« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

2012年5月16日 (水)

第九章 忠義(THE DUTY OF LOYALTY)

 対照的なアーチ状の封建的諸道徳の中、要石を形成している徳は、他の諸徳が他の倫理体系もしくは他の階級の人々と共通して分かち合っているのに比して、この徳即ち上に立つ者に対する服従及び忠誠は特筆すべき特徴を為している。私は、人格的忠誠があらゆる種類及び境遇の人々の間に存在する道徳的結びつきであることを知っている。スリの一団もフェイギンに対して忠誠を負う。しかし忠誠が至高の重要性を得たのは、武士的名誉の法典に於いてである。

 ヘーゲルの批評即ち「封建的臣下の忠誠は、個人に対する義務にして社会に対するものではないから、全然不当なる諸原理の上に立てられたる絆(bond)である」との言に拘わらず、「人格的忠誠はドイツ人の徳である」と誇った偉大な同胞、ビスマルクがこれを誇りしには善き理由があった。しかしそれは。彼の誇りし忠誠が、彼の祖国もしくはいずれか一国民又は一民族の専有物であるからではなく、騎士道のこの麗しき果実が封建制度の最も長く続いた国民の間に最も遅くまで生きながらえていた故である。

 「どの人も皆他の人と同等である」とし、アイルランド人が付けたして云うところの「他のものより随分勝る」と思っているアメリカに於いては、我々が我々の君主に感じるが如き忠誠観念の崇敬なる概念は「或る基盤内に於ける優れたもの」ではあるが、我々の間で奨励されているようなものに対しては不合理であると思われているかも知れない。モンテスキューは、久しき前、ピレネー山脈のこちら側にて正しい事があちら側に於いては誤謬であると嘆じた。そして最近のドレフェス事件は彼の言の正しさを証明した。即ち、その言は、ピレネー山脈が孤高の国境ではないこと、その彼方ではフランスの正義が如何なる和合をも見出し得ないことを含意している。

 同様に、我々が抱く如き忠義は他の国では多くの賛美者を見出さないかも知れない。それは、我々の観念が間違っている故ではなく、忘れているからではないかと危惧する。且つ又我々が他の如何なる国にても達せられざりし程度にまでそれを発達せしめたからである。グリフィスは全く正しく次のように述べている。即ち、「然るに、中国では、儒教倫理が親に対する服従をもって人間第一の義務としたのに対し、日本では、優先的なものとして忠が第一に置かれている」と。私は、我が善良なる読者に呆(あき)れられる危険を顧みず、シェイクスピアの言える如く、「零落の主君に仕えて艱難辛苦を共にし、物語に名を残せる」人について述べてみよう。

 その物語は、我らが歴史上最大人物の一人たる菅原道真に関するものである。彼は、嫉妬と誹謗中傷の犠牲となって都から追われた人である。これをもって満足せず、無慈悲なる敵は、彼の家族を絶やそうとし始めた。未だ幼なかりし彼の息子に対する厳しい探索により、道真の御子が道真の旧臣の源蔵なる者によって密かにとある村の寺小屋に匿われている事実が明らかにされた。或る日、幼き科人の首を引き渡せとの命令が下り、寺子屋の師匠源蔵の下に役人が派遣された。彼がまず思いついた考えは、適当なる身代わりを見つけることだった。彼は、寺小屋の生徒の名簿を思案し、子供らをば注意深く精査した。子供たちは教室内をぶらぶしていた。しかし、田舎生まれの児らの中には彼の匿える若君と似通う者はいなかった。

 しかしながら、彼の絶望は暫時であった。見よ、器量卑しからぬ母親に連れられて、寺入りを頼む一人の児が現われた。主君の御子と同じ同じ年頃の上品な少年であった。幼き君と幼き家来が似ていることに気づくのは容易で、母も少年も理解した。我が家の奥間にて二人は祭壇に身を供えた。少年は生命を、母は心を。しかし、その気配(sign)を外にはおくびにも漏らさなかった。彼らの間に何が進行したのか気づかないまま、師匠源蔵は示唆されるままの人となった。ここに、犠牲の山羊が盛られた。

 (注)「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ)」の「寺子屋の場」の悲話。物語の舞台は平安時代で、藤原時平の讒言によって失脚した菅原道真は、左遷先にされた九州(大宰府)で怒りとともに死没した。藤原時平の追及は菅原道真の実子「菅秀才(7歳)」に及び、その身代わりとして小太郎が犠牲に供される。首実検に来るのは松王丸。松王丸は菅原道真の元家臣でありながらも、今は敵方・藤原時平についている。身代わりとなった小太郎は実は松王丸の実子であった。松王丸は菅原道真への恩に報いるために自らの子供を差し出した。

 物語の後は簡単に述べよう。定めの日が約束され、検視の使者が若君の首を受け取りにやって来た。偽首で彼を欺き得るだろうか。哀れなる源蔵は、刀の柄に手を掛け、もし計略が見破られたなら、検視の役人にか己自身にか、一撃を加えんものと固唾を呑んだ。役人は、彼の前に置かれしぞっとする首を引き寄せ、静かにためつすがめつした後、落ちついた事務的な調子で紛いなしと言い放った。その夜、寂しき家にて母が待ち続けていた。彼女は己の子の運命を知ったのだろうか。彼女は、子の帰りを待っていたのではない。戸口の空くのを熱心に見守っていた。

 彼女の舅(しゅうと)は、久しき間、道真の恩顧を賜った。しかし、道真の島流し以来、彼女の夫は事情余儀なく一家の恩人の敵に随身するようになった。彼自身は、彼の残酷な主人に不忠たることはできなかった。しかし、彼の子は叔父の主君に縁を持ちお役にたつことができた。道真の流浪の家族を知る者として、若君の首実験の役目を命ぜられたのは彼であった。今その日の、然り一生の、辛き役目を為しおおせて、彼は家に帰り、敷居を跨(また)ぐや否や妻に呼びかけ言った。「女房よ喜べ。我々の勇気ある倅は主人のお役に立ったわ」。

 「何と云う残酷な物語り」と、読者が叫ぶのが聞こえる。「両親が相談の上で、他人の生命を救わんが為に罪もなき我が子を犠牲にする」。しかし、この子は、納得の上で、且つ甘んじて犠牲となったのである。これは、身代わりの死の物語である。意味深長さでは、アブラハムがイサクを献げようと思った物語と同様の唾棄すべき話であるが、それ以上でも以下でもない。双方ともに、いずれにせよ義務の召命に対する従順、上より来たる声の命令に対する完き服従があったのである。目に見えるか見えざるかの天使からか、肉の耳によりてか心の耳によりてか分からねども。しかし、私は、説教するのを差し控えよう。

 西欧の個人主義は、父と子、夫と妻に対して別々の利害を認めるが故に、人が他に対して負う義務を必然的に著しく減ずる。しかるに武士道に於いては、家族その成員の利害は一体であり、一にして分かつべからざるものと為す。この利害を、武士道は、自然に、本能的に、不可抗的に愛情と結びつけた。それ故に、もし我々が、動物でさえ持つところの自然愛によりて愛する者の為に死すとも、それが何であるか。「汝ら、己を愛する者を愛すとも、それが何であるか。取税人でさえ同じくするにあらずや」。

 頼山陽は、彼の偉大なる歴史書「日本外史」に於いて、父の反逆行為に対する平重盛の胸中の苦闘をば、感動的な言葉で述べている。「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」。哀れむべし重盛よ。我々は見知っている。重盛は後に魂の全てを傾けて天に死を祈り、純潔と正義の住み難きこの世より解放せられんことを願った。重盛は幾度も義務と人情との衝突により心を砕かれた。実に、シェイクスピアにも旧約聖書にすらも、孝に当たる適切な訳語が含まれていない。孝とは、子の親孝行と云う我らの概念である。然るに、そのような衝突の場合に於いて、武士道は忠誠を選ぶのに決して逡巡しなかった。婦人も又、その子を励まして、君の為に全てを犠牲にせしめた。寡婦(かふ)ウィンダムと彼女の有名な配偶者に劣らず、サムライの妻女は、忠義の為とあらば我が子を投げだすことにためらいはなかった。

 武士道は、アリストテレス及び近世の二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分及び分子として、その中に生れて来たるものと考えたが故に、個人は国家の為もしくはその正当なる権威の掌握者の為に生き又死ぬべきものとしていた。「クリトン」の読者は、ソクラテスの逃走の問題について、ソクラテスが国法と論争陳述している議論を記憶するであろう。その中で、彼は、国法もしくは国家としてかく言わしめている。「汝は我が下に生まれ、養われ、且つ教育されたのであるのに、汝は、汝も汝の祖先も我々の子種及び召使でないなどと敢えて云うのか」と。これらの言葉は我が国民に対し何ら違和感を与えない。何となれば、同じ事が久しき前から武士道の唇にのぼっていたのであって、ただ我が国ありては国法と国家は人格者によりて表現されていたと云う差異があるに過ぎない。忠義は、この政治理論より生まれたる倫理である。

 私は全然知らぬ者ではない。スペンサーの見解即ち政治的服従(忠義)がただ過渡的機能を賦与せられたるものに過ぎないとする説を。それはそうかも知れない。「その日の徳はその日に足る」。我々は、安んじてこれを繰り返そう。ことに我々は、その日というのが長き期間であって、我が国歌に曰く「さざれ石の巌(いわお)となりて苔の蒸すまで」とあることを信ずるにおいてをや。

 我々はこの継ぎ目を想起するが良い。即ち、イギリス人の如き民主的国民の間に於いてすら、ブ―トミ―氏が近頃言えるが如く、「一人の人並びにその後衛に対する人格的忠誠の感情は、彼らの祖先たるゲルマン人がその首領に対して抱きたるところであり、これが多かれ少なかれ伝わって、彼らの君主の血統に対する濃厚なる忠誠となり、それは王室に対する彼らの異常なる愛着の中に現われている」と。スペンサー氏は予言して曰く、「政治的服従は良心の命令に対する忠誠によって代わられるであろう」と。彼の推理が実現せられると仮定しても、忠義並びにそれに伴う尊敬の本能は永久に消滅するであろうか。我々は、我々の服従を一の主より他の主へ、しかもいずれにも不忠実たることなくして移す。現世の王権を司る支配者の臣民たることから、我々の心の至聖所に座したもう王の召使となる。

 数年前、邪路に陥れるスペンサー学徒によって提起された極めて馬鹿らしい論争が、日本の読書界に恐慌を巻き起こした。皇室に対する不可分の忠誠を擁護する熱心のあまり、彼らは、キリスト者を大逆の傾向ある者として非難した。それと云うのも、キリスト者は彼らの主に忠実を誓う者であるからと云う理由によった。彼らはソフィストの機知なくしてソフィスト的詭弁的議論を構え、そのスコラ学的な屈曲説はスコラ学徒としての洗練を欠いていた。彼らは知らなかったのである。我々が、或る意味に於いて、「これを親しみ、他を疎んじることなくして二君に仕え得ること」、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納むる」ことを。

 ソクラテスは、彼の鬼神(daemon)に対する忠誠に於いて一点の譲歩をも不退転に拒否しつつ、同様の忠実と平静とをもって地上の主たる国家の命令に服従したではないか。彼は、生きては彼の良心に従い、死して彼の国家に仕えた。国家がその人民に対し良心の指令権を要求するまでに強大となる日こそ悲しむべきである。武士道は、我々の良心を主君の奴隷と為すべきことを要求しなかった。トマス・モ―ブレ―の次の詩は善く我々を代弁している。「恐るべき君よ。我が身は御元に捧ぐ。我が生命は君の命のままなり。我が恥はしからず。生命を捨てるは我が義務なり。されど死すとも、墓に生ける我が芳しき名を、暗き不名誉の用に供するを得ず」。

 主君の気紛れの意志、もしくは妄念邪想の為に自己の良心を犠牲にする者は、武士道の掟の評価に於いては低き地位しか与えられなかった。かかる者は、「佞(ねい)臣」即ち良からぬお世辞をもって追従する奸徒として、あるいは「寵臣」即ち卑屈なるごますりによりて主君の愛を盗むお気に入りとして卑しめられた。これら二種の臣下はイアゴ―の語るところと正確に一致している。即ち、一人は「我が身を繋ぐ首の綱を押しいただき、主が厩(うまや)の驢馬(ろば)同然にむざむざ一生を仇(あだ)に過ごすはいつくばいの愚か者」であり、他は、「陽に忠義らしき身ぶり業体を作り立て、心の底では我が身の為ばかりを図る者」である。

 臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の道は、リア王に仕えしケントの如く、君の非を咎める為にあらゆる手段を尽すにあった。容れられざる時は、主君をして欲するがままに我を処置せしめた。かかる場合に於いて、サムライの常としたるところは、彼の血を漱(そそ)いで言の誠実を表明し、これによって主君の明智と良心に対し最後の訴えを為ことであった。生命はこれをもって主君に仕うべき手段なりと考えられ、しかしてその理想は名誉に置かれた。従って、武士の教育並びに訓練の全体はこれに基づいて行われたのである。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2012年5月15日 (火)

第八章 名誉(HONOR)

 さて今度は、騎士道の掟の特徴について暫くの間足を止めてみよう。名誉の感覚は個人の尊厳と価値の明白なる自覚を含む。従って、かの生まれながらにして自己の身分に伴う義務と特権を重んずるを知り、かつその教育を受けているサムライを特色づけずしては措かなかった。今日では、「Honor」は「名誉」と訳され通常に用いられるているが、自由に使用されていなかった。その概念は、「名」(name)、「面目」(countenance)、「外聞」(outside hearing)等の語によりて伝えられた。

 これらは、それぞれ聖書に於いて用いられる「名」(name)、ギリシャ語の面から出た「人格」(personality)と云う語及び「名声」(fame)を連想せしめる。善き名、即ち人の名声、即ち「人自身の不死の部分、これなくんば人は禽獣である」は、その潔白に対する如何なる侵害をも恥辱と感ずることを当然のこととした。そして、廉恥心は、少年の教育に於いて養成せられるべき最初の徳の一つであった。

