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2012年6月

2012年6月30日 (土)

れんだいこの保田與重郎論その3

 1910(明治43)年生まれの保田與重郎が青年期壮年期の働き盛りの時代は、満州事変から始まる大東亜戦争前と戦中に当たっていた。この時期、保田は、文芸評論家として日本浪曼派を率いて近代日本文学史に一時代を画した。文明思想家でもあり卓絶した古典思想により一貫して我が国の歩むべき道を語り続けた。その言説が戦前戦中の青年層に大きな影響を与えた。この影響は今日我々が推量するよりはるかに大きく、和辻哲郎の「古寺巡礼」は日本浪曼派世界の一コマに過ぎなかったほどであると解すべきであろう。保田の生涯履歴は次のサイトで確認する。

 「保田與重郎の履歴考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/yasudayojyuroco/rirekico.html)

 保田が大東亜戦争の聖戦性を如何ほどに鼓吹したのかどうか分からないが、戦後の1948(昭和23)年、39歳の時、大東亜戦争を正当化したとされ「G項該当者」として公職追放に遭っている。戦後直後に趨勢化した左派的文壇から「最も悪質な右翼文士」として葬られ、不遇の時期を郷里の桜井で過ごし隠遁(いんとん)生活を続ける身となった。こうして戦後のジャーナリズムと知識人から指弾、黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになった。

 保田の真骨頂は、「戦前からの思想の一貫性を守り通した」ことにある。要するに思想がブレなかったと云うことになる。それはそうだろう、三輪精神の上に花開いている保田思想は戦前の皇国史観とは一線を引いたものであったし、戦後のいわゆるアメリカン民主主義思想とも違うものであったろうから、ブレる必要もなかったと思われる。むしろ常に異端で在り続けたと云うのが真実であろう。

 付言しておけば、戦前には保田思想を寵児とする幅があったのに対し、戦後は却って窮屈なものにした。ここに戦前と戦後の違いが見て取れよう。戦後の方が却って窮屈になっている面があると云うことである。何事も戦後民主主義万歳論で評する訳には行かない好例であるように思われる。かくして保田は二度と寵児には成り得なかったが、その旺盛な文筆意欲は休むことなく続いた。そして時代を撃ち続けた。例えば次のように述べている。

 「正常な國語、正確な文法、民族の歴史、民族の修身を復活することは、民族當然の義務であり、自主獨立の第一歩である。憲法改正や再軍備は第二義の問題である。これらが第二義の問題であるといふことを、國民は自覺せねばならない」。

 この言は、言語こそ民族の生命であるとする観点に立てば容易に首肯できよう。或る意味で、保田は透徹した国体主義者であるやもしれない。この場合の国体とは皇国史観的なものではない。既に述べたようにもっと古くから日本を成り立たせている天皇制以前からの国体を指している。

 1958(昭和33)年、49歳の時、12月、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂(しんよどう)」と命名する。そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守り続けた。この間、桜井市桜井の神武天皇の聖蹟・鳥見山に座す等彌神社に「大孝」の碑を、桜井公園(桜井市谷)に「土舞台」の顕彰碑を、桜井市穴師のカタヤケシでは元横綱・双葉山(時津風理事長)、柏戸、大鵬の両横綱らを招いて天覧相撲発祥の伝統を顕彰する行事を行い、桜井市黒崎の白山神社の境内には万葉集発耀の碑を建てるなど、「わが郷里桜井」を内外に示している。

 注目すべきは戦後に於ける保田の再登場の歴史的意味であろう。閉じ込められてきた保田の出番が何故に廻って来たのか。一見偶然のように思えるが、れんだいこの眼には、角栄の登竜と軌を一にしているように思われる。そう窺うのは、れんだいこだけだろうか。これを確認する。

 1960(昭和35)年、保田51歳の時、「述志新論」を著し、これが復権の兆しになる。同書で、「我々は人間である以前に日本人である」と書き、「日本人である以前に人間である」とする戦後民主主義の無国籍型国際主義の通念に棹さしている。1963(昭和38)年、新潮に「現代畸人傳」の連載を始め戦後の文壇ジャーナリズムに再登場した。続いて、佐藤春夫監修、自ら編集した「規範国語読本」(新学社)を刊行している(以下、「刊行する」を略す)。

 1964(昭和39)年、「現代畸人傅」(新潮社)。1965年、「大和長谷寺」。大津の義仲寺再建に尽力し落慶式を主宰する。1965年、「自主獨立の眞精神」、「安易な依存心を排す」を発表する。1966年、「自主獨立の教養」を発表する。1968年、「日本の美術史」(新潮社)。「保田与重郎著作集第2巻」(南北社)。1969年12月、「日本浪曼派の時代」(至文堂)。中河与一との共著「日本の心 心の対話」(日本ソノサービスセンター)。1970年、「日本の美とこころ」(読売選書)。1971年、歌集「木丹木母集」(新潮社)等。「保田与重郎選集 全6巻」(講談社)。1972年、「日本の文學史」(新潮社)。1973年、「万葉路山ノ辺の道」(新人物往来社)。1975年、「方聞記」(新潮社)、「カラー万葉の歌 写真:大道治一」(淡交社)、「万葉集名歌選釈」(新学社教友館)。1976年、落柿舎第13世庵主となり「落柿舎守当番」と称する。1978年、「冰魂記」(白川書院)。1979年、「天降言(人と思想)」(文藝春秋)。1981(昭和56)年10月4日、肺癌のため死去する(享年72歳)。

 角栄の政治履歴は次の通りである。1957(昭和32)年.岸内閣の第一次岸内閣改造に39歳で郵政大臣に就任する(以下、「就任する」を略す)。1959年、自民党副幹事長。1961年、第二次池田勇人内閣で自民党政調会長。1962年、第二次池田内閣改造で大蔵大臣。1965年、佐藤内閣第一次改造で蔵相辞任、自民党幹事長(一期目)。1966年12月、一連の政界黒い霧事件で川島副総裁と共に幹事長を引責辞任。1968年、第二次佐藤内閣改造で自民党幹事長(三期目)。1970年、第三次佐藤内閣で自民党幹事長(四期目)。1971年、第三次佐藤内閣の第一次内閣改造で通産大臣。1972年7月、第64代内閣総理大臣。1974年11月、退陣表明。1976年2月、ロッキード事件勃発。1977年1月、 ロッキード事件丸紅ルート初公判。以降、公判に縛られる。1985年2月、創世会が波紋を広げる中、自宅で脳梗塞で倒れる。1993(平成5)年12月、ロッキード最高裁判決の日を見ることなくこの世を去った(享年75歳)。

 「田中角栄の履歴」 
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rireki/rireki.htm)

 これを見れば、「戦後に於ける保田の再登場」は角栄の政界での実力者化の道と歩調を合わしているように見える。なぜこれを認めるのかと云うと、角栄も又保田と同じく「日本の心」派だったのではなかろうかと思われるからである。類は友を呼ぶ。政界における角栄の登竜は、文界に於ける「日本の心」派の出番を容易くしたのではなかろうか。

 思えば、池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸らに代表される戦後保守系ハト派とは、この「日本の心」派だったのではなかろうか。してみれば、60年安保闘争で岸政権が打倒されて以降から1980年初頭に中曽根政権が誕生するまでの約20年間は、大まかにいえば「日本の心」派が日本政治を御していた稀な時代であったことになる。通りで何事も大らかに且つ筋を通しながら日本が奇跡的な発展し続けた訳である。

 これは逆も言える。角栄がロッキード事件でカニ挟みに遭わされて以降、「日本の心」派は再び冬の季節に入ったのではなかろうかと。以降、戦後保守系タカ派と云う名の国際金融資本帝国主義の走狗どもが日本政治を牛耳ることになり今日まで至っている。通りで何事もせせこましく且つ言葉に信がおけない無理筋政治が常態となり日本を食い物にし続けている訳である。

 もとへ。保田がこれほどの能力者であった割には戦後に於いて戦前ほど評価されず活躍の舞台を与えられなかったのには、こういう政治事情によると拝するしかない。政治と文芸が通底していると云う例証である。

 さて、保田與重郎思想に関するれんだいこの知識は今のところ以上述べただけのものでしかない。この書きつけ時点で保田の直筆本を一冊も読んでいない。その段階でのスケッチ論である。今後、保田與重郎の原文に触れ、思想対話してみたいと思う。

 既に研究者の評として次のように述べられている。

 「保田の作品は、大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養と迅速な連想による日本美論である」。

 実にそうであろうし、付け加えるとしたら、近代天皇制とそのイデオロギーである皇国史観が打ち出した日本論、日本精神論に対して、それとは違う「もう一つの日本論、日本精神論」を鼓吹していたのではないのか。教祖みきの言を借りれば、「元の神、実の神」の教えに基づく近代天皇制教義とは別の日本論、日本精神論を唱えていたのではなかろうか。

 そういうことからであろう、倫理学者の勝部真長氏は保田を的確にも次のように評している。

 「歴史の地下水を汲み上げる人。地下水にまで届くパイプを、誰もが持ちあはせてゐるわけではない。保田與重郎といふ天才にして始めて、歴史の地下水を掘り当て、汲み上げ、こんこんと汲めども尽きぬ、清冽な真水を、次から次へと汲みだして、われわれの前に差し出されたのである」。

 もう一つ挙げておく。「鈴木邦男の保田與重郎30回忌〈炫火忌〉に参加しました」は次のように評している。

 「右翼・民族派の青年はもちろん、左翼の青年にも保田の愛読者は多い。左右という政治的違いをこえて日本人の精神、死生観に訴えかけるものが保田の美学にはあった」。

 両説とも、実に然りの炯眼であろう。

 2012.6.30日 れんだいこ拝

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【「君が代」の歌意考その2、「藤田勝久氏の『君が代挽歌』」考

 以下、藤田勝久氏の「君が代は挽歌である 」をれんだいこなりに咀嚼させていただく。(http://chikyuza.net/modules/news3/article.php?storyid=1074

 この論考のエキスは、前半の君が代の歴史的発祥過程の叙述にある。これは探していた情報であり、早速これを採りいれさせて貰った。中半以降の挽歌説も貴重な指摘である。但し、その意味するところに於いて解釈の違いがあり、れんだいこ流に咀嚼させて貰った。この論考は、れんだいこが欲していた情報と説の点で有益であったので、藤田勝久氏に謝意申し上げておく。

 「君が代の歌詞の意味は、『千代に八千代に』という永遠の願いを、死後の『常世』に託したものであり、それは『死者の霊』に対する鎮魂の歌にほかならない。紀貫之が万葉集の挽歌の一句を断章取義してしまった、つまみ食いしてしまった、ようするに間違ったのである。彼は、この歌を『賀歌』ではなく、『挽歌ないしは哀傷歌』のうちに含めるべきであったのだ」と述べている下りはどうだろうか。

 れんだいこによれば、君が代歌が当初「妹が代歌」であったにせよ、これは個人の追悼歌ではないように思われる。君であれ妹であれ、その治めている国と民を代表して敬礼されており、その政権の御代が「千代にさざれ石の巌(いわお)となりて苔むすまで」続く事が祈念されていると読む。してみれば、「挽歌ないしは哀傷歌」ではあるが、対象は個人の長命及び死後の来世における永生を祈っているものではなく、政体の御代の永続性に捧げられていると窺う。してみれば、弔辞歌ではなくまさしく賀歌として受け取るべきではなかろうか。

 「巌」の表象するものに対して、「これは死んだ親あるいは祖先の化身とみなされる。巌は、万葉集では墓地あるいは墓所を指し、その巌に苔生す苔は、再生、転生の象徴であり、死後の再生、転生を経てしかるのち初めて、千代に八千代にという永生が得られるのである」と述べている下りはどうだろうか。

 これにつき、「君が代」の歌意考その1の「古田武彦氏の君が代論考」では、「『いわ』は『岩』であり、『みわ(三輪)の祭りの場』を示す言葉と同類で、岩石を崇敬の対象としてとらえた古代用語であるという可能性が高い」の指摘が光るように思われる。「岩」は「巌」又は「磐」とも記され、その暗喩するところのものは「みわ(三輪)の祭りの場」の可能性が高い。古田氏は九州説の立場からして糸島郡の「井原」を示すと比定しているが、「いわ」を「みわ(三輪)の祭りの場」と指摘したことの価値が高い。

 従って、「君が代の歌詞は祝い歌、言祝ぎ歌ではなく、死者を悼む挽歌であり、柩を挽く者が歌う哀傷の歌であったのだ」する説には頷けない。正確には、「君が代の歌詞は政権の御代が末永く続く事を祈念しての祝い歌、言祝ぎ歌であり、その御代が転生して変成しているのを踏まえて、かっての御代を悼む挽歌であり、哀傷の歌であったのだ」と記すべきであろう。

 これらより、矢吹氏が云うところの「いかなる民族も慶弔は峻別してきた。そのような醇風美俗をもつ日本において、為政者の無知蒙昧により、祝賀の日に葬送の歌を歌うことを強制するのは、はなはだ奇怪な光景ではないか」の言は軽断過ぎるのではなかろうかと思う。

 溝口氏の云うところの「『さざれ石の巌となりて』という一句は、老子→説苑→大智度論→白楽天→仮名序とつらなる古代中国の『土を積む思想』と、法華経→真名序→仮名序とつらなる仏教の『微塵を積む』思想とが融合して作られた。まさに、いろはカルタの『塵も積もれば 山となる』の淵源は、老子と釈迦に発するのである」も軽断過ぎる。日本の古古代史を紐解くのに、一々中国、インド、西欧からの由来を訪ねる必要はない。日本は日本の歴史であって、特に古古代史ともなれば特にそうであって、まさしく日本の歴史から紐解かねばならないと思う。

 以上。よって、溝口、矢吹らの言は政治的引き廻しの臭いが強過ぎる。石原慎太郎の1999・3・13日の毎日新聞朝刊での言「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だって、あれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌やぁいいんだよ」は、右翼的愛国主義者・石原の正体見たり枯れ尾花、化けの皮が剥がれた瞬間の言辞であると窺うべきだろう。

 2012.6.30日 れんだいこ拝

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れんだいこの保田與重郎論その2

 れんだいこの保田與重郎論その2は、れんだいこならではの気づきかも知れないが次のことにある。「太古よりの三輪思想を豊潤に嗅ぎ、その薫陶を表現又は実践した」御方にもう一人の傑物が居る。それは保田與重郎より約百年前に誕生した幕末創始宗教の一つである天理教の開祖・中山みきである。天理教が最大教派として台頭した要因には以下に述べるような十分な根拠があると思っている。

みきも又、桜井村ではないが三輪神社に徒歩圏の三昧田村(現在の天理市三島村)に生まれ育っている。母方の血筋が同村長尾家の出で、目の前の大和(おおやまと)神社の神主を司り、或いは巫女を出してきた家系であった。記紀神話にも出て来る有名な件であるが大神(おおみわ)神社再建の詔を受けた「大田田根子」の流れを汲む「長尾市」直系の末裔であるとする説もある。その大神神社―大和神社は、伊勢神宮が天照大神を筆頭祭神とするのに対して、古史古伝が大和朝廷以前のヤマトを統治していたと記しているニギハヤヒ命(大和大国魂大神)を祭神として奉蔡している。ニギハヤヒ命は出雲王朝系に列なると考えられる。ちなみに伊勢系の本宮は神宮、出雲系の本宮は大社として識別表現されているように思われる。

 教祖みきが三輪思想との絡みで考察されることは未だないが、既に「天理教教祖中山みき伝」を書き上げているれんだいこ論によると、教祖みきが創始した天理教は三輪思想を母胎としており、その幕末―明治版であり、三輪思想をこの時代に適合させたものだったのではなかろうかと拝察させていただいている。

 もとより天理教団にはそのような捉え方はない。本部教理は、この面での考察を意図的故意に割愛しており真実像が見えてこない仕掛けにしているように思われる。ならば他の研究者が為せば良さそうだが、数多くの著書が出されているにも拘わらず、この視点から光を当てたものは未だない。これについては、れんだいこ処女作「検証学生運動」に続く二作目として予定しているので、そこで論じてみたいと思う。

 「天理教教祖中山みきの研究」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/)

 保田與重郎思想を説き明かすには、天理教教祖中山みきの教理を知ればなお良く分かるように思われる。なぜなら、保田與重郎思想は、三輪思想は無論のこと、みき思想にも通じていると思えるからである。れんだいこは読んではいないが、1942(昭和17)年、保田與重郎33歳の時、「風景と歴史」を天理時報社から出版している。保田の親天理教性が窺えるのではなかろうか。

 では、みきは教理をどのように説いたのか。結論から云えば、明治維新を経ていわゆる皇国史観が急速に形成されつつあった状況下、これに棹さすように「もっと深い根の教え」として三輪思想を称揚し、これをみき流に咀嚼焼き直して対置させたところに特徴が認められる。それは、皇国史観批判のみならず、その背後にあって侵潤しようとしている西欧系ネオシオニズムを視野に入れた対抗思想でもあったとも解せられる。

 これをもう少し詳しく論ずれば、みき教理は、皇国史観、西欧系ネオシオニズムは唐(から)天竺(てんじく)の国の教えであり、神の名を語りながら神の教えに背く政治主義的な教えに過ぎぬして批判していた。「元の神、実の神」の教えであるみきの教理こそ学ぶべしと云う。その教理は皇国史観と何から何まで対立していた。圧巻は人類創世記をも生み出し、皇国史観の記紀神話に基づく「国生み譚」に対して「泥海古記」と云われる世界に例のない天地創造譚で説き明かしていることであろう。この「泥海古記」は、ユダヤ―キリスト教が誇る「聖書」のエホバ神による天地創造譚と伍してひけをとらぬ、且つ神の在り方そのものが悉く対照的な見事なものとなって人類史に寄与している。これを知りたければ次のサイトに記している。

 「教義原形=元の理」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/rironco/motonorico/motonorico.htm)

 他にも、明治政府の欧米化に伴う資本主義的経済政策の導入に対しては、「病は気から」、「欲得の執着が諸病の元」、「貧に落ち切れ」等々で教義形成される「財物共有思想」(私有財産制否定思想とも読める)で批判している。文明開化と共に始まりつつあった競争原理の称揚に対しては「人を助けて我が身助かる」に象徴される「神人和楽の助け合い思想」で批判した。身分差別政策に対しても然りで一列平等論を対置した。男女差別制に対しても、男女の差は機能が違うだけで本質的に平等で助け合う関係とした。戦争政策に対しては「親の目には皆可愛い我が子」として反戦的な平和思想を説いた。その他その他然りであった。

 これらのみき教理は政治思想ではなく宗教的に表現されているので政治思想学的に評されることはない。しかし、みき教理を政治思想的に評することは十分可能と考える。むしろ生き方を主にしており、知行合一の陽明学的教えからすればむしろ進んでいるのではなかろうかとさえ思える。学問は未だこの域に達していないと解するべきで、狭い学問界の方が宗教的倫理的教説を卑下するのはおこがましいと云うべきではなかろうか。これは日本特有の知識人の偏狭さであって世界に誇れば恥をかくのが落ちだろう。

 もとへ。みき教理は、明治政府が押し進める文明開化と云う名の欧米主義的近代化と皇国史観の押し付けに対して激しく原理的に争い、それ故にというべきか信者が急速に増えていきつつあった。その様は、幕末維新が政治の面で明治維新によって捻じ曲げられたのに対し、もう一つの流れとして捻じ曲げられない幕末維新を継続革命していたとさえ考えられる。いわば幕末創始宗教とは民衆側の幕末維新の流れだったのではなかろうか。

 明治政府はこのことを恐怖して、断固として非合法化し弾圧を開始した。学問の世界では専ら政治運動に対する弾圧の様子のみ説くが、明治政府の弾圧は宗教運動に対する弾圧の方もひけを取らなかった。してみれば両面から考察する学問が望まれていると云うことになりはすまいか。

