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2012年5月12日 (土)

第二章 武士道の淵源(SOURCES OF BUSHIDO)

 まず仏教との関わりから始めることにする。武士道には、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な沈着さ、生への不執着、死への親近感が見て取れる。

或る剣術の達人(柳生但馬守)が、門弟に技の極意を教え終わった時、次のように告げている。「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、後は禅の教えに譲らなければならない」。禅とはディヤ―ナ(Dhyâna)の日本語訳であって、それは、「言語的表現の範囲を超えたる思想の領域に瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」ものである。その方法は黙想による熟考である。しかしてその目的は、私が理解する限りでは、全ての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを覚知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。かくの如く定義してみれば、この教えは一宗派の教義以上のものであって、何人にても絶対の洞察に達した者は現世の事象を脱俗して覚醒し、「新しき天と新しき地」の境地に至る。

 ラスキンは最も心柔和にして平和を愛する人の一人であった。しかるに彼は格闘的生涯の崇拝者としての熱心さで戦争の価値を信じた。彼は、その著「野生オリーブの王冠」の中で次のように述べている。「私が、戦争はあらゆる技術の基礎であると云う時、それは同時に人間のあらゆる高き徳と能力の基礎であることを意味している」。このことを発見することは私にとって頗(すこぶ)る奇妙なことなのであるが、私は、それが全く否定し難き事実であることを知った。私は、簡単に云えば次のような信念を見出した。「全ての偉大なる国民は、彼らの言の真理と思想の力とを戦争に於いて学んだ。戦争に於いて涵養せられ平和によって浪費せられたこと、戦争によって教えられ平和によって欺かれたこと、戦争によって訓練せられ平和によって裏切られたこと、要するに戦争のなかに生まれ、平和のなかに死んだ」。

 仏教が与え損なったものを神道が豊かに提供した。武士道の主君に対する忠誠、祖先の遺蹟に対する崇敬、子としての孝心は、他の如何なる宗教によっても教えられなかったものであり、神道の教義によりて刻み込まれたものである。これによって、サムライの傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。神道学には「原罪」教義(dogma)がない。却って反対に、人の心の本来善にして神の如く清浄なることを信じている。
神託の宣べられる至聖所としてこれを崇め尊ぶ。

神社に詣でる者は誰でも観る如く、その礼拝の対象及び道具は甚だ少なく、奥殿に掲げられたる素鏡がその備えつけの主要部分を為している。鏡の存在は容易に説明できる。それは人の心を表わすものであって、心が完全に平静かつ明澄なる時は神の御姿を映す。この故に、人がもし神前に立ちて拝礼する時は、鏡の輝やく面に自己の像の映されるを見る。かくて、その礼拝の行為は「汝自身を知れ」と云う古きデルフィの神託と同一に帰するのである。

 しかし、己を知ると云うことは、ギリシャの教えに於いても日本の教えに於いても、人間の身体的部分に関する知識、その解剖学や精神物理学を意味しているのではない。この知識は道徳的であり、人の道徳的性質の内省的なものである。モムゼンが、ギリシャ人とローマ人とを比較して論ずるところによれば、ギリシャ人は礼拝する時、目を天に上げるが、ローマ人はその頭を物で覆う。前者の祈りは凝視であり、後者のそれは内省であると云う。我が国民の内省は本質的にはローマ人の宗教観念と同じく、個人の道徳的意識よりもむしろ国民的意識を顕著ならしめた。

 神道の自然崇拝は、国土をば我々の奥深き魂に親しきものたらしめ、その祖先崇拝は、系図から系図へと辿って皇室をば全国民共通の遠祖とした。我々にとって、国土とは金鉱を採掘したり穀物を収穫する土地以上の意味を有する。それは神々即ち我々の祖先の霊の神聖なる棲所(すみか)である。我々にとって天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもなく、地上に於いて肉身を持ち給う天の代表者であり、天の力と仁愛を御一身に兼備したまうのである。ブ―トミ―氏が、イギリス王室について、「それは権威の像たるのみでなく、国民的統一の創造者であり象徴である」と云いしことが真であるとすれば、私はその真なることを信ずるものである。このことは日本の皇室に於いては二倍にも三倍にも強調せられるべき事柄である。

 神道の教義は、我が民族の情緒的生活に裡(うち)に二つの支配的特徴と呼ばれるものを衣装している。即ち愛国心及び忠義である。アーサ―・メイ・クナップは誠に適切にも次のように述べている。「ヘブライ文学に於いては、神の事を云っているのか国の事を云っているのか、天の事かエルサレムの事か、救世主の事か国民そのものの事か、これを見分けることはしばしば困難である」。同様の混同は、我が民族的信仰の語彙の中にも見られる。私は困惑しながら云う。と云うのも、その用語の両義性の為に、論理的なる頭脳の人からは混同と思われるだろう。しかしてそれは今なお国民的本能及び民族的感情の枠に根差しているものである。

 神道は決して体系的な哲学とか合理的な理論を主張しない。この宗教は、あるいはより正確には、この宗教によって表現せられたる民族的感情と云うべきだろうが、武士道の中に忠君愛国を十二分に吹き込んだ。これらは教義としてよりも内面的な衝動として作用した。けだし神道は中世のキリスト教とは異なり、その信者に対し殆ど何らの信仰箇条をも規定せず、同時に直截(せつ)且つ簡潔なる形式の行為の議事(agenda)を供給した。