 「笑われるぞ」、「体面を汚すぞ」、「恥ずかしくないのか」等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった。少年の名誉心に訴えることは、あたかも彼が母胎の中から名誉をもって奪われていたかの如く、彼の心情の最も敏感なる点に触れたのである。けだし、名誉は強き家族的自覚と密接に結ばれているが故に、真に出生以前の感化である。バルザック曰く「社会は家族の連帯を失ったことにより、モンテスキューが『名誉』と名付けし根本的の力を失った」と。実に、羞恥の感覚は、人類の道徳的自覚の最も早き兆候であると、私は思う。

 「禁断の木の実」を味わいし結果、人類に下りし最初且つ最悪の罰は、私の考えでは、子を生む苦しみでもなく、荊(いばら)と薊(あざみ)とでもなく、羞恥の感覚の目覚めであった。最初の母(イブ)が騒ぐ胸震う指もて、憂いに沈める夫の摘みて与える数葉のイチジク(無花果)の葉の上に粗末なる針を運ぶ光景に優りて、悲しき歴史上の出来事はない。この不従順の最初の実は、他に及ぶものなき執拗さをもって我々に固着している。人類のあらゆる裁縫技術も、吾人の羞恥感を有効に蔽(おお)うに足るエプロンを縫うのに未だに成功していないのである。

 或るサムライ(新井白石)の言や然りである。彼は、その少年時代に於いて軽微なる屈辱による品性の妥協を軽蔑し、「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、却ってそれを大ならしめるのみ」と述べている。孟子が、カーライルの言「恥は全ての徳、善き風儀並びに善き道徳の土壌である」と言ったことをば、彼に先立つ数百年にして、ほとんど同一の文句「羞恥の心は、義の端(はじめ)也」をもって説いている。我が国文学には、シェイクスピアがノ―フォークの口に吐かしめたる如き雄弁は、これを欠くが、それにも拘わらず恥辱の恐怖は甚だ大であって、ダモクレスの剣の如くサムライの頭上に懸(かか)り、しばしば病的性質をさえ帯びた。

 名誉の名に於いて、武士道の掟上、何らの是認を見出し得ざる行為が遂行された。極めて些細なる否想像上の侮辱によっても、短気なる慢心者は立腹し、たちまち刀に訴えて多くの無用なる争闘を惹き起こし、多くの無辜(むこ)の生命を奪った。或る町人が、一人の武士の背にノミが跳ねていることを好意を持って注意したところ、立ちどころに真っ二つに斬られたと云う話がある。けだしノミは畜生にたかる虫であるから、尊き武士を畜生と同一視するのは許すべからざる侮辱であると云う簡単且つ奇怪の理由による。

 が、かかる話は余りに馬鹿馬鹿しくて信じかねる。しかし、かかる話の流布したことには三つの意味が含まれている。1・平民を畏怖せしめる為に作られたこと。2・武士の名誉の身分に実際に乱用があったこと。並びに3・武士の間に極めて強き廉恥心が発達していたこと。これである。不正常なる一例をとって武士道を非難することの明白に不公平なるは、キリストの真の教訓をば宗教的熱狂及び妄信の果実たる宗教裁判及び偽善から判断するのに異ならない。しかし、凝り固まりの宗教狂にも、酔漢の狂態に比すれば、何ものか人を動かす高貴さのある如く、名誉に関するサムライの極端なる敏感性の中に、純粋なる徳の潜在を認め得ないだろうか。

 繊細なる名誉の掟の陥り易き病的なる行き過ぎは、寛大及び忍耐の教えによって強く相殺された。些細な刺激によって立腹するは、「短気」として嘲(あざけ)られた。諺に曰く「ならぬ堪忍するが堪忍」と。偉大なる家康の遺訓の中に次の如き言葉がある。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。(中略)堪忍は無事長久の基い。(中略)己を責めて人を責めるな」。彼は、その説きしところを自己の生涯に於いて実証した。或る狂歌師が、我が歴史上著名の三人物の口に各々の特徴を示す次の句を吐かせた。信長には、「鳴かざれば殺してしまえホトトギス」、秀吉には「鳴かざれば鳴かせてみようホトトギス」、しかして家康には「鳴かざれば鳴くまで待とうホトトギス」。孟子も又忍耐我慢を大いに推奨した。或る場所に於いて、彼は、「汝、裸体となって我を侮辱するとも、我に何かあらん。汝の乱暴によって我が魂を汚す能わず」との意味のことを書いている。又他の所に於いて、「小事に怒るは君子の恥じるところにて、大義の為の憤怒は義噴である」ことを教えた。

 武士道が如何なる高さの非闘争的非抵抗的なる柔和にまで能く達し得るかは、その信奉者の言によって知られる。例えば、小河(立所)の言に曰く、「人の誹(そし)るに逆らわず、己が信ならざるを思え」と。又、熊沢(蕃山)の言に曰く、「人は咎むとも咎めじ。人は怒るとも怒らじ。怒りと欲とを捨ててこそ常に心は楽しめ」と。今一つの例を、彼の高き額(ひたい)の上には「恥も座するを恥ずる」西郷(南洲)から引用しよう。曰く「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛したもう故、我を愛する心を持って人を愛するなり。人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くせ。決して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」と。 これらの言は、吾人をしてキリスト教の教訓を想起せしめ、しかして実践道徳に於いては自然宗教も如何に深く啓示宗教に接近し得るかを吾人に示すものである。以上の言は、ただに言葉に述べられたるに止まらず、現実の行為に具体化された。

 (注)西郷(南洲)の言は次の通り。「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

 寛大、忍耐、仁恕(じんにょ)のかかる崇高なる高さにまで到達したる者の甚だ少数であったことは、これを認めなければならぬ。何が名誉を構成するかについて、何ら明瞭且つ一般的なる教えの述べられなかったことは頗(すこぶ)る遺憾であった。ただ少数の知徳秀でたる人々だけが、名誉は「境遇より生ずるのではなく」、各人が善くその分を尽すにあることを知った。けだし、青年は彼らが事なき時に学びし孟子の語をば、行動に熱する時、極めて容易に忘れてしまった。この賢哲曰く、「名誉を愛するは全ての人の心にあり。しかし、本当に名誉的であるものは彼自身に宿っており他にはどこにもない。人が授与する名誉は善き名誉ではない。趙孟(ちょうもう)の貴くするところは、趙孟能くこれを賤(いや)しくす」。概して、侮辱に対しては、直ちに怒りを発し、死をもって報復せられたことは、後に述べるが如くである。

 これに反し、名誉は、しばしば虚栄もしくは世俗的称賛に過ぎざるものも、人生の至高善として尊ばれた。富にあらず、知識にあらず、名誉こそ青年の追い求めし目標であった。多くの少年は、父の家の敷居を越える時、世にい出て名を成すにあらざれば再びこれを跨(また)がじと心に誓った。しかして、多くの功名心ある母は、彼らの子が錦を着て故郷に帰るにあらざれば再びこれを見るを拒んだ。恥を免れ、もしくは名を得る為には、武士の少年は、如何なる欠乏をも辞せず、身体的もしくは精神的苦痛の最も厳酷なる試練にも耐えた。少年の時に得たる名誉は、齢(よわい)と共に成長することを、彼らは知っていた。

 大阪冬の陣の時、家康の一人の若き子(紀井頼宣)は先鋒に加えられんと熱心に懇願したるに拘わらず、後陣に置かれた。城の落ちし時、彼は甚だしく失望して激しく泣いた。そして、一人の老臣があらん限りの手を尽して彼を慰めんと試み、「今日御手に御あいなされず候とも、御急ぎなさるまじく候。御一代にはかようの事、幾度も御ざるべく候」と諌(いさ)めしに、頼宣は、その老臣に向い怒りの眼を注いで、「我ら13歳の時の又あるべきか」と言ったと云う。もし名誉と名声が得られるならば、生命そのものさえも廉価と考えられた。それ故に、生命よりも高価であると考えられる事が起きれば、極度の平静と迅速とをもって生命を捨てたのである。如何なる生命をこれが為、犠牲にするとも高価なるに過ぎずととせられし事由の中に忠義があった。これは封建の諸道徳を結んで一の均整美あるアーチと為したる要(かなめ)石であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第七章 まじめさ又は誠実さ(VERACITY OR TRUTHFULNESS)

 礼義正しさ(Politeness)がなければ、礼は茶番且つ見世物になる。伊達政宗曰く、「礼節(Propriety)は広々と際限がないものである。礼に過ぎれば諂(へつら)いになる」。或る昔の歌人は、ポロ二ウス(Polonius)に与えた忠告の言「心だに誠の道に適(かな)いなば、折らずとても神や守らん」に於いて、彼を凌駕している。

 孔子は、「中庸」に於いて誠を尊び、これに超自然力を賦与し、ほとんど神と同視した。曰く「誠は、あらゆるものの終始なり。誠ならざれば何もなし」と。彼は更に、誠の濃厚にして悠久たる性質を熟考し、その力が、意識的に動かすことなく変化を生み出し、無為にして目的を達成することにつき滔々と述べている。中国語の「誠」と云う漢字は、「言」と「成」との結合である。人をして薪プラトン学派のロゴス説との類似を思わしむるものがある。かかる高さにまで、孔子はその非凡なる神秘的飛翔をもって達したのであった。

 嘘をつくこと、ごまかしは共に卑怯臆病とみなされた。高き社会的地位を持っていた武士は、町人や百姓よりも高い信実の標準を要求した。サムライ言葉の「武士の一言(いちごん)」は、ドイツ語のリッターヴォルト( Ritterwort)がまさしくこれに当たるが、その言の真実性に対する十分なる保障であった。武士の言葉はかかる重みを持っていた。その約束は概して書きつけ証書に拠らずして結ばれ且つ履行された。証文を書くことは彼の威厳に相応しくないと考えられた。「二言」即ち二枚舌をば、死によって償った多くの身震いさせられる物語が伝わっている。

 信実を重んずることかくの如く高く、従って真個のサムライは、誓いを彼らの名誉を引き下げるものと考えた。この点、キリスト教徒が概して彼らの主の「誓う勿れ」と云う明白なる命令を絶えず破っているのとは異なる。武士が八百万(やおよろづ)の神を呼び、もしくは刀に懸けて誓ったことを私は承知している。しかしながら彼らの誓いは決して遊戯的形式や不敬虔な間投詞にまで堕落しなかったのである。言を強める為に折に触れて文字通り血判で証した。かかる方法の説明として、私の読者に対してはゲーテのファウストの参照を求むれば足りるであろう。

 近頃、一人のアメリカ人が書を著わして、「もし普通の日本人に対し、虚言を云うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく“虚言”と答えるだろう」と述べた。かく云えるビ―リ―博士は、一部分は正当であり一部分は間違っている。普通の日本人のみでなく、サムライでさえも、彼の云えるが如くに答えるだろう、と云う点に於いては正しい。しかし、博士が日本語の“ウソ”と云う語を“falsehood”と翻訳して、これに過度の重みを置いた点は誤りである。

 この言葉(「うそ」と云う日本語)は、何でも真実(まこと)(truth)でなきこと、もしくは事実(本当)(fact)でなきことを示す為に用いられる。ローウェルの云うところによれば、ワーズワースは真実と事実とを区別することができなかったと云うが、普通の日本人はこの点に於いてはワーズワースと異ならない。日本人に、或いは幾らか教養のあるアメリカ人にでも、彼が君を好まないかどうか、もしくは彼が胃病であるかどうを質問して見よ。長く躊躇することなくして、「私は君を甚だ好む」とか、「私は大丈夫です、有難う」とか虚言の答えをするであろう。これに反し、単に礼儀の為に真実を犠牲にすることは「虚礼」であり「甘言、人を欺くもの」であるとされ、決して正当化されなかった。

 私は、今、武士道の信実観を語りつつあることを承知している。しかし、我が国民の商業道徳について数言を費やすことは不当ではあるまい。これについては外国の書籍、新聞に於いて多くの不平を聞いている。締りのない商業道徳は実に我が国民の名声上最悪の汚点であった。しかしながら、これを悪口し、もしくはこれが為に今国民を早急に非難する前に、それを冷静に研究しようではないか。しからば我々は将来に対する慰謝をもって報いられるであろう。

 サムライの人生に於ける全ての大なる職業中、商業ほど遠く離れたるはなかった。商人は職業の階級中、士農工商と称して最下位に置かれた。サムライは土地より所得を得、且つ自分でやる気さえあれば素人農業に従事することさえできた。しかし、帳場と算盤(そろばん)は嫌悪された。我々は、この社会的取り決めの知恵を知っている。モンテスキューは、貴族を商業より遠ざけることは、権力者の手への富の集積を予防するものとして称賛すべき社会政策たることを明らかにした。権力と富との分離は富の分配を均等に近からしめる。ディル教授は、その著「西帝国最後の世紀に於けるローマ社会」に於いて、ローマ帝国衰亡の一原因は、貴族の商業に従事するを許し、その結果として少数元老の家族による富と権力の独占が生じたことにうると論じて、我々の記憶を新たにするところがあった。

 この故に、封建時代に於ける日本の商業は、自由なる状態の下にその到達し得べかりし程度にまで発達するを得なかったのである。この職業に対する侮蔑は、おのずから社会的評判などに頓着しないような人々をその範囲内に集めた。「人を泥棒と呼べば、彼は盗むであろう」(Call one a thief and he will steal)。ある職業に汚名を付すれば、これに従事する者はその道徳をこれに準ぜしめる。 ヒュー・ブラックの云う如く、「正常の良心は、これに対して為される要求の高さにまで上がり、又これに対して期待せられる標準の限界にまで容易く下る」ことは、けだし自然である。

 商業であれ他の業であれ、如何なる職業も道徳の法典なしに行われ得ざることは付言するを要しない。封建時代に於ける我が国の商人も彼らの間に道徳の法典を有したのであり、それなくしては彼らは、たといなお胎生的状態に於いてではあったが、同業組合、銀行、取引所、銀行、保険、手形、為替等の如き基本的商業制度の発達を遂げることさえなかったのである。しかしながら、自己の職業以外の人々に対する関係に於いては、商人の生活は彼ら階級の評判に全く相応しきものであった。

 こういう事情であったから、我が国が外国貿易に開放せられた時、最も冒険的かつ無遠慮なる者のみが港に馳せつけ、尊敬すべき商家は当局者から支店開設の要求が繰り返しあったにも拘わらず、暫くの間、これを拒否し続けたのである。しからば、武士道は、商業上の不名誉の流れを阻止するに無力であったか。その点を考えてみよう。

