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2012年3月 8日 (木)

法螺と戯言氏のれんだいこ史観通底考その3

 F氏は、「時事ネタ(共産党の小沢いじめの根源的理由)」で次のように述べている。

 「私は、前回のブログで『殺人の責を全うせず、さらには、殺人を犯しながら復権を執拗に求めた宮本氏、そしてそれを政治的思惑のために、あえて見て見ぬ振りをした当時の日本国支配者米国占領軍の邪な思惑を推測しています』と、書きました。この文にこめた私の考えは、『宮本氏には復権が叶う』との確信があったのではないかと想像するからです。何故なら、治安維持法に加え、過失致死罪、死体遺棄罪などが併合されて獄舎に繋がれていたにもかかわらず、その殺人に関する責任を問われずに、したがってその責任を全うせずして宮本氏は出獄を許されたわけです。釈放を認めたからには、当局側には最早『復権を認めない』との論理は成立しなくなります。しかし、治安維持法下という特殊な政治環境にあったから、『殺人(実際には過失致死とは言え)事件も無かったことにし、その責任を問わない』との論理が、後世検証されるかもしれないことを決定者であった米国占領軍は注意深く検討したはずです。事実、1976年1月の国会では、まさにこのことの不明朗さが指摘され、政府に調査をせまる国会での論議がありました。実際、『治安維持法下という特殊な政治環境』という理屈が通るのであれば、治安維持法下での特別高等警察による残虐極まりない拷問と虐殺についても法的にはなんらの処罰を課せられないばかりでなく、その残虐さを後日論難する論拠も失うことになります。共産党が指弾する特別高等警察の残虐はいわば二重基準の論理といわれても仕方ないことです。

 宮本氏の釈放を検討した際、米国政府と占領軍には、大日本帝国による政治犯の暴力的弾圧という犯罪を棒引きにするべく、いわば相殺を図ったとの見方はありえるのかもしれません。実際、戦後の政府ないしは米国が法的手続きにのっとって、特別高等警察による過酷な拷問・取調べを調査したとの話は聞きませんから、それなりに宮本氏の『殺人事件を記録から抹消』したことと釣り合いが取れているのかも知れません。

 ところで、松本清張氏による『日本の黒い霧』などが記すところによれば、戦争直後のさまざまな謀略と思しき怪事件の数々は、終戦直後数年間での米国占領軍による占領政策のあからさまな変更に起因しています。それらの多くは「左翼勢力」による事件として当時大いに喧伝されました。しかし、これらの事件は、戦争直後ではなく、それから数年後のことです。いずれ『左翼勢力を利用する時期が来る』との分析があったとしても、それが、まさに日本国のポッダム宣言受諾からわずか数ヶ月の短期間、つまり国際情勢の帰趨も定かでないこの時期での、宮本氏釈放の主たる理由であったとは思いがたいでしょう。

 とすれば、『宮本氏の即時釈放』は、占領軍のシナリオには、早くから(日本国のポッダム宣言受諾・全面降伏以前から)既に書き込まれていたと思われます。既に書いたように1945年10月、治安維持法で獄舎にあった志賀義雄、徳田球一氏らが釈放されます。彼らが直ちに疲弊した日本国民を結集して一大政治運動・闘争を巻き起こすであろう事は誰の目にも明らかでした。当然占領軍はそうした事態を深く認識・予測していました。さて、この一大政治闘争、生活と基本的人権を求める一般国民の大闘争は、大日本帝国の息の根を完全に止めるという視点からは占領軍にとって歓迎されると同時に、一方では、その大闘争が先鋭化することの危惧をも併せ抱いていたはずです。松本清張氏は、氏の著作の中で占領軍司令部内のGSとG2の対立を描いています。

 もし、宮本顕治氏が文字通り、徳田球一氏らと共に疲弊国民の闘争を力づける存在であったとするなら、占領軍は、上記危惧を理由として宮本氏の釈放を決定しなかっただろうと考えます。そうした決定をしないことによって、一部左翼が抗議をしたとしても、宮本氏には『釈放を獲得できない厳然たる事由』があるからです。『殺人事件との併合罪であるから、釈放できない』との一言です。しかるに、宮本氏は釈放されているのです。つまり、宮本氏は、疲弊国民の闘争を鼓舞し、ひいては占領軍による日本国支配を危うくする存在とみなされていなかったとの推論が可能となります。