 教祖みきが拘引されること、78歳の時の収監を「最初のご苦労」として17、8回に及ぶ。最後の拘引は何と御年89歳にして、しかも厳寒の冬であった。みきはこの時、15日間収監され、息絶え絶えで帰還する身となった。その晩節での教弟との問答も興味深い。みきが神人和楽思想の極致として教えていた「神楽づとめ」を励行するよう促し続けたのに対し、主流派の教弟達は政府から禁止されている、既に何人かの高弟が逮捕虐待され死に目に遭っており、必死で模索しつつある公認化の道が遠ざかるとして聞き入れなかった。

 これに対して次のように諭している。「さあさあ月日がありてこの世界あり。世界ありてそれぞれあり。それぞれありて身のうちあり。身のうちありて律あり。律ありても心定めが第一やで。さあさあ実があれば実があるで。実といえば知ろうまい。真実というは、火、水、風。さあさあ実を買うのやで。価を以って実を買うのやで」。そうこうするうちにみきの余命が危ぶまれ、筆頭後継者の真柱が「もはや猶予ならない。逮捕され命を落としてもかまわないと決意する者のみ覚悟して神楽づとめに向かえ」との心定めが伝えられ、一同が応じ、そのつとめの最中にみきは逝去した。

 簡略ながらこういう経緯を持つみき思想を何の違和感もなく身近で接してきたのが保田與重郎であり、その思想的バックボーンに三輪思想とみき思想が宿されていると窺うべきではなかろうか。しかして共に護持しているのは日本の古き心、本物の日本精神である。それはどうやら、三輪の地に古くから伝承されている「この地こそ日本のまほろば」として当時の政体、風俗、精神を懐旧する元の国思想であったように思われる。明治維新以降今日まで、「この古き良き日本」が壊され続けている。保田與重郎に何がしかの反骨が認められるとすれば、こう訴える系譜の者であることによると悟らせていただく。

 とりあえず云いたいことは以上である。次に、保田與重郎の人となりを確認しておく。

 2012.6.30日 れんだいこ拝

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2012年6月29日 (金)

れんだいこの保田與重郎論その1

 「ゆめさめて うつつの花の すさまじさ 何に流しし 泪なりけむ 」(保田與重郎)

 2012.6.29日の首相官邸前デモの繰り返し叫び続ける「再稼働反対」の唱和を聞きながら、このブログを綴る。これから書きつける内容と一見関係ないように見えるが案外繫がっているかも知れない。そんな気がする。これを記すのが本題ではないので割愛する。

 れんだいこが保田與重郎を知ったのは大田龍の時事寸評の書きつけを通してであった。何時頃のことか定かでないが2005年前後のことではなかろうかと思う。確か近代中国の作家・思想家として知る人ぞ知る胡蘭成・氏と並んで日本精神を理解する有益な思想家の一人として紹介されていたと記憶する。しかし、当時のれんだいこには未知不詳の人であり過ぎ、関心を湧かさなかった。それが2012年6月、新渡戸稲造の英文「武士道」の翻訳を終えた余韻の冷めやらぬ中、ふと保田與重郎に関心を持ち始めた。きっかけが何であったのかは分からない思い出せない。

 と書いて気づいたのだが、その頃、早稲田の先輩である藤田勝久氏が卒業式での不敬不唱を宣言する不起立を主とする日の丸、君が代闘争体験記である「板橋高校卒業式事件顛末記」を贈呈して下さった。これを読み、藤田先輩のいわゆる戦闘的良心主義的見地からする「日の丸、君が代闘争」を知ったと同時に、久しぶりに「日の丸、君が代、元号問題」を見つめ直し、その成果を書きつけた。サイトは以下の通りである。

 「【「日の丸、君が代、元号」考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm)

 この時、恐らく左派的「日の丸、君が代、元号」闘争者が見落としているであろうと考えられる「日の丸、君が代、元号」の悠久の歴史性に言及した。未だ十分でないので、この研究については今後も継続していきたいと思う。この時、そういう国象の源基を為す日本精神に関する興味のアンテナが作動した。このアンテナが保田與重郎を呼び込んだ。こういう経緯があり、初めて保田與重郎と向かい合うことになったと云う次第である。そういう意味で、藤田先輩の「板橋高校卒業式事件顛末記」が「新渡戸稲造の武士道」と保田與重郎の橋渡しをする機縁となったことに感謝申し上げたい。藤田先輩には思いもよらぬことであろうが事実を述べ謝しておきたい。

 さて、保田與重郎とは何者か。れんだいこには何の知識もないので、こういう場合の常法として昔なら百科事典だろうが今はネット検索で間に合わせることにしている。「ウィキペディア保田與重郎」で概要を確認し、他のサイトでその他の情報も取り寄せる。こうして即席の何がしかの知識を得る。まず驚いたことは、保田は相当量以上の文章を遺しており著書を刊行していると云うことであった。全集が出されており何と全40巻、別巻5巻、付録1巻に上る。これだけの分量のものが刊行されるからにはよほどの値打ちがなければ理屈が合わない。そういう人物でありながら、れんだいこが知らなかったぐらいだから他の人も然りだろう、余りにも知られなさ過ぎる。これはとても不自然なことである。これにつき多くの者は疑問だけで終わるだろうが、れんだいこには直ぐに分かる。これには例の情報統制が利いているいるとしか考えられないと。

 ネット検索で、れんだいこのこの謂いを裏付ける文章に出くわしたので転載しておく。

 概要「普通の現代日本人は保田も日本浪曼派も名前すら知らない。他に書き手はいたものの、著作や影響で特記すべきものはない? 要するに保田與重郎の著作とそれが戦中の若者に与えた思想的影響が、十分に確かめられてない。桶谷の『昭和精神史』は本編も戦後篇も保田に捧げられている。他にも保田に触れた文章は多い。だが、桶谷はあくまでも批評家であり、書くものも評論であるために、保田の思想部分(保田が直接読者の魂に訴えた部分)が伝わってきにくい。2002年にミニ・ブームがあったが、かけ声だけ、内実が伴わない。(福田和也は『万葉集の精神』の解説を予定されていたのに書かなかった)」(「史観、詩心、状況―日本浪漫派の思想性を読み解くカギ」)。

 保田與重郎が完全に隠蔽されているのではない。生誕百年を記念して、2010(平成22)年3月12日 「ズバリ!文化批評、生誕100年、保田與重郎の世界」が放映されており、いわば細々とながら命脈を保ってはいるようである。問題は、これほどの人物の言が掻き消されるかの如く表に出てこないことにある。繰り返すが、これはとても不自然なことである。

 そこで、保田與重郎思想とはどのようなものなのだろうか、これを確認する。実はこれも驚いたのだが、保田は1910(明治43)年、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)生まれの人である。れんだいこはハタと膝を叩いた。ここに秘密があるように思われる。桜井市と云えば三輪そうめんと大神(おおみわ)神社、近くに群立する古墳で有名である。目下は、大神神社付近にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと古代史研究家に注視されているホットな地域である。このことが如何に重要なのかは古代史に精通していなければ分からないであろう。これを少し解説する。

 いわゆる邪馬台国論になるが、邪馬台国の所在(比定)地を廻る諸百説の中で九州説と並んで最有力な大和説は、この大神神社地域(纏向遺跡)が邪馬台国の女王の都ではないかとしている。当然、九州説の者は認めないのだが、れんだいこもこの説を採っている。但し、通説の大和説論者との違いは、通説が邪馬台国を大和王朝の先駆的な前王朝として近親相関的に措定しているのに対して、れんだいこ説は邪馬台国は大和王朝に滅ぼされ痕跡をなくさせられた幻の王朝であるとしている。つまり、同じ大和説でも万世一系説に繫がる説と万世二系説になると云う大きな違いがある。この観点の差は、明治維新から始まる近代天皇制のイデオロギーである皇国史観とハーモニーする前者とそれを否定する後者と云う大きな違いとなって現われる。

 それはともかくとして、邪馬台国がこの三輪の地にあろうがなかろうが、大和地方(現在の奈良盆地東南部の天理市から桜井市にかけての地域)は、「やまとはくにのまほろば  たたたなずく青垣 山隠れるやまとし うるわし」(古事記)と詠われるほどに四囲を山稜の青垣に囲まれている盆地であり、昔から「敷島の大和の国」とも称されてもいる格別の歴史を持つ地域である。古代における「ヤマト」地方そのもの、「大和の中の大和」という由緒ある聖域の土地柄である。即ち、この地域が古代日本の聖地の一つであったことは論を待たない。この点については九州説論者と云えども否定できまい。

 問題は、三輪の地をして、数多くある古代日本の聖地の一つであると云う捉え方ではなく、三輪の地に邪馬台国があったとしたら、どういうことになるのかである。れんだいこ説によれば、三輪の地は、大和王朝に滅ぼされるまで当時の倭国全域に影響力を及ぼしていた中枢国と考えられる。古事記、日本書紀、風土記、その他古史古伝、記紀後の各史書を始めとする史書より読みとれば、大和王朝以前に三輪の地に育まれた政体、文化、伝統、精神こそが今日の日本人の精神の源基をなしているのではなかろうかと考えられる。これを仮に「三輪思想」、その政体を「三輪王朝」と命名することにする。三輪王朝は、当時のもう一つの大国であった出雲王朝と連合しており、この出雲と三輪を両輪とする大連合こそが大和王朝前の日本古代史を刻んでいたと推定できる。

 この時代に既に源基としての日本精神が形成され、大和王朝創建と共に始まる天皇制日本精神はその後であり、三輪王朝は滅ぼされたが三輪思想は生き残ったことにより、その後の日本史は、政体は別として精神論で見れば、天皇制日本精神と三輪思想が並走しつつ二重構造的に今日まで伝播していると考えられる。もっと分かり易く云えば、「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」は天皇制日本精神と混ざり合いながらも地下に潜って生き延び続けたと云うことである。今日に於いても諸外国が日本を高く評価する論拠の殆どが、この「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」に向けられてのものであることも興味深い。従来の日本及び日本人論にはこの点を捉える視点が弱過ぎる。今後は、漠然とした日本及び日本人論ではなく日本の心のまほろば(古里)としての三輪思想の解明に向かうべきだろう。

 今日、日本論を説く場合、この二鼎立の史観で捉えねば真相が見えない。明治維新以降に形成された近代天皇制は、この二鼎立の内の天皇制日本精神の方のみを是として史観形成しているところに限界と云うか不正がある。いわゆる皇国史観であるが、皇国史観は日本史を斜交いに構えて不公正的に形成したイデオロギーでしかない。戦後になって自由なる歴史研究が始まった時、本来はこの皇国史観の偏狭性を衝き、堂々たる古代史の見直しに向かうべきであった。この営為を怠り、日本古代史と云う赤子をたらいの水と共にまるごと流してしまった。

 この背景には、戦後直後の日本を支配していたGHQの占領政策があった。戦後の歴史家は、GHQの占領政策に基づき、あるいはその範疇で「歴史見直し」したに過ぎない。それは皇国史観を叩く上では「進歩的」なものであったが、「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」の再評価まで制約したのは「反動的」であった。結果的に日本古代史の解明を却って遠ざけてしまった。戦後日本に於ける日本の歴史に対する無知はこれより起因する。してみれば、在野の日本古代史研究者の営為は、これに反発するものであり、その意義は高いと評されるべきであろう。

 もとへ。一口に日本精神と云っても、大和王朝以前に既に形成されて居た日本精神と大和王朝以降に新たに形成された日本精神の二流があると云うことが確認できれば良い。補足しておけば、日本精神は、この二者が鼎立しつつも実際には混合している面もあるので、これを識別するとなると非常に難しい。どこまでが三輪思想であり、どこからが天皇制思想なのか判定不能の様相を帯びているということも指摘しておかねばならない。それはともかく、三輪の地に生まれた保田は、天皇制精神よりもより本源的なこの太古よりの三輪思想を豊潤に嗅ぎながら育った。成人して文芸評論家として一家言を為すようになった保田の思想にこの三輪精神が息づいていることは容易に推理できることである。

 文芸評論家としての保田與重郎に特異性と斬新性が認められるのは、他の文芸評論家が持ち合わせず保田が色濃く保持していた三輪思想によるものではなかろうか、こういうことが予想できる。保田自身、「私の郷里は桜井である」としばしば誇らしくこう書いている。そういう意味で、保田が奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)で生まれ育ったと云うことは大いに注目されねばならないと考える。保田思想を解くカギは三輪にある。この指摘が、れんだいこの保田與重郎論の第一点である。ちなみに、三輪思想をこよなく愛する郷土の代表的知識人は、保田與重郎、樋口清之、森本六爾とのことである。

 付言しておけば、戦闘的良心主義的見地よりする「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の方は、上記の観点に加えて、「日の丸、君が代、元号」が実は三輪王朝の御代からのものであり、大和王朝以降もこれを継承したと云う連綿性があることを知る必要がある。単純に天皇制の象徴とみなす訳には行かない。三輪王朝の政体は跡かたもなく潰されたが、三輪王朝の精神は辛うじて残り、むしろ大和王朝の御代にも継承されたと看做すべきであろう。なぜそういうことになったのか、諸外国の征服史に珍しい現象であり興味深いが、ここでは問わない。しかして、日の丸、君が代、元号に秘められたイズムは、日の丸であればその表象に、君が代であればその歌意に、元号であればその暗喩に注目せねばならない。それらは出雲―三輪王朝の善政をデフォルメ(表現)しており、むしろ皇国史観の対極にあるものである。これを習うことは有益でありこそすれ逆ではない。

 してみれば、「日の丸、君が代、元号問題」闘争の正しき活用は、「日の丸、君が代、元号」を知らしむるところにこそあり、皇国史観的に寄らしむることに反撃すべきではなかろうかと云うことになる。実際には、「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の真意は、文部省の管理教育強権化に抗しているのであって的が外れている訳ではない。それは歴史的に是である、故にれんだいこも支援するが、「日の丸、君が代、元号」を巻き添えにするものではないと考える。文部省の教育の強権管理とは闘えば良い、「日の丸、君が代、元号問題」についてはむしろ知らしめるが良いとする、この両面からの闘争こそ本来期待されており、闘いの構図をこのように構えた時、圧倒的な支持を呼ぶのではなかろうかと思う。その他言及したいところは上記サイトに書きつけておく。

 今後、日本精神の研究を進めようと思うので以下のサイトを構築する。

 「日本の心、日本精神考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/top.html)

 2012.6.29日 れんだいこ拝

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2012年6月28日 (木)

マスゴミの造反組処分論の汚さ

 先のブログ「自民党谷垣執行部の云い草のこのデタラメぶりを見よ」で述べたように、自民党は郵政再改革法案造反4人組に対して処分しなかった。マスゴミがこれを知らない訳がない。にも拘らず「示しがつかない」として小沢処分をけしかけている。これを俗に「舌の根も乾かないうちに」と云う。しかしこうなるとマスゴミのコメンテーターともなるとよほど図太い神経の持ち主でないと勤まらないと云うことになるな。れんだいこは頼まれても御免蒙る。早く和製アルジャジ―ラ放送局の立ち上げを頼む。

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自民党谷垣執行部の云い草のこのデタラメぶりを見よ。

 2012.4.13日の郵政再改革法案に於いて、自民党執行部は、4名の造反組に対して「おとがめなし」としているのに、こたびの消費税法案に対しては、民主党と云う他党の造反組に対して処分しなければ話し合いに応じられないなどという御都合主義ほど噴飯ものはない。

 この時、小泉進次郎曰く「信念を曲げても、国民からも他の党からも誰からも評価されない」、菅義偉元総務相曰く「自民党の責任は重い。政治家も政党もぶれちゃダメだ」。自民党執行部の大島理森副総裁は厳重注意で済ませ、谷垣禎一総裁は即座に「この問題はこれで打ち止め。政権を追い詰める大事な局面なので結束すべきだ」と終結宣言している。

 辻褄が余りにも合わなさ過ぎよう。政治家の言に信がおけないのはこのところの日常茶飯事であるが、何事もほどほどにせんとな、云わんとな。谷垣よ、国民に向かってちゃんと説明してみぃ。

 2012.6.28日 れんだいこ拝

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Twitter is over capacity.

「Twitter is over capacity.」と出る。Twitterできなくなって分かったが、反応の即効性では右に出るものはないな。やっぱTwitterが恋しいな。

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自民党クローン議員考

 マスコミは逆に描くが、自民党クローン議員がトロイの木馬となり民主党の母屋を乗っ取ったと見る方が正しかろう。新ベンチャー革命氏の言であるが、これを支持する。更に云えば、自公民なるものの内実は、日本政治に責任を負う者ではなく、国際ユダヤ奥の院の対日解体教程に基づくアジェンダの請負人に過ぎない。と云うことは、民主党中央の正体は、自民党クローン議員のみならず対日奥の院のクローン議員と看做すべきだろう。

 その筆頭とも云うべき前原が、よりによって、小沢どん及びこたびの造反組に対し「どれだけ日本のことを考えて行動しているのか。次の選挙のことを考えて行動しているとしか思えない」、「本当の政治家は日本の将来を考えて行動する。目先の選挙で物事を決めるのは本当の政治家ではない」なる説教をしてくれるのは片腹痛いと云うか昔なら無礼千万で切り捨てに遭うところだろう。

 民主主義のソフト支配性に乗じて手前らはしたい放題言いたい放題、マスコミはクローン議員後押し放題の構図こそ天誅せねばなるまい。歴史は、おごれる者久しからずと教えている。近いうちにおごれる者が口から恥の泡を吹き出すことになるだろう。しかと見届けようぞ。

 2012.6.28日 れんだいこ拝

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ツイッターの調子がオカシイので御報告。

 ツイッターの調子がオカシイ。新たな書き込みできません。ツイ―トもできません。原因が分からないことと修復能力がないのでブログに書きこみます。ブログは長文、ツイッターは短文と仕分けしていたのですがブログに切り替えます。昼間は落ちつかないので時間が取れ次第再開します。以上、ご報告申し上げます。

 2012.6.28日 れんだいこ拝

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2012年6月21日 (木)

日本列島改造論、角栄自著の「序文と結び」の噛み締め考

 我々は、角栄の日本列島改造論の「序文」及び「結び」から何を窺うべきか。短文ではあるが貴重なメッセージが託されていることを知ることができよう。読めば分かり、敢えて記すことでもないのだが確認しておく。

  既に、「今より丁度40年前のことになる。1970年代の政治の香りを嗅ぐことができる。それは同時に、この時代の政治を捨てた、と云うか真逆の現在の政治に対する穏やかにして実は鋭い批判を含んでいる。これを共に味わおう」と記した。以下、これに付加する。

 角栄時代、頻りに国民総生産(GNP:Gross National Product))論が云われた。高度経済成長の波に乗っており、昨年対比幾らの成長率云々と云うことが当たり前のように確認されていた。数字が強かった角栄が時代をリードしていたことによる「上向時代の特徴」だったのかも知れない。今、この作風はない。なぜか。それは、国民総生産が伸び悩んでおり、そのことを隠したいと云う思惑によってであるとしか考えられない。この一事を見ても、角栄時代が正々堂々オープンを常としていたのに対し、今は逆の姑息な時代になっていることが分かる。

 次に、日本列島改造論の目的が、「民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開すること」を通じて、その為に「工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして」、「ふるさと再生、都市と農村、表日本と裏日本の格差是正」を期すことにあると詠っている。続いて「開かれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっていると云えよう」と述べており、こうした日本の理想の国づくりこそが日本が国際的に生き延びる道だとしている。

 1970年代までの日本は、この方向に沿って国家プロジェクトが策定され実にうまく機能していた。この時代の特徴は、滅多に注目されていないがマルクス&エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」の「プロレタリアと共産主義者」の項の「過渡的10政策処方箋」をモデルとして日本式に焼き直して政策化されていた感がある。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen2_2.htm) 

 読まぬ者には分からないだろうし、読んでも不正確な訳文では分からないだろうし、正確な訳文でも理解能力がなければ分からないだろう。れんだいこが読めばそういうことになる。よって戦後日本は相当に社会主義的な国であったことになる。それも在地土着型の焼き直しマルクス主義と云う理想的な創造的適用であったと云うことになる。教育、医療、年金、雇用、最低限生活が保障されていたのは、こういう事情によると思えば良い。