 我が国の歴史を熟知する者は記憶するであろう如く、我が開港場が外国貿易に開かれたる後、近々数年にして封建制度は廃せられた。しかしてこれと共に武士の秩禄が取り上げられ、その代償として公債が与えられた時、彼らはこれを商業に投資する自由を与えられたのである。そこで諸君は問うであろう。「何故、彼らはその大いに誇りとせる信実をば彼らの新しき事業関係に応用し、それによって旧弊を改良し能わざしや」と。
多くの高潔にして正直なる武士は新しくかつ不慣れなる商工業の領域に於いて、狡猾なる平民の競争者と競争するに際し、全然駆け引きを知らぬが為回復し難き大失敗を招き、彼らの運命について、見る目ある者は泣いても飽き足らず、感ずる心ある者は同情しても、し足りなかったのである。

 アメリカの如き実業国にありてさえ、実業家の80%は失敗するということだから、実業に就きし武士にして、新職業に成功せし者が百人中辛うじて一人であっても、驚くに足りぬではないか。武士道の道徳を商取引に適用せんとの試みに於いて、幾ばくの財産が破滅したかを認めるには時を要するであろう。しかしながら、富の道は名誉の道ではないことは誰が見てもすぐに分かった。しからば、両者の差異は如何なる点に存したか。

 レツキ―の教えたる信実の三つの誘因、即ち経済的、政治的、及び哲学的の中、第一のものは全く武士道に欠けていた。第二のものも、封建制度下の政治社会に於いては多く発達するを得なかった。正直が我が国民道徳の目録中高き地位を獲得したのは、その哲学的、しかしてレツキーの言える如く、その最高の表現に於いてであった。アングロ・サクソン民族の高き商業道徳に対する私の全ての誠実なる尊敬をもってして、その窮極の根拠を質問する時、私に与えられる答は「正直は最善の秘策なり」であり、即ち正直は引き合うと云うのである。しからば、徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直が虚偽よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば私は恐れる。武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを。

 武士道は、「或るものに対して或るもの」(
quid pro quo)と云う報酬の主義を排斥するが、賢(さか)しらなる商人はこれを受容する。信実は、その発達を主として商工業に負うとのレツキーの言えるは極めて正しい。二イチェの言う如く正直は諸徳の中最も若い。換言すれば、それは近世産業の養児である。この母なくしては信実は素性高き孤児の如く、最も教養ある心のみ、これを養い育てるを得た。かかる心は武士の間には一般的であった。しかし、より平民的かつ実利的なる養母のなかりし為、幼児は発育を遂げなかったのである。産業の進歩するに従い、信実は実行するに容易なる、否、有利なる徳たることが分かって来るであろう。

 考えてみよう。1880年11月、ビスマルクが、ドイツ帝国の領事に訓令を発して、「就中(なかんずく)ドイツの船積みの貨物がその品質及び数量とも嘆ずべき信用の欠乏を示すこと」について警告した。しかるに、今日、商業上ドイツ人の不注意不正直を聞くことは比較的少ない。20年間にドイツの商人は結局正直が引き合うことを学んだのである。既に、我が国の商人もこのことを発見した。これ以上のことについては、私は読者に対し、この点に関して的確なる判断を下せる二つの近著を薦(すすす)める。これに関連して、正直と名誉とは、商人たる債務者ですら証書の形式上提出し得る最も確実なる保証たりしことを述べるのは興味あることであろう。次に述べるような類(たぐい)の文句を記入するは、普通に行われしことであった。

 「恩借の金子御返済怠り候節は、衆人満座の前にて御笑いなされ候とも苦しからず候」、「御返済相致さざる節は、馬鹿と御嘲りくだされたく候」。武士道の信実は果たして勇気以上の高き動機を持つやと、私はしばしば自省してみた。偽りの証しを立つること勿れとの積極的なる戒めが存在せざる為、虚言は罪として裁かれず、単に弱さとして排斥せられた。事実に於いて、正直の観念は名誉と不可分に混和しており、かつそのラテン語及びドイツ語の語源は名誉と同一である。ここにおいて武士道の名誉観を考察すべき適当なる時期に到達した。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年5月14日 (月)

第六章 礼儀(POLITENESS)

 作法の慇懃(いんぎん)鄭重(ていちょう)さは、日本人の著しき特性として外人観光者の注意を惹(ひ)くところである。礼儀は、もしそれが単に良き趣味を損なうことを恐れて為されるに過ぎざる時は貧弱なる徳である。然るに、真の礼は、他人の感情に対する同情的思いやりを目に見える形で表現することである。それは又、事物の適合(fitness)に対する正当なる配慮を含蓄している。従って社会的地位に対して正当なる配慮をする。何となれば、社会的地位は、何ら財物にものを云わせての差別を表わすものではなく、本来は実際の功労に基づく弁えであるからである。

 礼の最高の形態は、ほとんど愛に近づく。我々は敬意をもって云い得る。「礼は、長い苦難に耐え、親切にして、人を妬(ねた)まず、自慢して高ぶらず、思い上がらず、自身の利益を求めず、誰彼に動かされず求めず、容易に人をいらまかせず、悪事を企まない」。ディーン教授が、人の性の六つの要素を挙げたる中、礼に高き地位を与え、これをもって社交の最も成熟せる果実であると看做したことも又怪しむに足りない。

 かく礼は尊ばれるけれども、私は、これを諸徳の第一位に置こうとは思わない。 これを分析すれば、我々は、礼が、より高き階級の他の諸徳と相関関係にあるを見出すことになるだろう。そもいずれの徳が孤立して存在し得ようか。礼は、武門の特殊なる徳として称賛せられ、その値する以上に高き尊敬を払われたけれども、あるいはむしろ払われたが故に偽物(にせもの)が起って来た。孔子は、虚礼の礼にあらざるは、あたかも音響の音楽に於けるが如くであることを繰り返し教えた。

 礼が社交の不可欠要件にまで高められる時、青少年に正しき社交的態度を教える為に、行儀作法の詳細なる体系が制定せらるるに至るはけだし当然であろう。人に挨拶する時には如何に身を曲げるべきか、如何に歩み着席すべきかは最大の注意をもって教えられ、且つ学ばれた。テーブルマナーは学問にまで発達した。茶を煎じ、喫することは礼式にまで高められた。教養ある人は当然、全てこれらの事に通暁(つうぎょう)せるものと期待せられた。ヴェブレン氏がその快著の中で、礼義をば「有閑階級生活の産物であり、象徴である」と云えるは誠に適切である。

 私は、ヨーロッパ人が、我が国民の詳密なる礼法を卑しめて云う批評をしばしば耳にする。曰く、「礼は我々の思考を余りに多く奪うものであり、その限りにおいて、これが厳格なる遵守は馬鹿げている」と。儀礼の中に不必要なる末節の規定があることを私は認める。しかし、西洋が絶えず変化する流行に従うことと比較して、果たしていずれが多く馬鹿げているか、私の心には甚だはっきりしない問題である。流行でさえ、私は単に虚栄の移り気であるとは考えない。反対に却って、私は、それらを、美に対する人心の絶えざる探求であると見る。いわんや、私は、詳密なる儀礼をば全然つまらぬものであるとは思わない。それは、一定の結果を達成する為の最も適切なる方式として、長きに亘って実践してきた結果を表わしているものである。

 何かを為さんとする時は、それを為すに最善の道があるに違いない。しかして最善の道は、最も経済的であると同時に最も優美なる道である。スペンサー氏は、優美を定義して、動作の最も経済的なる態度であると看做した。茶の湯の作法は、茶碗、茶杓(しゃく)、茶巾(きん)等を取り扱うに、一定の方式を定めている。初心の者には、それは退屈に思える。しかし、間もなく、定められたるその方式が、結局は時間と労力とを最も省(はぶ)くものであること、換言すれば、力の最も経済的なる使用であることを発見する。それ故にスペンサーの定義に従えば「最も優美」と云うことになる。

 社交的礼法の精神的意義は、これを「衣服哲学」の用語を借りて云うならば、礼儀作法は精神的規律の単なる外皮であると云って良いのだが、その外見が我々に信ぜしめるところに比して遥かに大である。我々は、スペンサー氏の例に倣(なら)い、我が国民の礼法についてその起源並びにこれを成立せしめたる道徳的動機の跡を尋ねてみよう。しかし、これは、私が本書に於いて為そうと努むるところではない。私の強調せんと欲するは、礼儀の厳格なる遵守の中に含まれている道徳的訓練である。

 私は、礼儀作法が枝葉末節に至るまで詳細に規定されたと述べた。そういうことで、流儀を異にする諸種の流派を生じさせることになった。しかし、これらは全て究極の本質に於いては一致しているのであって、最も著名なる小笠原流宗家(小笠原清務)の述べたる言葉によれば次のように云える。「礼儀の要は心を練るにあり。礼をもって端坐すれば、乱暴狼藉者が剣を取りて向かうとも害を加えること能わず」。これを換言すれば、絶えず正しき作法を修むることにより、人の身体の全ての部分及び機能に完全なる秩序を生じ、身体と環境とが完く調和して肉体に対する精神の支配を表現するに至る、と云うのである。フランス語のビアンセアンス(biensèance、語源で「正座」を意味する)も、これによれば、新たなるかつ深き意味を持つではないか。

 優美が力の経済を意味するとの言が果たして真であれば、その論理的結果として、優美なる作法の絶えざる実行は、力の予備と蓄積をもたらすに違いない。典雅なる作法は、それ故に、休息状態に於ける力を意味する。野蛮族のゴール人が、ローマを荒らしながら会議中の元老院に闖入し、尊敬すべき元老たちの髭を引っ張るの無礼を敢えて為した時、元老たちの態度が威厳と力を欠いていたことは非難されるに値すると思われる。しからば、高き精神的境地は、礼儀作法によって実際に到達し得るであろうか。何でできないことがあろう。全ての道はローマに通ずる。

 最も簡単なる事でも一つの芸術となり、しかして精神修養となりうる一例として、私は「茶の湯」(茶の儀式)を挙げよう。芸術としての喫茶。何の笑うべきことがあろう。砂に描く小児、もしくは岩に刻む未開人の中に、ラファエルやミケランジェロの芽があったのである。いわんやヒンズー教の隠者の瞑想に伴いて始まりし茶の飲用が、宗教及び道徳の侍女にまで発達する資格を有することは、遥かに大ではないか。

 心の平静、感情の明澄、挙措の物静かさは、茶の湯の第一本質的要素であり、疑いもなく正しき思索と正しき感情の第一要件である。騒がしき群衆の姿や音響より遮断せられたる小さき室の周到なる清らかさそれ自体が、人の思いを誘って俗世を脱せしめる。清楚なる室内には、西洋の客間にあるような無数の絵画、骨董品の如くに人の注意を幻惑する者はなく、「掛け物」は色彩の美よりもむしろ構図の雄大さに我々の注意を惹く。趣味の至高の洗練が求められたる目的であり、これに反し些かの虚飾も宗教的恐怖をもって追放せられる。戦争と戦争の噂の絶えざる時代に於いて、一人の瞑想的隠遁者(千利休)によって工夫せられたという事実そのものが、この作法の遊戯以上のものたるを示すに十分である。

 茶の湯に列なる同輩は、茶室の静寂境に入るに先立ち、彼らの刀と共に戦場の凶暴、政治の顧慮を置き去って、室内に平和と友情とを見出したのである。茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術である。それは律動的なる動作をば韻律と為す詩である。それは精神修養の実行方式である。茶の湯の最大価値は、この最後に挙げた点に存する。茶道を学ぶ者にしてその心を他の点に専らにする者も少なくない。しかし、これは茶道の本質が精神的性質のものにあらずとのことを立証するものではない。

 礼義は例え挙動に優美を与えるものに過ぎずとしても、大いに益するところがある。然るにその職能はこれにとどまらない。礼義は、仁愛と謙譲の動機より発しており、他人の感じに対する優しき感情によって動くものであるから、常に思いやりの優美なる表現である。礼の我々に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。かかる教訓的要求が日常生活の些細なる点に及ぶ時は、ほとんど人の注意を惹かざる小さき行為として現われる。又はよしんば注意を惹くにしても、日本在住二十年の一婦人宣教師がかって私に語りし言によれば、「恐ろしく可笑しく」見えるのである。

 もし日中炎天下に日傘をささずして戸外にあり、知り合いの日本人に会いて挨拶したとすれば、その人はすぐに帽子を取る。宜しい、それは極めて自然である。しかし、彼が対談中、自分の日傘を下ろして炎天に立ち通すということは「恐ろしく可笑しい」仕草である。何と馬鹿げたことよ。然り、もし彼の動機が、「君は陽に晒されている。私は君に同情する。もし私の日傘が十分大きければ、もしくは我々が親友の間柄であるならば、私は喜んで君を私の日傘の下に入れてあげたい。しかし、私は君を覆うことができないから、せめて君の苦痛を分かつであろう」と云うにあるのでなければ、それは本当に可笑しいことであろう。これと等しく、あるいはもっと可笑しい小さい行為が少なくないが、それらも単なる身振りだとか習慣ではない。それらは他人のもてなしを慮(おもんばか)る思慮深き感情の「体現」である。

 我が国礼法によって定められている習慣のうちで「恐ろしくおかしい」例を、もう一つ挙げよう。日本についての多くの皮相なる著者は、これをば日本国民に一般的なる何でも逆さまの習性に帰して簡単に片付けている。この習慣に接したる外国人誰でも、その場合に適切なる返答を為すに当惑を感ずることを告白するであろう。ほかでもない、アメリカで贈り物をする時には、受け取る人に向かってその品物を褒めそやす。が、日本ではこれを軽んじたり卑しめたりする。アメリカ人の底意はこうである。「これは善い贈り物です。良い物でなければ、私は敢えてこれを君に贈りません。善き物以外の物を贈るのは侮辱ですから」。

 これに対して、日本人の論理はこうである。「あなたは善い方です。如何なる善き物もあなたには相応しくありません。私があなたの足下に如何なる物を置いても、私の行為の気持ちとして以外にはそれを受け取り給わないでしょう。この品物をば物自身の価値の故にではなく、私の気持ちの印として受け取ってください。最善の贈りものでも、それをばあなたに相応しきほどに善いと呼ぶことは、あなたの値打ちに対する侮辱になるでしょう」。この二つの思想を対照すれば究極の思想は同一である。どちらも「恐ろしく可笑しい」ものではない。アメリカ人は贈り物の物としての値打ちについて語り、日本人は贈り物を差し出す精神について語っている。