 しかし、それだけの、いわば消極的な理由で、殺人事件の当事者である宮本氏を釈放したとは考えにくいことです。むしろ、占領軍側には釈放した宮本氏を『使う』意図があったのではなかろうかとの思惑があったと考えるのが自然です。殺人犯の刑期を全うせずしての釈放には占領軍内部で慎重な検討があったに違いありません。反対者も少なくなかったろうと思います。その反対を押し切り、かつ後世になされるかもしれない歴史検証への危惧も押し切って宮本氏を釈放する決断をしたことになります。とすれば、占領軍司令部内での釈放推進派には、反対派を黙らせることができる強い説得材料があったに違いがありません。宮本氏が占領軍軍支配に敵対しないとの確かな証(あかし)があったのだろうと思います」。


 F氏はここで、中曽根に政治利用される宮顕その人の解析に向かっている。宮顕の戦後の釈放と復権証明書の背景にある政治的陰謀を嗅ぎ分けしようとしている。結論として、戦後共産党運動を指導することが予見された府中グループの徳球―志賀派への対抗として宮顕を政治利用する為に府中グループより一日早い出獄が用意された可能性を窺っている。「宮本氏が占領軍軍支配に敵対しないとの確かな証(あかし)があったのだろうと思います」と述べており、宮顕の胡散臭さを指摘している。

 「ロッキード事件を転機とした共産党のあからさまな変節」で次のように述べている。  

 「中曽根氏も当然上記のような疑問を抱き、なにがしかの想像をしたはずです。あるいは、親分であるCIAエージェントの正力氏から何がしかの事前情報を得ており、その確証を得ることが日本部長との話し合いの目的の一つであったかもしれません。かくして、中曽根氏は、1976年2月6日の米国大使館での会談で、宮本氏釈放決定に関する米国占領軍内部での検討経緯、および宮本氏の『出自』にたんぽされたものについて照会したのでしょう。当時の中曽根氏の主要な関心は、P3Cでの自らに降りかかってくるやも知れぬ醜聞攻撃を田中角栄氏の金脈醜聞にすり替えることであったはずです。そして、中曽根氏の政治的スタンスは『田中角栄氏の政治スタンスとは真反対』です。正力松太郎氏の側近としての立場からしても、それは、米国の意向に強く沿ったものであったはずです。

 以前にも書きましたが、この大型スキャンダルを田中金脈問題にすり替えるにあたって、当時昇竜の勢いにあった共産党の追求力を利用することを、中曽根氏は目論んだのです。実際に中曽根氏が米国大使館で宮本問題でどのような情報を得たのかは定かでありません。しかし、共産党にしてみれば、中曽根氏から『米国国務省日本部長と宮本事件のことで話したよ』と、耳打ちされるだけで、それの重大性は、震え上がっるような衝撃であったと思われます。とりわけ、当事者たる宮本氏にとっては。かくして、以後、共産党を率いる宮本氏は、田中角栄追及を先鋭化を党の主要方針とさせてゆきます。共産党の売りの一つとして、『金にきれい=清潔』であることが強調されるようになります」。

 F氏はここで、中曽根が宮顕のリンチ事件、戦後の釈放と復権証明書過程の胡散臭さを嗅ぎ取り、これを強請(ゆすり)の種として「当時昇竜の勢いにあった共産党の追求力を利用することを、中曽根氏は目論んだ」と推定している。宮顕は中曽根の強請(ゆすり)による角栄糾弾請負の取引に応じ、「かくして、以後、共産党を率いる宮本氏は、田中角栄追及を先鋭化を党の主要方針とさせてゆきます」と分析している。

 「ロッキード事件と共産党で次のように述べている。

 「前回、不破氏が、『60年余の間に支配勢力が共産党の前進を3回に亘って妨げてきた』と語ったことを書きました。氏はそれを反攻と呼びます。50年代の反攻については説得力があります。松川事件、三鷹事件、菅生事件など不可解な事件が発生し、それらを共産党になすりつけるキャンペーンが張られたからです。しかし、残る二つにはそうした背景を見ることができません。1980年の反攻に先立って、月刊誌『文藝春秋』での立花隆氏による連載『日本共産党の研究』(1974年)あるいは、1976年の民社党委員長(当時)春日一幸氏による国会質問などで宮本事件が大きな話題になりました。これらは『共産党のイメージを著しく損なった』のであり、まさにこれぞ反動勢力による反攻であると不破氏は語ります。実際、創価学会などは『人殺しの共産党委員長』といったビラを夜陰に乗じて配布することがありましたが、当時の大手新聞、朝日、毎日、そして読売新聞ですら、『治安維持法を容認するような議論は謹まねばならない』との論陣をはり、立花氏、春日氏の主張に乗じて『暗黒の戦前を是認』する論調には批判的でありました。

