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2012年5月14日 (月)

第五章 仁、その惻隠(そくいん)の心(BENEVOLENCE, THE FEELING OF DISTRESS)

 愛、寛容、愛情、同情、憐憫(れんぴん)は、古来最高の徳として即ち人の魂の属性中最も高きものとして認められていた。仁は二様の意味に於いて王侯の徳と考えられた。一つは高貴なる精神に伴う多くの属性中の王侯的なものとして、もう一つは特に王侯的地位に相応(ふさわ)しいものとして。我々は、恐らく世界各国民皆がこれを知っているからして仁を感知するのに敢えてシェイクスピアを必要としない。それを記すのに彼を必要としたのである。そのシェイクスピアは次のように記している。「仁は王冠よりも善く王者に似合う。仁は王杓(しゃく)を持ってする支配以上のものである」。

 孔子も孟子も、人を治める者の最高の必要条件は仁に存することを何度繰り返したことか。孔子曰く、「君子はまず徳を耕(たが)やす。君子に徳あれば人群がる。人群がれば国となる。国あればこれ財あり。財あればこれ用あり。徳は本也。利は末也」(大学)。又曰く、「上、仁を好みて、下、義を好まざる者未だあらざるなり」(大学)。孟子は、これを祖述して曰く、「不仁にして国を得る者はこれあり。不仁にして天下を得る者は未だこれあらざるなり」。又曰く、「天下心服せずして王たる者は未だこれあらざるなり」。両者共に、王者たる者の不可欠要件を定義して次のように述べている。「仁とは人なり」(中庸)。

 封建制の政治は武断主義に堕落し易い。その下に於いて最悪の種類の専制から我々を救いしものは仁であった。被治者が「生命と肢体」を全く捧げる時、残るものは治者の自己意思のみとなり、その自然的結果は絶対主義の発達となる。これはしばしば東洋的専制と呼ばれる。あたかも西洋の歴史には一人の専制者もいなかったかの如くに。私は、如何なる種類の専制政治をも支持する者では断じてない。しかし、封建制を専制政治と同一視するのは誤謬である。

 フレデリック大帝が「王は国家の第一の召使である」と記した時、法律学者たちが自由発達の一新時代が来たと評したことは正しい。不思議にもこれと時を同じくして、東北日本の僻(へき)地に於いて、米沢藩の上杉鷹山がまことに同じ宣言をしている。その宣言で、封建制が決して暴虐圧政にあらざることを示している。曰く「国家人民の立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民にはこれなく候」。封建君主は、臣下に対して相互的義務を負うとは考えなかったが、自己の祖先並びに天に対して高き責任を感じていた。彼は臣下の父であり、民は天より保護を委ねられたる子であった。中国の古典「詩経」に曰く、「殷の未だ諸々を失わざるとき、よく上帝に配せり」。又孔子は「大学」に於いて、「民の好むところこれを好み、民の悪(にく)むところこれを悪む、これをこれ民の父母と云う」と教えた。かくして民衆の世論と君主の意思、もしくは民主主義と絶対主義とは融合した。

 或る意味で、さほど認知されていないが、武士道は通常考えられているとは異なる意味に於いて父権政治を受け入れ且つ確認していた。それは又関心のやや薄い叔父政治(即ちアンクル・サムの政治)に相対する意味においても親父的だった。専制政治と父権政治との差は次の点にある。即ち、前者にありては人民は嫌々ながら服従するに反し、後者にありては「かの誇りをもってせる帰順、かの品位を保てる従順、かの隷従の中にありながら高き自由の精神の生くる心の服従」である。

 古諺(こげん)に云うところの次の章句は全然誤謬とは云えない。イギリス国王のことを、「悪鬼の王である。何となれば彼の臣下はしばしば君主に対して反逆、かつ奪位するが故に」。フランス国王に対しては「間抜けの王である。何となれば租税公課を無限に負わす故に」。スペイン国王に対しては「人間の王と云う称号を与える。何となれば臣民が喜んで服従しているから」。もう良かろう(これくらいにしよう)。

 アングロ・サクソン人の心には、徳と絶対権力が調和するなど不可能な語として響くだろう。ポべドノスツエフは、イギリス社会の基礎と他のヨーロッパ諸国の社会との対照を明瞭にして、大陸諸国の社会は共同利害の上に組織せられているに反し、イギリス社会の特徴は強度に発達したる独立の人格にありとした。このロシアの政治家は、ヨーロッパ大陸諸国ことにスラブ系諸国民の間に於いては、個人の人格は何らかの社会的団結、終局に於いては国家に依存すると述べた。