 この政治が、中曽根政権登場とともに始まる1980年代以降、解体され強制終了させられ、代わりに真逆の政治を指針せしめ、これを定向進化させて今日に至っている。こう読むのがれんだいこ史観である。今のところ仲間が見当らないので独眼流である。角栄政治時代が1960年代から70年代までの20年間であったのに対し、中曽根政治時代はその倍の期間の40年間を越えている。角栄政治を是とすれば、その真逆の政治をこれほど長く続けると国が壊れるのも至極当然と云うべきではなかろうか。

 もとへ。「むすび」で、「私が列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きと潤いを取戻す為である」と述べている。日本列島改造論は、都市集中型に傾斜した高度経済成長路線に対する角栄式手直しの処方箋であり行動計画である云う。

 曰く、「こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでも、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人々の郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない」、「日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちが今後とも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる」。

 この処方箋、行動計画は極めて唯物論的具体的である。即ち、ふるさと再生も、日本が平和国家として生き抜く道も、「日本経済のたくましい成長力を活用」してこそ可能であるとしている。これが「福祉と成長が両立する方途である」としている。その為の「経済運営」を指針させ、「この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる」としている。愛郷心、愛国心、お国の防衛も、この道を通じて自ずともたらされるものであり、この客体を無視して徒に掛け声だけして良しとするような観念的な作法は微塵もない。角栄後に登場する中曽根式大国責任論は、この対極のものであろう。

 角栄は最後にこう述べている。「私は政治家として25年、均衡が取れた住みよい日本の実現を目指して微力を尽くしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声かあふれ、年寄りが安らぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う」。事実、角栄はその後首相になり、この言葉通りに首相職を全うした。角栄政治がもう少し長く続いておれば、北朝鮮ともロシアとも現下の中国との交易の如く発展を見せていただろう。中小零細企業も逞しく自負の強い発展を遂げ、地方都市も理想的な発展を続けていたであろう。これを惜しめ。今は全てが逆である。

 角栄のその後は、ロッキード事件にお見舞いされ、周知の通りの結末を迎える。一体、誰が、このような非道を、正義ぶりながら画策したのか。ここでは述べないが、これを押し進めた末裔どもが現代政治を牛耳っている。ここに政治の貧困があると云うべきではなかろうか。

 そういう角栄政治の花粉を鼻孔に吸った小沢どんが、唯一かの政治の薫陶を思い出しながらリーダーシップを発揮しており、今や最後の決戦に向かおうとしているやに見受けられる。実に歴史は面白いと云うべきではなかろうか。

 2012.6.21日 れんだいこ拝

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2012年6月20日 (水)

日本列島改造論 目次

ここで、「日本列島改造論 目次」を確認しておく。目次だけ読んでも為になる。角栄の内治主義者としての面目躍如が窺えるだろう。興味深いことは、内治を能くし得る者は外治にも能力を発揮したと云うことである。逆に云うと、外治の専門家が内治を能く為し得るかは未だ成功事例がないと云うことでもある。辛うじて吉田茂辺りが評価に耐えられる程度である。一事万事と云う法理は、角栄によって内治からは通用することが既に証明されている。

 付言しておけば、日本列島改造論に指針されたマニュフェストは世界各国通用する。一言で云えば、公共事業活用プロジェクト論と云えようが、これに基づく時、その国は成長する。これを反故する時、成長が止まる、と云うか衰退し始める。それが証拠に、公共事業活用プロジェクト論を捨てたその後の日本は次第に凋落し、これを活用した韓国、中国、インドネシア等は昇り竜の勢いを見ることになった。角栄式公共事業活用プロジェクト論を活用して成長した国は今、不思議な顔をして日本を見つめている。
 

 田中角栄著 日本列島改造論 日刊工業新聞社
 序にかえて 
 目次
1、私はこう考える
  国土改造計画の軌跡と新しい方向
イントロ
明治百年は節目
都市政策大綱成る
五つの重点項目
財政との関係
地方自治との関係
農地制度との兼合い
電源開発促進法に取組む
ガソリン税の採用
都市づくり立法
河川法を改正
水資源開発促進法を制定
繁栄のなかの矛盾表面化
工業の発展とネック
都市政策大綱四つのねらい
特に必要な工業再配置
世界の趨勢を考える
平和と福祉に徹しよう
2、明治百年は国土維新
  都市集中のメリットとデメリットが交差
1、近代日本を築いた力
2、戦後経済の三段飛び 
3、人口の32%が国土の1%に住む
4、許容量を超える東京の大気汚染
5、一寸先はやみ、停電のピンチ
6、時速9キロの車社会
7、一人、1平方メートルの公園面積
8、5時間で焼けつくす東京の下町
9、生活を脅かす大都市の地価、物価
10、一人当たり四畳半の住宅
11、不足する労働力
12、過疎と出稼ぎで崩れる地域社会
3、平和と福祉を実現する成長経済
 成長追求型から成長活用型へ
1、経済の成長は可能かつ必要 奇跡ではない日本の成功
今後も成長は可能
福祉は天から降ってこない
物価上昇を押える
2、日本経済の未来像 昭和60年度は300兆円経済
産業構造は知識集約型へ
成長追求型から成長活用型へ
福祉が成長を生む長期積極財政
3、世界のなかの日本 貿易立国は不変の国是
南北問題と我が国の役割
4、人と経済の流れを変える
 日本列島改造の処方箋
工業再配置で描く新産業地図
 1、過密と過疎の同時解決 工業テコに地方開発
開発の余地ある日本の国土
 2、産業地図を塗り変える 巨視的視点から格差是正
基幹資源型産業は北東、西南地域へ
大型化するコンビナート
内陸工業は農村地帯へ
農村工業化の二つのタイプ
豪雪地、寒冷地こそ工業化を
 3、無公害工業基地 環境制御の仕組みを確立
濃度規制から総排出量規制へ
技術開発と緑地帯の活用
これからの電源立地
 4、インダストリアル・パーク 美しく快適な環境を提供する工場団地
標準タイプのインダストリアル・パーク
 5、動き出す工業再配置計画 イントロ
工場移転へ五つの助成策
工場受け入れには三つの助成策
工場追い出し税の実現を期す
工業再配置を支える交通ネットワーク
 1、1兆3200億トンキロをどうさばく イントロ
大量輸送時代の総合交通体系
 2、開幕した新幹線時代 拡大する1日行動圏
国土開発と地方線の再評価
 3、縦貫と輪切りの高速道路 幹線自動車道は1万キロに
緑の遊歩道づくりも国土開発の一環
 4、四国は日本の表玄関 近畿、西日本を一体化する本州四国連絡橋
 5、工業港と流通港の整備 イントロ
大型船時代の工業港
地方に国際貿易港を育てる
流通港とパイプライン
 6、ダム1千ヵ所の建設を イントロ
多雨国の水飢饉
7、ジャンボとSTOL機で結ぶ日本の空 イントロ
貨物空港と工業地帯
5、都市改造と地域開発
 日本列島改造の処方箋2
1、花開く情報化時代 都市機能の再配置
情報列島の再編成
2、新地方都市のビジョン 地方都市の整備
新25万年の建設
インダストリアル・キャピトル(特定産業首都)を育てる
地方拠点都市の衣替え
山紫水明の地に学園を
3、農工一体で蘇る近代農村 農村の利益は都市の利益
総合脳性の意味するもの
経営規模の大型化が必要
高生産性農業のカギは土地基盤整備に
集落再編成と新農山漁村計画
農業の健全な第3次産業化
4、平面都市から立体都市へ 都市改造と地方開発は同義語
都市空間と能率と
都市開発公団構想による都市開発
近郊開発でスプロール防ぐ
立体化した都市の町並みは
6、住宅問題をとくカギ ライフサイクルに合った住宅政策
土地利用は公共優先
土地の賃貸方式も
6、禁止と誘導と
 日本列島改造の処方箋3
1、自動車重量税で得をするのは誰か
2、産業政策の大転換
3、新しい官民協力路線を求めて
7、むすび

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2012年6月19日 (火)

日本列島改造論、角栄自著の「序文と結び」

 ここで、田中角栄が首相への道に至る際に掲げたマニュフェスト「日本列島改造論」のうち、角栄自身が書き上げた部分である序文と結びを確認する。時は1972年6月、今より丁度40年前のことになる。1970年代の政治の香りを嗅ぐことができる。それは同時に、この時代の政治を捨てた、と云うか真逆の現在の政治に対する穏やかにして実は鋭い批判を含んでいる。これを共に味わおう。

 序にかえて

 水は低きに流れ、人は高きに集まる。世界各国の近世経済史は、一次産業人口の二次、三次産業への流失、つまり、人口や産業の都市集中を通じて、国民総生産の拡大と国民所得の増加が達成されてきたことを示している。農村から都市へ、高い所得と便利な暮らしを求める人々の流れは、今日の近代文明を築き上げる原動力となってきた。日本もその例外ではない。明治維新から百年余りのあいだ、我が国は工業化と都市化の高まりに比例して力強く発展した。
 
 ところが、昭和30年代に始まった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口が過度集中し、我が国は世界に類例を見ない高密度社会を形成するにいたった。巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている半面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく、小ブなを釣る川もない大都会の小さなアパートがただひとつの故郷と云う人を増やした。これでは日本民族のすぐれた資質、伝統を次の世代へ繋いでいくのも困難となろう。

 明治百年を一つの節目にして、都市集中のメリットは、今明らかなようにデメリットへ変わった。国民が今何よりも求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。その為には都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる。

 また、開かれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっていると云えよう。その意味で、日本列島の改造こそは今後の内政の一番重要な課題である。私は産業と文化と自然とが融和した地域社会を全国土に押し広め、全ての地域の人々が自分たちの郷里に誇りを持って生活できる日本社会の実現に全力を傾けたい。

 私は今年3月、永年勤続議員として衆議院から表彰を受けた。私はこれを機会に“国土開発・都市問題”と一緒に歩いてきた25年間の道のりを振り返るとともに、新しい視野と角度から日本列島改造の処方箋を書き上げ、世に問うことにした。国民及び関係者各位の参考になれば、大変、幸せである。

 なお、本書の執筆と出版に当たって、献身的な努力をいただいた日刊工業新聞社のスタッフ各位関係各省庁の専門家諸君に対し心からお礼を申し上げたい。

 昭和47年6月 東京・目白台にて 田中角栄 
 むすび

 明治、大正生まれの人々には自分の郷里に対する深い愛着と誇りがあった。故郷は例え貧しくとも、そこには、厳しい父とやさしい母がおり、幼な友達と、山、川、海、緑の大地があった。志を立てて郷関を出た人々は、離れた土地で学び、働き、家庭を持ち、変転の人生を送ったであろう。室生犀星は「故郷は遠くに在りて思うもの」と歌った。成功した人も、失敗した人も、折に触れて思い出し、心の支えとしたのは、常に変わらない郷土の人々と、その風物であった。

 明治百年の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき、誇るべき郷里のなかに不滅の源泉があったと思う。

 私が列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きと潤いを取戻す為である。

 人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の二間のアパートだけを郷里とする人々を輩出させ、地方から若者の姿を消し、田舎に年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の百年を切り開くエネルギーは生まれない。

 かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした。

 この「日本列島改造論」は、人口と産業の地方分散によって過密と過疎の同時解消を図ろうとするものであり、その処方箋を実行に移す為の行動計画である。

 私は衰退しつつある地方や農村に再生の為のダイナモをまわしたい。公害のない工場を大都市から地方に移し、地方都市を新しい発展の中核とし、高い所得の機会をつくる。教育、医療、文化、娯楽の施設を整え、豊かな生活環境を用意する。農業から離れる人々は、地元で工場や商店に通い、自分で食べる米、野菜をつくり、余分の土地を賃耕に出し、出稼ぎのない日々を送るだろう。

 少数・精鋭の日本農業の担い手たちは、20ヘクタールから30ヘクタールの土地で大型機械を駆使し、牧草の緑で大規模な畜産経営を行い、果物を作り、米を作るであろう。

 大都市では、不必要な工場や大学を地方に移し、公害がなく、物価も安定して、住みよく、暮らしよい環境をつくりあげたい。人々は週休二日制のもとで、生きがいのある仕事につくであろう。20代、30代の働き盛りは職住近接の高層アパートに、40代近くになれば、田園に家を持ち、年老いた親を引き取り、週末には家族連れで近くの山、川、海にドライブを楽しみ、あるいは、日曜大工、日曜農業にいそしむであろう。

 こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでも、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人々の郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない。

 日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちが今後とも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる。

 敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。一億を越える有能で、明るく、勤勉な日本人が軍事大国の道を進むことなく、先進国に共通するインフレーション、公害、都市の過密と過疎、農業の行き詰まり、世代間の断絶なくす為に、総力をあげて国内の改革に進むとき、世界の人々は文明の尖端を進む日本をその中に見出すであろう。そして自由で、社会的な偏見がなく、創意と努力さえあれば、誰でもひとかどの人物になれる日本は、国際社会でも誠実で、尊敬できる友人として、どこの国ともイデオロギーの違いを乗り越え、兄弟づき合いが末長くできるであろう。

 私は政治家として25年、均衡が取れた住みよい日本の実現を目指して微力を尽くしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声かあふれ、年寄りが安らぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う。

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2012年6月16日 (土)

れんだいこの近代ハワイ史論

 れんだいこがハワイ近代史即ちハワイの被植民地史を確認して得た結論は、日本政治にとって他山の石としての必須の教材ではなかろうかと云う思いである。近代ハワイが国際金融資本帝国主義ネオシオニズム(以下、単に「国際ユダヤ」と表記する)に如何に弄ばれ、最終的に米国の50番目の州にされて行った経緯は決して他人ごとではない。明日の我が身として受け止めるべきではなかろうか。

 最近読んだ新渡戸稲造の「武士道」には次のように記されている。

 「新しい信仰の宣伝者たる者は、幹、根、枝を全部根こそぎにして、福音の種子を荒地に播くことを為すべきだろうか。かくの如き英雄的手法は、ハワイでは可能であるかも知れない。ハワイでは、戦闘的教会が冨そのものの大量の搾取と原住民種族の絶滅とに於いて完璧の成功を収めたと噂されている。しかしながら、かかる手法は日本に於いては全く断じて不可能である。否、それはイエス御自身が地上に彼の王国を建てるに於いて決して採用し給わざるやり口である」。

 この経緯に日本が無関係ではなかった。否、相当深く関わっていた。幕末維新―明治維新以来から敗戦までの日本は、移民、カメハメハ大王の明治天皇との会見、ハワイ政変に於ける日本軍艦の寄港、大東亜戦争緒戦での真珠湾攻撃等々によりハワイ史と大きく関わっている。このことも知らねばなるまい。

 結果的に、ハワイは米国に属州化された。他方、日本は先の敗戦にも拘わらず大きく取り込まれながらも辛うじて主権を維持している。と云うか維持してきた。しかしながら最近の流れは暗い。「国際ユダヤ」のハワイ侵略史を学ばぬ不幸は、日本の51番目の米国属州化、否今日では中国の省化、或いは韓国による併合、或いは「国際ユダヤ」の直接支配の可能性シナリオに無警戒をもたらし、ハワイの二の舞を喰らうことになるだろう。そういう意味で、ハワイ近代史即ちハワイの被植民地史の学習を必須とせねばならない。

 そのハワイ被植民地化史の圧巻は、カメハメハ大王の抵抗であろう。カメハメハ大王(カラカウア第7代国王)は、ハワイが「国際ユダヤ」に完全制圧される行く末を眼前に認め、唯一の秘策としてアジア共栄圏構想を練った。1881(明治14)年、世界周遊旅行の名目で各国を詣でながら、特に日本に白羽の矢を立て明治天皇にこう打診した。

 意訳概要「我が国は主権を持つ独立国家です。その我が国に対し、アメリカが太平洋上の拠点にしようという野心を抱いています。今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重する気持ちが微塵もありません。アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を深め無策です。この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列強諸国に対峙することが急務です。日本の進歩には実に驚くべきものがあります。アジア連合を起こすとすればその盟主には日本以外になく、天皇陛下こそが相応しい。日本は今、列強諸国に治外法権を認めさせようとして苦労していると聞きます。連合実現により容易にできるはずです。どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主となっていただきたい。そうなれば私は陛下を支え、大いに力をお貸ししましょう。私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカイウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。日本とハワイの絆の為、是非もらってもらいたい。私は貴国の良い返事を待ち続けます」(「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。

 この最高機密たる秘策は忽ちのうちに「国際ユダヤ」に伝えられ、カメハメハ大王のその後は哀れな末路を迎えることになる。大王は迂闊にも明治維新後の天皇制が「国際ユダヤ」のコントロール下にあることを知らなかった。古来よりの伝統的な天皇制が存続しているとばかり思って憧憬していたのだろう。仮にそうだとして誰が大王を責められようか。

 これにより知るべきは、明治天皇及びその側近の親ネオシオニズム性である。この逸話その他の資料の伝えるところによれば、明治天皇派が既にネオシオニズムの虜囚であったことになる。このようにして歴史の機密が暴かれる。このことは同時に明治維新以降の近代天皇制の胡散臭さを見て取るべきではなかろうかと云うことになる。そういう眼で見れば、近代天皇制下の富国強兵政策は歴史的な天皇制からはかなり異質なものであり、「国際ユダヤ」に取り込まれた結果としての好戦政策ではなかったかという仮説を生みだすことになる。

 もとへ。そういう最高機密をいとも簡単に漏洩されたカメハメハ大王のその後の運命や推して知るべしで大王は幽閉される。表へ出てきたときにはアルコール漬けの身になり果てていた。1891(明治24)年、カメハメハ大王が失意の内にこの世を去り在位17年の生涯を閉じた。日本来日から10年後のことであった。

 カメハメハ大王の意思の後継者達は、ハワイ王国の衰退を指をくわえて見ていたわけではない。頑強に抵抗を続けている。しかし、ハワイを自分達の手に取り戻すことはできなかった。それほどにネオシオニストの狡知が勝っていたということである。思えば、世界はハワイのみならず、16世紀頃より「国際ユダヤ」の餌食にされっぱなしで今日まで至っている。そういうご時勢下で日本がその悪魔の手から逃れえたのはまことに有り難いことであった。ここに幕末維新の偉業があると云うべきだろう。

 思えば、日本民族は、戦国期の「バテレン危機」を凌ぎ、幕末期の「黒船来航危機」を潜り抜け、大東亜戦争敗戦時の「国家崩壊危機」を乗り越え、稀有な独立国ぶりを獲得してきたことになる。しかし、やはり敗戦の傷跡は深い。戦後、ネオシオニストが大手を振って闊歩し始め、政官財学報司警軍の八者機関の中枢が押えられ、この支配構造が万力攻めで柵(しがらみ)化されたまま今日に至っている。八者機関の上層部はシオニスタンでなければ登用されない仕組みが作られている。日本が、このワナから抜けだすことは如何ともし難い。

 1970年代半ば過ぎ、ロッキード事件の脳震盪で旧田中ー大平連合の活動が封じ込められて以来、1980年代初頭に登場した福田ー中曽根連合のネオシオニスト・エージェント派が権勢を恣(ほしいまま)にすることとなった。中曽根-ナベツネ連合がその狂態の走りである。角栄派の小沢が自民党を飛び出した理由に自民党内のこの政変が大きく関係している。これを見ない見ようともしない政論は何の役にも立たない。

 もとへ。2000年代初頭に登場した小泉政権になって以来、狂態のスピードが増し、国家溶解が現実化を帯び始めた。その後の自公政権三代を経て2009年衆院選の政権交代により民主党政権が登場した。一番手の鳩山政権、二番手の菅政権を経過し、三番手に野田政権が登場し今日に至っている。何と民主三代政権は、この支配構造の推進者でありこそすれ立ち向かう政権ではないことを明らかにしつつある。

 しかしながら、日本民族の叡智はいつの日か縄抜けするだろう。なぜなら、「国際ユダヤ」の侵略狡知の秘術を既に知り始めているからである。まず客観的な状況把握こそが解決の前提となる。この問いを正しく掲げることができたなら半ば解決されたも同然である。歴史には法理がある。それは、どんな政体も300年の長きは続かないと云うことである。政体内部が腐敗し必ず分裂して行く。これは如何ともし難い。「国際ユダヤ」のみ例外足り得て永遠に支配階級であり続けると云うことは難しい。支配が至るところで綻び、群雄割拠が始まると思わざるを得ない。この波の過程で、日本は自ら呪縛を解くのではなかろうか。