 我が国民の礼義の感覚が挙措のあらゆる枝葉末節にまで現われるが故に、その中最も軽微なるものを取りて典型なりとし、これに基づいて原理そのものに批判を下すは、転倒せらるる推理の法である。食事と食事の礼法を守ることと、いずれが重きか。これについて、中国の賢人(孟子)が答えて次のように述べている。「食の重き者と礼の軽き者とを取りてこれを比せば、何ぞただに食の重きのみならんや」。「金は羽より重し。しかし、一握りの金と荷馬車一1 台分の羽とについて言及したならば、何をどう云えばよいものか」。

 方寸の木を取って、教会堂の塔上の小尖塔(せんとう)の上に置いても、これをもって方寸の木が教会堂よりも高いと云う者はなかろう。人或いは云う。「真実を語るここと礼義を守ることと、いずれがより重要であるか」。この問いに対し、日本人はアメリカ人と正反対の答えを為すであろうと。しかし、私は、信実及び誠実について述べる頃に至るまで、これに対する評言を差し控えることにする。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

第五章 仁、その惻隠(そくいん)の心(BENEVOLENCE, THE FEELING OF DISTRESS)

 愛、寛容、愛情、同情、憐憫(れんぴん)は、古来最高の徳として即ち人の魂の属性中最も高きものとして認められていた。仁は二様の意味に於いて王侯の徳と考えられた。一つは高貴なる精神に伴う多くの属性中の王侯的なものとして、もう一つは特に王侯的地位に相応(ふさわ)しいものとして。我々は、恐らく世界各国民皆がこれを知っているからして仁を感知するのに敢えてシェイクスピアを必要としない。それを記すのに彼を必要としたのである。そのシェイクスピアは次のように記している。「仁は王冠よりも善く王者に似合う。仁は王杓(しゃく)を持ってする支配以上のものである」。

 孔子も孟子も、人を治める者の最高の必要条件は仁に存することを何度繰り返したことか。孔子曰く、「君子はまず徳を耕(たが)やす。君子に徳あれば人群がる。人群がれば国となる。国あればこれ財あり。財あればこれ用あり。徳は本也。利は末也」(大学)。又曰く、「上、仁を好みて、下、義を好まざる者未だあらざるなり」(大学)。孟子は、これを祖述して曰く、「不仁にして国を得る者はこれあり。不仁にして天下を得る者は未だこれあらざるなり」。又曰く、「天下心服せずして王たる者は未だこれあらざるなり」。両者共に、王者たる者の不可欠要件を定義して次のように述べている。「仁とは人なり」(中庸)。

 封建制の政治は武断主義に堕落し易い。その下に於いて最悪の種類の専制から我々を救いしものは仁であった。被治者が「生命と肢体」を全く捧げる時、残るものは治者の自己意思のみとなり、その自然的結果は絶対主義の発達となる。これはしばしば東洋的専制と呼ばれる。あたかも西洋の歴史には一人の専制者もいなかったかの如くに。私は、如何なる種類の専制政治をも支持する者では断じてない。しかし、封建制を専制政治と同一視するのは誤謬である。

 フレデリック大帝が「王は国家の第一の召使である」と記した時、法律学者たちが自由発達の一新時代が来たと評したことは正しい。不思議にもこれと時を同じくして、東北日本の僻(へき)地に於いて、米沢藩の上杉鷹山がまことに同じ宣言をしている。その宣言で、封建制が決して暴虐圧政にあらざることを示している。曰く「国家人民の立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民にはこれなく候」。封建君主は、臣下に対して相互的義務を負うとは考えなかったが、自己の祖先並びに天に対して高き責任を感じていた。彼は臣下の父であり、民は天より保護を委ねられたる子であった。中国の古典「詩経」に曰く、「殷の未だ諸々を失わざるとき、よく上帝に配せり」。又孔子は「大学」に於いて、「民の好むところこれを好み、民の悪(にく)むところこれを悪む、これをこれ民の父母と云う」と教えた。かくして民衆の世論と君主の意思、もしくは民主主義と絶対主義とは融合した。

 或る意味で、さほど認知されていないが、武士道は通常考えられているとは異なる意味に於いて父権政治を受け入れ且つ確認していた。それは又関心のやや薄い叔父政治(即ちアンクル・サムの政治)に相対する意味においても親父的だった。専制政治と父権政治との差は次の点にある。即ち、前者にありては人民は嫌々ながら服従するに反し、後者にありては「かの誇りをもってせる帰順、かの品位を保てる従順、かの隷従の中にありながら高き自由の精神の生くる心の服従」である。

 古諺(こげん)に云うところの次の章句は全然誤謬とは云えない。イギリス国王のことを、「悪鬼の王である。何となれば彼の臣下はしばしば君主に対して反逆、かつ奪位するが故に」。フランス国王に対しては「間抜けの王である。何となれば租税公課を無限に負わす故に」。スペイン国王に対しては「人間の王と云う称号を与える。何となれば臣民が喜んで服従しているから」。もう良かろう(これくらいにしよう)。

 アングロ・サクソン人の心には、徳と絶対権力が調和するなど不可能な語として響くだろう。ポべドノスツエフは、イギリス社会の基礎と他のヨーロッパ諸国の社会との対照を明瞭にして、大陸諸国の社会は共同利害の上に組織せられているに反し、イギリス社会の特徴は強度に発達したる独立の人格にありとした。このロシアの政治家は、ヨーロッパ大陸諸国ことにスラブ系諸国民の間に於いては、個人の人格は何らかの社会的団結、終局に於いては国家に依存すると述べた。

 このことは日本人については特に然りである。この故に、我が国民にありては、君主の権力の自由なる行使はヨーロッパに於けるが如くに重圧と感ぜられざるのみでなく、人民の感情に対する親父的考慮をもって概して緩和せられているのである。ビスマルクは云う。「絶対政治の第一要件は、治者が無私、正直にして義務感強く、精力的にして内心の謙遜を持つことである」。この問題について、なお一つの引用を為すことを許されるならば、私はドイツ皇帝がコブレンツに於いて為した演説の一句を挙げたい。曰く、「王位は神の恩恵により、且つ神のみに対する重き義務と巨大なる責任を伴う。いかなる人も、大臣も、義会も、国王からこれを免除し得ないのである」。

 仁は、柔和なる徳であって、母の如くである。真直なる道義と厳格なる正義とが特に男性的であるとすれば、慈I愛は女性的なる柔和さと説得性を持つ。我々は、無差別的なる慈愛に溺れることなく、正義と道義でこれに味付けすべきことをしないように戒められた。伊達正宗が「義に勝れば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と道破せし格言は、人のしばしば引用するところである。幸いにも慈愛は美であり、しかも稀有なものではない。「最も剛毅なる者は最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なるものである」とは普(あまね)き真理である。

 勇者の優しさを意味する「武士の情け」なる言は、直ちに我が国民の高貴なる感情に訴えた。サムライの仁愛が他の人間の仁愛と種別的に異なる訳ではない。しかし、武士の場合にありては愛は盲目的の衝動ではなく、正義に対して適当なる配慮を払える愛であり、又単に或る心の状態としてのみでなく、生殺与奪の権力を背後に有している。経済学者が有効なる需要と有効ならざる需要とを説く如く、我々は武士の愛をもって有効なる愛と云い得るであろう。けだしそれは相手方に利益もしくは損害を加え得る実行力を含むが故である。

 武士は、その有する武力、並びにこれを実行に移す特権を誇りとしたが、同時に孟子の説きし仁の力に対し全き同意を表した。孟子曰く、「仁の不仁に勝つは、なお水の火に勝つが如し。今の仁を為す者はなお一杯の水を持って一車薪(まき)の火を救うが如き也」。又曰く、「困窮難儀の心は仁の始めなり。故に、情け深き人は、苦しみ且つ困窮難儀している者に対して思いやりが深い」。かく、孟子は、かの道徳哲学の基礎を同情に置きたるアダム・スミスに遠く先んじて、既にこれを説いたのである。
 
 一国に於ける武士の名誉の法典が他国のそれと如何に密接に一致するかは、実に驚くべきものがある。換言すれば、多くの非難を浴びせられたる東洋の道徳観念の中にも、ヨーロッパ文学の最も高貴なる格言と符節を合わせるものあるを発見するのである。よく知られている詩句「破れたる者を安んじ、傲(たか)ぶる者を挫(くじ)き、平和の道に立つること、これぞ汝が技」を日本人紳士に示せば、彼は直ちにマンチェアの詩人(ヴェルギリウス)を咎めて、自国文化の剽窃者と為すかも知れない。弱者、劣者、敗者に対する仁は、特にサムライに相応しき徳として称賛せられた。

 日本美術の愛好者は、一人の僧が後ろ向きに馬に乗る絵を知っているであろう。これはかっては武士であり、盛んなりし日にはその名を聞くさえ恐れし猛者(もさ)であった。須磨の浦の激戦(西暦1184年)は、我が歴史上最も決定的な合戦の一つであったが、その時、彼は、一人の敵を追いかけ、逞しき腕に組み伏せた。かかる場合、組み敷かれたる者が高き身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比し力量劣らぬ者でなければ、血を流さぬことが戦の作法であったから、この猛き武士は己の組み敷ける人の名を知ろうとした。しかし、名乗りを拒むので兜(かぶと)を押し上げて見るに、髭もまだなき若者の美麗なる顔が現われた。武士は驚き、手を緩めて彼を助け起し、父親の如き声でこの少年に「行け」と云った。「あな美しの若殿や。御母の許へ落ちさせ給え。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず。敵に見咎められぬ間にとくとく逃げ延び給え」。

 若き武士は去るを拒み、双方の名誉の為にその場にて己の首を討たれよと、熊谷に乞うた。老朽の熊谷が霜置く頭に振り翳したる白刃は、これまであまたたび人の玉の緒を断ちし刃であった。しかし、彼の猛き心も砕け、我が子が今日の初陣(ういじん)に貝鐘諸共に先駆けしたる姿も目の当たりに映じて、武夫(もののふ)の強き腕も慄(おのの)いた。再び落ちさせ給えと願った。敦盛(あつもり)これを聴かず、且つ味方の軍兵の近づく足音を聞いて叫んだ。「今はよも逃し参らせじ。名もなき人の手に失われ給わんより、同じうは直実が手に掛かりて後の御孝養をも仕(つかまつ)らん。一念阿弥陀仏、即滅無量罪」。その瞬間、太刀空中に閃き、その下るや刃は若武者の血に染めて紅であった。戦が終り熊谷は凱旋したが、彼はもはや勲功名誉を思わず、弓矢の生涯を捨て、頭を剃り、僧衣を纏(まと)いて、日入る方阿弥陀の浄土を念じ、西方に背を向けじと誓いつつ、その余生をば神聖なる行脚(あんぎゃ)に託したのである。

 批評家は、この物語の欠点を指摘するだろう。枝葉末節に於いては非難に堪えざるものがあるかも知れないが、いずれにしても、優しさ、憐れみ、愛がサムライの最も血生臭い武功を美化する特質なりしことを、この物語が示すことには変わりがない。「窮鳥、懐(ふところ)に入る時は、猟夫(かりゅうど)もこれを殺さず」と云う古い格言がある。特にキリスト教的であると考えられた赤十字運動が、あれほど容易く我が国民の間に地保を占めたる理由の説明は、概ねこの辺りに存するのである。

 吾人は、ジュネーブ条約(万国赤十字条約)を耳にするに先立つ数十年前、我が国最大の小説家である馬琴の筆により、敵の傷者に医療を加える物語に親しんだ。尚武の精神並びに教育にて著名なりし薩摩藩では、青年の間に音楽を嗜む風が行われていた。音楽と云っても、「かの血と死との騒々しき前触れ」たるラッパを吹き太鼓を打ちて、虎の行動の真似をするように刺激するのではなく、哀れ優しき琵琶を弾じて猛き心を和らげ、思いを血雨の外に馳せしめたのである。ポリピウスの語るところによれば、アルカディアの憲法に於いては、30歳以下の青年は全て音楽を課せられた。けだしこの柔和なる芸術によって、風土の荒涼より来たる粗剛の性質を緩和せんとしたのである。アルカディア山脈のこの地方に残忍性の見られざる理由を、彼は音楽の影響に帰している。

 日本に於いて武士階級の間に優雅の風が養われたのは、薩摩だけのことではない。白河楽翁公が心に浮かぶままを書き記せる随筆の中に次のような言葉がある。「枕に通うとも咎なきものは花の香り、遠寺の鐘、夜の虫の音はことに哀れなり」。又曰く、「憎くとも許すべきは花の風、月の雲、うちつけに争う人は許すのみかは」。これらの優美なる感情を外に表現する為に、否むしろ内に涵養するが為、武士の間に詩歌が奨励された。それ故に我が国の詩歌には悲壮と優雅の強き底流がある。

 或る田舎サムライ(大鷲文吾)の物語として、人に知られたる逸話がある。彼が俳諧を勧められ、「鷲の音」と云う題にて最初の作を試みたが、猛き心が裏切って、「鷲の初音を聞く耳は別にしておく武士かな」と云う拙作をば投げ出した。彼の師(大星由良之助)は、この粗野なる感情にも驚かず彼を励ました。遂に或る日、彼の魂の音楽が目覚め、鷲の妙音に応じて、「武士(もののふ)の鷲聞いて立ちにけり」との名吟を得た。

 ケルナ―は、戦場に傷つき倒れし時、有名なる「生命への告別」を賦した。彼の短命なる生涯におけるこの英雄的行為を我々は称賛欣慕するが、同様の出来事は我が国の合戦に於いて決して稀ではなかった。我が国の簡潔なる詩形は、特に物に触れ事に感じて咄嗟の感情を表現するのに適している。多少の教養ある者は皆和歌俳諧を事とした。戦場に馳せる武士が駒を止め、腰の矢立てを取りだして歌を詠み、しかして戦場の露と消えし後、兜もしくは鎧の内側からその詠み草の取り出されることも稀ではなかった。戦闘の恐怖の真っただ中に於いて、哀憐の情を換起することをヨーロッパではキリスト教が為した。それを日本では音楽並びに文学の嗜好が果たしたのである。優雅の感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙譲、慇懃の心は礼の根本を為す。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月13日 (日)

