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2012年6月29日 (金)

れんだいこの保田與重郎論その1

 「ゆめさめて うつつの花の すさまじさ 何に流しし 泪なりけむ 」(保田與重郎)

 2012.6.29日の首相官邸前デモの繰り返し叫び続ける「再稼働反対」の唱和を聞きながら、このブログを綴る。これから書きつける内容と一見関係ないように見えるが案外繫がっているかも知れない。そんな気がする。これを記すのが本題ではないので割愛する。

 れんだいこが保田與重郎を知ったのは大田龍の時事寸評の書きつけを通してであった。何時頃のことか定かでないが2005年前後のことではなかろうかと思う。確か近代中国の作家・思想家として知る人ぞ知る胡蘭成・氏と並んで日本精神を理解する有益な思想家の一人として紹介されていたと記憶する。しかし、当時のれんだいこには未知不詳の人であり過ぎ、関心を湧かさなかった。それが2012年6月、新渡戸稲造の英文「武士道」の翻訳を終えた余韻の冷めやらぬ中、ふと保田與重郎に関心を持ち始めた。きっかけが何であったのかは分からない思い出せない。

 と書いて気づいたのだが、その頃、早稲田の先輩である藤田勝久氏が卒業式での不敬不唱を宣言する不起立を主とする日の丸、君が代闘争体験記である「板橋高校卒業式事件顛末記」を贈呈して下さった。これを読み、藤田先輩のいわゆる戦闘的良心主義的見地からする「日の丸、君が代闘争」を知ったと同時に、久しぶりに「日の丸、君が代、元号問題」を見つめ直し、その成果を書きつけた。サイトは以下の通りである。

 「【「日の丸、君が代、元号」考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm)

 この時、恐らく左派的「日の丸、君が代、元号」闘争者が見落としているであろうと考えられる「日の丸、君が代、元号」の悠久の歴史性に言及した。未だ十分でないので、この研究については今後も継続していきたいと思う。この時、そういう国象の源基を為す日本精神に関する興味のアンテナが作動した。このアンテナが保田與重郎を呼び込んだ。こういう経緯があり、初めて保田與重郎と向かい合うことになったと云う次第である。そういう意味で、藤田先輩の「板橋高校卒業式事件顛末記」が「新渡戸稲造の武士道」と保田與重郎の橋渡しをする機縁となったことに感謝申し上げたい。藤田先輩には思いもよらぬことであろうが事実を述べ謝しておきたい。

 さて、保田與重郎とは何者か。れんだいこには何の知識もないので、こういう場合の常法として昔なら百科事典だろうが今はネット検索で間に合わせることにしている。「ウィキペディア保田與重郎」で概要を確認し、他のサイトでその他の情報も取り寄せる。こうして即席の何がしかの知識を得る。まず驚いたことは、保田は相当量以上の文章を遺しており著書を刊行していると云うことであった。全集が出されており何と全40巻、別巻5巻、付録1巻に上る。これだけの分量のものが刊行されるからにはよほどの値打ちがなければ理屈が合わない。そういう人物でありながら、れんだいこが知らなかったぐらいだから他の人も然りだろう、余りにも知られなさ過ぎる。これはとても不自然なことである。これにつき多くの者は疑問だけで終わるだろうが、れんだいこには直ぐに分かる。これには例の情報統制が利いているいるとしか考えられないと。

 ネット検索で、れんだいこのこの謂いを裏付ける文章に出くわしたので転載しておく。

 概要「普通の現代日本人は保田も日本浪曼派も名前すら知らない。他に書き手はいたものの、著作や影響で特記すべきものはない? 要するに保田與重郎の著作とそれが戦中の若者に与えた思想的影響が、十分に確かめられてない。桶谷の『昭和精神史』は本編も戦後篇も保田に捧げられている。他にも保田に触れた文章は多い。だが、桶谷はあくまでも批評家であり、書くものも評論であるために、保田の思想部分(保田が直接読者の魂に訴えた部分)が伝わってきにくい。2002年にミニ・ブームがあったが、かけ声だけ、内実が伴わない。(福田和也は『万葉集の精神』の解説を予定されていたのに書かなかった)」(「史観、詩心、状況―日本浪漫派の思想性を読み解くカギ」)。