 その為にもまずはハワイの被侵略史を学べ。今から思うに、大東亜戦争の裏面の一つとしてハワイ諸島を廻る日米の暗闘史があったかも知れない。日本帝国軍の緒戦の怒涛の進撃の背景に、原住民のネオシオニズム支配からの解放と云う熱い期待による呼応があったと考えられる。そういう事情も含めて歴史を複眼的に知ることの恰好な教材が近代ハワイ史ではなかろうか。

 肝要なことは、米国の侵略史として捉えるのではなく、米国を支配している「国際ユダヤ」のグローバルな侵略史として観ることではなかろうか。「国際ユダヤ」の動きに対して、レーニン式の各国帝国主義による争闘なる観点は正しくないと云うより「国際ユダヤ」の動きに対する煙幕でしかなかろう。こういう見立てと史観が欲しい。

 2006.9.3日、2012.06.16日再編集 れんだいこ拝

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2012年6月13日 (水)

第17章 武士道の将来(THE FUTURE OF BUSHIDO)

 ヨーロッパの騎士道と日本の武士道ほど適切なる歴史的比較を為し得るものは稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを繰り返すだろう。サン・パレ―の挙げる騎士道衰退の特殊的地方的原因は勿論日本の状態には適用せられない。しかしながら、中世及びその後において騎士道と騎士とを覆すに与りて力ありたる、より大且つより一般的なる諸原因は武士道の衰退に対しても確実に働きつつある。 

 ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一つの注目すべき差異は、ヨーロッパに於いては騎士道が封建制度から乳離れしたる時に、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたのに対し、日本に於いてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。従って、母制度たる封建制の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。現在の整備せられたる軍隊組織がこれをその保護下に置くことになるだろう。

 しかし、我々の知る如く現代の戦争は、武士道の絶えざる成長に対してささやかな余地しか供しない。武士道の幼児に於いてこれを保育したりし神道は、それ自体既に老いた。古代中国の聖賢はベンサムやミル型の知的成り上がり者によってとって代わられた。時代の排外主義的傾向に諂(へつら)う安逸な道徳教理、しかして今日の需要に上手に適合した思想が発明され提供せられた。しかし、今日なおその黄色き声が黄色新聞(yellow journalism)の紙面( columns)に反響するを聞くに過ぎない。

 諸々の権能及び権威が陣を張って騎士道に対抗している。既にヴェブレンの説くが如く、「儀礼的礼法の衰退、もしくは産業的諸階級間の生活のブルジョア化(vulgarization)とも換言することができるが、鋭敏なる感受性を持つ全ての人々の眼には次期文明の主なる害悪の一つと映ずるであろう」。勝ち誇れる平民主義の抵抗し難き潮流は如何なる形式もしくは形態のトラストをも許容しない。武士道は、知識及び教養の予備資本を独占する人々によりて組織せられたトラストであった。道徳的諸性質の等級及び価値を定めるトラストであった。

 平民主義は、武士道の遺産を呑みこむに足る十分なる力がある。現代の社会的諸勢力は哀れな階級精神に敵対している。そして、騎士道は、フリーマンの鋭く批評せる如く或る階級精神である。現代社会は、いやしくも何らかの統一を標榜する限り、「或る特権階級の利益の為に工夫せられたる純粋に個人的なる義務」を容認することができない。これに加えて、普通教育、産業技術及び習慣、冨並びに都会生活の発達がある。よって、サムライの刀の最も鋭利なる切れ味も、武士道の最強なる弓から放たれる最鋭の矢も、如何ともし難きを容易に知ることができる。

 名誉の巌(いわ)の上に建てられ、名誉によりて防備せられたる国家、これを名誉国家もしくはカーライルに倣(なら)いて英雄国家と称すべきか。この国家は、屁理屈の武器をもって武装せる三百代言の法律家や饒舌の政治家の掌中に急速に落ちつある。或る大思想家が、テレ―サ及びアンティゴ―ネについて述べた言葉はサムライに転じて述べても適切だろう。「彼らの熱烈なる行為を生みたる生活環境は永久に去った」。ああ悲しいかな武士の徳!慟哭せよサムライの誇り!鉦(かね)太鼓の響きをもって世に迎え入れられし道徳は、「将軍と王の去る」と共に消え行かんとする運命にある。

 もし歴史が我々に何ものかを教え得るとすれば、武徳の上に建てられたる国家は、スパルタの如き都市国家にせよ、或いはローマの如き帝国にせよ、地上に於いて「存立し続ける都」たることはできないと云うことである。人の闘争本能は普遍的且つ自然的であり、又高尚なる感情や男らしき徳性を生むものであるとはいえ、それは人の全てを理解するものではない。戦いの本能の下に愛に通ずる神聖なる本能が潜んでいる。

 我々は、神道、孟子、及び王陽明が明白にこれを教えていると判ずる。然るに武士道その他全ての倫理の武的な養成所は、疑いもなく直接の実際的必要ある諸問題に没頭する余り、往々にして右の事実を正当に力説するのを忘れた。(ブルジョア的)生活が後の時代になればなるほど益々成長しつつある。今日、我々の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりも更に高貴にして広き使命である。増幅せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想は、仏教の慈悲思想も又これに付加すべきか、それらはキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。

 人は臣民以上のものとなり、公民の地位にまで発達した。否、彼らは公民以上であり、人である。戦雲が我が水平線上を覆うとも、我々は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信ずる。世界の歴史は、「柔和なる者は地を継がん」との預言を確証している。平和の長子権を売り、しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国家は、何と貧相な取引をするものか!

 社会の状態が変化して、武士道に反対なるのみでなく、敵対的とさえ成りたる今日は、その名誉ある葬送の準備をする時である。騎士道の死したる時を指摘することの困難は、その開始の正確なる時を決定するの困難なるが如くである。ミラー博士曰く、「騎士道はフランスのアンリ二世が武芸試合で殺された時の1559年をもって正式に廃止せられた。我が国に於いては1870(明治3)年の廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘(ちょうしょう)を報ずる信号であった。その2年後に公布せられし廃刀令は、「かけがえのない優雅な人生、安上がりの国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保母」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代の鐘の音を鳴らせた。

 或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銃とクルップ砲によってであると。又言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかし、これらは真理の半面たるにも当らない。例えエールバ―もしくはスタインウェイの最良の製作にかかるものでも、名音楽家の手によらずして、ピアノそのもがリストのラプソディもしくはへ―ト―ベンのソナタを演奏し出すことがあるだろうか。さらに、もし銃砲が戦に勝つものならば、何故ルイ・ナポレオンはそのミトライユーズ式機関銃もってプロシヤ軍を撃破しなかったのであるか。或いはスペイン人はそのモーゼル銃をもって、それよりかなり劣る旧式のレミントン銃をもって武装したるに過ぎざりしフィリッピン人を破らなかったのであるか。

 言い古された言葉を繰り返すまでもなく、士気を鼓舞するものは魂である。それがなければ最高の道具も益するところが少ない。最も進歩せる銃や大砲も、自らひとりでに弾が出るわけではない。最も近代的な教育制度が臆病者を勇士に変身させるわけでもない。否、鴨緑江で、あるいは朝鮮半島や満州で、戦勝したのは我々の父祖の英霊である。英霊が我らが手を導き、我らが心臓に鼓動しているのだ。

 これらの英霊、我らが勇ましい祖先の魂は死んではいない。見るべき目を持っている者にははっきりと見える。最も進んだ思想日本人の皮を剥いで見よ、一皮むけばサムライが見えてくる。名誉、勇気、その他全ての武徳の鋳大なる遺産は、グラム教授がまことに的確に表現した如く、「だがそれは一時的に我々に預けられているだけで、本来は死せる者たち、そして来るべき世代の人々の神聖不可侵の封土である」。しかして現在の人達に下された命令は、この遺産を守ること。そして、古来よりの精神を一点一画をも損なわざることである。未来の人達に課された使命は、その精神が及ぶ領域を広げ、生活のあらゆる活動及び関係に応用していくことである。

 封建日本の道徳体系は城や兵器庫と同様に崩壊して塵となり、新生日本の発展の道が導びかれる如くに新たな倫理が不死鳥のように現れる、とする予言の正しさが過去半世紀の出来事を見る限り証明されているようである。かかる予言が成就されることは望ましく且つ起り得ることであるが、我々は、不死鳥は自分自身の灰から蘇るのだということ、又、不死鳥は渡り鳥ではなく、他の鳥からの借り物の翼で飛ぶのでもないと云うことを忘れてはならない。「神の国はあなた型の内にある」。神の国は、どこか高い山から転がり落ちてくるのもではないし、広い海原の向こうから航行してくるものでもない。

 コーランは宣べている。「神は、あらゆる民族に、その民族の言葉で話す預言者を与え給うた」。日本人の精神によって立証され、理解された王国の種子は武士道の中で花開いた。だが、今やその時代は幕を閉じつつある。悲しいことに、実を結ぶところまでいかなかった。しかして我々は、武士道に代わる優美と光明の源、力と安らぎの源を探してあらゆる方角を見回しているが、未だこれに代わるべきものを見出していない。功利主義者や唯物論者が考える損得哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋と誼(よしみ)を通じている。功利主義や唯物論に対抗できるだけの力を持っている倫理体系は唯一キリスト教あるのみである。告白せねばならないが、これに比すことができるのは武士道であり、但し武士道は「かすかに燃えているろうそくの芯(しん)」のようなものである。救世主は、その灯心の炎を消すことなく、煽いで焔(ほのお)と為すと宣言した。

 ヘブライの先駆者たる預言者たち、特に、イザヤ、エレミヤ、アモス、ハバククなどと同様に、武士道は、支配者や公人、国民の道徳的行為に重点を置いてきた。然るに、キリスト教の倫理は、ほとんど個人やキリストに個人的に帰依している人々に限定されており、道徳的要素の理解能力に於いて秀でている個人主義をますます実践的に適用するようになり、説得力.を増すようになるであろう。自己主張の強い独断的な、ニーチェのいわゆる主人道徳には何か武士道に似た点がある。私の理解が間違っていなければ、ニーチェが述べているところの言は、病的で歪んだ表現によって、ナザレの人(キリスト)の道徳を、みすぼらしい自己否定的な奴隷道徳と呼んでいるが、主人道徳とは、奴隷道徳に対する過渡的段階もしくは一時的な反動のものである。

 キリスト教と唯物論(功利主義をふくめて)はやがて世界を二分するだろう。あるいは、この二つも、将来は、昔からあったヘブライ主義とギリシャ主義という対立の形に還元されて行くのだろうか。劣勢な道徳体系は、生き残る為に、どちらかの陣営と同盟することになろう。武士道はどちら側に与するのだろうか。

 何ら纏まりたる教義(dogma)や守るべき定式を持たない故に、武士道は或る実体としては消失に委ね、桜のように、一陣の朝風に潔く散ることも厭わない。だが、その全てが死滅することは決してないであろう。ストア主義は死んだか? 体系としては死んでいる。だが、徳としては生き残っている。その精力(energy)と活力(vitality)は、西洋諸国の哲学や、あらゆる文明世界の法哲学に於いて、今日なお人生多岐の諸方面に感じ取ることができる。否、人が自己を高めようと奮闘する時、自身の努力によって精神が肉体を制する時、我々はそこにゼノンの教えが不滅の教訓として働いていることを知るのである。

 武士道は、或る独立した倫理規範としては消滅するかもしれない。しかし、その力が地上から消えてなくなることはない。武士道の武勇や市民的名誉心の学校的なものは解体されるかもしれない。だが、その光明と栄光は破滅後も末永く生きながらえていくだろう。武士道を象徴する桜の花の如く、四方の風に吹き散らされてしまってからも、人類を人生を豊かにする芳香でもって祝福し続けるだろう。

 はるかに時が流れて、その習慣が失われ、名前すら忘れ去られてしまっても、「路傍より彼方を見やれば」、その香気.が遠き彼方の見えざる丘から風に漂ってくることだろう。この時、クエーカーの詩人が美しい言葉で語る。「旅人は、いづこよりか知らねど、近くよりかかぐわしき香りに感謝の気持ちを抱き、立ち止まり帽子を取りて大気の祝福を受ける」。(完)

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2012年6月12日 (火)

「第16章 武士道の生命力考(武士道はなお生くるか)」(IS BUSHIDO STILL ALIVE?)

 (上記のように、武士道は武士と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって武士階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった) 

 では、急速にわが国に広まった西洋文明によって、日本古来の教えはすっかり消え去ってしまったのだろうか。或る国の魂がかくも急速に死んでしまうとしたら悲しむべきことだ。外からの影響にかくも易々と屈服するような魂は貧弱な魂である。国民性を構成する心理的要素の集合体は、「魚のひれ、鳥のくちばし、肉食動物の牙の如くその種族の除くべからざる要素」の如くに粘り強いものである。

 浅薄なる独断と華美なる概括に満ちた近著に於いて、ル・ボン氏は次のように述べている。「知性に起因する種々の発見は人類共通の世襲財産である。性格の長所や短所は各国民の占有的な世襲財産である。それらは何世紀にも亘り洗われるまでは、仮に一世紀間を日夜水で洗い流したとしても、(表面のざらつきもなめらかにならない)硬い岩のようなものだ」。これは強き言葉である。しかして、極めて熟考の値打ちある言であろう。各民族に占有的な世襲財産を構成する性格の長所短所を前提としてのものだが。

 然るに、この種の公式的学説は、ル・ポン氏がその著書を書き始める遥か前から提起されており、既に久しき前にテオド―ルワイツ及びヒュー・マレーによって粉砕されたものである。武士道によって侵潤せしめられたる種々の徳を研究するのに際し、我々はヨーロッパの典拠より比較と例証を引用した。そして、その一つの特性のどれも占有的世襲財産ではなかったことを確認した。

 道徳的諸特性の合成体が全く新奇(unique)なる形相を呈すると云うのは本当である。この合成体とは、エマスンが名付けて言うところの「あらゆる偉大なる力が分子として入り込むところの複合的効果」である。しかし、ルポンの言「或る民族もしくは国民の占有的な世襲財産」の代わりに、コンコルドの哲学者の言はこうである。「各国の最も有力なる人物を結合し、彼らをして相互的に理解し同感せしむる要素である。しかしてそれは或る個人がフリーメーソンの暗号を用いずとも直ちに感知し得る程度に明瞭な何ものかである」。

 武士道が我が国民に特に武士の上に刻印したる性格は「種族の除くべからざる要素」を形成するとは言い得ないが、それにも拘わらず、その保有する活力については疑いない。仮に武士道が単なる物理力であるとしても、過去7百年間にその獲得したる運動量はそんなに急に停止することはできない。それが単に遺伝によって伝えられたとしても、その影響は広大なる範囲に及んでいるに違いない。

 試みに思えば良い。フランスの経済学者シェイソン氏の計算したるところによれば、一世紀には三代あるものと仮定して、「各人はその血管の中に少なくとも西暦1千年に生きていた2千万人の血液を持っている」と云う。「世紀の重荷に腰を屈めて」土を耕せる貧農は、その血管の中に数時代の血液を持っており、かくして彼は「牛と」兄弟である如く我々とも兄弟なのである。

 武士道は、或る無意識的なるものとして、且つ抵抗し難き力として国民と個人を動かしてきた。近代日本の建設に最も輝かしい先駆者の一人たる吉田松陰は、処刑される直前に次のような歌を読んでいる。それは、日本人の正直な気持の告白であった。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」。

 武士道は、きちんとした体系を持っていたわけではなく、それは現在でも変わりがないが、我が国の活動精神、原動力であった。ランサム氏は云う。「今日では各々別個の日本が併存している。一つは、未だ滅びずに残っている古き日本、一つは、漸く精神に於いて生まれたばかりの新しい日本、次に産みの苦しみのさなかにある移行期の日本である」。この見解は、ほとんどの点において非常に正しい。特に形のある具体的な制度についてはよく当てはまる。しかし、これを根本的な倫理観念に当てはめるには多少の修正が必要である。と云うのも、古き日本を作り出した武士道は、移行期の日本においても未だに指針原理であり、さらに新しい時代の形成力たることを実証するであろうから。

 王政復古の暴風(hurricane)と国民的維新の旋風との中を我が国船の舵取りし偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳的教訓を知らざりし人たちであった。近頃、二、三の著者は、キリスト教の宣教師が新日本の建設に著大なる割合で貢献をしたと云うことを証明しようと試みている。私は、名誉を帰すべきものに名誉を帰すことにやぶさかではないが、この名誉は、未だ善良なる宣教師たちに授与せられ難きものである。裏づけとなる証拠が何もないものに要求を後押しするよりも、名誉を互いに譲り合うべしとする聖書の戒めに従うことの方が彼らの職業には一層相応しいだろう。

 私一個人としては、キリスト教の宣教師が日本の為に教育分野に於いて、又特に道徳教育の領域に於いて、偉大なる何がしかのことを為しつつあることを信じている。但し、精霊の活動は確実ではあるが神秘的であって、なお神聖なる秘密の中に隠されている。宣教師たちが行っていることは未だ間接的な効果しか生んでいない。否、未だキリスト教伝道が新日本の性格形成上、貢献したるところは殆ど見られない。否、我々を駆り立てたものは、良かれ悪しかれ単純明快、武士道そのものであった。

 現代日本を作った人々の伝記を開いてみよう。佐久間象山、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。現に生きている伊藤博文、大隈重信、板垣退助等の回想録は言うまでもない。彼らの思想や働きに影響を及ぼしたものはサムライ道の刺激の下であったことがわかるはずだ。ヘンリー・ノーマン氏は、極東について研究し観察した後、日本が他の東洋の専制国家と唯一異なる点はとして次のように述べている。「人類が創り出した中でも最も厳格で、最も高遠で、最も細部まで行き届いた名誉の基準が、国民全体に支配的な影響を与えている」。氏は、新生日本が今ある如く作られ且つ将来なるべく運命づけられている姿に形づくっていくであろう主因に触れている。

 日本が変貌を遂げたことは、全世界に知れ渡った事実である。これほど大規模な活動には、当然のことながら様々な動機が入り込んでいる。だが最も主要な動機を挙げるとすれば、人は躊躇なく武士道を挙げるだろう。全国に外国貿易港を開いた時、生活の各方面に最新の改良を導入した時、西洋の政治や科学を学び始めた時、我々を導いてきた原動力、物質的な資源を開発して富を増やしたいという動機ではなかった。ましてや、闇雲に西洋の習慣を真似しようというものでもなかった。

 東洋の社会制度や人民を詳しく観察してきたタウンゼンド氏が次のように記している。「毎日のようにヨーロッパが如何に日本に影響を与えてきたかということが話題になる。そして、この島国で起こった変化が完全に自力発生したものだということを私たちは忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではない。日本自身が、組織や市民や軍事的な組織のヨーロッパ的手法を学ぶ選択をしたのだ。そして、今のところその選択は成功している。日本は、トルコ人がかってヨーロッパから大砲を輸入したようにヨーロッパの機械工学を輸入した。それは厳密に言うと影響ではない」。

 タウンゼンド氏は続けて言う。「中国から茶を輸入したイギリスが中国から影響を受けたというのではない限りは」と。タウンゼンド氏は又問うて言う。「日本を改造したヨーロッパの使徒、哲学者、政治家、扇動者はどこにいるのか」と。タウンゼンド氏が日本の変化を引き起こした原因は完全に日本国内にあると認識したことは誠に卓見である。そして、氏が日本人の心理について探ったならば、氏の鋭い観察眼は、この源泉が他ならぬ武士道であったことをすぐに確信したであろう。劣等国として見下されることに耐えられない名誉心。それが最も強力な動機だった。金銭的に豊かになることや産業を発展させようという考えは、改革の過程で後に目覚めたものである。