第四章 勇気、その勇猛さと忍耐の精神(COURAGE, THE SPIRIT OF DARING AND BEARING)

 我々が踏み行うべきにして戻るべき「勇気、その勇猛さと忍耐の精神」を検討してみよう。勇気は、義の為に行われるのでなければ徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子は、論語に於いて「義を見て為さざるは勇なきなり」と説いた。その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下している。曰く「正しきことは行われるべし」。且つ「勇の欠如の議論に耽ることをせざる勿れ」としている。この格言を積極的に云い直せば、「勇とは正しきことを為すことなり」と云うことになる。

 あらゆる種類の危険を冒し、一命を危うくし、死の顎(あご、あざと)に飛び込む。これらはしばしば勇気と同一視せられ、しかして武器を取る職業においてはかかる猪突的行為(シェイクスピアが「勇気の私生児」と命名している)が不当に喝采された。しかし、武士道の教訓上のものではない。正しき武士道に於いては、死に値せざる事の為に死するは「犬死に」と呼ばれた。

 水戸の義公曰く、「戦場に駆け入りて討ち死にするはいと易き技にて、いかなる無下の者にても為し得らるべし」。続けて曰く「生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の男と云うなり」。水戸の義公はプラトンの名を聞いたことさえなかったが、プラトンは勇気を定義して「恐るべきものと恐るべからざるものとを分別することなり」と述べている。

 (注)水戸光圀(黄門)は、こう述べている。「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以はその場所を退いて忠節に成る事もあり。その場所にて討死して忠節に成る事もあり。これを死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」。

 西洋に於いて、道徳的勇気と肉体的勇気との間に立てられた区別は、我が国民の間にも久しき以前から認められていた。いやしくもサムライの少年にして、「大義の勇」と「匹夫の勇」について聞かざりし者があるだろうか。剛毅、不撓不屈、大胆、自若泰然、勇気等のごとき心性は、少年の心に最も容易に訴えられ、かつ実行と模範とによって訓練され得るものであって、幼児の頃から早くに励みとせられたる、いわば最も知られたる徳であった。小児は、未だ母の懐を離れざるに、既に軍記(いくさ)物語を繰り返し聞かされた。もし何かの痛みによって泣けば、母は子供を叱って、「これしきの痛みで泣くとは何と云う臆病者よ。戦場で汝の腕が切り取られたならばどうします。切腹を命ぜられたる時はどうするのです」と励ました。

 「先代萩」の千松がいじらしくも我慢したる昔話は、人のあまねく知るところである。ドラマでは次のように云わしめている。「籠に寄り来る親鳥の、餌ばみをすれば子雀の、嘴(くちばし)さしよるありさまに、小鳥を羨む幼心にも、サムライの子はひもじい目をしてでも我慢するのが忠義じゃ」。

 我慢と勇気の話はお伽話の中にもたくさんある。しかし、少年に対し、敢為自若の精神を鼓吹する方法は、決してこれらの物語に尽きなかった。両親は、時には残酷と思われるほどの厳しさをもって子供の胆力を錬磨した。「獅子はその児を千じんの谷に落す(原文は、「熊は我が子を峡谷へ落す」)」。彼らは、サムライの子を艱難の険しき谷へ投じ、シスュポス的苦役に駆り立てた。時として食物を与えず、もしくは寒期に晒すことも、忍耐を学ばしめるに極めて有効なる試練であると考えられた。

 幼少の児童が伝言を命じられて、まったく未知の人に派遣された。あるいは日の出前に起き、朝食前に厳寒の時期に素足で師の家に通い素読の稽古に出席させられた。又月に一、二度天満宮の祭日等に、少数の少年が集まって徹夜で声高く輪唱させられた。あらゆる種類の薄気味の悪い場所、処刑場、墓場、化け物屋敷等に出掛けることは、少年が好んで為す遊戯であった。斬首の刑が公開で行われた時は、少年はその気味の悪い光景を見にやられたのみでなく、夜暗くなってから単身その場所を訪れ、さらし首に印をつけて帰ることを命ぜられた。この超スパルタ式「胆(きも)を練る」方法は現代の教育家を驚かせて戦慄と疑問を抱かしめ、人の心の優しき情緒をば蕾(つぼみ)のうちに摘み取る野蛮の方法ではあるまいかとの疑問を抱かしめるだろうか。次章で、勇気について武士道が持つ他の諸観念を観察する。

 勇気が人の魂に宿れる姿は平静即ち心の落着きとして現われる。泰然自若は平静状態に於ける勇気である。泰然自若は、敢斗が勇気の動態的なものであるとすれば、その静態的表現である。真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静を紊(みだ)さない。戦闘の最中にあっても彼は冷静であり、大変事の真っ只中にあっても心の平静を保つ。地震も彼を震わさず、彼は嵐に遭っても笑う。

 我々は、彼を真に偉大なる人として称賛しよう。彼は、危険や死の脅威に面しても、沈着を失わない。例えば、差し迫る危険の下でも詩を詠(よ)み、死に直面しても歌を吟ずる。その筆蹟もしくは声音が従容(しょうよう)として何ら平生(へいせい)と異なるところなきは、心の度量大なることの何よりの証拠である。人はこれを「余裕」と呼ぶ。それは屈託せず、混雑せず、更に多くを容るる余地ある心である。

 信ずべき史実として伝えらるるところによれば、江戸城の創建者たる大田道灌が槍にて刺された時、彼が歌を好むを知れる刺客は、刺しながら次の如く上の句を詠んだ。「かかる時さこそ生命の惜しからめ」。これを聞いて、まさに息絶えんとする英雄は、脇に受けたる致命傷にも少しもひるまず、下の句を続けた。「かねてなき身と思ひ知らずば」。勇気にはスポーツ的の要素さえある。常人には深刻な事柄も勇者には遊戯に過ぎない。それ故、昔の戦(いくさ)に於いては、相闘う者同士が戯言(ざれごと)の遣り取りをしたり、歌合戦を始めたことも決して稀ではない。合戦は蛮力の争いだけではなく、同時に知的の競技であった。

 11世紀末、衣川の合戦はかかる性質のものであった。東国の軍は破れ、その将安倍貞任(さだとう)は逃げた。追手(おって)の大将(源義家)が彼に迫って声高く叫んだ。「汚(きたな)くも敵に後ろを見するものかな。暫し返せや」。貞任は、馬を控えた。これを見て、勝ち鬨挙げる首領の義家は大声で詠んだ。「衣のたては綻(ほころび)びにけり」。その声が終るか終らざるに、敗軍の将は従容として上の句を付けた。「年を経し糸の乱れの苦しさに」。義家は、引き絞りたる弓を俄かに弛(ゆる)めて立ち去り、掌中の敵の逃げるに任せた。人怪しみてその故を問いたれば、敵に激しく追われながら心の平静を失わざる剛の者を辱(はずかし)めるに忍びず、と答えたと云う。

 プルトゥスの死に際し、アント二ウス及びオクタヴィウスの感じたる悲哀は勇者の普遍的な経験であった。上杉謙信は、14年間に亘って武田信玄と闘ったが、信玄の死を聞くや、「最高の好敵手」の失せしことを慟哭(どうこく)した。謙信の信玄に対する態度には終始高貴なる模範が示された。信玄の国は海を隔たること遠き山国であって、塩の供給をばしばしば東海道の北条氏に仰いだ。北条氏は信玄と公然戦闘を交えていたのではないが、彼を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は、信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと。これ極めて卑劣なる行為なり。我の公と争うところは、弓矢にありて米塩にあらず。今より以後塩を我が国に取れ。多寡ただ命のままなり」。これは、かの「ローマ人は金をもって戦わず、鉄をもって戦う」と云いしカミラスの言に比してなお余りある。

 二―チェが、「汝の敵を誇りとすべし。しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と云えるは、サムライの心情を語れるものである。実に、勇と名誉とは等しく、平時に於いては友たるに値する者のみを、戦時に於ける敵として持つべきことを要求する。勇がこの高みに達した時、それは仁に近づく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第三章 義又は正義(RECTITUDE OR JUSTICE)

 義はサムライの法典中最も厳格な掟(おきて)(precept)である。サムライにとって卑劣な行動、邪(よこしま)な請負ほど忌むべきものはない。義の観念は、それが狭隘(きょうあい)であると云う面で誤用されることもある。

 或る著名な武士(林子平)は、これを決断力と定義し次のように述べている。「義は、行為のある過程における決断力である。それは道理に基づき優柔不断を捨てた心を云うなり。死すべき場合には死し、討つべき場合には討つことなり」。

 或る者(真木和泉守)は次の如く述べている。「義は、人の体を堅固にして背筋を伸ばしめる骨の如し。骨なくんば首も正しく上にあることを得ず、手も動くことを得ず、足も立つを得ず。されば、義を欠けば、人は才能ありとても、学問ありとても、サムライとしての世に立つことを得ず。義の嗜みを欠いては何事も水泡に帰す」。

 (注)真木和泉守(まきいずみのかみ)とは幕末の尊攘派の武士。筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃した人。引用文は次の一節からのものである。概要「士の重んずることは義なり。義は例えて言わば、人の体を堅固にして背筋を伸ばしめる骨の如し。骨なくんば首も正しく上にあることを得ず、手も動くことを得ず、足も立つを得ず。されば、義を欠けば、人は才能ありとても、学問ありとても、サムライとしての世に立つことを得ず。義の嗜みを欠いては何事も水泡に帰す。義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」。

 孟子は、「仁は人の心なり。義又は実直は、その踏む道なり」と述べている。孟子が嘆じて曰く、「嘆かわしきかな。その道を捨てて由らず。その心を放って求めるを知らず。人、鶏犬の放つあらば即ちこれを求めるを知る。心を放つあるも求むるを知らず」。「鏡を持て見る如く朧(おぼろ)ながら、ここに保持し得ざるか」。

 彼に遅れること三百年、国を異にして出でたる一人の大教師(イエスキリスト)が比喩して提起した。「既に失せし義の道を見いだす者あらんや」。論点から脱線した(もとへ)。孟子によれば、義とは、人が失われたる楽園を再び取り戻す為に歩むべき直くかつ狭き道である。

 封建時代の末期には、泰平が長く続いた為に武士階級の生活に余暇が生じ、これと共にあらゆる種類の遊興と技芸の嗜みを生じた。しかしかかる時代に於いてさえ、正直,清廉(せいれん)の人を意味する.義士なる通称は、学問もしくは芸術の堪能を意味する如何なる名称よりも勝れたるものと考えられていた。47忠臣士は、我が国民の大衆教育上しばしば引用せられるが、世間では俗に47義士の通称で知られている。詐術が軍略として通用し、正真正銘の虚偽が兵略とされる時代にありては、この実直正直なる男らしき徳は最大の光輝をもって輝いた宝石であり、人の最も高く称賛したるところのものである。

 義は勇と双子の兄弟であり共に武徳である。しかし、勇について述べるに先立ち、私は、暫くの間、義理について述べよう。義理は義からの分岐と見るべき語であって、初めはその原型から僅かだけ離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、遂に世俗の用語としてはその本来の意味を離れてしまった。義理と云う文字は正義の道理の意味であるが、時を経るに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになった。その本来の純粋なる意味においては義理は単純明瞭なる義務を意味した。故に、義理とは、両親、目上の者、目下の者、一般社会等々に負うものを云う。これらの場合において義理とは義務である。何となれば、義理とは、正義の事由が我々に為すことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないからである。正義の事由が我々の絶対命令であるべきではないのか。

 義理の本来の意味は義務に他ならない。しかして、私は、義理と云う語のできた理由は次の事実からであると敢えて云う。即ち、我々の行為、例えば親に対する行為に於いて、唯一の動機は愛情であるべきであるが、それの欠けたる場合、孝を命ずる為には何か他の権威がなくてはならぬ。そこで人々はこの権威を義理に於いて構成した。彼らが義理の権威を形成したことは極めて正当である。何となれば、もし愛情が徳行を刺激するほど強烈に働かない場合には人は知性に助けを求めねばならない。即ち、人の理性を働かして、正しく行為する必要を知らしめねばならない。同じことは他の道徳的義務についても云える。即席の義務は厄介なものになる。正義の事由は我々の忌避を防ぐ為に作動する。義理をかく解する時、それは厳しき監督者であり、鞭を手にして怠惰なる者を打ちてその仕事を遂行せしめる。義理は倫理に於ける第二義的の力であり、動機としてはキリスト教の愛の教え(それは法である)に甚だしく劣る。

 私は、義理は人為的社会の諸条件から生れ出たものであると看做す。そういう社会では、偶然的なる生まれや実力に値せざるえこひいきが階級的差別を生み出し、その社会的単位が家族であり、年長は才能の優越以上に尊ばれ、自然の情愛はしばしば恣意的なる習慣に屈服しなければならなかった。この大変なわざとらしさの故に、義理は時を経るうちに堕落して、次にのべるようなことを説明したり是認したりする時に呼び出される漠然たる妥当感となったのである。即ち、例えば、母は長子を助ける為に必要とあらば他の子供を皆犠牲にせねばならぬのは何故か。あるいは又娘は父の放蕩の費用を得る為に貞操を売らねばならぬのは何故であるか等々。私見では、義理は正義の事由として出発したが、しばしばこじつけ論に屈服した。それは非難を恐れる臆病にまで堕落した。

 私は、スコットが、愛国心について「それは最も美しきものであると同時に、しばしば最も疑わしきものであって、他の感情の仮面である」と書いていることに言及したい。 正当事由がより以上より以下に運用される時、義理は驚くべき言葉の乱用により偽称となる。義理はその翼の下にあらゆる種類の詭弁(きべん)と偽善とを宿した。義理は、もし武士道が鋭敏にして正しき勇気感、果敢と忍耐の精神を持ちあわせていなかったなら、たやすく卑怯者の巣窟と化したであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月12日 (土)

第二章 武士道の淵源(SOURCES OF BUSHIDO)

 まず仏教との関わりから始めることにする。武士道には、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な沈着さ、生への不執着、死への親近感が見て取れる。

