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2011年8月15日 (月)

邪馬台国新国学研究の会の結成呼び掛け

 2011年お盆は邪馬台国研究で明け暮れた。恐らく突き動かすものがあるだろう。結論的に云えば、れんだいこも含めた邪馬台国研究の新段階が始まっており、これまでの研究は前史に過ぎなかったと云う地平に至っていることに感応しているのではなかろうか。「邪馬台国研究は終わった論」を奏でる者も相当に居る。だが終わったのは奏でる者自身であり、研究はこれからが本格的になるのではなかろうか。今後は眼から鱗の話、観点、発見が相次ぐだろう。自ずと従来の邪馬台国論の稚拙さをさらけ出すことになろう。

 邪馬台国研究の新段階はどうも幕末時の水戸国学の果たした役割に似ている予感がする。水戸国学は尊王攘夷論に結実し結果的に皇国史観に辿り着き役割を終えたが、これに倣えば邪馬台国新研究は新国学と云う息吹を感じさせる。水戸国学が捉えそこなった地平を切り開き、日本の真の国学復権へと至るであろう。この学問が真っ当に発達すれば、皇国史観の虚妄を衝き、本来の瑞々しい日本的思想、思考、感性を呼び戻すことになるだろう。これを予言しておく。

 これを機会に、れんだいこは世の研究者に新たな邪馬台国研究のネット形成を呼び掛けたい。月一の研究会を全国で催し、どんどん理論を進化発展させて行きたい。何事も一人では進まない。三人寄れば文殊の知恵と云う。全国の知者が寄ればどういう博識になるのだろうか、これを期待したい。れんだいこが世話どりするには及ばない。まずは定年退職者、学生に音頭を取って貰いたい。時に、れんだいこも顔を出したい。機関誌も出してもらいたい。れんだいこも投稿したい。レギュラー会員ぐらいは約束する。研究の方向性打ち出し当りは得意である。細かい検証は苦手である。故にいろんな個性が絆を結ぶ必要がある。

 今日は、れんだいこの自著「検証学生運動下巻」を刊行したばかりである。思うに学生運動には当分期待できない。組織も理論も伝統までがズタズタにされているからである。この糸を解きほぐし新たな全学連が生まれる目はない。仮に無理やり作っても積み木崩しになる恐れが強い。真因は脳がやられていることにある。故にれんだいこが打ち出す観点に評ができない。

 こういう折には、各自が銘々にこれと思うものを見つけ熱中した方が良いのではなかろうか。邪馬台国研究は日本の国体の秘密の扉を開けるものであり、歴史好きの者には堪らない分野である。既に終わったとするのではなく前史が終わったと見据え、邪馬台国新論に向かってほしいと思う。この結論を得る為に、今年の盆はどこにも行けなかった。連れ合いは嘆いている。明日近くを廻り誤魔かそうと思う。

 今日は8.15、終戦記念日である。こういうトピックな日にこういう想念が生まれたことを欣としたい。正確には違うが「二千年前の二千字解読の旅」と銘打って魏志倭人伝が伝える古来日本の在り姿を訪ね、現代に活かしたい。これが念願とするところのものである。特攻青年よ、これがれんだいこ流のはなむけである。卑弥呼が見据えた時空で逢おう。

 2011.8.15日 れんだいこ拝

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

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おじゃまします、れんだいこさん、はじめまして。私、ヌイアモシリとでも名のらせてくださいませ。名刺自己紹介代わりのチョイ小論です。どっかで聞いたことがあるような内容なので読むに煩わさせますが、よろしくお願い申しあげます。
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三国志倭人条ではいわゆる邪馬台国は邪馬一国と表示記載されている。後漢書では邪馬台国と表示記載されている。すなわち、3世紀では邪馬一国、5世紀では邪馬台国である(一も台も本小論では現代当用漢字表記)。名辞の語尾をとると両者に共通するのはヤマである。山と思ってもよいと思う(邪馬につき韓国語の解釈があるようだが)。まずは原本記載表示尊重が第一であり、原則である。邪馬一国の一は写本の際書き間違えたのであろうと都合のよいように解釈するのは証拠捏造行為である。