 武士道の影響は、走者も読み得るほどに容易に認められる。日本人の生活を少し覗いてみればそれは一目瞭然である。日本人の心の最も雄弁にして且つ解釈者であるハーンの著を読めば、彼の描写する心の働きは武士道の働きの一例であることを知るであろう。日本人に広く行き渡った礼儀正しさは、武士道の生き方を受け継いだものであり、こと新しく繰り返すに及ばざる周知の事実である。「ちびのジャップ」がどれほど身体的に強い耐久力を持ち、どれほど忍耐強く且つ勇敢だったかは、日清戦争で十分に証明された。「これほど忠実で愛国心あふれる国民がいるだろうか」とは、多くの人に発せられる質問である。 これに対して「世界無比」と誇りを持って答えるられるのも武士道の賜(たまもの)であると感謝せねばならない。

 他方で、我が国民の性格の欠点、短所の多くも、武士道が大いに責任があることを認めるのが公平と云うものである。我々に深遠な哲学が存在しないのは、我が国の青年には科学的研究に於いて既に世界的名声を得た者がいる一方で、哲学的方面ではそのような学者は一人もいない。このことは、武士道の教育体制下では形而上学的な思考訓練が軽視されてきたことが影響している。我々の名誉感が過剰に感情的なことや、事に激し易いことに原因がある。そして又、もし、外国人が見て非難すべき自負うぬぼれが我々にあるとすれば、それも又名誉心の病的結果のものである。

 あなた方は、日本漫遊時に、多くの若者が、蓬髪弊衣(ほうはつへいい)、大きなcaneもしくは書物を手にし、「我、世事関せず」の態度で往来を闊歩するを見たであろう。彼は書生(学生)であり、彼にとりては地球は狭過ぎ、天は高しといえどもまだ十分なものではない。彼は、宇宙及び人生について彼独自の理論を持っている。彼は、空中楼閣に住み、且つ霊妙な知の言葉を食っている。彼の眼は野望の火に輝き、その心は知識を渇望している。貧窮は、彼を漸進せしめる刺激に過ぎず、この世の財宝は彼の品性に対する視界の束縛であると看做す。彼は、忠君愛国の宝庫である。彼は、国民的名誉の番人であることを自任する。その美徳及び欠点の一切を挙げて、彼は武士道の最後の残存断片者である。

 武士道の影響力はいまだに深く強く根づいており且つ強きものがあるが、前にも述べた通り、それは無意識的且つ無言の感化である。日本国民の心は、理由がわからないまま、過去から受け継いだものに訴えて来るものには何にでも応答する。それ故、同じ道徳観念でも、新たに翻訳された言葉で表現された場合と古くからの武士道の言葉で表現された場合では、その効力に大きな差が生まれてくる。

 或る信仰の道より離れしキリスト者は、牧師の如何なる忠告も彼を堕落の傾向より救い得なかったが、彼がその主にひとたび誓いし誠実即ち忠義の念に訴えられるや、翻然として信仰に復帰した。「忠義」という一語が、微温的と成るに任せられていた全ての高貴なる感情を復活せしめたのである。

 とある学校に於いて、或る教授に対する不満を理由として、一団の乱暴なる青年たちが学生ストライキを長く継続していたが、校長の出した二つの簡単な質問によって解散した。それは、「諸君の教授は高潔なる人物であるか。もし然らば、諸君は彼を尊敬して学校に留まるべきである。彼は弱き人物であるか。もし然らば、倒れる者を押すは男らしくない」というのであった。その教授の学力欠乏が騒動の始まりであったのだが、それは校長の暗示したる道徳的問題に比すれば、取るに足らない問題となってしまったのである。かくの如く、武士道によりて涵養せられたる感情を換気することによって、極めて重大なる道徳的刷新が成就せられ得るのである。

 我が国におけるキリスト教伝道事業失敗の一原因は、宣教師の大半が我が国の歴史について全く無知なることにある。或る宣教師は言う。「異教徒の記録などに頓着する必要があろうか」と。その結果として、彼らの宗教をば、我々並びに我々の祖先が過去何世紀にも亘りて継承し来れる思索の習性から切り離してしまうのである。しかしそれは、その国民の歴史を侮辱しているのではないのか。どのような人々の経歴も、何らの記録をも所有せざる最も遅れたるアフリカ系原住民の経歴でさえも、神御自身の手によりて書かれたる人類総合史の一ページを為していることを彼らは知らないのである。

 滅亡したる種族さえも、具眼の士によりて判読せられるべき古文書である。哲学的且つ敬虔なる心には、各人種は神の書き給いし記号であって、或いは黒く或いは白く、皮膚の色の如く明らかに跡を辿り得るものである。そして、もしこの比喩を良しとするならば、黄色人種は金色の象形文字をもって記されたる貴重の一ページを成すものである。

 或る人たちの過去の経歴を無視して、宣教師らは、キリスト教は新しい宗教だと要求する。私の考えでは、それは「古き古き物語り」であって、もし分かり易い言葉をもって表現せられるならば、即ち、もし或る人たちがその道徳的発達上聞き]慣れている;語彙をもって表現せられるならば、人種もしくは民族の如何を問わず、その心に容易(たやす)く宿り得るものである。アメリカ的もしくはイギリス的形式のキリスト教、それはキリスト教創始者の恩寵と純潔よりもむしろ、より多くアングロ・サクソン的恣意的妄想を含むキリスト教であるのだが、それは武士道の幹に接木するには貧弱なる接ぎ穂である。

 新しい信仰の宣伝者たる者は、幹、根、枝を全部根こそぎにして、福音の種子を荒地に播くことを為すべきだろうか。かくの如き英雄的手法は、ハワイでは可能であるかも知れない。ハワイでは、戦闘的教会が冨そのものの大量の搾取と原住民種族の絶滅とに於いて完璧の成功を収めたと噂されている。しかしながら、かかる手法は日本に於いては全く断じて不可能である。否、それはイエス御自身が地上に彼の王国を建てるに於いて決して採用し給わざるやり口である。

 我々は、聖徒、敬虔なるキリスト者、且つ深遠なる学者(ジョエット)の述べし次の言葉にもっと耳を傾けることが必要である。即ち、「人は、世界を異教徒とキリスト教徒に分かち、しかして一方に如何ほどの善が隠されているか、又は他方に如何ほどの悪が混じっているかを考察しない。彼らは、自己の最善なる部分をば隣人の最悪なる部分と比較し、キリスト教の理想をギリシャもしくは東洋の腐敗と比較する。彼らは公明正大を求めない。しかし、自己の宗教の美点として言われ得る全てのことと、他の宗教形式を貶す為に言われ得る全てのこととを集めて、もって満足している」。

 しかし、個々人によって如何なる間違いが犯されたにせよ、彼ら宣教師の信ずる宗教の根本的原理は、我々が武士道の将来を考えるについて計算に入れねばならない強い力であることは疑いない。武士道の日は既に数えられるようになったように思われる。その将来を示す不吉の兆候が空にある。兆候ばかりでなく、恐るべき諸勢力が働いて武士道を脅かしつつある。

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2012年6月11日 (月)

「第15章 武士道の感化影響力」(THE INFLUENCE OF BUSHIDO)

 我々は、武士道の徳目の連山としてそびえる多くの際立つ山脈中僅かの峰を考察したに過ぎない。それらは、それぞれに於いて我々の国民生活の一般的水準よりもはるかに抜きん出ているものである。太陽の昇る時、まず最高峰の頂をば紅に染め、それから漸次にその光を下の谷に投ずるが如く、まず武士階級を照したる倫理体系は時を経るに従い大衆の間からも追随者を産むことになった。平民主義(Democracy)はその指導者として天性の皇子を興し、貴族主義は民衆の間に皇子的精神を注入する。徳は罪悪に劣らず伝染的である。「仲間の間にただ一人の賢者があれば良い。然らば全てが賢くなる。それほど伝染は速やかである」とエマソンは言う。如何なる社会的階級もしくは制度も道徳的感化の伝播力には抵抗し得ない。

 アングロ・サクソンの自由の勝ち誇れる進軍について、どう吹聴するも可であるが、それが大衆から刺激を受けたことは稀であった。むしろそれは大地主.と紳士の事業ではなかったか。テ―ヌ氏が「海峡の彼方にて用いられるこの三綴りの語(ゼントルメン)は、イギリス社会の歴史の要約である」と言えるは、真に然りである。平民主義派はかくの如き言に対し、自信に満てる反駁を加え、問いを返して言うであろう。「アダムが耕しイブが紡いだ時、どこにゼントルマンはいたか」と。

 ゼントルマンがエデンに居なかったことは全く悲しむべきことであった。人類の始祖は、彼の不在により甚だしく苦しみ、これに対し高き代価を払った。もし彼がそこにいたなら、楽園はさらに多大の風流をもって装われたのみでなく、始祖は苦痛の経験を舐めることなくして、エホバに対する不従順は不忠にして不名誉、謀反にして反逆なることを学び得たであったろう。

 過去の日本はサムライの賜物である。彼らは国民の花たるのみでなく、又その根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。彼らは社会的に民衆より超然として構えたけれども、これに対して道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのである。私は、武士道に秘義及び対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧幸福を求める福利主義的なものであり、前者は彼ら自身の為に行う徳の実践を強調するものであった。

 ヨーロッパの騎士道の最盛期においても、騎士は数的には人口の一小部分を占めたるに過ぎない。しかし、エマスンの言える如く、「英文学に於いてはサ―・フィリップ・シドニーよりサ―・ウォルター・スコットに至るまで、戯曲の半分と全ての小説がこの人物(ゼントルマン)を描写した」のである。シドニー及びスコットの代わりに近松及び馬琴の名を記せば、日本文学史の主なる特色をきわめて簡潔に表わすことになる。民衆娯楽と民衆教育の無数の並木道、即ち芝居、寄席(よせ)、講釈、浄瑠璃、小説は、その主題をサムライの物語から取った。

 農民は、粗末な家の炉火を囲んで、義経とその忠臣である弁慶、もしくは勇ましき曽我兄弟の物語を繰り返して飽かず、色黒き腕白は茫然口を開いて耳を傾け、最後の薪(まき)が燃え尽きて余塵が消えても、今聴きし物語によって心がなお燃え続けた。番頭、小僧は、一日の仕事を終えて店の雨戸を閉めれば、一緒に集まり、信長と秀吉の話に耳を傾け、夜を更(ふか)し、遂に睡魔がその疲れたる目を襲うまで、彼らを帳場の苦労から戦場の功名へと夢中にさせた。よちよち歩き始めたばかりの幼児でさえ、鬼が島征伐を敢行した桃太郎の冒険譚を廻らぬ舌で語らされた。少女でさえ、武士の武勇と徳を慕う念厚く、デズモデモナの如く、サムライの恋愛小説(romance)に熱心に耳を傾けること尋常ならざるものがあった。

 サムライは、日本人全体の洒落た理想となった。「花は桜木、人は武士」という言葉が流行り民衆に歌われた。軍事階級は商業的利益追求を禁ぜられたので、直接には商業を助けなかった。しかし、如何なる人間活動の水路も、如何なる思想の並木道も、或る程度に於いて武士道より刺激を受けざるはなかった。知的及び道徳的日本は、直接間接に騎士道の所産であった。

 マロック氏は、その優れて暗示に富む著書「貴族主義と進化」に於いて雄弁に述べて曰く、「社会進化は、それが生物進化と異なる限り、偉人の意志の無意識的結果なりと定義して良かろう」と。又曰く、歴史上の進歩は、「社会一般の間に於ける生存競争によるものではなく、むしろ社会の少数者間に於いて大衆をば最善の道に於いて指導し、指揮し、使役せんとする競争」によって生ずる」と。氏の議論の適切さについての批評はともかくとして、以上の言は、我が帝国既往の社会進歩上、武士の果たしたる役割によって豊かに証明された。

 武士道精神が如何にすべての社会階級に浸透したかは、平民主義の天性の指導者にして「男だて」として知られる特定身分の人物の発達によっても知られる。彼らは剛毅の者であって、身体中男らしさの塊のような力に満ち溢れていた。或る時には一般大衆を代表し、その権利を守る者として、彼らは各々数百数千の子分を従えていた。子分たちは親分に対し、武士が大名に対したると同じ流儀で自分の「肢体、命、身体、財産、この世における名誉」を喜んで捧げた。過激にして向こう見ずな働きをする子分たちを多数従え、彼らの生まれながらのボスたちは、二本差しの連中が増長しすぎるのを手強く監視する阻止力を構成していた。

 武士道は、その最初発生したる社会階級より多様な道を通りて流下し、さまざまな形で大衆の間に酵母(パン種)として作用し、日本人全体に対する道徳的規準を供給した。騎士道の最初はエリート(elite)の光栄として始まったが、時を経るに従い国民全体の渇仰(かつごう)及び霊感となった。しかして、平民は武士の道徳的高さまでは達し得なかったけれども、「大和魂」は、「日本の心」として、遂には島帝国の民族精神(Volksgeist)を表象するに至った。もし、宗教なるものが、マシュー・アーノルドの定義したる如く、「情緒によって味付けされた道徳」に過ぎないとすれば、武士道ほど宗教と呼ぶに相応しい倫理体系は滅多になかろう。本居(本居宣長)は、国民の声にならない声をこのような歌にしている。「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」。

 然り。桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性を表す象徴であった。特に歌人が用いている鮮明なる語に注意せよ。「朝日に匂う山桜花」の語を。大和魂は、やわな栽培種の植物ではない。自然に成長したという意味で野生種である。その土地の固有種である。その偶然的なる性質については、他の土地の花と共通する性質もあるだろう。だが、その本質に於いては我が風土に固有に自然的に発生したものである。しかし、その土着性が、我々に愛情を抱かせしめる唯一の理由ではない。その洗練された美しさと優雅さが、他のどんな花よりも日本人の美的感覚に訴えるからである。

 我々は、ヨーロッパ人のバラに対する賛美を分かつことはできない。なぜなら、バラには桜のような簡素さがないからである。更にまた、バラはその美しい姿の陰にトゲを隠している。そして、生命に対する執着すること強靭なものがある。時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽ち、もしくは死を恐れている。枝上にて朽ちるを選び、その華美なる色彩、濃厚なる香気、全てこれらは我々の花と著しく異なる特徴である。我が桜はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして決して人を飽かしめない。

 色や形の美しさは、外から見えるものに限られている。それは存在することにより定められる性質のものである。これに反し、香気は浮動し、命の息吹のように霊妙なである。それで、あらゆる宗教的儀式に於いて、香と没薬(もつやく、香気のある樹脂; 香料)が非常に重要な役割を果たすのである。香りには何か霊的なものがある。桜のかぐわしい香りが朝の空気を輝かせ、太陽が昇り、その最初の光が極東の島国を照らす時、この朝の空気を吸い込むほど穏やかで晴れやかな気分になるものはない。

 その空気は、いわば、その美しい一日の息吹そのものだ。創造主自身、かぐわしい香りをかいで新たな決意を固めた時(「創世記」第8章21)、桜の花が甘く香る季節、日本人はこぞってその小さな家を出て野に遊ぶのに何の不思議があろうか。その期間、人々があくせく働くのをやめ、心の憂さや悲しみを忘れたとしても、彼らを責めないでほしい。短き楽しみが終われば、彼らは新たな力と決意を抱いて再び日々の仕事に戻っていく。

 かように桜はいろいろな意味で国民の花なのである。しからば、かく甘美にして儚(はかな)い、風のままに吹き去られ、芳しい香りを放ちながら、今にも永久に消え去ろうとしている、この花が大和魂の型なのだろうか。日本の魂はかくも脆(もろ)く消えやすきものなのだろうか。

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2012年6月10日 (日)

第14章 婦人の教育及び地位(THE TRAINING AND POSITION OF WOMAN)

 人類の一半を為す女性はしばしば矛盾の典型と呼ばれる。女性の心の直感的な働きは、男性の解析的判断力により理解するものをはるかに超えている。中国式表意文字(漢字)の神秘的もしくは不可知的な意味を持つ「妙」は、若いと云う意味の「少」と云う字と婦人と云う意味の「女」から成り立っている。けだし、女性の身体的美と繊細な発想は、男性の粗雑な心理能力では説明できない。

 しかしながら、武士道が説く女性の理想像は、神秘性が極めて乏しく外見的な矛盾があるにすぎない。私は、それを勇婦的であると言ったが、それは半面の真理でしかない。漢字の字義による妻とは、箒(ほうき)を持つ婦人を意味している。実に、それは彼女の配偶者に対する攻撃的に振りまわす為ではなく、又魔法の為ではなく、枝ぼうきが最初に発明された時に使用された如く無害な用途に於いて意味されている。かくて、その含意する思想は、英語の妻(wife)が語源的に「織る人」(weaver)より出で、娘が「乳搾り」(duhitar, milkmaid)より出でしと同様に家庭的である。現ドイツ皇帝は、「婦人活動の範囲は台所( Küche)、教会(Kirche)、子供(Kinder)にあり」と言われたと云うが、武士道の女性の理想はこれら三者に限定することなく著しく家庭的であった。この一見矛盾と思われる家庭的並びに勇婦的特性は、武士道に於いては両立せざるものではない。以下、そのことを論じよう。

 武士道は本来、男性のためにつくられた教えである故に、武士道が女性に重んじた徳目も自ずから女性的なものからかけ離れていた。ウィンケルマン曰く、「ギリシャ芸術の最高の美は、女性的であるよりもむしろ男性的である」。レツキ―はこれに付け足して「このことは、ギリシャ人の道徳観念について見るも、芸術に於けるが如くに真である」。武士道は同様に、女性に対し、自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、もっと強く勇敢である男性にも負けない英雄的武勇を称揚した。この故に、少女は、その感情を抑制し、その神経を強くし、武器、ことに薙刀(なぎなた)と云う長い柄の刀を使い、もって不慮の事変に際して己が身を守ることを訓練させられた。

 然るに、この武芸練習の主たる動機は、戦場に於いて用いる為ではなく、むしろ一身の為並びに家庭の為なる二つの動機によった。女性は己の主君を有せざるにより、己自身の身を守った。女性がその武器をもって己が身の神聖を護りしことは、夫が君の身を護りしが如き熱心をもってした。彼女の武芸の家庭的用途は、後に述べるが如く子供の教育に於いてであった。 

 女性の剣術その他の武芸は、実用されることは仮に稀であるにしても、婦人の端坐的なる習慣を補う健康上の理由があった。しかし、これらの武芸は健康上の目的のみのではなかった。有事の際には実際に用いることができた。女児が成年になれば短刀(懐剣)を与えられ、もって己を襲う者の胸を刺すべく、あるいは場合によりては己の胸を刺すを得た。後者の場合はしばしば実際に起こった。故に、私は彼らを酷に裁こうとは思わない。自殺を嫌悪するキリスト者の良心といえども、日本女性に厳しくされるべきではないだろう。自殺せし二人の婦人ぺラギア及びドミ二ナをばその純潔と敬虔の故をもって聖徒に列しているのを見れば。

 或る日本のバージ二アが、その貞操が危険に瀕するを見る時、彼女の父の剣を待つまでもなかった。彼女自身の武器が常に懐中にあった。自害の作法を知らざる事は彼女の恥辱であった。例えば、彼女は解剖学を学ばなかったけれども、喉のいずれの点を正確に刺すべきかを知らねばならなかった。死の苦痛が如何に激しくとも、死屍(しし)が肢体の姿勢を崩さず、最大の謹慎を示さんが為に、帯紐をもって己が膝を縛ることを知らねばならなかった。 かくの如き身だしなみはキリスト者ぺルぺチュアもしくは聖童貞コルネリアに比すべきではないか。私がかかる出し抜けな質問を発したには理由がある。それは入浴の習慣その他の些事に基づきて、貞操観念は我が国民の間に知られないと云う如き誤解を抱く者を見るからである。

 全く反対だ。貞操はサムライの主要な徳であって、生命以上にこれを重んじたのである。或る妙齢の婦人が敵に捉えられ、荒武者の手により暴行の危険に陥りし時、彼女は申し出た。戦によって散り散りになりし姉妹に一筆認めることが許されるならば、彼らの意に従うと。手紙を書き終わった彼女は近場の井戸に走り、身を投じて彼女の名誉を守った。遺された文の端に一首の歌があった。「世に経なば よしなき雲も おほひなん。いざ入りてまし 山の端の月」。

