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2012年6月30日 (土)

れんだいこの保田與重郎論その3

 1910(明治43)年生まれの保田與重郎が青年期壮年期の働き盛りの時代は、満州事変から始まる大東亜戦争前と戦中に当たっていた。この時期、保田は、文芸評論家として日本浪曼派を率いて近代日本文学史に一時代を画した。文明思想家でもあり卓絶した古典思想により一貫して我が国の歩むべき道を語り続けた。その言説が戦前戦中の青年層に大きな影響を与えた。この影響は今日我々が推量するよりはるかに大きく、和辻哲郎の「古寺巡礼」は日本浪曼派世界の一コマに過ぎなかったほどであると解すべきであろう。保田の生涯履歴は次のサイトで確認する。

 「保田與重郎の履歴考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/yasudayojyuroco/rirekico.html)

 保田が大東亜戦争の聖戦性を如何ほどに鼓吹したのかどうか分からないが、戦後の1948(昭和23)年、39歳の時、大東亜戦争を正当化したとされ「G項該当者」として公職追放に遭っている。戦後直後に趨勢化した左派的文壇から「最も悪質な右翼文士」として葬られ、不遇の時期を郷里の桜井で過ごし隠遁(いんとん)生活を続ける身となった。こうして戦後のジャーナリズムと知識人から指弾、黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになった。

 保田の真骨頂は、「戦前からの思想の一貫性を守り通した」ことにある。要するに思想がブレなかったと云うことになる。それはそうだろう、三輪精神の上に花開いている保田思想は戦前の皇国史観とは一線を引いたものであったし、戦後のいわゆるアメリカン民主主義思想とも違うものであったろうから、ブレる必要もなかったと思われる。むしろ常に異端で在り続けたと云うのが真実であろう。

 付言しておけば、戦前には保田思想を寵児とする幅があったのに対し、戦後は却って窮屈なものにした。ここに戦前と戦後の違いが見て取れよう。戦後の方が却って窮屈になっている面があると云うことである。何事も戦後民主主義万歳論で評する訳には行かない好例であるように思われる。かくして保田は二度と寵児には成り得なかったが、その旺盛な文筆意欲は休むことなく続いた。そして時代を撃ち続けた。例えば次のように述べている。

 「正常な國語、正確な文法、民族の歴史、民族の修身を復活することは、民族當然の義務であり、自主獨立の第一歩である。憲法改正や再軍備は第二義の問題である。これらが第二義の問題であるといふことを、國民は自覺せねばならない」。

 この言は、言語こそ民族の生命であるとする観点に立てば容易に首肯できよう。或る意味で、保田は透徹した国体主義者であるやもしれない。この場合の国体とは皇国史観的なものではない。既に述べたようにもっと古くから日本を成り立たせている天皇制以前からの国体を指している。

 1958(昭和33)年、49歳の時、12月、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂(しんよどう)」と命名する。そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守り続けた。この間、桜井市桜井の神武天皇の聖蹟・鳥見山に座す等彌神社に「大孝」の碑を、桜井公園(桜井市谷)に「土舞台」の顕彰碑を、桜井市穴師のカタヤケシでは元横綱・双葉山(時津風理事長)、柏戸、大鵬の両横綱らを招いて天覧相撲発祥の伝統を顕彰する行事を行い、桜井市黒崎の白山神社の境内には万葉集発耀の碑を建てるなど、「わが郷里桜井」を内外に示している。

 注目すべきは戦後に於ける保田の再登場の歴史的意味であろう。閉じ込められてきた保田の出番が何故に廻って来たのか。一見偶然のように思えるが、れんだいこの眼には、角栄の登竜と軌を一にしているように思われる。そう窺うのは、れんだいこだけだろうか。これを確認する。

 1960(昭和35)年、保田51歳の時、「述志新論」を著し、これが復権の兆しになる。同書で、「我々は人間である以前に日本人である」と書き、「日本人である以前に人間である」とする戦後民主主義の無国籍型国際主義の通念に棹さしている。1963(昭和38)年、新潮に「現代畸人傳」の連載を始め戦後の文壇ジャーナリズムに再登場した。続いて、佐藤春夫監修、自ら編集した「規範国語読本」(新学社)を刊行している(以下、「刊行する」を略す)。

 1964(昭和39)年、「現代畸人傅」(新潮社)。1965年、「大和長谷寺」。大津の義仲寺再建に尽力し落慶式を主宰する。1965年、「自主獨立の眞精神」、「安易な依存心を排す」を発表する。1966年、「自主獨立の教養」を発表する。1968年、「日本の美術史」(新潮社)。「保田与重郎著作集第2巻」(南北社)。1969年12月、「日本浪曼派の時代」(至文堂)。中河与一との共著「日本の心 心の対話」(日本ソノサービスセンター)。1970年、「日本の美とこころ」(読売選書)。1971年、歌集「木丹木母集」(新潮社)等。「保田与重郎選集 全6巻」(講談社)。1972年、「日本の文學史」(新潮社)。1973年、「万葉路山ノ辺の道」(新人物往来社)。1975年、「方聞記」(新潮社)、「カラー万葉の歌 写真:大道治一」(淡交社)、「万葉集名歌選釈」(新学社教友館)。1976年、落柿舎第13世庵主となり「落柿舎守当番」と称する。1978年、「冰魂記」(白川書院)。1979年、「天降言(人と思想)」(文藝春秋)。1981(昭和56)年10月4日、肺癌のため死去する(享年72歳)。

