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2012年6月 6日 (水)

第十一章  自己規律(克己)(SELF-CONTROL)

 一方に於いて勇の鍛練は、うめき声することなく忍耐することを植えつけ、他方に於いて礼の教えは、我々自身の悲哀もしくは苦痛を露わにすることにより、他の人の快楽もしくは安寧を害せざるよう要求する。この両者が和合して禁欲的心性を産み、遂に外見的禁欲主義(stoicism)の国民的性格を形成した。私が外見的禁欲主義と云う訳は、真の禁欲主義が国民全体の特性となると云うことを信ずることができない故であり、且つまた我が国民の作法及び習慣中、外国人の観察者に無情と映ずるものがあるかも知れないからである。

 然るに、我が国民は実際、優しき情緒に対する気配りが天下の如何なる民族にも劣らず長けている。私は、或る意味に於いて、我が国民は他の民族以上に、然り幾層倍も勝りて物に感じることができると考えることにしている。けだし、自然的感情の発動を抑制する努力そのものが苦痛を生ぜしめるからである。感情のはけ口を求めて涙を流したり、もしくは呻吟の声を発することのなきよう教育されたる少年、少女を想像せよ。かかる努力が彼らの神経を固くならしむるか、それとも一層鋭敏ならしむるかは生理学上の一問題である。

 サムライが感情を面(おもて)に表わすのは男らしくないと考えられた。「喜怒色に表わさず」とは、偉大なる人物を評する場合に用いられる文句であった。最も自然的なる愛情も抑制せられた。父が子を抱くは彼の威厳を傷つくることであり、夫は妻に接吻しなかった。私室に於いてはともかくも、他人の面前にてはこれを厳に為さなかった。或る機知に富んだ青年が云った言葉、「アメリカ人は、その妻を他人の前で接吻し、私室に於いて打つ。日本人は他人の前でこれを打ち、私室にありては接吻する」との言の中に幾らかの真理があるであろう。

 挙措沈着、精神平静であれば、如何なる種類の激情にも乱されない。私は、最近の中国との戦争(日清戦争)に際し、或る連隊が某市を出発した時、多くの群衆が隊長以下軍隊に決別する為に停車場に群れ集うたことを思い出す。この時、或るアメリカ人が、 騒々しい示威運動が目撃できるものと予期しつつその場所に行ってみた。全国民そのものがひどく興奮していたし、且つその群集の中には兵士の父、母、妻、恋人等もいたからである。しかるにそのアメリカ人は奇異の感を抱いて失望した。と云うのは、汽笛が鳴って列車が動き出した時、数千の人は黙って脱帽し、その頭を垂れて恭(うやうや)しく別れを告げ、ハンカチーフを振る者居らず、一語を発する者なく、ただ深き沈黙の中に耳を澄ませば、僅かに嗚咽(おえつ)の洩れるを聞くのみであった。

 家庭生活に於いても又、親心の弱さに出ずる行為を気づかれないように、襖の陰に立ちながら病む児の呼吸に終始耳を澄ませた父親を知る。臨終の期にも、その子の勉学を妨げざらんが為に、これを呼び返すことを抑えた母親を知る。我が国民の歴史と日常生活とは、プルタークの最も感動すべきページにも善く匹敵し得る英雄的婦人の実例に充ちている。我が国の農民の間に、イアン・マクマレンは多くのマーゲット・ホウを見出すに違いない。

 同じく自制の鍛錬によって、日本のキリスト教会に於ける信仰熱復興の欠乏が説明できる。男性でも女性でも、己の霊魂に感激を覚える時、その最初の本能としてその外に顕われることを静かに抑える。稀なる例に於いて、誠実と熱心との雄弁を持つ時に如何ともし難い霊によって舌が自由にされた。軽々しく霊的経験を語ることを奨励するは、第三誠(「汝の神エホバの名を妄りに口にあげるべからず」)を破ることを教唆するものである。