 読者に、男性的なることのみが我が国女性の最高理想であったとの観念を与えることは公平でない。大いに然らず。芸事(げいごと)及び生活の優雅さが彼女らに必要とされていた。音楽、舞踊、及び文学が軽んぜられなかった。我が国文学史上、最も優れたる詩歌の幾つかは女性的感情により表現されている。事実、女性は日本の純文学史上重要なる役割を果たしたのである。舞踊は、(私はサムライの子女のことを言っているのであって、芸者のことではない)、彼女らの挙措動作の節目を滑らかにする為に教えられた。音楽は、彼らの父もしくは夫の物憂き時の慰める為のものであった。従って、音楽を習ったのは、技巧即ち芸術そのものの為ではなかった。その究極の目的は、心を浄化することにあり、為に音曲の調和は演奏者の心が安らかならずんば調わずと云われた。

 ここでも、我々は、青年の教育について気づいたところの「芸道は常に道徳的価値に対し従たる地位に置かれている」と同一の観念を認めることになる。音楽と舞踊は生活に優雅さと聡明さを加えるをもって十分なものとしており、決して虚栄や贅沢.を助長する為のものではなかった。ペルシャ王がロンドンで舞踏会に案内されて、舞踏に加わることを勧められた時、自国ではこの種の仕事をして見せるには特別の女子の一団が宛(あて)がわれると、ぶっきらぼうに答えた。私は王に同情する。

 我が婦人の芸事は見せる為もしくは売り出しの為に習得されるものではない。それは家庭的気晴らしであった。社交の席に於いてその技を示すことがあっても、それは主婦の接待務めとして、換言すれば、家人が客を歓待する方法の一部としてであった。家庭的愛着が教育を導いた。旧い日本の女性の芸事目的は、性質に於いて武芸たると平和的なものたるとを問わず、主として家庭の為であったと言い得る。しかしながら、彼女らは如何に遠く離れてさまようとも、決して炉辺の光景を忘れることはなかった。彼女らは、家の名誉と威厳を維持せんが為に苦労、労役し、命を投げ出した。日夜、強く又優しく、勇ましく又哀しき調べをもって、彼女らのささやかな巣に歌いかけた。

 女性は、娘としては父の為に、妻としては夫の為に、母としては子の為に、己を献身した。かくして幼少の頃から、彼女は自己否定を教えられた。彼女の一生は独立の生涯ではなく、奉仕の生涯だった。男性の助けとして、彼女の存在が役立てば、夫と共に舞台の上に立ち、もし夫の働きの邪魔になれば、彼女は幕の後ろに引く。或る青年が或る少女を恋し、乙女も同じ熱愛をもって彼の愛に報いたが、青年が彼女に心惹かれて義務を忘れるを見て、乙女は自己の魅力を失わしめる為に己が美貌に傷つけたる如き事の起こりしも稀ではなかった。 「吾妻(あづま)」、それはサムライの娘たちが理想の妻と仰ぐ妻のことであるが、かくの如し。彼女は、己が夫の仇によって恋慕される身となった。彼女は、不義の計画に与することを装い、闇にまぎれて夫の身代りに立ち、恋の刺客の剣をば己の貞潔なる首に受けた。

 或る若き大名(木村重成)の妻が自刀に先立ちて書き遺したる次の手紙は、何らの注釈を要しないであろう。「一樹の蔭、一河の流れ、これ他生の縁と承り候が、さてもおととせの頃おいよりして、偕老の契りをなして、ただ影の形に添うが如く思い参らせ候に、この頃承り候えば、この世限りの御催しの由、陰ながら嬉しく存じ参らせ候。唐土の項王とやらんは世に猛き武士なれど、虞氏の為に名残りを惜しみ、木曽義仲は松殿の局(つぼね)に別れを惜しみとやら。されば世に望み窮まりし妾(わらわ)が身にては、せめては御身在生の中に最後を致し、死に出の道とやらんにて待ち上げ奉り候。必ず必ず秀頼公の鴻恩御忘却なきよう頼み上げ参らせ候」。

 女子がその夫、家庭並びに家族の為に身を棄てるは、男子が主君と国の為に身を棄てると同様の喜びであった。自己否定、これなくしては何ら人生の謎は解説され得ず、男性の忠義に於けると同様に女性の家庭の切り盛りの基調であった。女性が男性の奴隷でなかった。このことは、彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。女性の果たしたる役割は内助即ち「内助の功」として認められていた。奉仕の上向秤に於いて、女性は男性の為に己を棄て、これにより男性をして主君の為に己を棄てるを得しめ、主君は又これによって天に従う。

 私は、この教訓の欠陥を知っている。そして、キリスト教の優越ほど、生きとし生ける人間各自に創造者に対する直接の責任を要求する点に於いて宣言されているものは他にはどこもない。にも拘わらず、奉仕の教義に関する限り、自己自身即ち自己の個性を犠牲にしてより高き目的に仕えることでは、キリストの教えの中最大であり彼の使命の神聖なる基調を為している奉仕の教義に於いて、これに関する限りにおいて、武士道は永遠の真理に基づいている。

 読者は、私を、意志の奴隷的服従を称揚するとの不当の先入観を抱く者として咎めないであろう。私は、ヘーゲルの「歴史は自由の展開及び実現である」を、その思想の深遠さを学び擁護する立場で、その見解をば大体に於いて受け入れる。 私の明らかにせんと欲する点は、武士道の全教訓が自己犠牲の精神によって完璧に染められており、それは女性のみでなく男性についても要求せられたと云うことである。従って、武士道の教訓の感化が全く消失するに至るまでは、我々の社会は、或るアメリカ人の女権論代表者が「全ての日本の女性が旧来の習慣に反逆して決起せんことを」と叫んだ軽率なる見解を認めないだろう。

 かかる反逆は女性の地位を向上せしめるだろうか。かかる軽率によって獲得する権利は、彼らが今日受け継いでいるところより起りし道徳的腐敗を見れば、そういう方向へ向かう悦楽気分の喪失で報いられているのではないのか。アメリカ人の改良家は、「我が国女性の反逆は歴史的発展のとるべき真の経路である」などと説くが確言し得るのか。これは重大問題である。変化は反逆を待たずして来ねばならず、来るであろう。今暫く、武士道の制度下に於ける女性の地位が果たして反逆を是認するほど実際に悪しきものであったのか否かを見ようではないか。

 我々は、ヨーロッパの騎士が「神と淑女」に捧げたる外形的尊敬について多くを聞いている。この二語の不一致はギポンをして赤面せしめしところである。ハラムは、「騎士道の道徳は粗野であり、婦人に対する慇懃は不義の愛を含んでいる」とも述べている。騎士道の女性(weaker  vessel)に及ぼしたる影響は、哲学者に思索の糧を提供した。ギゾー氏が「封建制度と騎士道は健全なる影響を与えた」と論じているのに対し、スペンサー氏は「軍事社会に於いては(しかして封建社会は軍事的にあらずして何ぞ)、女性の地位は必然的に低く、それは社会が産業的となるに伴ってのみ改良される」と述べた。さて、日本については、ギゾー氏の説とスペンサー氏の説といずれが正しいか。答えて、私は、両者ともに正しいと確言し得る。

 日本に於ける軍事階級はほぼ約200万人から編成されるサムライに限られていた。その上に、軍事貴族たる大名と宮廷貴族たる公卿(くげ)とがいた。これらの身分高く奢侈的貴族たちは、ただ名称に於いてのみ武人たるに過ぎなかった。武士の下には平民大衆がおり、即ち職人、商人、農民がおり、これらの者の生活は専ら平和の業務に携わっていた。かくして、ハーバート・スペンサー氏が軍事的形態の社会の特色として挙げるところのものは専らサムライ階級に限られていたと云うことになるだろう。これに反し、産業的形態社会の特色は、その上と下との階級に適用せられ得るものであった。

 このことは女性の地位によりて能く説明できる。と云うのは、婦人が最も少なく自由を享有したのは武士の間に於いてであった。奇態なことには、社会階級が下になればなるほど、例えば職人の間に於いては、夫婦の地位は平等であった。身分高き貴族の間に於いても又、両性間の差異は著しくはなかった。これは主として、有閑貴属は文字通りに女性化した為、性の差異を目立たしめる機会が少なかりし故である。かくしてスペンサーの説は旧日本に於いて十分に例証せられた。ギゾーの説に関しては、彼の封建社会観を読みし者は、彼が特に身分高き貴族をば考察の対象と為したることを覚えているであろう。従って、彼の概括.は大名及び公卿に適用せられるものである。

 私は、もし私の言が武士道の下に於ける女性の地位に関し、甚だ低き評価を人に抱かしめたとすれば、私は歴史的真理に対し大なる不正なる罪を犯したことになるだろう。私は、女性が男性と同等に待遇されなかったと述べるのに躊躇しない。しかしながら、我々が差異と不平等との区別をば学ばざる限り、この問題についての誤解を常に免れないであろう。男性でさえ相互の間に平等なるは、法廷もしくは選挙投票等の例でも分かるように、極めて少数の場合に過ぎざることを思えば、男女間の平等についての議論をもって我々自らを煩わす如きは無駄と思われる。アメリカの独立宣言に於いて、全ての人は平等に創造せられたと云われているのは、何ら精神的もしくは肉体的能力に関するものではない。それは、昔、アルピアンが、法の前には万人平等であると述べたことを繰り返しているに過ぎない。この場合に於いては、法律的権利が平等の尺度であった。

 もしも法が社会に於ける女性の地位を計るべき唯一の秤(はかり)であるとせば、その地位の高い低いを告げるのは、彼女の体重をポンド、オンスで告げるのと同様容易なことである。しかし、問題はこうである。男女間の相対的なる社会的地位を比較すべき正確なる標準は何か。女性の地位を男性のそれと比較するに当り、銀の価値を金の価値と比較するが如きにしてその比率を数字的に出すことが正しいか、それで足りるか。かかる計算の方法は人間の持つ最も重要なる種類の価値、即ち内在的価値を考察の外に置くものである。男女各々その地上に於ける使命を果たす為、必要とされる資格の種々多様なることを考えれば、両者の相対的地位を計る為に用いられるべき尺度は複合的性質のものでなければならない。もしくは、経済学の用語を借りれば、複本位でなければならない。

 武士道はそれ自身の本位を有した。それは両本位であった。即ち女性の価値をば戦場並びに炉辺によって計ったのである。前者な於いては女性は甚だ軽く評価されたが、後者に於いては丸ごと評価された。女性に与えられたる待遇は、この二重の評価に応じた。社会的政治的単位としては高くはなかったけれども、妻及び母としては最も高き尊敬と最も深き愛情とを受けた。

 ローマ人の如き軍事的国民の間にありて、女性が高き尊敬を払われたのは何によるか。それは彼らがマトロネ―(matrona)即ち母であったからではないのか。ローマ人は戦士もしくは立法者としてではなく、母として女性の前に身を屈(かが)めた。我が国民についても同様である。父や夫が戦場に出て不在なる時、家事を治むるは全く母や妻の手に委ねられた。若者の教育、その防衛すらも、彼女らに託された。私が前に述べた女性の武芸の如きも、主として子女の教育をば賢しく指導するを得んが為であった。

 私は、半解の外国人の間で、日本人が俗に自分の妻をば「愚妻」などと呼ぶのを見て、妻を軽蔑し尊敬せざるものとみなす皮相の見解が行われていることに気づかされている。 しかし、「愚夫」、「豚児」、「拙者」等々の語は、日常使用されていることを告げれば、それで答えは十分明瞭ではなかろうか。

 私には、我が国民の結婚観は或る点に於いてはいわゆるキリスト教徒よりも進んでいるように思われる。「男と女と合いて一体となるべし」。アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間であるという考え方から抜け出すことができない。その為、二人がいがみ合う時は、それぞれに権利が認められ、彼らが相和す時には、あらゆる種類の馬鹿馬鹿しき相愛の語や無意味(nonsensical)な阿諛の言葉のありたけを尽す。夫もしくは妻が他人に対し、互いの半身のことを、良き半身か悪しき半身かは別として、愛らしいとか、聡明だとか、親切だとか何だとか云うのは、我が国民にの耳には極めて不合理に響く。

 自分自身のことを、「聡明な私」とか「私の愛らしい性質」などと云うのは良い趣味だろうか。我々は、自分の妻を褒め、もしくは夫を褒めるのは自分自身の一部を褒めるのだと考える。しかして我が国民の間では、自己称賛は少なくとも悪趣味だと看做されている。しかして、私は希望する。キリスト教国民の間にありても同様ならんことを。自己の配偶者を社交辞令的に貶(けな)して呼ぶことはサムライの間に通常行われたる習慣であったから、私はかなり長く横道に入って論じた次第である。

 チュートン人種は女性に対する迷信的畏怖をもってその種族的生活を始め、(これはドイツに於いては実際消滅ししあるが)、又アメリカ人は女性の人口不足と云う痛ましい自覚の下にその社会生活を始めた。(アメリカの女性人口も今は増加して、植民地時代の母性の有したりし特権を急速に失いつつあるのではないかと、私は恐れる) 従って、西欧文明に於いては、男性が女性に対して払う尊敬が道徳の主要なる標準となったのである。しかし、武士道の武的論理に於いては、善悪を分かつ主要の分水嶺は他の点に求められた。それは、人をば己の神聖なる霊魂に結び、しかる後私が本書の初めの部分にて述べし五倫の道に於いて他人の霊魂に結ぶ、義務の線に添うて居所を据えた。私は、本書の初めの部分で言及した。この五倫の中、読者に、忠義即ち臣下たる者と主君たる者との関係について説くところがあった。その他の点については、ただ折に触れて付言したに過ぎない。けだしそれらは武士道に特異なものではなかったからである。それらは自然的愛情に基づくものとして、当然全人類に共通であった。

 但し二、三の特殊の点に於いて、武士道の教訓から導き出される事情により、それの強められたることはあり得る。これに関連して私は、男性相互間に於ける友情の特別なる力と優しさを想起する。これはしばしば兄弟の盟約に対しロマンチックなる愛慕を付加したのであり、しかしてこの愛慕の情が青年時代に於ける男女別居の習慣によって強められたことは疑いない。けだし、この別居は、西欧の騎士道もしくはアングロ・サクソン諸国の自由交際に於ける如き愛情の自然的流露の途を塞いだのである。デ―モンとピシアス、もしくはアキレウスとパトロクロスの物語の日本版をもってページを埋めることは困難ではない。或いはダビデとジョナサンとを結びしに劣らぬ如き深き友情をば、武士道物語の中に述べることもできよう。

 私は、少女がイングランドから輸入され、相当なるタバコのポンドを得る為に結婚させられた時の日々に言及する。 しかしながら、武士道特有の徳と教えとが、武士階級のみに限定せられなかったことは怪しむに足りない。このことは、我々をして武士道の国民全般に及ぼしたる感化の考察に急がしめる。

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2012年6月 9日 (土)

第十三章  刀、そのサムライ魂(THE SWORD THE SOUL OF THE SAMURAI)

 これらの血生臭き制度より見るも、又武士道の一般的傾向より見ても、刀剣が社会の規律及び生活上重要なる役割を占めていたことを推断するのは容易である。刀を武士の魂と呼ぶは一の格言となった。そして、武士道は、刀を、その力と武勇の表象と為した。マホメットが、「剣は天国と地獄の鍵である」と宣言した時、彼は日本人的感情を反響したに過ぎない。

 サムライの少年は、幼少の時から、これを操ることを学んだ。5歳の時、サムライの服装一式を着けて碁盤の上に立たせられ、これまで弄んでいた玩具の小刀の代わりに本物の刀を腰に挿すことにより初めて武士の資格を認められるのは、彼にとって重要な機会であった。武門に入る最初のこの儀式が終わりて後、彼はもはや彼の身分を示すこの徴を帯びずしては父の門を出でなかった。

 もっとも、平素に於いては銀塗りの木刀をもって代用した。幾年も経ずして擬刀を捨て、例え鈍刀にせよ、常に真正の刀を帯び、しかして新たに得た刀よりも鋭き喜びを以て戸外に進出し、その刃をば木や石に試みるべく進展させた。15歳にして成年に達し、行動の自由を許される時に至れば、いかなる用向きにも十分に足る鋭利なる刀の所有を誇り得るようになる。この凶器の所有そのものが、彼に自負と自尊心並びに責任の態度を賦与するようになる。

 「刀は伊達にささぬ」
彼が帯に挿すものは彼の精神と心に挿すものであり、忠義と名誉の象徴である。大小二本の刀、長い刀と短い刀、それは太刀と小刀と呼ばれ、あるいは刀と脇差と呼ばれるが、決して彼の身辺を離れない。家にありては、書斎客間の最も目につき易い場所を飾り、夜は容易に手の届く所に置かれて枕頭を守る。刀は不断の伴侶となり、固有の呼び名を付けて愛称せられる。尊敬の余りほとんど崇拝せられるに至る。史学の祖(ヘロドトス)は、スキタイ人が鉄の三日月刀に犠牲を捧げたことを奇聞として記しているが、日本の多くの神社や多くの家庭に於いても刀をば礼拝の対象として蔵している。ありふれた短刀に対しても、適当の尊敬を払った。刀に対する侮辱は持主に対する侮辱と同視せられた。床に置ける刀を不注意に跨ぎし者は禍なるかな。

 囲碁のゲームは、時に日本式チェスと呼ばれることがある。しかし、英国のゲーム(チェス)よりはるかに知的である。碁盤は361路より成り立っており、ゲームの目的はどちらがより多くの地(space)を占めたかを廻る戦いであり、これを実演するべく仕組まれている。かくの如き貴重なるものは名人(artists)の眼力(notice)と熟練、もしくは対局者(owner)の自尊心から逃れることを得ない。とりわけ、泰平の時代、即ち刀が僧正の杖もしくは国王の王権よりも後回しにしか使用されない時代に於いてはそうであった。柄には鮫(さめ)の皮、絹の糸を巻き、鍔(つば)には金銀を散りばめ、鞘(さや)には様々の色の漆(うるし)を塗りて、この最も恐るべき武器はその恐怖の半ばを失った。しかし、これらの付属物は刀身そのものに比すれば慰みもの(playthings)である。


 刀鍛冶は単なる工人ではなく霊感を受けたる芸術家であり、彼の職場は神聖な場所であった。彼は毎日斎戒沐浴(さいかいもくよく)をして工を始めた。もしくはいわゆる「その心魂気魄(きはく)を打って錬鉄鍛冶(たんや)した」のである。槌(つち)を振り、湯に入れ、砥石で研(と)ぎ、その一つ一つが僅かの雑念をも許さぬ宗教的行事であった。我が刀剣に鬼気を帯びしめたるものは、刀鍛冶もしくは彼の守護神の霊であったのだろうか。芸術品として完璧であり、トレド及びダマスカスの名剣を尻目に十分に対抗し得ており、更に芸術の賦与し得るより以上のものがあった。

 その氷の刀身は、抜けば忽ち大気中の水蒸気をその表面に集める。その曇りなき肌は青色の光を放ち、その比類なき焼刀(やいば)には歴史と未来とが懸(かか)り、その反(そ)りは優れたる美と究極の力とを結合している。これら全ては、我々を力と美、畏敬と恐怖の相混じりたる感情で刺激している。もしそれが美と悦楽( joy)の具としてのみに止まりしものなら、その使命(mission)は無害だったであろう。しかし、常に手の届く所にありしが故に、その乱用に対し少なからざる誘惑があった。平和なる鞘から刀身の閃(ひらめ)き出(いず)ることしばしばなるに過ぎた。時に、新たに得たる刀をば無辜の民の首に試みる悪用が為されることもあった。

 しかしながら、我々の最も関心を寄せる問題はこれである。武士道は刀の無分別なる使用を是認するのだろうか。答えは明らかである。断じてしからず。武士道は刀の正当なる使用を非常に重視し、その乱用を非とし且つ憎んだ。場合を心得ずして刀を振った者は、卑怯者もしくは虚勢をはる者とされた。心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていた。また、その時はめったに訪れない稀であることを知っていた。

