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2011年8月 3日 (水)

渡部昇一著「『角栄裁判』に異議あり」考

 渡部氏は、1984.10月号の文芸春秋に「『角栄裁判』に異議あり」を寄稿している。かなり長文で、1983.10.12日のロッキード第一審判決以来のわだかまりを本格的に解析している。「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」以来、渡部氏の法律的知識が格段に進んだのであろう、「証拠能力(許容性)」と「証拠の証明力(信用性)」の違いに触れた後、ロッキード事件における免責証言の証拠採用につき次のように批判している。

 「私が問題としているのは常に『証拠能力』の方なのである。日本の法廷に来る気もないコーチャン氏、クラッタ―氏ら贈賄の共犯者に、わが国法に定めのない刑事免責を与え、あまつさえその証言を反対尋問にさらす機会のないまま証拠に採用した、そんな証言に『証拠能力』を認めるのはおかしい―と私は云っているのである。そして『証拠能力』の方が『証明力』の問題より先行しなければならない」。
 「田中角栄被告が、コーチャン氏らの証言に対して、一度も反対尋問する機会が与えられなかったことを知るのに法律の専門家である必要もなければ、裁判の当事者である必要もない。そして反対尋問を経ない証言を証拠として有罪にされたのでは人権もへちまもなくなり、これが判例として確定したら、恐ろしいことになる、ということを理解するにも法律の専門家である必要はない。そしてこれが田中被告個人の問題ではなく、将来の全ての国民にかかわってくる問題であることを理解するにも何の専門的知識も要しない」。

 ロッキード事件に於ける「利害関係外国人による外国地での免責特権付き且つ反対尋問なし証言」は、日本国憲法37条2項の「刑事被告は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ、又、公費で自己の為に強制的手続きにより証人を求める権利を有する」規定を真っ向から蹂躪している。故に、以下、分かり易くする為に仮に「失格違法証言」と命名する。

 「失格違法証言」は、本来であれば証拠採用し得ないのにロッキード事件では意図的故意に採用された。これをどう評するのかが問われた。渡部氏は、東京裁判でさえ反対尋問が認められていたことを例に挙げ、「失格違法証言」採用をオカシイと云い、立花は問題ないとした。立花は、田中側が反対尋問を要求しなかったのであり、その理由として藪蛇になるのを恐れ尻込みしたなるデマを振りまいていた。渡部氏が、それがウソであることを指摘したのは前稿で述べた通りである。

 渡部氏は、検察論告の5億円授受ストーリーにも疑問を投げかけている。5億円の札束を段ボールに詰めた人も見た人も一人として証言者がいないことに対して、「罪体がない」ことになるのではないかと述べている。「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」は共に口裏合わせたかのように「7年にもわたり審理を充分に尽くしており」と述べているが、肝腎の「罪体の決め手」を欠いたまま経過した裁判でしかなかったとして「罪体なしの攻防だから、まずは壮大な時間の空費みたいな印象を受ける」と述べている。

 最高裁が、日本国法に定めのない刑事免責宣明書を米国地裁に退出したことのオカシサにも言及している。刑法学者の井上正治氏の「日本の裁判史上に於いて、最も恥ずべき裁判例の一つになる」との指摘を支持し次のように述べている。

 「最高裁と云う『最終のレフェリー』が当初から検察に加担し、裁判所と検察が一体になったような行為をするに至ったのである」。

 続いて、検察式の首相権限論に疑問を投げたり、陪審員制に言及した後、1984.4.13日号の朝日ジャーナルの匿名論文「“知的ピエロ”渡部昇一の歪んだ角栄擁護論」に反論している(その内容を確認したいがネット上に出てこないので分からない)。渡部氏は、「拙論の内容的批判には立ち入らず、愚にもつかぬ個人攻撃ばかりである」ことを批判している。渡部氏は既に1972年の教科書問題で、朝日新聞と論争していた。14カ条の公開質問状を提起したが、朝日新聞から責任ある反論はなかった云々。加えて、こたびの朝日ジャーナルの「匿名による人身攻撃」に対して何故に署名論文で応じられないのかと批判している。

 渡部氏がこのように縷々ロッキード事件の不正を批判していたが、法曹界―マスコミ界主流からは「素人発言」として無視されていた。ところが、自由法曹団の重鎮にしてメーデー事件、松川事件、砂川事件等で勝訴し、吉田石松岩窟王事件で再審への道を開く等「日本一の刑事弁護士」の名声を得ていた石島泰・氏が「諸君!」1984.5月号に登場し、「角栄裁判は“司法の自殺だ”」と断じ、渡部見解を援護射撃する局面になった。

 付言しておけば、石島泰・氏は戦後共産党の徳球―伊藤律系党中央時代のキレ者であり、共産党内政変による宮顕―不破党中央時代になるや煙たがられ不遇であった。共産党内政変がこういうところにも現われてくる見本である。