 このことは日本人については特に然りである。この故に、我が国民にありては、君主の権力の自由なる行使はヨーロッパに於けるが如くに重圧と感ぜられざるのみでなく、人民の感情に対する親父的考慮をもって概して緩和せられているのである。ビスマルクは云う。「絶対政治の第一要件は、治者が無私、正直にして義務感強く、精力的にして内心の謙遜を持つことである」。この問題について、なお一つの引用を為すことを許されるならば、私はドイツ皇帝がコブレンツに於いて為した演説の一句を挙げたい。曰く、「王位は神の恩恵により、且つ神のみに対する重き義務と巨大なる責任を伴う。いかなる人も、大臣も、義会も、国王からこれを免除し得ないのである」。

 仁は、柔和なる徳であって、母の如くである。真直なる道義と厳格なる正義とが特に男性的であるとすれば、慈I愛は女性的なる柔和さと説得性を持つ。我々は、無差別的なる慈愛に溺れることなく、正義と道義でこれに味付けすべきことをしないように戒められた。伊達正宗が「義に勝れば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と道破せし格言は、人のしばしば引用するところである。幸いにも慈愛は美であり、しかも稀有なものではない。「最も剛毅なる者は最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なるものである」とは普(あまね)き真理である。

 勇者の優しさを意味する「武士の情け」なる言は、直ちに我が国民の高貴なる感情に訴えた。サムライの仁愛が他の人間の仁愛と種別的に異なる訳ではない。しかし、武士の場合にありては愛は盲目的の衝動ではなく、正義に対して適当なる配慮を払える愛であり、又単に或る心の状態としてのみでなく、生殺与奪の権力を背後に有している。経済学者が有効なる需要と有効ならざる需要とを説く如く、我々は武士の愛をもって有効なる愛と云い得るであろう。けだしそれは相手方に利益もしくは損害を加え得る実行力を含むが故である。

 武士は、その有する武力、並びにこれを実行に移す特権を誇りとしたが、同時に孟子の説きし仁の力に対し全き同意を表した。孟子曰く、「仁の不仁に勝つは、なお水の火に勝つが如し。今の仁を為す者はなお一杯の水を持って一車薪(まき)の火を救うが如き也」。又曰く、「困窮難儀の心は仁の始めなり。故に、情け深き人は、苦しみ且つ困窮難儀している者に対して思いやりが深い」。かく、孟子は、かの道徳哲学の基礎を同情に置きたるアダム・スミスに遠く先んじて、既にこれを説いたのである。
 
 一国に於ける武士の名誉の法典が他国のそれと如何に密接に一致するかは、実に驚くべきものがある。換言すれば、多くの非難を浴びせられたる東洋の道徳観念の中にも、ヨーロッパ文学の最も高貴なる格言と符節を合わせるものあるを発見するのである。よく知られている詩句「破れたる者を安んじ、傲(たか)ぶる者を挫(くじ)き、平和の道に立つること、これぞ汝が技」を日本人紳士に示せば、彼は直ちにマンチェアの詩人(ヴェルギリウス)を咎めて、自国文化の剽窃者と為すかも知れない。弱者、劣者、敗者に対する仁は、特にサムライに相応しき徳として称賛せられた。

 日本美術の愛好者は、一人の僧が後ろ向きに馬に乗る絵を知っているであろう。これはかっては武士であり、盛んなりし日にはその名を聞くさえ恐れし猛者(もさ)であった。須磨の浦の激戦(西暦1184年)は、我が歴史上最も決定的な合戦の一つであったが、その時、彼は、一人の敵を追いかけ、逞しき腕に組み伏せた。かかる場合、組み敷かれたる者が高き身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比し力量劣らぬ者でなければ、血を流さぬことが戦の作法であったから、この猛き武士は己の組み敷ける人の名を知ろうとした。しかし、名乗りを拒むので兜(かぶと)を押し上げて見るに、髭もまだなき若者の美麗なる顔が現われた。武士は驚き、手を緩めて彼を助け起し、父親の如き声でこの少年に「行け」と云った。「あな美しの若殿や。御母の許へ落ちさせ給え。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず。敵に見咎められぬ間にとくとく逃げ延び給え」。

 若き武士は去るを拒み、双方の名誉の為にその場にて己の首を討たれよと、熊谷に乞うた。老朽の熊谷が霜置く頭に振り翳したる白刃は、これまであまたたび人の玉の緒を断ちし刃であった。しかし、彼の猛き心も砕け、我が子が今日の初陣(ういじん)に貝鐘諸共に先駆けしたる姿も目の当たりに映じて、武夫(もののふ)の強き腕も慄(おのの)いた。再び落ちさせ給えと願った。敦盛(あつもり)これを聴かず、且つ味方の軍兵の近づく足音を聞いて叫んだ。「今はよも逃し参らせじ。名もなき人の手に失われ給わんより、同じうは直実が手に掛かりて後の御孝養をも仕(つかまつ)らん。一念阿弥陀仏、即滅無量罪」。その瞬間、太刀空中に閃き、その下るや刃は若武者の血に染めて紅であった。戦が終り熊谷は凱旋したが、彼はもはや勲功名誉を思わず、弓矢の生涯を捨て、頭を剃り、僧衣を纏(まと)いて、日入る方阿弥陀の浄土を念じ、西方に背を向けじと誓いつつ、その余生をば神聖なる行脚(あんぎゃ)に託したのである。

 批評家は、この物語の欠点を指摘するだろう。枝葉末節に於いては非難に堪えざるものがあるかも知れないが、いずれにしても、優しさ、憐れみ、愛がサムライの最も血生臭い武功を美化する特質なりしことを、この物語が示すことには変わりがない。「窮鳥、懐(ふところ)に入る時は、猟夫(かりゅうど)もこれを殺さず」と云う古い格言がある。特にキリスト教的であると考えられた赤十字運動が、あれほど容易く我が国民の間に地保を占めたる理由の説明は、概ねこの辺りに存するのである。

 吾人は、ジュネーブ条約(万国赤十字条約)を耳にするに先立つ数十年前、我が国最大の小説家である馬琴の筆により、敵の傷者に医療を加える物語に親しんだ。尚武の精神並びに教育にて著名なりし薩摩藩では、青年の間に音楽を嗜む風が行われていた。音楽と云っても、「かの血と死との騒々しき前触れ」たるラッパを吹き太鼓を打ちて、虎の行動の真似をするように刺激するのではなく、哀れ優しき琵琶を弾じて猛き心を和らげ、思いを血雨の外に馳せしめたのである。ポリピウスの語るところによれば、アルカディアの憲法に於いては、30歳以下の青年は全て音楽を課せられた。けだしこの柔和なる芸術によって、風土の荒涼より来たる粗剛の性質を緩和せんとしたのである。アルカディア山脈のこの地方に残忍性の見られざる理由を、彼は音楽の影響に帰している。

 日本に於いて武士階級の間に優雅の風が養われたのは、薩摩だけのことではない。白河楽翁公が心に浮かぶままを書き記せる随筆の中に次のような言葉がある。「枕に通うとも咎なきものは花の香り、遠寺の鐘、夜の虫の音はことに哀れなり」。又曰く、「憎くとも許すべきは花の風、月の雲、うちつけに争う人は許すのみかは」。これらの優美なる感情を外に表現する為に、否むしろ内に涵養するが為、武士の間に詩歌が奨励された。それ故に我が国の詩歌には悲壮と優雅の強き底流がある。

 或る田舎サムライ(大鷲文吾)の物語として、人に知られたる逸話がある。彼が俳諧を勧められ、「鷲の音」と云う題にて最初の作を試みたが、猛き心が裏切って、「鷲の初音を聞く耳は別にしておく武士かな」と云う拙作をば投げ出した。彼の師(大星由良之助)は、この粗野なる感情にも驚かず彼を励ました。遂に或る日、彼の魂の音楽が目覚め、鷲の妙音に応じて、「武士(もののふ)の鷲聞いて立ちにけり」との名吟を得た。

 ケルナ―は、戦場に傷つき倒れし時、有名なる「生命への告別」を賦した。彼の短命なる生涯におけるこの英雄的行為を我々は称賛欣慕するが、同様の出来事は我が国の合戦に於いて決して稀ではなかった。我が国の簡潔なる詩形は、特に物に触れ事に感じて咄嗟の感情を表現するのに適している。多少の教養ある者は皆和歌俳諧を事とした。戦場に馳せる武士が駒を止め、腰の矢立てを取りだして歌を詠み、しかして戦場の露と消えし後、兜もしくは鎧の内側からその詠み草の取り出されることも稀ではなかった。戦闘の恐怖の真っただ中に於いて、哀憐の情を換起することをヨーロッパではキリスト教が為した。それを日本では音楽並びに文学の嗜好が果たしたのである。優雅の感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙譲、慇懃の心は礼の根本を為す。

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