 故勝海舟に耳を傾けてみよう。勝氏は我が国の歴史上最も物情騒然としていた時期をくぐって来た人であり、当時は暗殺、自殺その他血生臭い事が毎日のように行われていた。彼は一時ほとんど独裁的なる権力を委ねられていた為、たびたび暗殺の対象とされていたが、決して自身の刀に血を塗ることをしなかった。彼は、追憶の若干を回顧して、特癖のある平民的口調で或る友人に物語っている。その中でこう述べている。

 「私は人を殺すのが大嫌いで、一人たりとも殺した者はいないよ。みんな逃(にが)して、殺すべき者であっても、まぁまぁと云って放っておいた。或る日、友人(河上彦斎)が言った。『「あなたはそうは人を殺さない。ならばあなたは南瓜(かぼちゃ)なり茄子(なす)を食べないのか。宜しい、食べぬなら食べぬで。しかし、あいつら自身が人殺しですよ』。
(かく述べた河上彦斎は人を何人も斬ってきたが、最後は自分も人に斬られて殺された 私が殺されなかったのは、私が殺しを嫌いだった故かもしれんよ。私は、刀をひどくきつく結(ゆわ)えて、決して抜けないようにしていた。私は、人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。実に実に。連中を蚤(のみ)や虱(しらみ)だと思えば良いのさ。肩につかまってチクリチクリと刺しても、ただ痒いだけのことで、生命には関わりはないよ」(「海舟座談」)。

 これが、艱難と大業績の火炉の中で武士道修行を試みられし人の言である。諺に「負けるが勝ち」と云う。即ち真の勝者はめったやたらに敵と争わないと云う意味である。又「血を流さない勝利こそ最善の勝利」という格言がある。その他にも同様の趣旨の諺があるが、これらはいずれも武士道の究極の理想が結局のところ平和にあったことを示している。この高き理想が専ら僧侶及び道徳家の講釈に委ねられ、サムライは武芸の稽古と称揚を旨としたのは、大いに惜しむべきことであった。これにより、彼らは女性の理想をさえ勇婦的性格をもって色づくるに至った。次に、我々は、婦人の教育及び地位の問題につき数節をさくことにする。

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2012年6月 7日 (木)

第十二章  自殺および復仇の制度(THE INSTITUTIONS OF SUICIDE AND REDRESS)

 (この二つの制度は、前者は腹切り、後者は敵討ちとして知られている。これについては多くの外国著者が多少詳細に論じている)

 まず自殺の考察から始める。私は、切腹もしくは割腹に限定して考察することにする。それは、俗に「腹切り」として知られているが、これは腹部を切って内臓を抜き出す自己犠牲である。「腹を切る? 何と馬鹿げたことよ!」。初めてこの語に接した者はそう叫ぶであろう。

 それは、外国人の耳には最初は馬鹿げて奇怪に聞こえるかも知れないが、シェイクスピアを学びし者にはそんなに奇異な筈はない。何となれば彼はプルトゥスの口をして、「汝(カエサル)の魂現われ、我が剣を逆さまにして我が腹を刺さしむ」と言わしめているからである。或る現代のイギリス詩人が、その「アジアの光」の中にて、「剣が女王の腹部を貫く」と語るを聴け。何人も野卑な英語もしくは礼儀違反をもって彼を責めてはおるまい。或いは他の例を取り上げよう。ジェノアのパラツォ・ロツサにあるゲルチ―ノの「カト―の死」の画を眺めよ。アディソンがカト―をして歌わしめた絶命の歌を読む者は誰でも、その腹を深く刺したる剣のことを嘲る者はないであろう。

 我が国民の心には、この死に方は最も高貴なる行為並びに最も切々たる哀情の事例を連想させる。従って、我らの切腹観には何らの嫌悪も、いわんや何らの嘲笑も伴わない。徳、偉大、優しさの変化力には驚嘆すべきものがあって、最醜の死の形式にも崇高性を帯びしめ、これをして新生命の象徴たらしめる。しからずんば、コンスタンティヌス大帝の見たる徴(しるし、十字架)が世界を征服することはなかったであろう。

 切腹が我が国民の心に一点の不合理性をも感ぜしめないのは、他の事がらとの連想の故のみでない。特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところと為す古き解剖学的信念に基づくのである。モーゼは、「ヨセフ、その弟の為に腸(心)焚(や)けるが如く」(創世記43の30)と記し、ダビデは「神がその腸(憐れみ)を忘れざらん」ことを祈り(詩篇25の6)、イザヤ、エレミヤ、その他古(いにしえ)の霊感を受けし人々も「腸(はらわた)が鳴る」(イザヤ書16の11)、もしくは「腸が痛む」(エレミヤ記31の20)と述べている。

 これらはいずれも日本人の間に広められている腹部に霊魂が宿るとの信仰を裏書きするものである。セム族は常に肝(きも)、腎、並びにその周囲にある脂(あぶら)をもって、感情及び生命の宿るところとなしていた。腹と云う語の意味は、ギリシャ語のフレン(phren)もしくはツ―モス(thumos)よりも範囲が広いが、日本人もギリシャ人と等しく、人間の魂はこの部分のどこかに宿ると考えていた。

 このような考えは、決して古代民族に限るものではない。フランス人は、彼らの最も優れたる哲学者の一人であるデカルトが、霊魂は松果腺にありとの説を唱えたにも拘わらず、解剖学的にはあまり漠然であるとしても生理学的には意味の明瞭なるヴァントル(ventre、腹部)と云う語をば、今日でも勇気の意味に依然として用いている。同様にフランス語のアントライユ(entrailles、腹部)は愛情、憐憫の意味に用いられている。

 かかる信仰は、単なる迷信ではなくて、心臓をもって感情の中枢と為す一般的観念に比して科学的である。日本人は、「この臭骸(しゅうがい)のいずれの醜き部分に人の名が宿るか」を、僧に聞かなくてもロメオ以上に良く知っていた。現代の神経学者は、腹部脳髄、腰部脳髄と云うことを言い、これらの部分に於ける交感神経中枢は精神作用によりて強き刺激を受けるとの説を唱える。この精神生理学説がひとたび容認せられるならば、切腹の論理は容易に構成される。「我は我が霊魂の座を開いて、君にその状態を見せよう。汚れているか清いか、君自らこれを見よ」。

 私は、自殺の宗教的もしくは道徳的是認を主張する者と解せられたくない。しかし、名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を断つに十分なる理由を供した。ガ―スの歌いし感情に同感して如何に多くの者が同調したか。「名誉の失われし時は死こそ救いなれ。死は恥辱よりの確実なる避け所なり」。そして、彼らの霊魂を幽冥(ゆうめい)即ち死に莞爾(かんじ)として服せしめた。名誉が絡む時、武士道に於いては、死をもって多くの複雑なる問題を解決する鍵として受け入れた。これが為に、志を持つサムライは、自然の死に方をもってむしろ意気地なき事とし、熱心希求すべき最後ではない、と考えた。

 私は敢えて言う。多くの善きキリスト者が十分正直でさえあれば、カト―やプルトゥスやぺトロ二ウスやその他多くの古の偉人が自己の地上の生命を終わらしめたる崇高なる態度に対して、積極的称賛とまでは行かなくても魅力を感ずることを告白するであろう。

 哲学者の始粗(ソクラテス)の死は半ば自殺であったと言えば言い過ぎだろうか。我々は、彼の弟子たちの筆によって詳細に語られしものを窺う時、彼らの師が、彼が逃走できる可能性があるにも拘わらず如何に進んで国家の命令に服従したのか。しかもそれが道徳的に誤謬であることを知っていたにも拘わらずである。しかして、彼はどうして自己の手に死を言い含める神酒(みき)であることが分かり切っている.毒杯をあおったのか。

 我々は、この時の彼の全ての成り行き、振る舞いに釈然としないものがある。それは或る種の自殺的行為ではなかろうか。この場合には、通常の処刑の場合に於ける如き肉体的強制はなかった。なるほど裁判官の判決は強制的であった。曰く「汝死すべし。しかしてそれは汝自身の手によるべし」と。もし自殺が自己の手によって死ぬること以上を意味しないならば、ソクラテスの場合は明白なる自殺であった。しかし、何人も犯罪をもって彼を責めない。自殺を嫌悪するプラトンは、彼の師を自殺者と呼ぶを欲しなかった。

 既に読者は、切腹が単なる自殺の方法ではなかったことを了解せられたであろう。それは法律上並びに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を救う、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行われた。それは洗練されたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着なくしては何人もこれを実行するを得なかった。これらの理由により、それは特に武士に相応しいものであった。

 懐古趣味的な好奇心からだけでも、この既に廃絶せる儀式の描写をここで為したいと思う気分にさせられる。しかし、そのその一つの描写が、その書物は今日ではさほど読まれていないのだが、既に私より遥かに能力ある著者によって為されている。私は、やや長き引用をしてみたいと思う。ミッドフォードは、その著「旧き日本の物語」に於いて、切腹についての説を或る稀なる日本の文書から訳載した後、彼自身の目撃したる実例を描写している。

 「我々(7人の外国代表者)は、日本の立会人に案内されて、これから儀式が執行さるべき寺院の本堂(もしくは寺院のメインホール)に入った。それは 印象的な光景であった。本堂は屋根高く、黒くなった木の柱で支えられていた。天井からは、仏教寺院に特有な巨大なる金色の燈籠(とうろう)と装飾があちこちに垂れていた。高い仏壇の前には、美しき新畳を敷いた床の上三、四寸の高さに座を設け、赤の毛せんが広げてあった。ほど良き間隔に置かれた高き燭台は薄暗き神秘的な光を出し、まさにこれから執り行われる全ての仕置を見るに十分であった。 数名の日本の立会人は高座の左方に、数名の外国立会人は右方に着席した。それ以外には何人も居なかった。

 不安の緊張裡に待つこと数分間、滝善三郎、年齢32歳の気品高き偉丈夫であったが、麻の裃(かみしも)の礼服を着け、しずしずと本堂に歩み出た。彼の介錯人と、金の刺繍(ししゅう)せる陣羽織を着用した役人とが伴った。介錯と云う語は、英語のエクシキューショナ―(executioner、処刑人)がこれに当たる語でないことを知っておく必要がある。この役目は紳士の役であり、多くの場合、咎人(とがにん)の一族もしくは友人によって果たされ、両者の間には役人と処刑人と云うよりは、むしろ主役と介添えの関係である。この場合、介錯は滝善太郎の門弟であって、剣道の達人たる故をもって、彼の数ある友人中より選ばれた者であった。

 滝善太郎は介錯を左に従え、徐(おもむろ)に日本の立会人の方に進み、彼らに二度お辞儀を為し、次に外国人に近づいて同様に、恐らく一層の丁重さをもって同様のお辞儀をした。いずれの場合にも恭(うやうや)しく答礼が為された。静々と威儀辺りを払いつつ善三郎は高座に上がり、仏壇の前に平伏すること二度、仏壇を背にして毛せんの上に端坐し、介錯人は彼の左側に腰を低く構えた。三人の付添役中の一人はやがて白紙に包みたる脇差をば山宝(神仏に供え物をする時に用いられる一種の台)に載せて進み出た。脇差とは日本人の短刀もしくは匕首(あいくち)であって長さ9寸5分、その切っ先は剃刀(かみそり)の如くに鋭利なものである。付き添いは一礼したる後に咎人に渡せば、彼は恭しくこれを受け、両手を以て頭の高さにまで押しいただきたる上、自分の前に置いた。

 続いて坐り直し、日本的な流儀に則り膝とつま先を地面にこすりつけ、彼の体はかかとの上に乗った。慣わしとされているこの姿勢で、彼は死を迎えるまで踏みとどまった。改めて鄭重なるお辞儀をした後、滝善太郎は、痛ましき告白を為す人から期待されているに違いないような感情と躊躇を表わす声で、顔色態度は豪(ごう)も変ずることなく次のように語った。「拙者ただ一人、無分別にも神戸に居た外国人に対し発砲の命令を下し、その逃れんとするを見て、再び撃ちし候。この咎めにより切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存じ候」。又もや一礼お辞儀して、善太郎は上着を帯元まで脱ぎ下げ、腰辺りまで露わにした。注意深く、古式に則り、仰向けに倒れることのなきよう両袖を膝の下に敷き入れた。そは、高貴なる日本紳士は前に伏して死ぬべきものとされていたからである。

 慎重に、前に置かれていた短刀を確(し)かと取り上げ、名残りを惜しみつつ愛着たっぷりにこれを眺め、最後を迎えての思念に精神集中を凝らした一刻を経て、左の腹を深く刺し徐(おもむろ)に右に引き廻し、又元に戻し返して少しく切り上げた。この凄まじくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前に屈(かが)み、首を差し伸べた。苦痛の表情が初めて彼の顔をよぎったが、少しも音声に現われない。その瞬間、介錯人は、それまで側に腰を低くして、彼の一挙一動を身じろぎもせず見守っていたが、やおら立ち上がり、一瞬太刀(たち)を空に振り上げ、一閃させた。もの凄い音、倒れる響き、一撃の下に首が体から切り離された。場内寂として静まり返った。ただ僅かに我らの前に動かなくなった首が投げ出され、迸(ほとばし)り出ずる血の凄まじき音のみ静寂を破った。この首の主こそ今の今まで勇猛剛毅の威丈夫であった。恐ろしいことであった。

 介錯人は平伏して礼を為し、予(かね)て用意せる白紙を取り出して刀を拭(ぬぐ)い、高座より降りた。血染めの短刀は、仕置きの証拠として厳かに運び去られた。かくて帝(みかど)の二人の役人はその座を離れて、外国検使の前に来て、「滝善太郎の処刑が滞りなく相済みたり。検視せられよ」と呼びかけた。儀式はこれにて終り、我らは寺院を去った」。

 我が国文学もしくは実見者の物語による切腹の情景を写そうとすれば枚挙に暇ないが、今一つの例を挙げれば足りるであろう。左近、内記(ないき)と云う二人の兄弟、兄は24歳、弟は17歳であったが、父の仇討ちの為に家康を殺そうと努力し、陣屋に忍び入らんとして捕えられた。老英雄は己の生命を狙いし若者の勇気を愛でて、名誉の死を遂げさせよと命じた。一族の男子皆刑せられることに定められ、彼らの末弟の八麿は当年僅かに8歳の小児に過ぎざりしであったが同じ運命に定められた。かくて彼ら3人は仕置場たる或る寺に連れて行かれた。その場に立ち会いたる或る医師の書き遺したる日誌により、その光景を記述すれば次の如くである。

 「彼らが皆並んで最後の座に着いた時、左近は末弟に向かいて言った。『八麿よりまず腹切れよ。切り損じなきよう見届けくれんぞ』。幼き八麿答えて、『ついぞ切腹を見たることなければ、兄の為さん様を見て己もこれに倣わん』。兄は涙ながらに微笑み、『いみじくも申したり。健気の稚児や。汝、父の子たるに恥じず』。左近、内記は、二人の間に八麿を坐らせ、左近は、左の腹に刀を突き立てて、『弟これを見よや。会得せしか。余りに深く掻くな。仰向けに倒れるぞ。うつ伏して膝を崩すな』。内記も同じく腹を掻き切りながら弟に言った。『目をかっと開けや。さらずば死に顔の女に見まごうべきぞ。切尖(きっさき)淀むとも、又力たわむとも、更に勇気を鼓舞して引き廻せや』。八麿は兄の為す様を見、両人の共に息絶ゆるや、静かに肌を半脱ぎして、左右より教えられし如くにものの見事に腹切り終った」。

 切腹をもって名誉と為したることは、自ずからその乱用に対し少なからざる誘惑を与えた。全く道理に適わざる事柄の為、もしくは全く死に値せざる理由の為に、性急なる青年は飛んで火に入る夏の虫の如くに死についた。混乱かつ曖昧なる動機がサムライを切腹に駆り立てしことは、尼僧を駆り立て修道院の門をくぐらしめしよりも多かった。生命は廉価であった。世間の名誉基準によって計算される廉価さであった。最も悲しむべきは、名誉に常に打ち歩が付いていた。いわば常に正金ではなく、劣等の金属を混じらせていたことである。地獄取り巻く者のうち誰も、ダンテが自殺者を全員人身御供にして引き渡した辺りを記す第7篇に勝りて日本人の人口の周密なる密度を誇るものはないであろう。

 しかしながら、真のサムライにとっては、死を急ぎ、もしくは死に媚びるは、卑怯であった。或る典型的な武士は、一戦又一戦に敗れ、野より山、森より洞窟へと追われ、単身餓えて薄暗き木の穴に潜み、刀欠け、弓折れ、矢尽きし時には、かの最も高邁なるローマ人(プルトゥス)がかかる場合、ビリビにて己が刃に伏したのではなかったか。これに引き換え死を卑怯と考え、キリスト教殉教者に近い忍耐をもって、次のように吟じて己を鼓舞した。 「憂きことのなおこの上に積もれかし(願わくは、我に七難八苦を与えたまえ)。限りある身の力試さん」。

 然り。これが武士道の教えであった。忍耐と純粋なる良心とを以てあらゆる悲惨と災難に抗し忍耐と面目を保つ。これにつき、孟子は次のように説いている。「天の将(まさ)に大任を人に降さんとするや、必ずまず精神を苦しめ、その筋骨を労し、その身体を餓えしめ、彼を極度の窮乏に試練せしめ、彼の仕事を翻弄せしめる。それは、精神を鼓舞して、その性を錬磨し、その不適格なところを増益する所以である」。真の名誉は、天の命ずるところを果たすにあり。これが為に死を招くも決して不名誉ではない。これに反し、天の与えんとするものを回避する為の死は全く卑怯である。

 サ―・トマス・ブラウンの奇書「医道宗教」の中に、我が武士道が繰り返し教え足るところと全く軌を一にする語がある。それを引用すれば、「死を軽んずるは勇気の行為である。しかしながら生が死よりもなお怖ろしい場合には、敢えて生きることこそ真の勇気である」。17世紀の或る名僧が風刺して言える言に、「平生何ほど口巧者に言うとも、死にたることのなきサムライは、まさかの時に逃げ隠れするものなり」。又、「ひとたび心中奥深きところにて死したる者には、真田(さなだ)の槍も為朝の矢も通らず」。これらの語が、「己が生命を我が為に失う者はこれを救わん」と教えし大建築者(キリスト)の宮の門に何と接近していることか。これらは、人類の道徳的一致を確認せしむる数多き例証中の僅か二、三であるに過ぎない。キリスト教徒と異教徒との間の差異を能う限り大ならしめんと骨折る試みがあるにも拘わらず。 

 私は、レ―ジ教授の翻訳を言葉通りに使用する。かくして我々は、武士道の自殺制度が、その乱用が一見我々を驚かす如くには不合理でもなく野蛮でもないことを見た。我々はこれから、切腹の姉妹関係たる矯正制度、それは仇討とも呼ばれるのだが、その補充的特徴を見よう。

 私は、この問題をば、数語をもって片付けることができると思う。けだし同様の制度、もしくは習慣と言った方がよければそれでもよいのだが、この制度は全ての民族の間に行われたのであり、且つ今日でも全く廃れていないことは、決闘や私刑(lynching)の存続によりて証明される。現に近頃或るアメリカ将校は、ドレフェスの仇を報ぜんが為にエステルハージに決闘を挑んだではないか。結婚制度の行われざる未開種族の間にありては、姦通は罪ではなく、ただ愛人の嫉妬のみが女子をば不倫より護る如く、刑事裁判所のなき時代にありては、殺人は罪ではなく、ただ被害者の縁故者のつけ狙う仇討ちのみが社会の秩序を維持したのである。 「地上にありて最も美しいものは何ぞ」と、オシリスはホーラスに問うた。答えて曰く、「親の仇を討つにあり」。日本人なら「主君の仇討ち」を付け加えるだろう。

