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2012年6月 5日 (火)

第十章 武士の教育および訓練(EDUCATION AND TRAINING OF A SAMURAI)

 武士訓育の第一は人格形成に置かれ、賢明さ( prudence)、知性(intelligence)、弁論術(dialectics)等の緻密な才能はさほど重んぜられなかった。審美的な嗜みが武士の教育上重要なる役割を占めていたことは既に確認したところである。賢明さ、知性、弁論術等は教養ある人には不可欠ではあったが、サムライの訓練上必須というよりもむしろ付属的なものであった。勿論、知的優秀さは尊ばれた。しかし、知性を表現する為に用いられる「知」と云う言葉は主として叡智を意味したのであって、知識そのものには極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。武士道の骨組を支える鼎(かなえ)の三脚は、「智、仁、勇」であると称せられた。智とは銘々の分別(respectively Wisdom)、仁とは善行(Benevolence)、勇とは勇気(Courage)のことである。

 サムライは本質的に行動の人であった。科学的学問(Science)は彼の活動の範囲外にあった。サムライは、武士の職分に関係する限りに於いて、これを利用した。宗教と神学は、聖職者(僧侶、神官)に委託されていた。サムライは、勇気を養うのに役立つ限りに於いてそれらに関与したに過ぎない。或るイギリスの詩人の歌えると同じく、サムライは、「人を救うは信仰箇条ではなく、信仰箇条を正当化するは人である」ことを信じた。哲学と文学がサムライの知的訓練の主要部分を形成した。しかも、それらを修得するに於いても、努力して求めたのは客観的真理ではなかった。文学は主として慰み(pastime)として追求された。哲学は、何らかの軍事的もしくは政治的な問題の解明の為か、しからざれば品性を形成する上での実践的な助けとして追求された。

 以上述べしところにより、武士道教育の教科目は主として剣術、弓術、柔術もしくは柔(やわら)、馬術、槍術、兵法、書道、倫理、文学及び歴史で構成されていたことに気づくも驚くに足りないだろう。これらのうち、柔術と書道については説明の数語を要するだろう。優れた書に重きを置く所以は、恐らく我が国の文字が絵画の性質を帯び、従って芸術的価値を有したるが故であり、又筆跡が人の個性的な人格を表わすものと認められていたからであろう。柔術はこれを簡単に定義すれば、攻撃及び防御の為に解剖学的知識を応用したものと云えよう。それは筋肉の力に依存しない点に於いてレスリングと異なる。又、他の攻撃の型と異なり何らの武器をも使用しない。その特色は敵の身体の或る個所を掴み、もしくは打ちて麻痺(まひ)せしめ、抵抗する能わざらしむるにある。その目的は殺すことでなく、一時活動する能わざらしむるにある。

 軍事教育上、その存在が期待せられ、しかも武士道の教課程中にこれを見ざることによって、むしろ注意を惹くのは数学である。これは、しかしながら、封建時代の戦争は科学的精密さで行われなかったという事実によって一部分は容易に説明せられる。それのみでなく、サムライの教育全体が算用的観念を形成するに適しなかった。騎士道は非経済的である。それは貧乏を誇る。それは、ヴェンティディウスと共に、「武士の徳たる抱負心(ambition)は、利益を得て汚名をきるよりむしろ損失を選ぶ」。ドン・キホーテは黄金及び領地よりも彼の錆びたる槍、骨と皮ばかりの馬に、より多くの誇りを抱いていた。しかして、サムライは、このラ・マンチャの大袈裟なる同僚に対し衷心の同情を寄せる。

 彼は金銭そのもの、それを儲け、もしくは蓄える術を蔑(さげす)んだ。それは、彼にとっては真に汚れたる利益であった。時代の頽廃を描写する為の常用語は、「文臣は銭を愛し、武臣は死を恐れる」であった。黄金と生命のもの惜しみは甚だしく非難され、貶められ、その気前良さが称揚された。諺に曰く、「なかんずく金銀の欲を思うべからず。富めるは智に害あり」と。この故に、子供は全く経済に関心を払わないように養育せられた。経済の事を口にするのは悪趣味であると考えられ、各種貨幣の価値を知らざるは良き教育の証拠印であった。