 石島泰・氏は、1973.2月、検察の論告求刑直後の弁護士研修講座で「刑事弁護の思想と技術」と題する講演の中で次のように弁じている。

 要旨概要「コ―チャン調書一つを取ってみても、あんな調書で有罪が言い渡せるとしたら、これはもう日本の刑事裁判の自殺行為である。裁判官は、『無罪の推定』より始め、被告側の言い分をチェックするのではなく、検察側の言い分をチェックせねばならない。これが『疑わしきは罰せず』の法理の意味である。

 被告人の人権として、『法律の定めのない刑罰を受けることがない』、『手続きなくして刑罰を受けることがない』が二大原則である。加えて『適法手続き』も加えればならない。ロッキード事件の場合、『反対尋問のない共犯者の自白』に頼り過ぎている。世の中で利益(免責)で釣られた共犯者の自白ほどあてにならないものはない。加えて、反対尋問にさらされない自白を証拠に採用しているが、憲法違反であり、法の適正手続きを欠いている。そもそも嘱託尋問制は日本の国法には明文規定がない。にも拘わらずかような裁判を指揮することはイカサマなものでしかない。我が国の法律は『伝聞証拠禁止の原則』を定めている。これにも抵触している」。

 プロ中のプロである石島泰・氏がかく述べたことで、それまでの「素人のくせに何を云うか」なる批判が成り立たなくなった。続いて、「諸君!」1984.6月号に元九州大学法学部教授、法学部長の井上正治氏論文「『角栄裁判』は主権の放棄だ!」が掲載された。井上氏は更に歯切れよく意訳概要「ロッキード裁判は主権の放棄、司法(裁判所)と行政(検察官)の談合による植民地特有の迎合裁判」であると断じていた。

 この流れに対し、立花が「“角栄裁判”批判を批判する!立花隆の大反論」で登場した。立花反論は、「田中角栄の収賄は絶対的事実」と予断認定した上で、この犯罪を暴く為には「基本的人権と公共の福祉は等距離にあるべきである」として検察正義を賛美するスタンスから、石島泰・氏の諸論に悪罵を投げかけていた。その理論は、「東京地検特捜部の廊下を自由に歩ける唯一のフリーのジャーナリスト」と呼ばれる「誉れ」を地で行く検察擁護論のオンパレードで構成していた。渡部論文は、この立花見解の杜撰さを個々に分析しているが、ここでは採り上げない。

 これに対して、匿名法律家3名による「諸君!」1984.8月号に「立花流“検察の論理”を排す」が掲載された。「匿名法律家3名」が誰であるかは分からないが、こう云う場合には堂々と実名で登場すれば良いのにと惜しみたい。続いて「諸君!」1984.9月号に小室直樹氏の寄稿が掲載された(論文名は分からない)。小室氏は、立花式論理論法を次のように断じている。

 「立花隆氏の意見にいたっては、近代法の初歩すら弁えない、リーガル・マインドを全く欠いた斉東野人の言であって、法律論としては一顧の価値もない」。

 こうしてみれば、かの時ロッキード事件騒動に於ける角栄批判の大合唱のさ中で「諸君!」が唯一棹さしていたことが分かる。当時の編集長が誰か分からないが功績だろう。尤もその後左遷でもされたのではないかと気にかかる。

 この時の渡部派の立論、立花派の立論を比較対照して論じてみればより分かるだろうが、これが為されているように思えない。れんだいこも時間がないのでできない。推定するのに、渡部派の法が筋が通っており、立花派の方は悪しき弁論技術を磨いただけの修辞言論にまみれているのではなかろうか。

 この頃より、検察正義を後押ししするジャーナルが堂々と登場したことになる点が見逃せない。以降、この連中が闊歩し始める。その後の言論界では渡部氏の方がナンセンス化され、立花の方が「知の巨人」の名声を得て君臨するようになる。ネット言論は、この類で溢れている。しかし、これはジャパンハンドラ―ズの言論操作によってそうなったものであり、日本の言論界がこれを防げなかったことを意味している。言論界がそのように操作され汚染されていることを確認すべきだろう。れんだいこはかく理解している。

 渡部論文は付録として次のような情報を伝えている。石島泰・氏に対して、共産党常任幹部会委員・法対部長の小林栄三が、1984.6.7日付け赤旗に「『諸君!』石島発言の虚と実」と題して、石島発言が党の方針に反しているとして批判している。更に弁護士にして共産党代議士の正森成二が文化評論7月号で、ロッキード事件の一審判決を支持し、石島氏を批判している。井上氏は中核派系の破防法弁護団主任を辞任させられている。

 中核派は今からでも遅くない、この時の対応を自己批判すべきであろう。日共は「悔い改めない」、「左」を偽装してジャパンハンドラ―ズに飼われているに過ぎない連中だから云うだけ無駄である。日本左派運動が、かくも変調に冒されていることを確認すべきであろう。れんだいこには、角栄擁護で登場した人士こそ本来の左派だと断じたい。

 2011.8.3日 れんだいこ拝

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