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2011年8月17日 (水)

皇紀2600年考その2

 この問題になぜ拘るのか。それは、記紀が「大和平定後の初代天皇の即位日」を意図的故意に隠蔽ないしは撹乱していると思うからである。古事記が敢えて沈黙したところを日本書紀が敢えて蛮勇を振って「紀元前660年2月」になるような「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位」と詐術記述したのではないかと思うからである。「大和平定経緯」に知られたくない事情、それを記し難い事情があったと思うしかない。

 衆知の通り、日本神話に従えば、初代天皇神武の即位は出雲王朝の国譲り後である。その後に天孫降臨している。続いて天孫族の東征が記されている。艱難辛苦の末に大和を平定し、その後の神武天皇即位と云う流れになっている。この順序に従えば、神武天皇即位日「辛酉年春正月=紀元前660年2月11日」とした場合、天孫軍の東征はそれ以前になる。天孫降臨は更にそれ以前、出雲王朝の国譲りは更にそれ以前と云うことになる。結果的に、出雲王朝の国譲りがはるか昔のことになる。

 古事記は神武天皇以下33代の推古天皇(在位590―620年代)まで、日本書紀は第41代持統天皇(在位690年代)までの歴代天皇の御代の事蹟を年次毎に記述している。他方、魏志倭人伝を始めとする中国史書各書には厳然と紀元3世紀の倭国日本に於ける邪馬台国連合国を主とする当時の倭国の克明な記録を記している。

 然るに、記紀は揃いも揃って紀元3世紀頃の倭国に存在していた筈の邪馬台国について言及していない。僅かに片言隻句を記している個所があるに過ぎない。それは記紀だけではない。記紀派が偽書と断ずる古史古伝各書に於いてさえ記されていない。まことに不思議なことと云わざるを得ない。ここに歴史の闇があると思う。

 この闇を解明したいと思う。時の政府が、1940(昭和15)年に紀元二千六百年記念行事を挙行したのは政治の論理である故に敢えて責任を問わない。しかし史家の論理は政治の論理に屈してはならない。史家が、史家の論理を持たぬまま今日まで経緯しているのは不正、不見識なのではなかろうかとして詰(なじ)りたい。

 れんだいこは、記紀が邪馬台国を記述しなかった不正、このことに関連すると推理しているが、初代天皇神武の即位日を古事記が記さず、日本書紀は記したものの邪馬台国時代よりはるか900年も昔のことにしている不正を見逃さない。この背後には、「大和平定事情」記述がウソであると云うことを裏筆法で示唆していると見る。

 こうなると逆に「大和平定事情」を解き明かしたくなるのが人情ではなかろうか。そう云う意味で「大和平定後の初代天皇の即位日」を探索することは後世の史家の責務だと思う。初代天皇の即位年及び即位経緯全体を史実的に再検証せねばならない必要を感じる。

 この言は、皇国史観を否定せんが為に云っているのではない。よしんば皇国史観を信奉するにせよ歴史の検証に耐える史観で構築せねばなるまいと申し立てている。戦前式皇国史観は、記紀が裏筆法で書いているところまで鵜呑みにして天孫族の聖戦を美化したイデオロギー的な歴史観であり、盲信狂気理論と断定する。史家足る者は、そういう戦前式皇国史観批判で事足れりとするのではなく、これを突き抜けて本来の皇国史観即ち国体論に向かうべしであったと思う。もとへ。これが云いたいのではない。れんだいこの真意は、記紀が語り得なかった、否意図的故意に隠蔽した「大和平定事情」をこそ解明したいと思っている。

 日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」とする神武天皇即位日は意図的故意の詐術記述である。故に、史実に基づいて初代天皇の即位年及び即位経緯を解明したい。なぜなら、これが邪馬台国興亡史に深く関係していると看做すからである。思えば、日本古代の政治史上の最大政変は国譲りであった。次が邪馬台国興亡史ではなかろうか。次に壬申の乱なのではなかろうか。この辺りを史実に基づいて解明するのが日本古代史の要諦であり、史家は挑まねばならないのではなかろうか。