或る剣術の達人(柳生但馬守)が、門弟に技の極意を教え終わった時、次のように告げている。「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、後は禅の教えに譲らなければならない」。禅とはディヤ―ナ(Dhyâna)の日本語訳であって、それは、「言語的表現の範囲を超えたる思想の領域に瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」ものである。その方法は黙想による熟考である。しかしてその目的は、私が理解する限りでは、全ての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを覚知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。かくの如く定義してみれば、この教えは一宗派の教義以上のものであって、何人にても絶対の洞察に達した者は現世の事象を脱俗して覚醒し、「新しき天と新しき地」の境地に至る。

 ラスキンは最も心柔和にして平和を愛する人の一人であった。しかるに彼は格闘的生涯の崇拝者としての熱心さで戦争の価値を信じた。彼は、その著「野生オリーブの王冠」の中で次のように述べている。「私が、戦争はあらゆる技術の基礎であると云う時、それは同時に人間のあらゆる高き徳と能力の基礎であることを意味している」。このことを発見することは私にとって頗(すこぶ)る奇妙なことなのであるが、私は、それが全く否定し難き事実であることを知った。私は、簡単に云えば次のような信念を見出した。「全ての偉大なる国民は、彼らの言の真理と思想の力とを戦争に於いて学んだ。戦争に於いて涵養せられ平和によって浪費せられたこと、戦争によって教えられ平和によって欺かれたこと、戦争によって訓練せられ平和によって裏切られたこと、要するに戦争のなかに生まれ、平和のなかに死んだ」。

 仏教が与え損なったものを神道が豊かに提供した。武士道の主君に対する忠誠、祖先の遺蹟に対する崇敬、子としての孝心は、他の如何なる宗教によっても教えられなかったものであり、神道の教義によりて刻み込まれたものである。これによって、サムライの傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。神道学には「原罪」教義(dogma)がない。却って反対に、人の心の本来善にして神の如く清浄なることを信じている。
神託の宣べられる至聖所としてこれを崇め尊ぶ。

神社に詣でる者は誰でも観る如く、その礼拝の対象及び道具は甚だ少なく、奥殿に掲げられたる素鏡がその備えつけの主要部分を為している。鏡の存在は容易に説明できる。それは人の心を表わすものであって、心が完全に平静かつ明澄なる時は神の御姿を映す。この故に、人がもし神前に立ちて拝礼する時は、鏡の輝やく面に自己の像の映されるを見る。かくて、その礼拝の行為は「汝自身を知れ」と云う古きデルフィの神託と同一に帰するのである。

 しかし、己を知ると云うことは、ギリシャの教えに於いても日本の教えに於いても、人間の身体的部分に関する知識、その解剖学や精神物理学を意味しているのではない。この知識は道徳的であり、人の道徳的性質の内省的なものである。モムゼンが、ギリシャ人とローマ人とを比較して論ずるところによれば、ギリシャ人は礼拝する時、目を天に上げるが、ローマ人はその頭を物で覆う。前者の祈りは凝視であり、後者のそれは内省であると云う。我が国民の内省は本質的にはローマ人の宗教観念と同じく、個人の道徳的意識よりもむしろ国民的意識を顕著ならしめた。

 神道の自然崇拝は、国土をば我々の奥深き魂に親しきものたらしめ、その祖先崇拝は、系図から系図へと辿って皇室をば全国民共通の遠祖とした。我々にとって、国土とは金鉱を採掘したり穀物を収穫する土地以上の意味を有する。それは神々即ち我々の祖先の霊の神聖なる棲所(すみか)である。我々にとって天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもなく、地上に於いて肉身を持ち給う天の代表者であり、天の力と仁愛を御一身に兼備したまうのである。ブ―トミ―氏が、イギリス王室について、「それは権威の像たるのみでなく、国民的統一の創造者であり象徴である」と云いしことが真であるとすれば、私はその真なることを信ずるものである。このことは日本の皇室に於いては二倍にも三倍にも強調せられるべき事柄である。

 神道の教義は、我が民族の情緒的生活に裡(うち)に二つの支配的特徴と呼ばれるものを衣装している。即ち愛国心及び忠義である。アーサ―・メイ・クナップは誠に適切にも次のように述べている。「ヘブライ文学に於いては、神の事を云っているのか国の事を云っているのか、天の事かエルサレムの事か、救世主の事か国民そのものの事か、これを見分けることはしばしば困難である」。同様の混同は、我が民族的信仰の語彙の中にも見られる。私は困惑しながら云う。と云うのも、その用語の両義性の為に、論理的なる頭脳の人からは混同と思われるだろう。しかしてそれは今なお国民的本能及び民族的感情の枠に根差しているものである。

 神道は決して体系的な哲学とか合理的な理論を主張しない。この宗教は、あるいはより正確には、この宗教によって表現せられたる民族的感情と云うべきだろうが、武士道の中に忠君愛国を十二分に吹き込んだ。これらは教義としてよりも内面的な衝動として作用した。けだし神道は中世のキリスト教とは異なり、その信者に対し殆ど何らの信仰箇条をも規定せず、同時に直截(せつ)且つ簡潔なる形式の行為の議事(agenda)を供給した。

 厳密なる意味に於いての道徳的教義に関しては、孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。孔子の「五倫の道」、それは君臣(統治する者と統治に従う者)、父子、夫婦、長幼、並びに朋友間について論述しているものであるが、経書が中国から輸入される以前から我が民族的本能の認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない。政治道徳に対する彼の教訓の性質は、平静仁慈にしてかつ処世術の知恵に富み、治者階級たるサムライには特に善く適合した。孔子の貴族主義的且つ保守的なる言は、これらの武門統治者の要求に善く適応した。

 孔子に次ぐ孟子も武士道の上に大なる権威をもって修得された。孟子の力強くしてかつしばしばすこぶる平民的なる説は、仁慈I的性質の者には甚だ魅力的であった。且つ、それは時には現存社会秩序に対して危険思想であり、反逆的であるとも考えられた。故に、彼の著書は久しい間、禁書となった。しかるに、この賢人の言はサムライの心に永久に宿ったのである。

 孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、又大人間の議論に於ける最高権威であった。これら諸賢の古書を知っているだけでは、しかしながら、高い尊敬を払われなかった。孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲(あざけ)る諺がある。典型的なる或るサムライ(西郷南州)は、文学の物知りをば「書物の虫」と呼んだ。他の或る人(三浦梅園)は学問を臭き野菜に例え次のように述べている。「学問は良き菜のようなり。能く臭みを去らざれば用い難し」。又或る人曰く、「少し書を読めば少し学者臭し。余計に書を読めば余計に学者臭し。困り者なり」。その意味するところは、知識と云うものは、これを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われたる時に於いてのみ真に知識となると云うにある。

 知的専門家は機械であると考えられた。知識そのものは倫理的情動に従属するものと考えられた。人間並びに宇宙は等しく霊的かつ倫理的であると思惟せられた。武士道は、ハックスレ―の判定即ち「宇宙の進行は道徳性を有せず」とする言を容認することができなかった。武士道は、かかる種類の知識を軽んじた。知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとみなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐き出す便利な機械に過ぎざるものとみなされた。かくして、知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明に於いて最大の説明者を見出した。彼は、知行合一を繰り返して倦むことを知らなかった。

 この問題を論ずるに際し、暫く余論に入ることを許して貰いたい。それは最も高潔なる武士の中で、この哲人の教訓によって強い影響を受けた者が少なくないからである。西洋の読者は、王陽明の著述の中に新約聖書との類似点の多いことを容易に見出すであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と義の国とを求めよ。さらば全てこれらの物は汝らに加えられるべし」と云う言は、王陽明のほとんどのページにも見出される思想である。

 或る日本人の門弟(三輪執斎)は次のように述べている。「天地生々の主宰、人に宿りて心となる。故に心は活き物にして、常に照々たり」。「その霊明人意に渡らず」。「自然より発現して、よくその善悪を照らすを良知と云う。かの天神の光明なり」。これらの言が何と、アイザック・ベニントンもしくは他の神秘哲学者らの文章と実によく似た響きを持っていることか。私は、神道の簡潔なる教義に表現せられたる如き日本人の心性は、陽明の教えを受け入れるのに特に適していたと思いたい。彼は、その良心無謬説をば極端なる超自然主義にまで押し進め、ただに正邪善悪の差別のみならず、心理的諸事実並びに物理的諸現象の性質を認識する能力をさえ良心に帰している。彼は、理想主義に徹入することバ―クレイやフィヒテに劣らず、人知の外に物象の存在するを否定するにまで至った。彼の学説は、唯我論について非難せらるる全ての論理的誤謬を含むとしても、強固たる確信の力を有し、もって個性の強き性格と平静なる気質とを発達せしめたるその道徳的意義は、これを否定し得ざるところである。

 かくの如く、その淵源の何たるを問わず、武士道が自己に吸収同化したる本質的な原理は僅かにして且つ簡潔なものであった。僅かにして簡潔ではあったが、我が国民史上最も不安定なる時代に於ける最も不安なる日々に於いてさえ、安固たる処世訓を供給するには十分であった。我々の祖先たる武人の健全純朴なる性質は、古代思想の大路小路より抜き集めたる平凡かつ断片的なる教訓の穂束から彼らの精神の十分なる糧(かて)を引き出し、且つ時代の要求の刺激の下に、これらの穂束から新しくかつ比類なき型の男らしさの型を形成して行ったのである。(これが武士道である)  

 鋭敏なるフランスの学者・ド・ラ・マズリエール氏は、16世紀の日本の印象を要約して曰く、「16世紀の中頃に至るまで、日本に於いては、政治も社会も宗教も全て混乱の中にあった」。しかし、内乱、野蛮時代に帰る如き生活の仕方、各人が各人の権利を維持する必要。これらが、かの人たちを生み出した。テ―ヌの賛美するところによれば、16世紀のイタリア人を「勇敢なる独創力、急速なる決心と決死的なる着手の習慣、実行と忍苦との偉大なる能力」の持主としている。日本に於いてもイタリ―に於けると同様、中世の沃野なる生活風習は、人間をば「徹頭徹尾闘争的抵抗的なる」偉大なる動物となした。しかして、この事こそ、日本民族の原理的な資質、即ち彼らの精神並びに気質に於ける著しき多様性が、16世紀に於いて最高度に発揮せられた理由である。インドに於いて又中国に於いてさえ、人々の間に存する差異は主として精力もしくは知能の程度であるのに反し、日本に於いてはこれらのほか性格の独創性に於いても差異がある。

 さて、個性は優秀なる民族並びに発達せる文明の徴(しるし、sign)である。二イチエの好んだ表現を用いるならば、アジア大陸に於いては、その人を語るはその平原を語るのであり、日本並びにヨーロッパに於いては特にその山々によって人を代表せしめる。そう云い得るだろう。 ド・ラ・マズリエール氏が評論の対象とした人々の一般的諸特性について、これから筆を進めよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第一章 倫理体系としての武士道(Bushido as an Ethical System)

 武士道(Chivalry)は日本の国土に咲く固有の花であり、それを象徴するのは桜である。それは我が国の歴史の標本として保存されている古代の徳の干乾びた見本ではない。武士道は今なお我々の中に力と美の活ける対象として生き続けている。それは触れて感知できるような姿や形を帯びていないが、道徳的雰囲気の香気であり、我々をして今なおその効能呪文下にあることを自覚せしめている。

 それを生みかつ育てた社会状態が消え失せて既に久しい。しかし、かって存在し今はなき遠き星たちがなお我々の上にその光線を投げ続けているように、封建制度の子たる武士道の光は今なお我々の道徳の道を照らしており、その母たる制度を生き残らせている。この問題をパークの言語(英語)で言及し得ることは私の愉快とするところである。バークは、ヨーロッパ的規範である騎士道が棺桶に納められ顧みられざりし時に、騎士道を感動的に称賛し続けていることで衆知されている人である。

 ジョージ・ミラー博士の如き学識の深い学者が、騎士道もしくはそれに類似の制度は、古代諸国民もしくは現代東洋人の間にはかって存在しなかったと躊躇なく断言しているとあらば、極東に関する悲しむべき知識の欠乏が明らかである。しかしながら、このような無知はおおように(amply)見過ごしても良い。なんとなれば、この善良なる博士の著書の第三版が発行されたのはペリー提督が我が国の鎖国主義の戸を叩いていたのと同じ年であるからである。

 その後十年以上を経て、我が国の封建制度が最後の息を引き取ろうとしていた頃、カール・マルクスは、その著「資本論」に於いて、封建制の社会的政治的諸制度研究上の特殊の長所(advantage)に関し、当時封建制の活きた形はただ日本に於いてのみ見られると述べて読者の注意を喚起した。私も同様に西欧の歴史及び倫理研究者に対し、現代日本に於ける武士道の研究へと誘ってみたい(invite)と思う。

 ヨーロッパと日本の封建制及び騎士道間の歴史的な比較論は興味あることではあるが、これを詳細に亘って立ち入ることは本書の目的ではない。私の試みはむしろ、第一に我らが騎士道の起源及び淵源、第二にその特性及び教訓、第三にその民衆に及ぼしたる感化、第四にその感化の継続性、永久性を述べることにある。これら諸点の中、第一はただ簡単かつ大急ぎに述べるに止める。私は、読者をば、我らが国史の紆余曲折せる小路にまで連れ込むことになるであろう。第二の点はやや詳細に論じよう。けだしそれは国際的な倫理学及び比較政治学の研究者をして、我らが国民の思想及び行動の手法について興味を覚えしめるだろうからである。残りの点は余論として取り扱うことになるであろう。

 私が大雑把にシヴァリ―(Chivalry)と訳した日本語は、その語源に於いて騎士道(Horsemanship)と訳すよりも多くの含蓄がある。武士道(Bu-shi-do)は、字義的には闘う貴族たる武士がその職業に於いてと同様に日常生活に於いても仕える道である軍人的騎士道を意味している。これを一言で云えば、「騎士の掟(Precepts)」即ち武門としての「誇り高き義務」(ノーブレス・オブリージュ noblesse oblige)である。かく字義を明らかにした以上、これからこの語を原語で用いることをお許し願いたい。

