新渡戸稲造「武士道」考その3
かく名声を不動のものにした新渡戸のその後は険しかった。その責が新渡戸自身に帰するものは何もないように思われる。新渡戸の理想と献身を受け入れなかった当時の世相こそ疑惑されるべきではなかろうか。
新渡戸の行政的功績に、台湾赴任時の「糖業改良意見書」提出がある。これが台湾に於ける糖業業発展の基礎を築いている。「住民の利益を尊重する」という考え方のもと行われた稲造の台湾での植民政策は歴史的に見ても特筆される。その後帰国し、1903(明治36)年、京都大学教授となり、台湾での実績をもとに植民政策を講じている。1906(明治39)年、第一高等学校長に就任。東京帝国大学法科大学教授(植民政策担当)を兼任する(農学部教授兼任ともある)。稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し、結果的に多くの立派な人材を社会に送り出している。
1916(大正5)年、東京貿易殖民学校長に就任。1917(大正6)年、拓殖大学学監に就任。1918(大正7)年、 東京女子大学初代学長に就任し、その設立に尽力している。その後、日米交換教授としてアメリカに渡る。
1920(大正9)年、59歳の時、国際連盟設立に際して、教育者にして「武士道」の著者として国際的に高名な新渡戸が国際連盟事務次長に抜擢されジュネーブに滞在する。こうして日本人初めての国際機関における重要ポストの就任者としての栄誉を得ている。この時期、新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921(大正10)年、チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加している。1922(大正11)年、はノーベル賞受賞者を主な委員として、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。1925(大正14)年、 帝国学士院会員に任命される。1926(大正15)年、7年間務めた事務次長を退任。貴族院議員に選ばれている。この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。
1928(昭和3)年、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929(昭和4)年、満州事変の2年前、太平洋問題調査会の理事長に就任。同年、京都で開催された第3回太平洋会議で議長を務めた。同年、学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始する。1931(昭和6)年、故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせた。
同年9月、満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。同年、上海で開かれた第4回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。満州事変を境に日本は国際社会からの孤立を深め、ことに米国との対立が深刻の度を増して行った。この頃、松山講演で「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と発言し、これが新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買っている。帝国在郷軍人会評議会で陳謝する。
1932(昭和7)年、日本軍部の大陸侵略が強まるさなか、日米関係が悪化した事を感じた稲造は反日感情を緩和する為に渡米し、1932(昭和7)年だけでも全米で都合100回にわたる講演をしている。出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが奏功せず。
1933(昭和8)年3月、日米関係改善の目的を達成できぬまま帰国する。その直後、日本が国際連盟を脱退する。1933(昭和8)年8月、カナダのバンフで開かれた第5回太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。日本側代表としての演説を成功させる。その一ヶ月後、当時国際港のあったカナダの西岸ビクトリアで倒れ永眠する(享年71歳)。生誕の地である盛岡市と客死したビクトリア市は新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。1984(昭和59年).11.1日発券の五千円札の肖像画に登場している。
かく生き抜いた新渡戸をどう評すべきか。明治、大正、昭和の御代を生き、日米文明の架け橋を企図していた新渡戸は、その意にも拘わらず、次第に悪化していく日米関係の波に揉まれて行くことになった。それは不可抗力に抗う蟷螂の斧のような献身を余儀なくされた。それを承知で営為したのが新渡戸の履歴である。この頃の心境を歌に託して親しい友人に書き送っている。「折らば折れ。折れし梅の枝、折れてこそ 花に色香を いとど添ふらん」。これをどう評すべきか。
これが、新渡戸評の第三点にならなければならない。我々は、この新渡戸的生き様と深く対話すべきではなかろうか。話を戻せば、2012年現在のお粗末至極な政治、それも極め付きの売国奴どもによる政治的放縦が目に余る。これを指弾し決別する為にも、新渡戸的営為は再評価されるべきではなかろうか。新渡戸が岩手県の出身であることも興味深い。この地の者には何やら武骨にして反骨の叡智が宿されていると窺うのは、れんだいこだけだろうか。以上、前置きして新渡戸著「武士道」の薫陶を得たいと思う。
2012.5.2日 れんだいこ拝
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