 今にして思えば、当時の大手報道機関は『宮本問題をあえて大騒ぎしないこと』でもって、共産党に貸しをつくり、共産党を国際金融資本の意向に従わせる戦略をとったのではないかと思えます。何故なら、『暗黒の戦前の容認』と『宮本氏による殺人の贖罪』とはまったく次元の異なる話であったにもかかわらず、当時はその違いを峻別せず、むしろ意識的に混同させることで、いわば恩を共産党に売ったのではなかったか」。

 ここも黙って拝聴することにする。続いて次のように述べている。

 「さて、共産党の側からあからさまに国際金融資本への屈服表明をしたのが2001年の夏の共産党創立79周年での講演でした。『共産党は、“唯我独尊”“党利党略”か?」と題する下記の投稿で、不破氏が行った講演の概要が紹介されています。

 (引用開始、http://www.asyura2.com/09/senkyo61/msg/455.html)

 共産党に好意的な人々は、共産党が『純粋すぎる』ので、結果として傍から見ると唯我独尊、党利党略に映るのだと、この批判を『美化』する。『純粋すぎるのか否か』を判断するのに格好の資料が下記である。2001年7月のK党創立79年記念講演会で、不破委員長(当時)は、衝撃的な演説を行った。『ロックフェラと家族ぐるみの付き合いをするほどに緊密な関係にあった盛田昭夫氏を、資本家の鑑であると礼賛し、ホロコーストについて、“ユダヤ人、ジプシー、ポーランド人、ロシア人、チェコ人、スロバキア人を はじめとする何百万という人々が、人間の頭にかつて浮かんだことのないような最大の絶滅行動〔大虐殺〕の犠牲となった”と言及した上で、その責任を未だに言及し続けるドイツ政府を褒めちぎった』。

 世界の富の半数以上を占有しつつ、一層の金儲けのために世界を戦争に駆り立てる国際金融資本勢力への戦闘放棄を高らかに宣言した瞬間が、2001年7月なのである。当然の帰結として、歪んだシオニズムが言論の自由を奪っていること、さらには、常に戦争の火種を作っていることなどの厳然たる事実について一切言及せず、むしろ彼らのスピーカとなることを高言した瞬間でもあった。共産党の唯我独尊、党利党略は、大多数庶民の利益・要求に背を向けて、国際金融集団に唯々諾々付き従う実態を隠蔽するポーズなのである。とすれば、今回の小沢問題での足場は、政権交代阻止勢力の一翼たることを、ご主人様に認めて頂く事の上にある。そうしてこそ、迫り来る総選挙でも細々と生きながらえ、後退すれども幹部連の首はご褒美としてつながりつづける。(引用おわり)

 この講演をきっかけに、共産党はせっかくの社会党票の受け皿足りえず、一気にもとの右下がり傾向に落ち込んだのです。実は大変興味深いまさに具体的な、労働者を犠牲にして国際金融資本に仕えんとする事例があり、それが、下記のHPに詳述されています。http://kinpy.livedoor.biz/archives/51506769.html 上記は、石川島播磨重工を舞台とした共産党員の戦いを共産党中央が押さえ込んだという信じ難い話です。ここでは、読者に上記を読んでいただくことで持って、記事内容を紹介することは致しません。いずれにしても、富を独占し大多数の国民を貧困と生活苦に追い込んでいる支配勢力との戦いをやめてしまったことが、深刻な後退の理由であって、それは反攻とは言いません。一般庶民とはかけ離れた現状認識、それに基づく党の方針が庶民からは見放されたことが、低落の重要な一要因なのです。しかし、それにとどまらないもっと深刻な後退理由があるのですが、それは後刻書きます。
 