西暦238年に楽浪郡経由で洛陽に邪馬一国は大夫難升米を団長とする外交使節団を派遣した。洛陽では大歓迎された。邪馬一国の方物の答礼として魏朝は金印ほか錦などを送った。贈り物の内、漢鏡は「銅鏡百枚」。たったの四文字である。洛陽では鏡は女性の化粧道具に過ぎない。


金印の授与が大事である。銀印や銅印と異なる。金印は軽々しく滅多やたらに与えられるものではない。その頃、金印を与えられた国は西方の大月氏国であった。大月氏国は大国である。邪馬一国は大月氏国と比べて見劣りがするが、呉との覇権外交戦と国内の威信民心掌握に依ることもあって、遥か東南海中からの遠国使節団の政治的歓迎ショーとなった。女王政府承認の証として金印が邪馬一国に仮授され魏朝の外臣となった。


国家・政府承認は当地の国王配下の封地や諸侯、属国・植民地に対しては行なわれない。古今通ずる外交原則、自然の法である。仮授後実際に楽浪郡官吏が邪馬一国を訪問し女王に拝謁した。詳細なレポートを魏朝に提出し、これに依拠して西晋の史官陳寿は女王の都するところが邪馬一国というと記した。


ところで、志賀島で発見された金印は西暦57年の「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」 (「後漢書」)のものだ。この金印は「漢委 奴国王印」とある。訓みは漢の委の奴国王と三段ではない。印璽にこういう三段訓みの例はない。漢の委奴国王と訓む。委は偏の人が落ちているが倭と同じである。委はイと音してもよい。同じ時期に匈奴の王にも金印を印綬している。この印及び印影は「漢匈奴国王印」である。後漢書にも倭奴国とあるではないか。匈に対し委である。委はおだやかを含意する。
志賀島は筑紫湾にある。西暦107年に同じく後漢書に倭国王帥升が請見を願ったとある。倭奴国と倭国は同じである。倭国王帥升の都も筑紫湾近辺にあったものと思われる。


邪馬一国は倭国を代表する。では倭国のどこに都していたか。楽浪郡から南東1万2千余里である。楽浪郡から半島西海岸を船で廻って漢江付近から半島斜め縦断して狗邪韓国に着く。ここは既に倭人の地である。このルートは古代のハイウェールートだ。これで楽浪郡から7千里。
ここから対海国まで千里、対海国から一支国まで千里、一支国から末盧国まで千里。だから里は短里であることが分かる。この間、対海国は方4百里とある。方とは四角形のことでピタゴラスの定理で承知のことだがここでは斜線距離ではなく縦横の距離のこと。方と言えば縦横の距離のことを表すのが当時の常識。
だから4百里+4百里、一支国は方3百里とあるから3百里+3百里、都合8百里と6百里を島沿い行程に加える。末盧国から「東南陸行五百里 到伊都國 皆統屬女王國」。伊都国から「東南至奴國百里」。奴国から「東行至不彌國百里」。不弥国は伊都国をポイントにして方位距離を辿ると北九州沿岸筑紫湾だ。ここから船で九州東岸沿いを廻ると薩摩だ。「南至投馬國水行二十日」という。投馬の音はさが抜けている。続けて(船に乗らないで)「南至邪馬壹國 女王之所都」。里程表示がない。邪馬一国は不弥国と接している。不弥国は邪馬一国の玄関口である。楽浪郡から邪馬一国まで都合「水行十日陸行一月 」、里程で1万2千100里「自郡至女王國 萬二千餘里」。卑弥呼の宮殿所在地は今の福岡県春日市あたりか。


西暦107年の倭国王帥升時代から倭国覇権国邪馬一国外交使節団派遣の西暦238年の間に西暦180年前後に後漢書によれば「倭国大乱」があったと記している。帥升亡き後王位継承戦で政治が不安定な期間があった。しかし、倭国の同一性はそのままだった。