 保田與重郎が完全に隠蔽されているのではない。生誕百年を記念して、2010(平成22)年3月12日 「ズバリ!文化批評、生誕100年、保田與重郎の世界」が放映されており、いわば細々とながら命脈を保ってはいるようである。問題は、これほどの人物の言が掻き消されるかの如く表に出てこないことにある。繰り返すが、これはとても不自然なことである。

 そこで、保田與重郎思想とはどのようなものなのだろうか、これを確認する。実はこれも驚いたのだが、保田は1910(明治43)年、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)生まれの人である。れんだいこはハタと膝を叩いた。ここに秘密があるように思われる。桜井市と云えば三輪そうめんと大神(おおみわ)神社、近くに群立する古墳で有名である。目下は、大神神社付近にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと古代史研究家に注視されているホットな地域である。このことが如何に重要なのかは古代史に精通していなければ分からないであろう。これを少し解説する。

 いわゆる邪馬台国論になるが、邪馬台国の所在(比定)地を廻る諸百説の中で九州説と並んで最有力な大和説は、この大神神社地域(纏向遺跡)が邪馬台国の女王の都ではないかとしている。当然、九州説の者は認めないのだが、れんだいこもこの説を採っている。但し、通説の大和説論者との違いは、通説が邪馬台国を大和王朝の先駆的な前王朝として近親相関的に措定しているのに対して、れんだいこ説は邪馬台国は大和王朝に滅ぼされ痕跡をなくさせられた幻の王朝であるとしている。つまり、同じ大和説でも万世一系説に繫がる説と万世二系説になると云う大きな違いがある。この観点の差は、明治維新から始まる近代天皇制のイデオロギーである皇国史観とハーモニーする前者とそれを否定する後者と云う大きな違いとなって現われる。

 それはともかくとして、邪馬台国がこの三輪の地にあろうがなかろうが、大和地方(現在の奈良盆地東南部の天理市から桜井市にかけての地域)は、「やまとはくにのまほろば  たたたなずく青垣 山隠れるやまとし うるわし」(古事記)と詠われるほどに四囲を山稜の青垣に囲まれている盆地であり、昔から「敷島の大和の国」とも称されてもいる格別の歴史を持つ地域である。古代における「ヤマト」地方そのもの、「大和の中の大和」という由緒ある聖域の土地柄である。即ち、この地域が古代日本の聖地の一つであったことは論を待たない。この点については九州説論者と云えども否定できまい。

 問題は、三輪の地をして、数多くある古代日本の聖地の一つであると云う捉え方ではなく、三輪の地に邪馬台国があったとしたら、どういうことになるのかである。れんだいこ説によれば、三輪の地は、大和王朝に滅ぼされるまで当時の倭国全域に影響力を及ぼしていた中枢国と考えられる。古事記、日本書紀、風土記、その他古史古伝、記紀後の各史書を始めとする史書より読みとれば、大和王朝以前に三輪の地に育まれた政体、文化、伝統、精神こそが今日の日本人の精神の源基をなしているのではなかろうかと考えられる。これを仮に「三輪思想」、その政体を「三輪王朝」と命名することにする。三輪王朝は、当時のもう一つの大国であった出雲王朝と連合しており、この出雲と三輪を両輪とする大連合こそが大和王朝前の日本古代史を刻んでいたと推定できる。

 この時代に既に源基としての日本精神が形成され、大和王朝創建と共に始まる天皇制日本精神はその後であり、三輪王朝は滅ぼされたが三輪思想は生き残ったことにより、その後の日本史は、政体は別として精神論で見れば、天皇制日本精神と三輪思想が並走しつつ二重構造的に今日まで伝播していると考えられる。もっと分かり易く云えば、「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」は天皇制日本精神と混ざり合いながらも地下に潜って生き延び続けたと云うことである。今日に於いても諸外国が日本を高く評価する論拠の殆どが、この「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」に向けられてのものであることも興味深い。従来の日本及び日本人論にはこの点を捉える視点が弱過ぎる。今後は、漠然とした日本及び日本人論ではなく日本の心のまほろば(古里)としての三輪思想の解明に向かうべきだろう。