 角栄の政治履歴は次の通りである。1957(昭和32)年.岸内閣の第一次岸内閣改造に39歳で郵政大臣に就任する(以下、「就任する」を略す)。1959年、自民党副幹事長。1961年、第二次池田勇人内閣で自民党政調会長。1962年、第二次池田内閣改造で大蔵大臣。1965年、佐藤内閣第一次改造で蔵相辞任、自民党幹事長(一期目)。1966年12月、一連の政界黒い霧事件で川島副総裁と共に幹事長を引責辞任。1968年、第二次佐藤内閣改造で自民党幹事長(三期目)。1970年、第三次佐藤内閣で自民党幹事長(四期目)。1971年、第三次佐藤内閣の第一次内閣改造で通産大臣。1972年7月、第64代内閣総理大臣。1974年11月、退陣表明。1976年2月、ロッキード事件勃発。1977年1月、 ロッキード事件丸紅ルート初公判。以降、公判に縛られる。1985年2月、創世会が波紋を広げる中、自宅で脳梗塞で倒れる。1993(平成5)年12月、ロッキード最高裁判決の日を見ることなくこの世を去った(享年75歳)。

 「田中角栄の履歴」 
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rireki/rireki.htm)

 これを見れば、「戦後に於ける保田の再登場」は角栄の政界での実力者化の道と歩調を合わしているように見える。なぜこれを認めるのかと云うと、角栄も又保田と同じく「日本の心」派だったのではなかろうかと思われるからである。類は友を呼ぶ。政界における角栄の登竜は、文界に於ける「日本の心」派の出番を容易くしたのではなかろうか。

 思えば、池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸らに代表される戦後保守系ハト派とは、この「日本の心」派だったのではなかろうか。してみれば、60年安保闘争で岸政権が打倒されて以降から1980年初頭に中曽根政権が誕生するまでの約20年間は、大まかにいえば「日本の心」派が日本政治を御していた稀な時代であったことになる。通りで何事も大らかに且つ筋を通しながら日本が奇跡的な発展し続けた訳である。

 これは逆も言える。角栄がロッキード事件でカニ挟みに遭わされて以降、「日本の心」派は再び冬の季節に入ったのではなかろうかと。以降、戦後保守系タカ派と云う名の国際金融資本帝国主義の走狗どもが日本政治を牛耳ることになり今日まで至っている。通りで何事もせせこましく且つ言葉に信がおけない無理筋政治が常態となり日本を食い物にし続けている訳である。

 もとへ。保田がこれほどの能力者であった割には戦後に於いて戦前ほど評価されず活躍の舞台を与えられなかったのには、こういう政治事情によると拝するしかない。政治と文芸が通底していると云う例証である。

 さて、保田與重郎思想に関するれんだいこの知識は今のところ以上述べただけのものでしかない。この書きつけ時点で保田の直筆本を一冊も読んでいない。その段階でのスケッチ論である。今後、保田與重郎の原文に触れ、思想対話してみたいと思う。

 既に研究者の評として次のように述べられている。

 「保田の作品は、大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養と迅速な連想による日本美論である」。

 実にそうであろうし、付け加えるとしたら、近代天皇制とそのイデオロギーである皇国史観が打ち出した日本論、日本精神論に対して、それとは違う「もう一つの日本論、日本精神論」を鼓吹していたのではないのか。教祖みきの言を借りれば、「元の神、実の神」の教えに基づく近代天皇制教義とは別の日本論、日本精神論を唱えていたのではなかろうか。

 そういうことからであろう、倫理学者の勝部真長氏は保田を的確にも次のように評している。

 「歴史の地下水を汲み上げる人。地下水にまで届くパイプを、誰もが持ちあはせてゐるわけではない。保田與重郎といふ天才にして始めて、歴史の地下水を掘り当て、汲み上げ、こんこんと汲めども尽きぬ、清冽な真水を、次から次へと汲みだして、われわれの前に差し出されたのである」。

 もう一つ挙げておく。「鈴木邦男の保田與重郎30回忌〈炫火忌〉に参加しました」は次のように評している。

 「右翼・民族派の青年はもちろん、左翼の青年にも保田の愛読者は多い。左右という政治的違いをこえて日本人の精神、死生観に訴えかけるものが保田の美学にはあった」。

 両説とも、実に然りの炯眼であろう。

 2012.6.30日 れんだいこ拝

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