 厳密なる意味に於いての道徳的教義に関しては、孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。孔子の「五倫の道」、それは君臣(統治する者と統治に従う者)、父子、夫婦、長幼、並びに朋友間について論述しているものであるが、経書が中国から輸入される以前から我が民族的本能の認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない。政治道徳に対する彼の教訓の性質は、平静仁慈にしてかつ処世術の知恵に富み、治者階級たるサムライには特に善く適合した。孔子の貴族主義的且つ保守的なる言は、これらの武門統治者の要求に善く適応した。

 孔子に次ぐ孟子も武士道の上に大なる権威をもって修得された。孟子の力強くしてかつしばしばすこぶる平民的なる説は、仁慈I的性質の者には甚だ魅力的であった。且つ、それは時には現存社会秩序に対して危険思想であり、反逆的であるとも考えられた。故に、彼の著書は久しい間、禁書となった。しかるに、この賢人の言はサムライの心に永久に宿ったのである。

 孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、又大人間の議論に於ける最高権威であった。これら諸賢の古書を知っているだけでは、しかしながら、高い尊敬を払われなかった。孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲(あざけ)る諺がある。典型的なる或るサムライ(西郷南州)は、文学の物知りをば「書物の虫」と呼んだ。他の或る人(三浦梅園)は学問を臭き野菜に例え次のように述べている。「学問は良き菜のようなり。能く臭みを去らざれば用い難し」。又或る人曰く、「少し書を読めば少し学者臭し。余計に書を読めば余計に学者臭し。困り者なり」。その意味するところは、知識と云うものは、これを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われたる時に於いてのみ真に知識となると云うにある。

 知的専門家は機械であると考えられた。知識そのものは倫理的情動に従属するものと考えられた。人間並びに宇宙は等しく霊的かつ倫理的であると思惟せられた。武士道は、ハックスレ―の判定即ち「宇宙の進行は道徳性を有せず」とする言を容認することができなかった。武士道は、かかる種類の知識を軽んじた。知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとみなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐き出す便利な機械に過ぎざるものとみなされた。かくして、知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明に於いて最大の説明者を見出した。彼は、知行合一を繰り返して倦むことを知らなかった。

 この問題を論ずるに際し、暫く余論に入ることを許して貰いたい。それは最も高潔なる武士の中で、この哲人の教訓によって強い影響を受けた者が少なくないからである。西洋の読者は、王陽明の著述の中に新約聖書との類似点の多いことを容易に見出すであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と義の国とを求めよ。さらば全てこれらの物は汝らに加えられるべし」と云う言は、王陽明のほとんどのページにも見出される思想である。

 或る日本人の門弟(三輪執斎)は次のように述べている。「天地生々の主宰、人に宿りて心となる。故に心は活き物にして、常に照々たり」。「その霊明人意に渡らず」。「自然より発現して、よくその善悪を照らすを良知と云う。かの天神の光明なり」。これらの言が何と、アイザック・ベニントンもしくは他の神秘哲学者らの文章と実によく似た響きを持っていることか。私は、神道の簡潔なる教義に表現せられたる如き日本人の心性は、陽明の教えを受け入れるのに特に適していたと思いたい。彼は、その良心無謬説をば極端なる超自然主義にまで押し進め、ただに正邪善悪の差別のみならず、心理的諸事実並びに物理的諸現象の性質を認識する能力をさえ良心に帰している。彼は、理想主義に徹入することバ―クレイやフィヒテに劣らず、人知の外に物象の存在するを否定するにまで至った。彼の学説は、唯我論について非難せらるる全ての論理的誤謬を含むとしても、強固たる確信の力を有し、もって個性の強き性格と平静なる気質とを発達せしめたるその道徳的意義は、これを否定し得ざるところである。

 かくの如く、その淵源の何たるを問わず、武士道が自己に吸収同化したる本質的な原理は僅かにして且つ簡潔なものであった。僅かにして簡潔ではあったが、我が国民史上最も不安定なる時代に於ける最も不安なる日々に於いてさえ、安固たる処世訓を供給するには十分であった。我々の祖先たる武人の健全純朴なる性質は、古代思想の大路小路より抜き集めたる平凡かつ断片的なる教訓の穂束から彼らの精神の十分なる糧(かて)を引き出し、且つ時代の要求の刺激の下に、これらの穂束から新しくかつ比類なき型の男らしさの型を形成して行ったのである。(これが武士道である)  

 鋭敏なるフランスの学者・ド・ラ・マズリエール氏は、16世紀の日本の印象を要約して曰く、「16世紀の中頃に至るまで、日本に於いては、政治も社会も宗教も全て混乱の中にあった」。しかし、内乱、野蛮時代に帰る如き生活の仕方、各人が各人の権利を維持する必要。これらが、かの人たちを生み出した。テ―ヌの賛美するところによれば、16世紀のイタリア人を「勇敢なる独創力、急速なる決心と決死的なる着手の習慣、実行と忍苦との偉大なる能力」の持主としている。日本に於いてもイタリ―に於けると同様、中世の沃野なる生活風習は、人間をば「徹頭徹尾闘争的抵抗的なる」偉大なる動物となした。しかして、この事こそ、日本民族の原理的な資質、即ち彼らの精神並びに気質に於ける著しき多様性が、16世紀に於いて最高度に発揮せられた理由である。インドに於いて又中国に於いてさえ、人々の間に存する差異は主として精力もしくは知能の程度であるのに反し、日本に於いてはこれらのほか性格の独創性に於いても差異がある。

 さて、個性は優秀なる民族並びに発達せる文明の徴(しるし、sign)である。二イチエの好んだ表現を用いるならば、アジア大陸に於いては、その人を語るはその平原を語るのであり、日本並びにヨーロッパに於いては特にその山々によって人を代表せしめる。そう云い得るだろう。 ド・ラ・マズリエール氏が評論の対象とした人々の一般的諸特性について、これから筆を進めよう。

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