 数の知識は軍勢を集め、恩賞知行を分配するのに不可欠だった。しかし貨幣の計算は下役人に委ねられた。多くの藩に於いては、財政は下級サムライもしくは聖職者に掌(つかさど)られた。思慮深い武士は、金銭が戦争の筋力であることを十分知っていたが、金銭の尊重を徳にまで高めることは考えなかった。武士道に於いて倹約が強いられたことは事実であるが、それは経済的理由と云うよりも節制の励行によるものであった。贅沢は人に対する最大の脅威であると考えられた。しかして最も厳格なる質素の生活が武士階級に要求せられ、多くの藩に於いて奢侈(しゃし)禁止令が励行せられた。 

 我々が歴史に読むが如く、古代ローマに於いては収税吏その他財政を取り扱う者が次第にその地位を武士の階級にまで高められ、国家はこれによって彼らの職務並びに金銭そのものの重要性を認めるようになった。このことがローマ人の奢侈及び貪欲と如何に密接なる関係を有したかは、これを想像するのに難くない。騎士道に於いてはそうではなかった。それは一貫して理財の道をば卑(ひく)きもの、道徳的及び知的職務に比して卑きものとみなすことに固執した。かくの如く金銭と金銭欲とは努めて無視された。武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることを得た。これが、我が国の公吏が久しく贈収賄から自由であった事実を説明する十分なる理由である。しかしあぁ現代に於ける拝金思想の増大何ぞそれ速やかなるや。

 今日ならば主として数学の研究によりて助長せらるべき種類の知的訓練は、文学的釈義と倫理学的討論によって与えられた。抽象的問題が青少年の心を悩ますことは稀であった。教育の主目的は既に述べし如く人格の確立にあったからである。単に博学なるの故をもっては、多くの崇拝者を得なかった。ベーコンが、学問の三つの効用として挙げている快楽、装飾及び能力の中、武士道は最後のものに対して決定的優先権を与え、その実用は、「判断と仕事の処理」にあるとした。公務の仕事にせよ、個人的な克己の錬磨にせよ、実践的目的を眼中に置いて教育は施された。孔子曰く、「学んで思わざれば即ち暗し、思うて学ばざれば即ち危うし」と。 

 知識でなく人格が、頭脳ではなく霊魂が、教師によって為される仕事の実質的なものになり、その啓発へと向かう時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは教師である」。この観念をもってするが故に、師たる者の受ける尊敬は極めて高かった。 かかる信頼と尊敬とを青少年より呼び起こすほどの人物は、必然的に優れたる人格を有し且つ学識を兼ね備えていなければならなかった。彼は父なき者の父たり、迷える者の助言者であった。諺に曰く、「父母は天地の如く、師及び汝の君主は日月の如し」(実語教)。

 あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間では人気がなかった。武士道は、無償、無報酬で捧げられる得るような仕事に信を置いた。聖職あるいは教師の仕えるような霊的の仕事は金銀をもって支払われるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。この点に於いて武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃銀及び俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われる。しかるに教育に於いて為される最善の仕事、即ち霊魂の啓発(聖職の仕事を含む)は具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用いるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払いではなくして捧げ物であった。従って、通常厳正なる性行の人として清貧を誇り、手を持っての労働するには余りに威厳を持ち、物乞いするには余りに自尊心の強き師も、事実喜んでこれを受けたのである。彼らは逆境に屈せざる高邁なる精神の厳粛なる権化であった。彼らは、全ての学問の目的と考えられしものの体現であり、かくして鍛練中の鍛練として普(あまね)く武士に要求せられたる克服己の生きたる模範であった。

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コメント

こんにちは!少し前から、武士道を原文で精読していましたが大変に難解で、ウェッブサイトでの解説を利用させていただいておりました。
れんだいこ様、ブログをお持ちとは知らず、先ほど、発見!
いろいろな記事を拝見して、ため息ばかり。
博学さにもため息。
この様にさまざまな方の意見、学術的見解を無料で読み聴きできるなど、なんて素晴らしいのでしょうか。
学習意欲にあふれた方がたくさん触発され、教養にあふれた日本人が増えますよに!!!
内容に関してわからないことなど、質問したらお答えいただけるのでしょうか。

投稿: なっちゃん | 2015年8月 1日 (土) 00時23分

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