちらは強兵を墨坂に向かわせ、宇陀川の水で敵軍の炭の火にそそぎこめば敵は驚くはずです。その不意をつけば、敵を討ち取ることができるでしょう』。

 ワケミケヌの命は、シイネツヒコの計略を採用して二手に分かれる作戦をたてた。まず女軍を送った。すると、敵は大兵が来たと思い、総力で反撃してきた為、少なからずの被害を受け、甲冑の兵士も疲労した。ワケミケヌの命は、将兵を鼓舞するために歌を詠んだ。『伊那嵯(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我は腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ』。強兵の男軍が墨坂を越え、手筈通りに後方から挟み討ちにして敵を破り、エシキを斬った。天孫軍は、待望の磐余や磯城の地に進出することができた」。 

 これを仮に「シキヒコ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の来襲により国津軍内に亀裂が入り始めたことを物語っていよう。天孫軍の計略が記されている。留意すべきは、兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の素姓であろう。兄(エ)シキ、弟(オト)シキと云うのは古日本語であり、アイヌ的蝦夷(えみし)語ではないかと思われることである。つまり、神武東征とは、在地土着のアイヌ的蝦夷(えみし)軍の攻略であったと云うことになる。続くウカシ兄弟、ヤソタケル(八十梟帥)も然りであろう。 

 天孫族がヤタガラスに導かれて宇陀(うだ)の下県に着いた時、国津神系の幾つかの豪族が帰順した。中でも、ウカシ兄弟の兄(エ)ウカシを殲滅し、弟(オト)ウカシを帰順させたのは大いなる手柄となった。その時の様子が次のように記されている。

 「この時、ヤタガラスが現れ道案内することになった。天孫族は、一行荒ぶる神々のひしめく中を行軍し、吉野川の下流に着いた。国つ神のニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコが恭順した。宇陀に着いた時、ウカシ兄弟と対峙することになった。ヤタガラスが説得に向ったが、兄(エ)ウカシは鳴鏑(なりかぶら)で応え敵対の意志を明確にさせた。ところが、軍勢が予期したより集まらなかったウカシ兄弟は一計を廻らし、偽りの降伏で誘って落し入れようとした。ところが、弟が内通し仕掛けられた罠を教えた。『兄は、天孫がおいでになると聞いて、兵を率いて襲わんとしています。仮宮を造り、もてなすはずですが、仮宮の中には仕掛けがしてあり、また兵を隠してこっそり襲おうとしています。この計りごとを知ってよく備えて下さい』。

 事前に偽計を知った大伴の連の祖になるミチノ臣と久米の直の祖になるオホクメが、兄(エ)ウカシを呼び出し、『おのれが作り、お仕え申すという大殿の内に、おのれがまず入れ』と、太刀の柄(つか)を握り締め、矛を突きつけ矢をつがえて殿の内に追い入れた。兄(エ)ウカシは、おのれが作った落とし仕掛けに掛かって潰されて死んだ。引き出して斬ると、血が溢れたので、そこを宇陀の血原と名づけた。弟ウカシは、天津神の御子へ恭順を誓い、沢山の肉と酒を用意して天孫軍をねぎらいもてなした」。 

 これを仮に「ウカシ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍、国津軍双方が計略、謀略の限りを尽していたことを物語っていよう。ウカシ兄弟の素姓は分からないが前述したように蝦夷(えみし)系と思われる。

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