 ホロコーストに関してはすでに繰り返し書いてきました。600万ものユダヤ人をガス部屋で殺害したとの『お話』は、物理的に不可能であり、文字通り荒唐無稽であることを繰り返し書いてきました。これが国際金融資本の背後で世界支配を操るための道具であったことも書いてきました。しかし、不破氏はその筋書きにあえて抗弁せず、それを是認する歴史観をここで表明したのです。昨今、性懲りも無く、自らを『清潔な党』として売り込みつつ、小沢氏を『政治を金まみれにした張本人』として共産党は、大手マスコミ産業と口を揃えて、小沢氏を激しく非難しています。これで、支持の回復を図りたいとの主観的希望が見て取れますが、それは、実は支配勢力(国際金融資本)に対する忠誠の証をたてる示威でもあるのです
」。

 ここも黙って拝聴することにする。「(時事ネタ)中曽根氏の照会(3)」で次のように述べている。

 「終戦直後、殺人事件の犯人として獄舎につながれていた宮本顕治氏を、一介の政治犯として釈放する決断に際し、占領軍が担保したものは何であったか? 多分、米国政府公文書館に関連する資料が秘匿されているのだろうと思います。そして、中曽根氏が1976年2月6日に、敢えて米国担当官に尋ねたことからわかるように、米国CIA日本人エージェントである正力松太郎氏ですら、その資料には触れることができていなかったようです。1974年―76年当時の大方の論調は『宮本氏が共産党を守りたいとの一心で心ならずも小畑氏の殺害にいたってしまったのであり、そのこと自体は誠に不幸な事件であった』というものでした。現在の共産党もその論調に乗じて、宮本事件と聞くとヒステリックに反共攻撃というセリフで以って反応します。したがって、中曽根氏から傷害致死をチクチクと突かれようと真っ向から反撃できるはずでしたが、すでに書いたように共産党の反応そして対応はまったく異なっていました。中曽根氏は上記共産党の表向きの主張とは異なる『何か』を得ようとして、米国大使館日本部長に宮本事件を照会したのです。2009年7月ごろであったでしょうか、中曽根氏は不破氏と対談しています。紙上に掲載されなかった対話でこの事が話題になったか否かはさだかでありません。現時点では、この『何か(something secret)』を知ることができません。

 しかし、それを推察するに格好の考察がHPで閲覧できます。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/rinchizikenco.htm このレンダイコ氏の考察は誠に衝撃的です。1945年10月に釈放される以前、つまり獄中にあった時期、宮本氏は既に官憲が左翼に送り込んだスパイであったというのですから、まずは眉唾と思う人も少なくないようです。しかし、上記HPはその考察に膨大な資料文献を渉猟・読破しており、読後には強い説得力で、その結論に納得させられます。実際、このように考えると、殺人罪との併合罪で獄舎に繋がれていた宮本氏が治安維持法犯としてのみ釈放され、半年後には、その殺人犯としての罪も復権証明の発布でもって消滅してしまうことの謎が、まずは氷解します。そして、であればこそ、1976年、事情を薄々感知していた中曽根氏が米国政府からあわよくば真相証拠を得て、宮本氏と氏が率いる共産党に揺さぶりをかけた事情も呑み込むことができます。実際、中曽根氏の思惑通り事は進んだのです。繰り返しますが、共産党はその際の出刃包丁にひるみ、P3C追及をやめ、以後は中曽根氏の仇敵である田中角栄氏とその思想的系譜に繋がる小沢一郎氏の追及にまい進するのです。そしてこのことが、中曽根氏とその背後にある国際金融資本への忠誠の証しともなっているのです。いずれ、書きますが共産党の検察糾弾忌避にもそのことがまざまざと見て取れるのです。

 それはさておき、このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃は、1995年1月の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件に匹敵するものでした。この廃刊雑誌の一記事では、第二次世界大戦の末期ナチスがしでかしたとされる「ユダヤ人600万の虐殺、とりわけアウシュビッツでの大量ガス虐殺」は物理的にありえないことを論証したものでした(西岡昌司氏)。宮本事件とマルコポーロ事件が私に教えてくれたことは、『巨大な虚偽は、真実としてまかり通る』、というかってヒトラーが言ったとされる歴史の真実でした。ここでは、この考察を裏付けると思われる一二の出来事を検討してみたいと思います。それらは、宮本氏の釈放から21世紀初頭までの氏の活動履歴からとりだした事柄です」。

 F氏はここで、れんだいこの宮顕論、日共論の観点に賛意を表し、「このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃」は、西岡昌司氏の通説ホロコースト論批判に匹敵すると激賞している。当事者のれんだいことして、この評に感謝申し上げておく。

 2012.3.8日 れんだいこ拝

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