 日本人の耳にとりては、最も神聖なる言葉、最も秘かなる心の経験を、烏合の衆の聴衆の中にて聞かされるのは真に耳触りである。「汝の霊魂の土壌が微妙なる思想をもって動くを感ずるか。それは種子の芽生える時である。語るをもってこれを妨げるな。静かに秘やかに、これをして独り働かしめよ」と、或る青年サムライは日記に書いた。人の深奥の思想及び感情、特にその宗教的なるものに対して多弁を費やして発表するは、我が国民の間にありては、それは深遠でもなく誠実でもないことの間違いなき徴(しるし)であるとされている。諺に曰く、「口開けて、腹わた見せるザクロかな」と。感情の動いた瞬間これを隠す為に唇を閉じようと努めるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民に於いては、言語はしばしば、かのフランス人(タレラン)の定義したる如く「思想を隠す技術」である。

 日本の友人をば、その最も深き苦しみの時に訪問せよ。さすれば彼は、赤き眼或いは濡れたる頬にも拘わらず、笑みを浮かべて常に変わらず君を迎えるだろう。 あなたがたは、最初、彼をひどくおかしいと思うだろう。強いて彼に説明を求めれば、あなた方は、「人生憂愁多し」とか、「会者常離」、「生者必滅」、「死んだ子の齢を数えるは愚痴なれど、女心は愚痴に耽るとしたもの」とかの二、三の断片的なる常套(じょうとう)語を得るであろう。かの高貴なるホ―ヘンツォルレルンの高貴なる語「呟(つぶや)かずして耐えることを学べ」は、我が国民の間に共鳴する多くの心を見出す。それが発せられし遥か前から。

 実に日本人は人間的性質の弱さがギリギリの試練に会いたる時でさえ常に笑顔を作る傾きがある。私は、我が国民の笑い癖については、デモクリトスその人にも優る理由があると思う。けだし我が国民の笑いは、しばしば逆境によって乱されし時、心の平衡を回復せんとする努力を隠す煙幕である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘(すい)である。かくの如く感情の抑制が常に要求せられし為、その安全弁が詩歌に見出された。10世紀の一歌人(紀貫之)は、「かようの事、歌好むとてあるにしもあらざるべし。唐土もここも、思うことに堪えぬ時のわざとぞ」と書いている。死せる子の不在をば常の如くトンボ釣りに出かけたものと想像して、己が傷つける心を慰めようと試みた或る母(加賀の千代)は吟じて曰く、「蜻蛉(トンボ)釣り  今日はどこまで行ったやら」。

 私は他の例を挙げることを止める。何となれば、私は、一滴一滴血を吐く胸より搾り出されて稀有なる価値の糸玉に刺し貫かれたる思想をば、外国語に訳出しようとすれば、我が国文学の珠玉の真価を却って傷つけるものとなることを知るからである。私の望むところはただ、しばしば無情冷酷、もしくは笑いと憂鬱とのヒステリカルなる混合であるかの外観を呈し、時にその健全性の疑われることさえある、我が国民の心の内なる働きをば或る程度に於いて示すことであった。我が国民が苦痛を堪え、且つ死を恐れざるは、神経が敏感ならざる故にであるとの説を為す者もあった。これは、その限りにおいてはありそうなことである。

 次の問題は、「我が国民の神経の緊張低きは何によるか」である。我が国の気候がアメリカほど刺激的でないのかも知れない。我が国の君主政体が、共和制のフランス人に於けるが如くに、国民を興奮せしめないのかも知れない。我が国民は、イギリス国民ほど熱心に「衣服哲学」を読まないのかもしれない。私一個人としては、絶えざる自制の必要を認め、且つこれを励行せしめたものは、実に我が国民の激動性、多感性そのものであると信ずる。ともかくこの問題に関する如何なる説明も、長年月に亘る克己の鍛練を考慮に入れずしては正確であり得ない。

 自己調整の修養はその度を越し易い。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧することがあり得る。それはしなやかな諸性質を歪め奇形なものにすることがあり得る。それは頑固を生み、偽善を培(つちか)い、情感を鈍(にぶ)らすことがあり得る。如何に高尚なる徳でも、その反面があり偽物がある。我々は、各個の徳に於いて、それぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして自己規律の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平かならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて云えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤの状態に到達するにある。

 我々は、次に自殺及び復讐の仇討制度を考察しようとするのであるが、その前者に於いて自己規律の極致が達せられ、且つ最も能く現われている。

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