 仇打ちには人の正義感を満足せしめるものがある。仇討者の推理はこうである。「我が善き父は死する理由がなかった。父を殺したる者は大悪事を為したのである。我が父もし存命ならば、かかる行為は看過しはないだろう。天もまた悪行を憎む。悪を行う者をして、その業を止めしむるは我が父の意思であり天の意思である。彼は我が手によりて死なざるべからず。何となれば、彼は我が父の血を流させたのであるから、父の血統たる我がこの殺人者の血を流さねばならない。彼は共に天を戴かざる仇である」。この推理は簡単であり幼稚である。(しかし、我々の知る如く、ハムレットもこれよりたいして深く推理した訳ではない) それにも拘わらず、この中に生まれながらの正確なる公平感及び平等なる正義感が現われている。「目には目を。歯には歯を」。我々の仇討の感覚は数理的な能力の如くに正確であって、方程式の両項が満足されるまでは、何事かが未だ為されずして残っているとの感を除き得ないのである。

 ユダヤ教に於いては妬む神を信じており、あるいはネメシスを持つギリシャ神話に於いては仇討ちは、これを超人的な力に委ねることを得たであろう。しかし、世間感覚は、武士道に対し公平な倫理的裁判所の一種としての仇討の制度を与え、日常法に従っては裁判せられざる如き事件に関与するを得しめた。47士の主君(浅野内匠頭長矩、あさのたくみのかみながのり)は死罪を宣告された。彼は、控訴すべき上級裁判所を持たなかった。彼の忠義なる家来たちは、当時存在したる唯一の最高裁判所たる仇討ちに訴えた。しかして彼らは普通法によって罪を宣告された。しかし、民衆の本能は、別個の判決を下した。これが為、彼らの名は今日まで泉岳寺の墓にあり、色緑に且つ香ばしく保存されている。

 老子は、「怨みに報いるに徳をもってす」と教えた。しかし、正義をもって怨みに報いるべきことを教えた孔子の声の方が遥かに大であった。但し、復讐は、我々の上役; もしくは恩人の為に企てられる場合にのみ正当であるとされていた。己自身の仇は、妻子に加えられたる危害も含めて、これを忍び且つ許すべきとされていた。この故に、或るサムライは、祖国の仇に復讐せんとしたハンニバルの誓いに対し、完き同感を寄せることを得た。しかし、彼の妻の墓より一握りの土を取りて帯の中に携えたジェイムズ・ハミルトンが、摂政マレーに対し彼女の仇を討たんとするを執拗に鼓舞し続けたことをば軽蔑している。この故に、或るサムライは、祖国の仇に復讐せんとしたハンニバルの誓いに対し、完き同感を寄せることを得た。しかし、彼の妻の墓より一握りの土を取りて帯の中に携えたジェイムズ・ハミルトンが、摂政マレーに対し彼女の仇を討たんとするを執拗に鼓舞し続けたことをば軽蔑している。

 切腹及び仇討の両制度はいずれも、刑法特典の発布と共に存在理由を失った。美しき乙女が、変装して、親の仇を)突きとめるようなロマンティックな冒険を聞くことはもうない。家族の仇を討つ悲劇を見ることはもはやない。宮本武蔵の武者修行は今や昔語りとなった。規律正しき警察が被害者の為に犯人を捜索し、法律が正義の要求を満たす。全国家及び社会が悪を成敗する。正義感が満足されたが故に、仇討の必要なきに至ったのである。もし、仇討ちが、二ュ―イングランドの或る神学者の評せる如く、「犠牲者の生血をもって飢えを満たさんと欲する望みによりて養われる心の渇望」を意味したに過ぎないとすれば、刑法法典中の数条がかくもそれを根絶せしめることを得たであろうか。

 切腹については、これまた制度上はもはや存在しないけれども、なお時々その行われるを聞く。過去が記憶せられる限り、恐らく今後もこれを耳にするであろう。自殺信者が驚くべき速度で世界中に増加しつつあるを見れば、痛みのない、また時間のかからぬ多くの自殺方法が流行してくるだろう。しかし、モルゼリ教授は、多くの自殺方法中、貴族的地位をば切腹に与えなければならぬであろう。教授は主張して曰く、「自殺が最も苦痛なる方法もしくは長時間の苦悶を犠牲にして遂行せられる場合は、百中九十九までは、これを狂信、狂気、もしくは病的興奮による精神錯乱の行為に帰することができる」。しかし、正規の切腹には、狂信、狂気、もしくは興奮の片影をも存せず、その遂行が成功するには極度の冷静さが必要であった。ストラハン博士は、自殺を二種に分けて、合理的もしくはそれに準じたものと、不合理的もしくは真正のものとしたが、切腹は前者の型の最好例である。

 これらの血生臭き制度より見るも、又武士道の一般的傾向より見ても、刀剣が社会の規律及び生活上重要なる役割を占めていたことを推断するのは容易である。刀を武士の魂と呼ぶは一の格言となった。

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2012年6月 6日 (水)

第十一章  自己規律(克己)(SELF-CONTROL)

 一方に於いて勇の鍛練は、うめき声することなく忍耐することを植えつけ、他方に於いて礼の教えは、我々自身の悲哀もしくは苦痛を露わにすることにより、他の人の快楽もしくは安寧を害せざるよう要求する。この両者が和合して禁欲的心性を産み、遂に外見的禁欲主義(stoicism)の国民的性格を形成した。私が外見的禁欲主義と云う訳は、真の禁欲主義が国民全体の特性となると云うことを信ずることができない故であり、且つまた我が国民の作法及び習慣中、外国人の観察者に無情と映ずるものがあるかも知れないからである。

 然るに、我が国民は実際、優しき情緒に対する気配りが天下の如何なる民族にも劣らず長けている。私は、或る意味に於いて、我が国民は他の民族以上に、然り幾層倍も勝りて物に感じることができると考えることにしている。けだし、自然的感情の発動を抑制する努力そのものが苦痛を生ぜしめるからである。感情のはけ口を求めて涙を流したり、もしくは呻吟の声を発することのなきよう教育されたる少年、少女を想像せよ。かかる努力が彼らの神経を固くならしむるか、それとも一層鋭敏ならしむるかは生理学上の一問題である。

 サムライが感情を面(おもて)に表わすのは男らしくないと考えられた。「喜怒色に表わさず」とは、偉大なる人物を評する場合に用いられる文句であった。最も自然的なる愛情も抑制せられた。父が子を抱くは彼の威厳を傷つくることであり、夫は妻に接吻しなかった。私室に於いてはともかくも、他人の面前にてはこれを厳に為さなかった。或る機知に富んだ青年が云った言葉、「アメリカ人は、その妻を他人の前で接吻し、私室に於いて打つ。日本人は他人の前でこれを打ち、私室にありては接吻する」との言の中に幾らかの真理があるであろう。

 挙措沈着、精神平静であれば、如何なる種類の激情にも乱されない。私は、最近の中国との戦争(日清戦争)に際し、或る連隊が某市を出発した時、多くの群衆が隊長以下軍隊に決別する為に停車場に群れ集うたことを思い出す。この時、或るアメリカ人が、 騒々しい示威運動が目撃できるものと予期しつつその場所に行ってみた。全国民そのものがひどく興奮していたし、且つその群集の中には兵士の父、母、妻、恋人等もいたからである。しかるにそのアメリカ人は奇異の感を抱いて失望した。と云うのは、汽笛が鳴って列車が動き出した時、数千の人は黙って脱帽し、その頭を垂れて恭(うやうや)しく別れを告げ、ハンカチーフを振る者居らず、一語を発する者なく、ただ深き沈黙の中に耳を澄ませば、僅かに嗚咽(おえつ)の洩れるを聞くのみであった。

 家庭生活に於いても又、親心の弱さに出ずる行為を気づかれないように、襖の陰に立ちながら病む児の呼吸に終始耳を澄ませた父親を知る。臨終の期にも、その子の勉学を妨げざらんが為に、これを呼び返すことを抑えた母親を知る。我が国民の歴史と日常生活とは、プルタークの最も感動すべきページにも善く匹敵し得る英雄的婦人の実例に充ちている。我が国の農民の間に、イアン・マクマレンは多くのマーゲット・ホウを見出すに違いない。

 同じく自制の鍛錬によって、日本のキリスト教会に於ける信仰熱復興の欠乏が説明できる。男性でも女性でも、己の霊魂に感激を覚える時、その最初の本能としてその外に顕われることを静かに抑える。稀なる例に於いて、誠実と熱心との雄弁を持つ時に如何ともし難い霊によって舌が自由にされた。軽々しく霊的経験を語ることを奨励するは、第三誠(「汝の神エホバの名を妄りに口にあげるべからず」)を破ることを教唆するものである。

 日本人の耳にとりては、最も神聖なる言葉、最も秘かなる心の経験を、烏合の衆の聴衆の中にて聞かされるのは真に耳触りである。「汝の霊魂の土壌が微妙なる思想をもって動くを感ずるか。それは種子の芽生える時である。語るをもってこれを妨げるな。静かに秘やかに、これをして独り働かしめよ」と、或る青年サムライは日記に書いた。人の深奥の思想及び感情、特にその宗教的なるものに対して多弁を費やして発表するは、我が国民の間にありては、それは深遠でもなく誠実でもないことの間違いなき徴(しるし)であるとされている。諺に曰く、「口開けて、腹わた見せるザクロかな」と。感情の動いた瞬間これを隠す為に唇を閉じようと努めるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民に於いては、言語はしばしば、かのフランス人(タレラン)の定義したる如く「思想を隠す技術」である。

 日本の友人をば、その最も深き苦しみの時に訪問せよ。さすれば彼は、赤き眼或いは濡れたる頬にも拘わらず、笑みを浮かべて常に変わらず君を迎えるだろう。 あなたがたは、最初、彼をひどくおかしいと思うだろう。強いて彼に説明を求めれば、あなた方は、「人生憂愁多し」とか、「会者常離」、「生者必滅」、「死んだ子の齢を数えるは愚痴なれど、女心は愚痴に耽るとしたもの」とかの二、三の断片的なる常套(じょうとう)語を得るであろう。かの高貴なるホ―ヘンツォルレルンの高貴なる語「呟(つぶや)かずして耐えることを学べ」は、我が国民の間に共鳴する多くの心を見出す。それが発せられし遥か前から。

 実に日本人は人間的性質の弱さがギリギリの試練に会いたる時でさえ常に笑顔を作る傾きがある。私は、我が国民の笑い癖については、デモクリトスその人にも優る理由があると思う。けだし我が国民の笑いは、しばしば逆境によって乱されし時、心の平衡を回復せんとする努力を隠す煙幕である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘(すい)である。かくの如く感情の抑制が常に要求せられし為、その安全弁が詩歌に見出された。10世紀の一歌人(紀貫之)は、「かようの事、歌好むとてあるにしもあらざるべし。唐土もここも、思うことに堪えぬ時のわざとぞ」と書いている。死せる子の不在をば常の如くトンボ釣りに出かけたものと想像して、己が傷つける心を慰めようと試みた或る母(加賀の千代)は吟じて曰く、「蜻蛉(トンボ)釣り  今日はどこまで行ったやら」。

 私は他の例を挙げることを止める。何となれば、私は、一滴一滴血を吐く胸より搾り出されて稀有なる価値の糸玉に刺し貫かれたる思想をば、外国語に訳出しようとすれば、我が国文学の珠玉の真価を却って傷つけるものとなることを知るからである。私の望むところはただ、しばしば無情冷酷、もしくは笑いと憂鬱とのヒステリカルなる混合であるかの外観を呈し、時にその健全性の疑われることさえある、我が国民の心の内なる働きをば或る程度に於いて示すことであった。我が国民が苦痛を堪え、且つ死を恐れざるは、神経が敏感ならざる故にであるとの説を為す者もあった。これは、その限りにおいてはありそうなことである。

 次の問題は、「我が国民の神経の緊張低きは何によるか」である。我が国の気候がアメリカほど刺激的でないのかも知れない。我が国の君主政体が、共和制のフランス人に於けるが如くに、国民を興奮せしめないのかも知れない。我が国民は、イギリス国民ほど熱心に「衣服哲学」を読まないのかもしれない。私一個人としては、絶えざる自制の必要を認め、且つこれを励行せしめたものは、実に我が国民の激動性、多感性そのものであると信ずる。ともかくこの問題に関する如何なる説明も、長年月に亘る克己の鍛練を考慮に入れずしては正確であり得ない。

 自己調整の修養はその度を越し易い。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧することがあり得る。それはしなやかな諸性質を歪め奇形なものにすることがあり得る。それは頑固を生み、偽善を培(つちか)い、情感を鈍(にぶ)らすことがあり得る。如何に高尚なる徳でも、その反面があり偽物がある。我々は、各個の徳に於いて、それぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして自己規律の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平かならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて云えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤの状態に到達するにある。

 我々は、次に自殺及び復讐の仇討制度を考察しようとするのであるが、その前者に於いて自己規律の極致が達せられ、且つ最も能く現われている。

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2012年6月 5日 (火)

第十章 武士の教育および訓練(EDUCATION AND TRAINING OF A SAMURAI)

 武士訓育の第一は人格形成に置かれ、賢明さ( prudence)、知性(intelligence)、弁論術(dialectics)等の緻密な才能はさほど重んぜられなかった。審美的な嗜みが武士の教育上重要なる役割を占めていたことは既に確認したところである。賢明さ、知性、弁論術等は教養ある人には不可欠ではあったが、サムライの訓練上必須というよりもむしろ付属的なものであった。勿論、知的優秀さは尊ばれた。しかし、知性を表現する為に用いられる「知」と云う言葉は主として叡智を意味したのであって、知識そのものには極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。武士道の骨組を支える鼎(かなえ)の三脚は、「智、仁、勇」であると称せられた。智とは銘々の分別(respectively Wisdom)、仁とは善行(Benevolence)、勇とは勇気(Courage)のことである。

 サムライは本質的に行動の人であった。科学的学問(Science)は彼の活動の範囲外にあった。サムライは、武士の職分に関係する限りに於いて、これを利用した。宗教と神学は、聖職者(僧侶、神官)に委託されていた。サムライは、勇気を養うのに役立つ限りに於いてそれらに関与したに過ぎない。或るイギリスの詩人の歌えると同じく、サムライは、「人を救うは信仰箇条ではなく、信仰箇条を正当化するは人である」ことを信じた。哲学と文学がサムライの知的訓練の主要部分を形成した。しかも、それらを修得するに於いても、努力して求めたのは客観的真理ではなかった。文学は主として慰み(pastime)として追求された。哲学は、何らかの軍事的もしくは政治的な問題の解明の為か、しからざれば品性を形成する上での実践的な助けとして追求された。

 以上述べしところにより、武士道教育の教科目は主として剣術、弓術、柔術もしくは柔(やわら)、馬術、槍術、兵法、書道、倫理、文学及び歴史で構成されていたことに気づくも驚くに足りないだろう。これらのうち、柔術と書道については説明の数語を要するだろう。優れた書に重きを置く所以は、恐らく我が国の文字が絵画の性質を帯び、従って芸術的価値を有したるが故であり、又筆跡が人の個性的な人格を表わすものと認められていたからであろう。柔術はこれを簡単に定義すれば、攻撃及び防御の為に解剖学的知識を応用したものと云えよう。それは筋肉の力に依存しない点に於いてレスリングと異なる。又、他の攻撃の型と異なり何らの武器をも使用しない。その特色は敵の身体の或る個所を掴み、もしくは打ちて麻痺(まひ)せしめ、抵抗する能わざらしむるにある。その目的は殺すことでなく、一時活動する能わざらしむるにある。

 軍事教育上、その存在が期待せられ、しかも武士道の教課程中にこれを見ざることによって、むしろ注意を惹くのは数学である。これは、しかしながら、封建時代の戦争は科学的精密さで行われなかったという事実によって一部分は容易に説明せられる。それのみでなく、サムライの教育全体が算用的観念を形成するに適しなかった。騎士道は非経済的である。それは貧乏を誇る。それは、ヴェンティディウスと共に、「武士の徳たる抱負心(ambition)は、利益を得て汚名をきるよりむしろ損失を選ぶ」。ドン・キホーテは黄金及び領地よりも彼の錆びたる槍、骨と皮ばかりの馬に、より多くの誇りを抱いていた。しかして、サムライは、このラ・マンチャの大袈裟なる同僚に対し衷心の同情を寄せる。

 彼は金銭そのもの、それを儲け、もしくは蓄える術を蔑(さげす)んだ。それは、彼にとっては真に汚れたる利益であった。時代の頽廃を描写する為の常用語は、「文臣は銭を愛し、武臣は死を恐れる」であった。黄金と生命のもの惜しみは甚だしく非難され、貶められ、その気前良さが称揚された。諺に曰く、「なかんずく金銀の欲を思うべからず。富めるは智に害あり」と。この故に、子供は全く経済に関心を払わないように養育せられた。経済の事を口にするのは悪趣味であると考えられ、各種貨幣の価値を知らざるは良き教育の証拠印であった。

 数の知識は軍勢を集め、恩賞知行を分配するのに不可欠だった。しかし貨幣の計算は下役人に委ねられた。多くの藩に於いては、財政は下級サムライもしくは聖職者に掌(つかさど)られた。思慮深い武士は、金銭が戦争の筋力であることを十分知っていたが、金銭の尊重を徳にまで高めることは考えなかった。武士道に於いて倹約が強いられたことは事実であるが、それは経済的理由と云うよりも節制の励行によるものであった。贅沢は人に対する最大の脅威であると考えられた。しかして最も厳格なる質素の生活が武士階級に要求せられ、多くの藩に於いて奢侈(しゃし)禁止令が励行せられた。 

 我々が歴史に読むが如く、古代ローマに於いては収税吏その他財政を取り扱う者が次第にその地位を武士の階級にまで高められ、国家はこれによって彼らの職務並びに金銭そのものの重要性を認めるようになった。このことがローマ人の奢侈及び貪欲と如何に密接なる関係を有したかは、これを想像するのに難くない。騎士道に於いてはそうではなかった。それは一貫して理財の道をば卑(ひく)きもの、道徳的及び知的職務に比して卑きものとみなすことに固執した。かくの如く金銭と金銭欲とは努めて無視された。武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることを得た。これが、我が国の公吏が久しく贈収賄から自由であった事実を説明する十分なる理由である。しかしあぁ現代に於ける拝金思想の増大何ぞそれ速やかなるや。

 今日ならば主として数学の研究によりて助長せらるべき種類の知的訓練は、文学的釈義と倫理学的討論によって与えられた。抽象的問題が青少年の心を悩ますことは稀であった。教育の主目的は既に述べし如く人格の確立にあったからである。単に博学なるの故をもっては、多くの崇拝者を得なかった。ベーコンが、学問の三つの効用として挙げている快楽、装飾及び能力の中、武士道は最後のものに対して決定的優先権を与え、その実用は、「判断と仕事の処理」にあるとした。公務の仕事にせよ、個人的な克己の錬磨にせよ、実践的目的を眼中に置いて教育は施された。孔子曰く、「学んで思わざれば即ち暗し、思うて学ばざれば即ち危うし」と。 

 知識でなく人格が、頭脳ではなく霊魂が、教師によって為される仕事の実質的なものになり、その啓発へと向かう時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは教師である」。この観念をもってするが故に、師たる者の受ける尊敬は極めて高かった。 かかる信頼と尊敬とを青少年より呼び起こすほどの人物は、必然的に優れたる人格を有し且つ学識を兼ね備えていなければならなかった。彼は父なき者の父たり、迷える者の助言者であった。諺に曰く、「父母は天地の如く、師及び汝の君主は日月の如し」(実語教)。

 あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間では人気がなかった。武士道は、無償、無報酬で捧げられる得るような仕事に信を置いた。聖職あるいは教師の仕えるような霊的の仕事は金銀をもって支払われるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。この点に於いて武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃銀及び俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われる。しかるに教育に於いて為される最善の仕事、即ち霊魂の啓発(聖職の仕事を含む)は具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用いるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払いではなくして捧げ物であった。従って、通常厳正なる性行の人として清貧を誇り、手を持っての労働するには余りに威厳を持ち、物乞いするには余りに自尊心の強き師も、事実喜んでこれを受けたのである。彼らは逆境に屈せざる高邁なる精神の厳粛なる権化であった。彼らは、全ての学問の目的と考えられしものの体現であり、かくして鍛練中の鍛練として普(あまね)く武士に要求せられたる克服己の生きたる模範であった。

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