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2012年5月13日 (日)

第三章 義又は正義(RECTITUDE OR JUSTICE)

 義はサムライの法典中最も厳格な掟(おきて)(precept)である。サムライにとって卑劣な行動、邪(よこしま)な請負ほど忌むべきものはない。義の観念は、それが狭隘(きょうあい)であると云う面で誤用されることもある。

 或る著名な武士(林子平)は、これを決断力と定義し次のように述べている。「義は、行為のある過程における決断力である。それは道理に基づき優柔不断を捨てた心を云うなり。死すべき場合には死し、討つべき場合には討つことなり」。

 或る者(真木和泉守)は次の如く述べている。「義は、人の体を堅固にして背筋を伸ばしめる骨の如し。骨なくんば首も正しく上にあることを得ず、手も動くことを得ず、足も立つを得ず。されば、義を欠けば、人は才能ありとても、学問ありとても、サムライとしての世に立つことを得ず。義の嗜みを欠いては何事も水泡に帰す」。

 (注)真木和泉守(まきいずみのかみ)とは幕末の尊攘派の武士。筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃した人。引用文は次の一節からのものである。概要「士の重んずることは義なり。義は例えて言わば、人の体を堅固にして背筋を伸ばしめる骨の如し。骨なくんば首も正しく上にあることを得ず、手も動くことを得ず、足も立つを得ず。されば、義を欠けば、人は才能ありとても、学問ありとても、サムライとしての世に立つことを得ず。義の嗜みを欠いては何事も水泡に帰す。義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」。

 孟子は、「仁は人の心なり。義又は実直は、その踏む道なり」と述べている。孟子が嘆じて曰く、「嘆かわしきかな。その道を捨てて由らず。その心を放って求めるを知らず。人、鶏犬の放つあらば即ちこれを求めるを知る。心を放つあるも求むるを知らず」。「鏡を持て見る如く朧(おぼろ)ながら、ここに保持し得ざるか」。

 彼に遅れること三百年、国を異にして出でたる一人の大教師(イエスキリスト)が比喩して提起した。「既に失せし義の道を見いだす者あらんや」。論点から脱線した(もとへ)。孟子によれば、義とは、人が失われたる楽園を再び取り戻す為に歩むべき直くかつ狭き道である。

 封建時代の末期には、泰平が長く続いた為に武士階級の生活に余暇が生じ、これと共にあらゆる種類の遊興と技芸の嗜みを生じた。しかしかかる時代に於いてさえ、正直,清廉(せいれん)の人を意味する.義士なる通称は、学問もしくは芸術の堪能を意味する如何なる名称よりも勝れたるものと考えられていた。47忠臣士は、我が国民の大衆教育上しばしば引用せられるが、世間では俗に47義士の通称で知られている。詐術が軍略として通用し、正真正銘の虚偽が兵略とされる時代にありては、この実直正直なる男らしき徳は最大の光輝をもって輝いた宝石であり、人の最も高く称賛したるところのものである。

 義は勇と双子の兄弟であり共に武徳である。しかし、勇について述べるに先立ち、私は、暫くの間、義理について述べよう。義理は義からの分岐と見るべき語であって、初めはその原型から僅かだけ離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、遂に世俗の用語としてはその本来の意味を離れてしまった。義理と云う文字は正義の道理の意味であるが、時を経るに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになった。その本来の純粋なる意味においては義理は単純明瞭なる義務を意味した。故に、義理とは、両親、目上の者、目下の者、一般社会等々に負うものを云う。これらの場合において義理とは義務である。何となれば、義理とは、正義の事由が我々に為すことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないからである。正義の事由が我々の絶対命令であるべきではないのか。

 義理の本来の意味は義務に他ならない。しかして、私は、義理と云う語のできた理由は次の事実からであると敢えて云う。即ち、我々の行為、例えば親に対する行為に於いて、唯一の動機は愛情であるべきであるが、それの欠けたる場合、孝を命ずる為には何か他の権威がなくてはならぬ。そこで人々はこの権威を義理に於いて構成した。彼らが義理の権威を形成したことは極めて正当である。何となれば、もし愛情が徳行を刺激するほど強烈に働かない場合には人は知性に助けを求めねばならない。即ち、人の理性を働かして、正しく行為する必要を知らしめねばならない。同じことは他の道徳的義務についても云える。即席の義務は厄介なものになる。正義の事由は我々の忌避を防ぐ為に作動する。義理をかく解する時、それは厳しき監督者であり、鞭を手にして怠惰なる者を打ちてその仕事を遂行せしめる。義理は倫理に於ける第二義的の力であり、動機としてはキリスト教の愛の教え(それは法である)に甚だしく劣る。

 私は、義理は人為的社会の諸条件から生れ出たものであると看做す。そういう社会では、偶然的なる生まれや実力に値せざるえこひいきが階級的差別を生み出し、その社会的単位が家族であり、年長は才能の優越以上に尊ばれ、自然の情愛はしばしば恣意的なる習慣に屈服しなければならなかった。この大変なわざとらしさの故に、義理は時を経るうちに堕落して、次にのべるようなことを説明したり是認したりする時に呼び出される漠然たる妥当感となったのである。即ち、例えば、母は長子を助ける為に必要とあらば他の子供を皆犠牲にせねばならぬのは何故か。あるいは又娘は父の放蕩の費用を得る為に貞操を売らねばならぬのは何故であるか等々。私見では、義理は正義の事由として出発したが、しばしばこじつけ論に屈服した。それは非難を恐れる臆病にまで堕落した。

 私は、スコットが、愛国心について「それは最も美しきものであると同時に、しばしば最も疑わしきものであって、他の感情の仮面である」と書いていることに言及したい。 正当事由がより以上より以下に運用される時、義理は驚くべき言葉の乱用により偽称となる。義理はその翼の下にあらゆる種類の詭弁(きべん)と偽善とを宿した。義理は、もし武士道が鋭敏にして正しき勇気感、果敢と忍耐の精神を持ちあわせていなかったなら、たやすく卑怯者の巣窟と化したであろう。

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