 今日、日本論を説く場合、この二鼎立の史観で捉えねば真相が見えない。明治維新以降に形成された近代天皇制は、この二鼎立の内の天皇制日本精神の方のみを是として史観形成しているところに限界と云うか不正がある。いわゆる皇国史観であるが、皇国史観は日本史を斜交いに構えて不公正的に形成したイデオロギーでしかない。戦後になって自由なる歴史研究が始まった時、本来はこの皇国史観の偏狭性を衝き、堂々たる古代史の見直しに向かうべきであった。この営為を怠り、日本古代史と云う赤子をたらいの水と共にまるごと流してしまった。

 この背景には、戦後直後の日本を支配していたGHQの占領政策があった。戦後の歴史家は、GHQの占領政策に基づき、あるいはその範疇で「歴史見直し」したに過ぎない。それは皇国史観を叩く上では「進歩的」なものであったが、「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」の再評価まで制約したのは「反動的」であった。結果的に日本古代史の解明を却って遠ざけてしまった。戦後日本に於ける日本の歴史に対する無知はこれより起因する。してみれば、在野の日本古代史研究者の営為は、これに反発するものであり、その意義は高いと評されるべきであろう。

 もとへ。一口に日本精神と云っても、大和王朝以前に既に形成されて居た日本精神と大和王朝以降に新たに形成された日本精神の二流があると云うことが確認できれば良い。補足しておけば、日本精神は、この二者が鼎立しつつも実際には混合している面もあるので、これを識別するとなると非常に難しい。どこまでが三輪思想であり、どこからが天皇制思想なのか判定不能の様相を帯びているということも指摘しておかねばならない。それはともかく、三輪の地に生まれた保田は、天皇制精神よりもより本源的なこの太古よりの三輪思想を豊潤に嗅ぎながら育った。成人して文芸評論家として一家言を為すようになった保田の思想にこの三輪精神が息づいていることは容易に推理できることである。

 文芸評論家としての保田與重郎に特異性と斬新性が認められるのは、他の文芸評論家が持ち合わせず保田が色濃く保持していた三輪思想によるものではなかろうか、こういうことが予想できる。保田自身、「私の郷里は桜井である」としばしば誇らしくこう書いている。そういう意味で、保田が奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)で生まれ育ったと云うことは大いに注目されねばならないと考える。保田思想を解くカギは三輪にある。この指摘が、れんだいこの保田與重郎論の第一点である。ちなみに、三輪思想をこよなく愛する郷土の代表的知識人は、保田與重郎、樋口清之、森本六爾とのことである。

 付言しておけば、戦闘的良心主義的見地よりする「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の方は、上記の観点に加えて、「日の丸、君が代、元号」が実は三輪王朝の御代からのものであり、大和王朝以降もこれを継承したと云う連綿性があることを知る必要がある。単純に天皇制の象徴とみなす訳には行かない。三輪王朝の政体は跡かたもなく潰されたが、三輪王朝の精神は辛うじて残り、むしろ大和王朝の御代にも継承されたと看做すべきであろう。なぜそういうことになったのか、諸外国の征服史に珍しい現象であり興味深いが、ここでは問わない。しかして、日の丸、君が代、元号に秘められたイズムは、日の丸であればその表象に、君が代であればその歌意に、元号であればその暗喩に注目せねばならない。それらは出雲―三輪王朝の善政をデフォルメ(表現)しており、むしろ皇国史観の対極にあるものである。これを習うことは有益でありこそすれ逆ではない。

 してみれば、「日の丸、君が代、元号問題」闘争の正しき活用は、「日の丸、君が代、元号」を知らしむるところにこそあり、皇国史観的に寄らしむることに反撃すべきではなかろうかと云うことになる。実際には、「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の真意は、文部省の管理教育強権化に抗しているのであって的が外れている訳ではない。それは歴史的に是である、故にれんだいこも支援するが、「日の丸、君が代、元号」を巻き添えにするものではないと考える。文部省の教育の強権管理とは闘えば良い、「日の丸、君が代、元号問題」についてはむしろ知らしめるが良いとする、この両面からの闘争こそ本来期待されており、闘いの構図をこのように構えた時、圧倒的な支持を呼ぶのではなかろうかと思う。その他言及したいところは上記サイトに書きつけておく。

 今後、日本精神の研究を進めようと思うので以下のサイトを構築する。

 「日本の心、日本精神考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/top.html)

 2012.6.29日 れんだいこ拝

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