時々の王宮ピンポイント所在地はいざ知らず倭国中心部はメインルート大陸→半島→北九州沿岸部の北九州にあることで一貫している。遺跡の多さ遺物の豊かさという考古学的事実とも符合している。平凡でも仮説としての骨格的合理性は他を凌ぐ。従って、邪馬一国所在論争なんてものは無意味である。仮説として主問題解決済みである。日本列島には倭国以外にも幾つかの国・文化圏があった。倭国領域・影響圏の北九州・四国・中国の銅剣・銅矛文化圏、近畿・東海の銅鐸文化圏や中部・関東、山陰・越、東北・北海道の蝦夷国といったように。
倭国と異なる日本国近畿天皇家が西日本から関東に覇権を及ぼしたのは8世紀前後の頃に過ぎない。「旧唐書」ははっきりと倭国と日本国とは異なると書いてあるではないか。
本州北端までその勢力圏に納めたのは日本史で中世に入った頃と言って過言ではない。この頃は既に公家・武士二重政権時代であった。列島古代を近畿天皇家一元論で染め上げるのは日本の原理主義的イデオロギーである。古代を比較的に自由に研究したのはむしろ江戸時代である。明治維新は復古反動の時代であった。戦後憲法下にあっても説としてのバリエイションはあるがつまるところ主流は古代史大枠としては近畿天皇家一元支配論であって戦前と何ら変わっていない。戦前は不敬罪、戦後は言論自由の建前上異端として無視黙殺だ。邪馬台国論争という形で古代史は民間で百花繚乱という状態だ。近畿天皇家一元論は何やら原発村の構図に似ていないか。


倭人とは中国古代王朝周以来邪馬一国時点でも付き合いは長いが、三国志倭人条は南蛮北荻西獣東夷の地の記述と比べて量が多い。魏が政治的理由で倭国を重んじたことを反映させているのだろう。卑弥呼は東アジアの有名人である。日本書紀では卑弥呼や壹與を一緒くたにして神功皇后の条にぶち込んだ。このこと一事からして近畿天皇家系列の祖先に東アジアの有名人である卑弥呼はいない。従って、北九州に都する倭国朝廷本体が畿内大和に東遷して大和朝廷を創建した、と言う事もなかった。即ち、近畿天皇家は倭国の支配者ではない。近畿天皇家の史官達にとって捏造不可能な三国志の記述故に他国の卑弥呼の存在を意識せざるをえなかったのだろう。


投稿: ヌイアモシリ | 2011年8月16日 (火) 23時52分

ヌイアモシリさんちわぁ。論考メール有難う。れんだいこの邪馬台国論に反応してくださった第一号として感謝します。今後ともご教示ください。ヌイアモシリさんが相当に古代史を渉猟しているのが分かります。問題は、通説を批判しながら通説を抜け出し得ていない感じがします。これをメールで次々指摘しても大変なので、お互いのホームページで照らしあわせた方がきっと有益になります。れんだいこが学ぶ場合もあるし、逆の場合もあると思います。れんだいこは在家史家と任じております。専門は歴史、政治、思想、宗教です。この立場ゆえに従来の邪馬台国論に煩わされることなく新地平を切り開きつつあると自認しております。認識上の間違いがあれば、どんどん指摘してください。可能な限り応答し、なるほどと思えば自説撤回にやぶさかではありません。そういう交流をさせたいただけたらと思います。というようなことでまた。

 れんだいこの日本史論は下記サイトです。

  「歴史学院」
  (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/oomidashi.htm)

 2011.8.17日 れんだいこ拝

投稿: れんだいこ | 2011年8月17日 (水) 13時27分

 もはや、邪馬台国論争は古代出雲への目を反らすための空理になっているのではないかい。

投稿: アンチ公家(国学と考古学の融合) | 2011年12月14日 (水) 22時02分

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