 原語を用いることは又次の理由からも都合が良い。即ち、かくも究極的にかつ独自的にして、精神と性格の或る鋳型(cast)を生み出し、それがこれほど特殊的にして地方的なるものである教程は、その特殊性の記章(badge)を面上にも帯びておらねばならない。それ故、幾つかの用語は、民族的特性を極めて印象的に表現する国民的な音色を持っている。それは、最善の翻訳者をしても、その真(justice)を写しだす(scant)ことは困難である。敢えて為せば却って(positive)不正不満なものにしてしまう。誰か、ドイツ語のゲミユ―ト(Gemüth)の意味を能く翻訳し得ようか。あるいは、英語のゼントルマン(gentleman)とフランス語のジャンティオム(gentilhomme)とは言語的に極めて近接しているが、この二つの言葉の持つ味の差を感じない者があるだろうか。

 武士道は道徳的諸原理の法典(code)であって、騎士が遵守すべきことを要求され、もしくは指導されているものである。武士道は成文化された法典ではない。せいぜい数十年数百年に亘って口伝により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆に由来するものである。むしろそれは語られず書かれざる法典である。ほとんど全てが極められた功業からなる力強い規定法(sanction)となっている。不言不文であるだけ新鮮に心に銘板(tablets)されている。それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳により紡ぎだされたものではない。いかに著名なりといえども一人の人物の生涯に依拠するものではない。それは、数十年数百年に亘る武士の実践(career)から汲みだされたものが組織的に(organic)発達したものである。

 恐らく、道徳史上に於ける武士道の地位は、政治史上に於けるイギリス憲法の地位と同じであろう。しかるに、武士道には大憲章(Magna Charta)もしくは人身逮捕状(Habeas Corpus Act)に比較すべきものさえないのである。17世紀初めに武家諸法度が制定されたのであるが、その13カ条は主として婚姻、居城、同盟等に関するものであって、教訓的な規定はほんの僅かだけ触れられているに過ぎない。それ故に、我々は明確な時と場所を示して、「ここに武士道の源泉がある」と云うことができない。

 それは封建時代に於いて自覚せられたものであるから、その起源は、時に関する限り封建制と同一であると見て良かろう。しかし、封建制そのものが多くの糸(threads)によって織り成されているのであり、武士道もその錯綜せる性質を分かち合っている。イギリスに於ける封建制の政治的諸制度はノルマン征服の時代に発していると云われるが、日本に於いても、その勃興は12世紀末の源頼朝の制覇と時代を同じくしていると云い得るであろう。しかしながら、イギリスに於いて、封建制の社会的諸要素は遠く征服者ウイリアム以前の時代に遡(さかのぼ)るが如く、日本に於ける封建制の萌芽(germs)も又上述の時代より遥か以前より存在していたのである。

 もとへ。ヨーロッパに於けるが如く日本に於いても、封建制が公式に始まった時、武門の専門階級が自然に勢力を得てきた。これらの人たちは侍(サムライ)として知られた。その字義は、古英語のク二ヒト(cniht、knecht, knight)と同じく、衛者又は従者を意味している。彼らは、その性質に於いて、カエサル(Caesar)がアクティタ二アに存在すると記録しているソルデュリィ(soldurii)に似ている。あるいは、タキトウスによるところのゲルマンの首長に随従するコミタティ( comitati)に似ている。あるいは、更に後世に比を求めれば、ヨーロッパ中世史に現われるミリテス メディイ(milites medii )に似ている。日本的用語では「武家」もしくは「武士」(戦闘騎士)と云う漢字が常用された。

 彼らは特権階級であり、元来は戦闘を職業とする粗野な素性(すじょう)であったに違いない。この階級は、長期間に亘る絶えざる戦闘を繰り返すうちに、勇敢にして最も冒険的な者の中から次第に抜擢された。しかして淘汰の過程の進行に伴い、軟弱な者、無礼な者が選り分け間引かれた。エマーソンの文句を借用すれば、「全く男性的で、獣の如き力を持つ粗野なる種族」だけが生き残り、これがサムライの家族と階級とを形成することとなった。

 大なる名誉と大なる特権と、従ってこれに伴う大なる責任とを持つに至ると、彼らは立ち居振る舞いの共通基準の必要を感じるようになった。殊に彼らは常に交戦者たる立場にあり、かつ異なる氏に属するものであったから、その必要は大であった。あたかも医者が医者仲間の競争を職業的礼儀によって制限する如く、弁護士が作法を破った時は査問法廷に出なければならぬ如く、武士も又彼らの不行跡についての最終審判を受くべき何かの基準を持たなければならなかった。

 戦闘に於けるフェア・プレイ!、そこには、道徳の豊かなる萌芽が野蛮と小児らしさのこの原始的なる感覚のうちに宿っている。これが、あらゆる文武の徳の根本なのではなかろうか。我々は、(我々がそういう願いを抱く年輩を通り過ぎてしまっただけに)、小イギリス人トム・ブラウンの子供らしい願い即ち「小さい子をイジメず、大きな子に背を向けなかった者と云う名を後に残したい」を聞いてほほ笑む。けれども、この願いこそ、その上に偉大なる規模の道徳的建築物を建てうべき隅の要(かな)め石であることを、誰か知らないだろうか。私が、柔和家にして最も平和を愛する宗教でさえ、この願望を裏書きしていると云えば、云い過ぎだろうか。このトムの願いが、イギリスの偉大なものの過半を打ち立てている基礎となっている。しかして、武士道の立つ礎石もこれより小なるものでないことを発見するのに長い時間を要さないだろう。

 戦闘そのものは攻撃的にせよ防御的にせよ、クェーカー教徒の正しく証明する如く、野蛮にして不正であるにしても、我々はレッシングと共に云い得る。「我らは、我々の徳が至らぬところから徳が起ることを知っている」と。「卑劣」と云い「臆病」と云うは、健全にして一本気な気性の者に対する最悪の侮辱の言葉である。少年は、こういう観念をもって生涯を始める。武士も又然り。しかし、人生の裾野を広げ、その関係が多方面となるや、初期の信念は、己を正当化し満足し発展せしむる為により高き権威並びにより合理的なる淵源による確認を求めるようになる。もし、ひたすら戦闘の利益のみが追及され、より高き道徳的支持を求めることがなかったとすれば、騎士の理想は騎士道に遥か及ばざるものに堕したであろう。

 ヨーロッパに於いては、キリスト教が、騎士道にあつらえ向きの便宜さで解釈し、それにも拘わらず霊的デ―タを染み込ませている。「宗教と戦争と栄誉は、完全なるキリスト教騎士の三つの魂である」とラマルティ―ヌは云っている。日本に於いても似たり寄ったりだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月11日 (金)

序文(Preface)

 凡そ10年ほど前のこと、ベルギーの法学者ラヴレーの家で歓待を受け数日を過ごした。或る日、一緒に散歩をしている時に宗教の話題になった。「えーとそれは、あなたがたの学校には宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか?」と、この尊敬すべき教授に尋ねられた。私が「日本には宗教教育がありません」と答えたところ、教授は驚いて突然歩を止め、「宗教なしですって。それでは一体どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私は、その時の声を容易に忘れることができない。 

 その時、私は質問に困惑し即答できなかった。私は、年少時代、学校で宗教教育がなかったことを知った。私は、私の正邪の観念を形成しているさまざまな要素を分析し始めるに至ってはじめて、これを私の鼻腔に吹き込んだのが武士道だったと気がついた。

 この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによる。私は、ド・ラヴレー氏並びに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。しかして封建制度および武士道を解することなくんば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし開かずの巻物であることを知った。

 長病いのため止むをえず無為の日を送っているのを幸い、家庭の談話で私の妻に与えた答えを整理して、いま皆様方に提供する。その内容は主として、私が青少年時代、封建制度のなお盛んであった時に教えられ語られたところのものである。

 一方にはラフカディオ・ハーンとヒュー・フレザー夫人、他方にはサー・アーネスト・サトウとチェンバレン教授の控えている間に挟まって、日本に関する事を英語で書くのは全く気のひける仕事である。ただ私がこれらの高名なる論者たちに優る唯一の長所は、彼らの勝れた書物が弁護士もしくは検事の立場からのものであるのに比して、私は被告の態度を取り得ることである。私はたびたび思った。「もし私に彼らほどの言語の才能があれば、私はもっと雄弁な言葉をもって日本の立場を陳述しようものを」と。しかし、借り物の言語で語る者は、自分の云うことの意味を解らせることができさえすれば、それで有り難いと思わねばならない。 

 この著述の全体を通じて、私は自分の論証する諸点をばヨーロッパの歴史および文学からの類例を引いて説明することを試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。宗教上の問題及び宣教師に説き及んだ私の言及が万一侮辱的と思われるようなことがあっても、キリスト教そのものに対する私の態度が疑われることはないと信ずる。

 私があまり同情をもたないのは、教会秩序、キリストの教訓を曖昧にする諸形式に対してであって、教訓そのものではない。私は、キリストが教え、かつ新約聖書の中に伝えられている宗教、並びに心に書(しる)されたる法を信ずる。さらに私は、全ての民族及び国民、即ち異邦人であろうがユダヤ教徒であろうが、キリスト教徒であろうが異教徒であろうが、神が旧約と呼ばれるべき契約を結びたもうたことを信ずる。私の神学のその他の点については、読者の忍耐を煩わす必要がない。

 この序文を終るにあたり、私は友人アンナ・シー・ハーツホーンに対し、多くの有益なご指導を与えられしことについて謝意を表したい。彼女の手になる本書の表紙の特徴的な日本調装丁への御礼を合せて。


 1899年12月
 ペンシルヴァニア州マルヴェルンにて 新渡戸稲造

(私論.私見)

 第1版序文で、日本での宗教教育について尋ねられ、そういうものはないと返答したところ驚かれ云々とある。これは興味深いことで、西欧では人の教養作りの素養として宗教教育が重視されていることが分かる。対照的に日本では重視されていないが、それは、外在的に認められるようなものとしての宗教がなくて、その位置を代わりに占めているものは神仏儒和合の習俗であり、学ぶもよし学ばざるもよしの自在になっていることを意味する。

 新渡戸は、「私は私の正邪の観念を形成しているさまざまな要素を分析し始めるに至ってはじめて、これを私の鼻腔に吹き込んだのが武士道だったと気がついた」と述べている。この述懐は本書の成り立ちを理解する上で貴重である。付言しておけば、日本の戦後知識人が頻りに吹聴するところの科学信仰、その対極としての宗教批判は特殊戦後日本的なもので、世界に通用するものではないと云うことになりはすまいか。世界では科学と宗教がそのように対立させられているのではないのではなかろうかとの知見を要請するのではなかろうか。

 2012.5.11日 れんだいこ拝

| | コメント (0) | トラックバック (0)

れんだいこ和訳文「新渡戸 武士道」

 既にれんだいこの新渡戸稲造論「新渡戸稲造「武士道」考その1」、「新渡戸稲造「武士道」考その2」、「新渡戸稲造「武士道」考その3」をサイトアップしている。今のところ、これに対する論評はない。この糠釘はともかく、新渡戸著「武士道」の翻訳文をお届けすることにする。「猫に小判」と云う諺がある。本件の場合、猫ではなく人である。その人に、小判たる新渡戸の言葉を見せることにより化学的変化が起らないのだろうかと云う関心がある。  

 5.10日のツイートで次のように記した。「
本日最後のツイート。新渡戸稲造の武士道の現代和訳文が前半までできつつあります。翻訳って骨が折れるが、対話できて楽しいですね。誰か読みたいと云うてくれる人あらむ。読まないよりは読んだら為になること請けあいます。さあこれからこのところ無沙汰の19路へ向かおうっと」。これに対して僅か一件ではあるが次のようなレスが帰って来た。「 全てれんだいこさんの訳ですか?ぜひとも拝読したいですね(^^」。これには次のようにRe返信しておいた。「 39。サイトアップの時に説明するつもりですが、岩波文庫の矢内原忠雄訳が下敷です。れんだいこの腕では、誰かの最初の訳文がなければできません。数日内に序文からブログして行きます。ご感想をお伝えください」。

 以上の経緯を経て、ここに、れんだいこ和訳文「新渡戸 武士道」をサイトアップしておく。英語原文は「
BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN」、和訳文は岩波文庫「新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳 武士道」を底本とした。和訳手法は、既に経験済みの「共産主義者の宣言」によった。全体として読み易くすることに傾注している。

 付言しておけば訳文は次のようにして産出した。れんだいこの能力と翻訳に費やせる時間の欠如により、ひとまずは底本をなぞり、その意味不明部分、語彙の難解部分、誤訳と思われる部分を訂正した。矢内原忠雄訳の名訳部分、れんだいこの不能訳部分はそのままにした。句読点、段落等は、れんだいこ文法に則った。2012年の5月連休で為し得たのは9章までであった。続きは折を見て為そうと思う。纏まった時間が要ると云う意味では次の長期休暇であるお盆時まで預けるかも知れない。

 れんだいこが「新渡戸 武士道」に注目するのは武士道そのものではない。武士道にも体現しているところの産みの親とも云うべき古代日本の思想、これを仮に「縄文日本思想」と命名するならば、新渡戸がその「縄文日本思想」に如何に注目し、これを世界の諸思想と比較検証しているかを確かめたい。この観点から読み解くと、案外と思った以上にできている。「新渡戸 武士道」はこの点で一層の値打ちを出していると評価したい。

 今、21世紀初頭の2012(平成24)年段階の現代日本の思想界は類例のない形で逼塞している。過去の諸思想が通用しない時代に入っているにも拘わらず新思想を生み出しつつある訳でもない。この時代の特徴は、あたかも思想そのものを不要としているように思える。思想不要論そのものの是非判断は難しいが、その危険性は次のことにある。即ち、他方で国際ユダヤ式ネオシオニズムが侵潤し続けており、目下の無思想状態はこれに対して余りにも無防備なところにある。

 日本人の精神知能がますます幼稚化されていく他方で、ネオシオニズムの他民族家畜化思想が自由往来しつつある。その責任を誰がとるのか。政治家があてにならないのは、この政策のお先棒担ぎしているのが実際であることを見れば自明だろう。故に、こういう折柄に於いては、我々が地下活動的に自由自主自律的に精神知能を啓蒙する必要がある。こう課題化する時、「新渡戸 武士道」を読まぬ手はないと云うことになる。