 れんだいこの邪馬台国新論は、実はこの皇紀2600年説の不実を暴くところから始まる。初代天皇即位が邪馬台国興亡史、大和王朝建国史に大いに関係していると思うからである。日本書紀が記すような邪馬台国時代より900年も昔ではなく邪馬台国滅亡後の出来事と推理するからである。これを解き明かすのがもう一つの邪馬台国論になるべきではなかろうか。

 
2011.8.17日 れんだいこ拝

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コメント

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今日は、れんだいこさん。イヌアモシリです。アイヌモシリをもじったものです。ホームページは10年も更新していない山登りの放置サイトが依然ありますが、ホームレス同然の身です。居住地は札幌です。
れんだいこさんのウェッブサイトを知ったのは『宮地健一のホームページ、共産党問題、社会主義問題を考える』の引用箇所でです。7,8年前になりますか。
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「神武天皇の即位前の名前につき、古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」と記し、その履歴を記している。つまり、古事記は、神武天皇について記しているにも拘わらず、即位日の記載を避けているのではなかろうかと思われる。れんだいこには断言する知識がないので、その通りとか、そうではないかくかくしかじかと記述しているとする、どなたからかのレクチャーを頼みたい。」


私が日本古代史や東洋史に興味・関心を向けたのはほんの2~3年前のことに過ぎません。従って初心者です。「どなたからかのレクチャーを頼みたい。」に対する応答では勿論ありません。誰かの説を咀嚼するのに汲々といったところです。できますれば遊んでやってくださいませ、といったところです。


「古事記は、即位日の記載を避けているのではなかろうかと思われる」

ま、こういうところじゃないでしょうか。
日本書紀は官撰公定歴史書ですが古事記は当時の元明天皇など皇族の内向け教養史書で皇統の万世一系を、書紀も在ることゆえ、皇暦をもって特に示す必要もなかったんじゃないでしょうか。


神倭伊波礼琵古命(古事記)について。

神倭伊波礼の伊波礼は磐余で大和の桜井・樫原あたりの磐余ですよね。で、神倭伊波礼の神倭です。倭は委と同義でイ(wi)とも音する。志賀島の金印『漢委奴国王印』の委です。そうすると神倭はカムイと読める。糸島半島の松浦側に伊勢ヶ浦というところがある。糸島郡はもともと志摩郡と怡土郡(いとぐん)であったが当時松浦側から両郡間に深く海が入りこんでいた。だから伊勢ヶ浦の浦である。伊勢ヶ浦の近くに字地名として神在(カミアリ)がある。ここに関係しているのではないか。ここが神武の故郷ではないか。この地を名に採ったのだから神武は北九州出身を誇りにしていた、と言える。神武が銅鐸圏に武装侵略したのは2世紀中頃のことか。

(なお、神武名についてのピンポイント説明なので地名解によるこじつけに見えるかもしれない。しかし、記紀の神武条の他の読みにつきそこに現れる地名地理解釈は重要であることは言うまでもない。それを背景に踏まえてのことである。)


「日本古代の政治史上の最大政変は国譲りであった。次が邪馬台国興亡史ではなかろうか。次に壬申の乱なのではなかろうか。この辺りを史実に基づいて解明するのが日本古代史の要諦であり、史家は挑まねばならないのではなかろうか。」


御説に異議はありません。邪馬台国(倭国)関連で連なります。東北方面(蝦夷国)は桓武時代です。で、桓武あたりで古代末期です。


「れんだいこの邪馬台国新論は、…初代天皇即位が邪馬台国滅亡後の出来事と推理するからである。」


神武兄弟が倭国首都(筑紫の高千穂)でこのままの身分では将来はないなと思いつめ東に新天地を久米軍団とともに求め、奈良盆地南端の一画に小豪族として出発したのは邪馬一国遣魏使以前のことではないか。その時期は弥生後期2世紀中頃としていますが、考古学上、この時期から奈良盆地南部での銅鐸発見がパタリとなくなるからです。


投稿: | 2011年8月19日 (金) 22時05分

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