 「れんだいこの新渡戸稲造武士道の現代和訳文」が読むに足りる出来栄えになつているのかどうかは読み手の判断に任せるとして、もし不十分なら更により良い訳文が案出されるべきだろう。必要なことは多くの人が読む方向にリードすることであって逆に向かうべきではないと云うことである。後者の方向のものに著作権があるが、これまでの著作権論はイカガワシイものであり、多くの者が著作物により親しむ方向で理論化されねばならない。「要事前通知、要事前承諾、要課金」制により多くの者が著作物に触れることに制限を加えられる方向で営為する現行の著作権論なぞ一刻も早く一蹴せねばならないと考えている。

  れんだいこ和訳文「新渡戸 武士道」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/bushidoco/rendaicowayakubun.html)

 2012.05.11日 れんだいこ拝

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年5月 2日 (水)

新渡戸稲造「武士道」考その3

 かく名声を不動のものにした新渡戸のその後は険しかった。その責が新渡戸自身に帰するものは何もないように思われる。新渡戸の理想と献身を受け入れなかった当時の世相こそ疑惑されるべきではなかろうか。

 新渡戸の行政的功績に、台湾赴任時の「糖業改良意見書」提出がある。これが台湾に於ける糖業業発展の基礎を築いている。「住民の利益を尊重する」という考え方のもと行われた稲造の台湾での植民政策は歴史的に見ても特筆される。その後帰国し、1903(明治36)年、京都大学教授となり、台湾での実績をもとに植民政策を講じている。1906(明治39)年、第一高等学校長に就任。東京帝国大学法科大学教授(植民政策担当)を兼任する(農学部教授兼任ともある)。稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し、結果的に多くの立派な人材を社会に送り出している。

 1916(大正5)年、東京貿易殖民学校長に就任。1917(大正6)年、拓殖大学学監に就任。1918(大正7)年、 東京女子大学初代学長に就任し、その設立に尽力している。その後、日米交換教授としてアメリカに渡る。

 1920(大正9)年、59歳の時、国際連盟設立に際して、教育者にして「武士道」の著者として国際的に高名な新渡戸が国際連盟事務次長に抜擢されジュネーブに滞在する。こうして日本人初めての国際機関における重要ポストの就任者としての栄誉を得ている。この時期、新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。

 エスペランティストとしても知られ、1921(大正10)年、チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加している。1922(大正11)年、はノーベル賞受賞者を主な委員として、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。1925(大正14)年、 帝国学士院会員に任命される。1926(大正15)年、7年間務めた事務次長を退任。貴族院議員に選ばれている。この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。

 1928(昭和3)年、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929(昭和4)年、満州事変の2年前、太平洋問題調査会の理事長に就任。同年、京都で開催された第3回太平洋会議で議長を務めた。同年、学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始する。1931(昭和6)年、故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせた。

 同年9月、満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。同年、上海で開かれた第4回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。満州事変を境に日本は国際社会からの孤立を深め、ことに米国との対立が深刻の度を増して行った。この頃、松山講演で「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と発言し、これが新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買っている。帝国在郷軍人会評議会で陳謝する。

 1932(昭和7)年、日本軍部の大陸侵略が強まるさなか、日米関係が悪化した事を感じた稲造は反日感情を緩和する為に渡米し、1932(昭和7)年だけでも全米で都合100回にわたる講演をしている。出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが奏功せず。

 1933(昭和8)年3月、日米関係改善の目的を達成できぬまま帰国する。その直後、日本が国際連盟を脱退する。1933(昭和8)年8月、カナダのバンフで開かれた第5回太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。日本側代表としての演説を成功させる。その一ヶ月後、当時国際港のあったカナダの西岸ビクトリアで倒れ永眠する(享年71歳)。生誕の地である盛岡市と客死したビクトリア市は新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。1984(昭和59年).11.1日発券の五千円札の肖像画に登場している。

 かく生き抜いた新渡戸をどう評すべきか。明治、大正、昭和の御代を生き、日米文明の架け橋を企図していた新渡戸は、その意にも拘わらず、次第に悪化していく日米関係の波に揉まれて行くことになった。それは不可抗力に抗う蟷螂の斧のような献身を余儀なくされた。それを承知で営為したのが新渡戸の履歴である。この頃の心境を歌に託して親しい友人に書き送っている。「折らば折れ。折れし梅の枝、折れてこそ 花に色香を いとど添ふらん」。これをどう評すべきか。

 これが、新渡戸評の第三点にならなければならない。我々は、この新渡戸的生き様と深く対話すべきではなかろうか。話を戻せば、2012年現在のお粗末至極な政治、それも極め付きの売国奴どもによる政治的放縦が目に余る。これを指弾し決別する為にも、新渡戸的営為は再評価されるべきではなかろうか。新渡戸が岩手県の出身であることも興味深い。この地の者には何やら武骨にして反骨の叡智が宿されていると窺うのは、れんだいこだけだろうか。以上、前置きして新渡戸著「武士道」の薫陶を得たいと思う。

 2012.5.2日 れんだいこ拝

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新渡戸稲造「武士道」考その2

 れんだいこが新渡戸稲造の履歴及びその著作「武士道」を評すれば次のように云える。

 1862(文久2)年、新渡戸稲造は、現在の岩手県盛岡市の盛岡鷹匠小路下ノ橋の邸にて南部藩士にして藩の勘定奉行を務める新渡戸十次郎と母・せきの、の三男として誕生した。その後の稲造は、明治時代初頭の文明開化の波に競って乗った欧米化ボーイの一人となった。

 1877(明治10)年、15歳の時、“Boys,be ambitious!”の名言で有名なウィリアム・クラーク博士の教鞭で知られていた札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。内村鑑三はこの時の同期生である。1878年、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らと共に函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けている(洗礼名・パウロ)。こうしてクリスチャンとなり、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った。この頃、「モンク(修道士)」のあだ名を付けられている。

 1884(明治17)年、念願叶って私費留学でアメリカに渡り、アレゲニー大学、ジョン・ホプキンス大学に入学し、経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。こうして、いわゆる西欧学問、精神、イズムを現地で吸収した。新渡戸はこうして国際日本人となった。当時、こういう日本人が少なからず居た。新渡戸が並でないのはこれ以降にある。

 新渡戸は、多くの国際日本人の如く西欧文明を丸呑みしたのではない。むしろ日本との比較文明史的批評眼を持った。この観点は割合に早く獲得されていたものであるが、実際に欧米の地に住んでなお曇らさなかった。新渡戸は、西欧文明を知るにつけ徒に西欧に同化しなかった。屈服式に憧憬同化するには、幼年期に身につけていた日本学的教養が邪魔したとも云える。こういう例は史上の気骨派にまま認められる。ずっと後年になるが犬養毅なぞもその例であろう。夏目漱石辺りもこの範疇の人物であろう。

 新渡戸はむしろ、西欧文明、学問を習いつつ、他方で日本が歴史的に営々と培ってきた学問、精神、イズムの高等さを逆に確認した。同時に西欧文明に比しての欠点をも確認した。その結果、日本が西欧に学ぶだけではなく、日本文明の水準も踏まえて、両者の文明的総合、架け橋を企図した。この当時、このように発想した日本人は少ないのではなかろうか。これが、新渡戸評の第一点にならなければならない。

 更に注目すべきは次のことである。新渡戸の知性は、他のインテリが西欧化の波に呑まれ、西欧化の裏に潜む国際金融資本のイデオロギー且つ学問たるネオシオニズムに蕩(とろ)ける中にあって、その流れに迎合しなかった。むしろ西欧主義の流れにあるイエス教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、在地諸教の五者鼎立を見据え、むしろ日本的精神で和合し得る西欧を求め続けた。

 その結果として、キリスト教内では少数派のクエーカー教徒へと転身している。その背景には、当時主流となりつつあったユダヤ教系譜のネオシオニズムに同化せず、これと一線を画す必要を感じ続けていたと云う理由があったと推察できる。ここに新渡戸の見識の高さ、有能さが認められる。同時にネオシオニズムに身売りしなかったことによる悲劇が前途に敷かれることになる。これにどう挑んだか挑みそこなったか、これが新渡戸評の第二点にならなければならない。

 このように自己形成した新渡戸のその後は栄光と苦難に満ち溢れている。暫く履歴を確認する。

 渡米中、クエーカー派の集会であるモリス茶会でフィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリー・エルキントンと出会う。1887(明治20)年、ドイツ留学しボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学び、この後、マルティン・ルター大学、ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)大学にも聴講し、ハレ大学で学位論文「日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について」を提出し農業経済学博士号の学位を得ている。1891(明治24)年、再度アメリカに渡り、ドイツ留学中にも文通により心を通わせてきたメアリー・エルキントンとフィラデルフィアで結婚する。

 その後日本に帰国し、札幌農学校助教授として赴任する。1897(明治30)年、札幌農学校教授として多くの授業をかかえ、舎監なども兼任するという余りの忙しさによる過労の為に脳神経症となり退官し、鎌倉、伊香保で転地療養する。療養中に「農業発達史」、「農業本論」をまとめ出版する。

 その後渡米しカリフォルニア州で転地療養する。この折の38歳の時、「武士道」(「Bushido-the soul of Japan」)を執筆、1900(明治33)年、英文「武士道」を出版する。今、これを読むのに、武士道のみならず武士道に通底している日本思想に対する造詣の深さに感嘆させられる。それを西欧の騎士道、西欧思想と比較対照させ、圧巻の東西思想対比に成功している。

 「武士道(Chivalry)は、日本の表徴たる桜花と同じく、日本の国土に固有の花である。それは我が国の歴史の標本として保存されている古代の徳の干乾びた見本ではない」で始まる「武士道」はベストセラーとなり多くの国で翻訳され版を重ねた。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語をはじめとして17カ国語に訳され今も読み継がれている。

 駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋するセオドア・ローズベルト大統領が、60冊買って知人に配りまくったと云う逸話も残されている。当然、日本でも出版され、諸氏が訳している。一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」であり、新渡戸自身が日本語で著した版は存在しない。

 本来であれば、新渡戸の英文「武士道」は、和英両方を語学的にも思想的にも同時に知ることのできる必須教本となってもおかしくはないが、戦後はなおさら日の目を見ていない感がある。その理由はここでは問わない。

 この年、次のような動きが並行している。夏目漱石がロンドン、日本画家の竹内栖鳳がパリ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークへ、長岡半太郎がパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。内村鑑三が「聖書の研究」、与謝野鉄幹が「明星」、泉鏡花が「高野聖」、徳富蘆花が「自然と人生」を著わしている。政治上ではドイツの3B政策、中国で義和団事件が発生している。孫文は恵州で蜂起するも失敗。科学ではプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射、フロイトの「夢判断」、ヴントの「民族心理学」が著わされ、ヒルベルトが23の数学問題を提示している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新渡戸稲造「武士道」考その1

 2012年4月頃、不意に新渡戸稲造の「武士道」を読みたくなった。直接的契機としては目下の政治の不作が介在している。それまでの自公政権も酷かったが、2009衆院選で政権の座に就いて以来現在に至るまでの民主党政権、及びそれを担う諸大臣の余りにもな異邦人性(これは売国奴とも云い換えられる)、粗脳無責任政治に食傷させられていることによる。日本人の伝統的な政治の型と余りにも違い過ぎることに呆れ、そういう結果として逆に武士道精神が恋しくなり、それを訪ねたくなったと云う事情がある。

 もう一つ、このところユダヤ教ネオシオニズムの研究をしているが、彼らのイズムの真逆にあると思われる日本精神の精華としての武士道精神を確認したくなったと云う理由もある。そういう訳で、新渡戸稲造の「武士道」が読みたくなった。新渡戸稲造の「武士道」が、日本の武士道を如何に捉えているのか、これと対話したい。

 問題は、これをネットで読もうとしたら、どう検索しても出てこないことにある。ほんの一部が解説混じりでサイトアップされている程度のものでしかない。それも、どこまでが原文でどこからが評者の付け足し文なのか分からない。原文訳が正確であるかどうかも分からない。補足しておけば、英文では公開されている。例えば「http://www.gutenberg.org/files/12096/12096-h/12096-h.htm#PREFACE2" 」がそれである。英文で公開されているのものが日本文では為されていない。こういうことがいつまでも許されることだろうか。

 こういう経験はマルクス主義文献の時にも味わっている。こういう例はまま認められるということであるが決してフェアではないと思う。マルクス主義に話を集中すれば、マルクス主義者であろうと批判者であろうと、まずは原文ないしは極力正確な訳文を読んで知識を獲得するのが前提であろう。議論はそれからの話であるのに、この方面が進んでおらず、故に「もどき」の知識を詰め込んで喧々諤々しているが実際である。ナンセンスと云わざるを得ない。れんだいこの学生運動時代、その程度の知識の「もどき」派に何度「お前は学習が足りない」と云われたことか。

 嫌な思い出の一つである。悪いけど、れんだいこの知性はそういうレベルでは納得できない。生のある間中は極力実際のものを踏まえて弁証していきたいと思う。「もどき」の知識で知ったかぶりして相手を追い詰めるなんて芸当は真似できないし金輪際したくもない。原文原意を踏まえたならば「もどき」派よりももっと旺盛な議論を展開したいと思う。「もどき」派にはもう一つ特徴がある。入り口段階でわざわざ小難しくする癖がある。そこで賢こぶられるのであるが辟易させられるものでしかない。そういう暗雲を一気に晴らす妙薬はないものだろうかと常々思っている。

 もとへ。そこで、ネット検索で古書店より原書を取り寄せることにした。誰もやらないなら、れんだいこがいつものようにサイトアップしておこうと思う。(実際にはネットで購入しようとしたところカードでなくては支払えない云々で、カードを持たないれんだいこは街の書店で購入した)

 最近は、糞著作権野郎によって情報閉塞化が激しくなりつつある。ご丁寧にも先進国では当たり前の権利であると講釈聞かされる。ところが、その先進国では既に行き過ぎの著作権に対して揺り戻しが起りつつあるのがお笑いである。それはともかく、我々は、著作権規制強化の動きに対抗して、埋もらせてはならない名文、名品を逆に公開して共有化しておく必要がある。著作権規制を廻って両派が抗争していると思えば良い。当然、れんだいこは後者であり、これまでもこれと思う書物のサイトアップをしてきた。ここに新たに新渡戸稲造の「武士道」を加えることにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »