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2012年6月13日 (水)

第17章 武士道の将来(THE FUTURE OF BUSHIDO)

 ヨーロッパの騎士道と日本の武士道ほど適切なる歴史的比較を為し得るものは稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを繰り返すだろう。サン・パレ―の挙げる騎士道衰退の特殊的地方的原因は勿論日本の状態には適用せられない。しかしながら、中世及びその後において騎士道と騎士とを覆すに与りて力ありたる、より大且つより一般的なる諸原因は武士道の衰退に対しても確実に働きつつある。 

 ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一つの注目すべき差異は、ヨーロッパに於いては騎士道が封建制度から乳離れしたる時に、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたのに対し、日本に於いてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。従って、母制度たる封建制の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。現在の整備せられたる軍隊組織がこれをその保護下に置くことになるだろう。

 しかし、我々の知る如く現代の戦争は、武士道の絶えざる成長に対してささやかな余地しか供しない。武士道の幼児に於いてこれを保育したりし神道は、それ自体既に老いた。古代中国の聖賢はベンサムやミル型の知的成り上がり者によってとって代わられた。時代の排外主義的傾向に諂(へつら)う安逸な道徳教理、しかして今日の需要に上手に適合した思想が発明され提供せられた。しかし、今日なおその黄色き声が黄色新聞(yellow journalism)の紙面( columns)に反響するを聞くに過ぎない。

 諸々の権能及び権威が陣を張って騎士道に対抗している。既にヴェブレンの説くが如く、「儀礼的礼法の衰退、もしくは産業的諸階級間の生活のブルジョア化(vulgarization)とも換言することができるが、鋭敏なる感受性を持つ全ての人々の眼には次期文明の主なる害悪の一つと映ずるであろう」。勝ち誇れる平民主義の抵抗し難き潮流は如何なる形式もしくは形態のトラストをも許容しない。武士道は、知識及び教養の予備資本を独占する人々によりて組織せられたトラストであった。道徳的諸性質の等級及び価値を定めるトラストであった。

 平民主義は、武士道の遺産を呑みこむに足る十分なる力がある。現代の社会的諸勢力は哀れな階級精神に敵対している。そして、騎士道は、フリーマンの鋭く批評せる如く或る階級精神である。現代社会は、いやしくも何らかの統一を標榜する限り、「或る特権階級の利益の為に工夫せられたる純粋に個人的なる義務」を容認することができない。これに加えて、普通教育、産業技術及び習慣、冨並びに都会生活の発達がある。よって、サムライの刀の最も鋭利なる切れ味も、武士道の最強なる弓から放たれる最鋭の矢も、如何ともし難きを容易に知ることができる。

 名誉の巌(いわ)の上に建てられ、名誉によりて防備せられたる国家、これを名誉国家もしくはカーライルに倣(なら)いて英雄国家と称すべきか。この国家は、屁理屈の武器をもって武装せる三百代言の法律家や饒舌の政治家の掌中に急速に落ちつある。或る大思想家が、テレ―サ及びアンティゴ―ネについて述べた言葉はサムライに転じて述べても適切だろう。「彼らの熱烈なる行為を生みたる生活環境は永久に去った」。ああ悲しいかな武士の徳!慟哭せよサムライの誇り!鉦(かね)太鼓の響きをもって世に迎え入れられし道徳は、「将軍と王の去る」と共に消え行かんとする運命にある。

 もし歴史が我々に何ものかを教え得るとすれば、武徳の上に建てられたる国家は、スパルタの如き都市国家にせよ、或いはローマの如き帝国にせよ、地上に於いて「存立し続ける都」たることはできないと云うことである。人の闘争本能は普遍的且つ自然的であり、又高尚なる感情や男らしき徳性を生むものであるとはいえ、それは人の全てを理解するものではない。戦いの本能の下に愛に通ずる神聖なる本能が潜んでいる。

 我々は、神道、孟子、及び王陽明が明白にこれを教えていると判ずる。然るに武士道その他全ての倫理の武的な養成所は、疑いもなく直接の実際的必要ある諸問題に没頭する余り、往々にして右の事実を正当に力説するのを忘れた。(ブルジョア的)生活が後の時代になればなるほど益々成長しつつある。今日、我々の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりも更に高貴にして広き使命である。増幅せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想は、仏教の慈悲思想も又これに付加すべきか、それらはキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。

 人は臣民以上のものとなり、公民の地位にまで発達した。否、彼らは公民以上であり、人である。戦雲が我が水平線上を覆うとも、我々は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信ずる。世界の歴史は、「柔和なる者は地を継がん」との預言を確証している。平和の長子権を売り、しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国家は、何と貧相な取引をするものか!

 社会の状態が変化して、武士道に反対なるのみでなく、敵対的とさえ成りたる今日は、その名誉ある葬送の準備をする時である。騎士道の死したる時を指摘することの困難は、その開始の正確なる時を決定するの困難なるが如くである。ミラー博士曰く、「騎士道はフランスのアンリ二世が武芸試合で殺された時の1559年をもって正式に廃止せられた。我が国に於いては1870(明治3)年の廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘(ちょうしょう)を報ずる信号であった。その2年後に公布せられし廃刀令は、「かけがえのない優雅な人生、安上がりの国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保母」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代の鐘の音を鳴らせた。

 或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銃とクルップ砲によってであると。又言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかし、これらは真理の半面たるにも当らない。例えエールバ―もしくはスタインウェイの最良の製作にかかるものでも、名音楽家の手によらずして、ピアノそのもがリストのラプソディもしくはへ―ト―ベンのソナタを演奏し出すことがあるだろうか。さらに、もし銃砲が戦に勝つものならば、何故ルイ・ナポレオンはそのミトライユーズ式機関銃もってプロシヤ軍を撃破しなかったのであるか。或いはスペイン人はそのモーゼル銃をもって、それよりかなり劣る旧式のレミントン銃をもって武装したるに過ぎざりしフィリッピン人を破らなかったのであるか。

 言い古された言葉を繰り返すまでもなく、士気を鼓舞するものは魂である。それがなければ最高の道具も益するところが少ない。最も進歩せる銃や大砲も、自らひとりでに弾が出るわけではない。最も近代的な教育制度が臆病者を勇士に変身させるわけでもない。否、鴨緑江で、あるいは朝鮮半島や満州で、戦勝したのは我々の父祖の英霊である。英霊が我らが手を導き、我らが心臓に鼓動しているのだ。

 これらの英霊、我らが勇ましい祖先の魂は死んではいない。見るべき目を持っている者にははっきりと見える。最も進んだ思想日本人の皮を剥いで見よ、一皮むけばサムライが見えてくる。名誉、勇気、その他全ての武徳の鋳大なる遺産は、グラム教授がまことに的確に表現した如く、「だがそれは一時的に我々に預けられているだけで、本来は死せる者たち、そして来るべき世代の人々の神聖不可侵の封土である」。しかして現在の人達に下された命令は、この遺産を守ること。そして、古来よりの精神を一点一画をも損なわざることである。未来の人達に課された使命は、その精神が及ぶ領域を広げ、生活のあらゆる活動及び関係に応用していくことである。

 封建日本の道徳体系は城や兵器庫と同様に崩壊して塵となり、新生日本の発展の道が導びかれる如くに新たな倫理が不死鳥のように現れる、とする予言の正しさが過去半世紀の出来事を見る限り証明されているようである。かかる予言が成就されることは望ましく且つ起り得ることであるが、我々は、不死鳥は自分自身の灰から蘇るのだということ、又、不死鳥は渡り鳥ではなく、他の鳥からの借り物の翼で飛ぶのでもないと云うことを忘れてはならない。「神の国はあなた型の内にある」。神の国は、どこか高い山から転がり落ちてくるのもではないし、広い海原の向こうから航行してくるものでもない。

 コーランは宣べている。「神は、あらゆる民族に、その民族の言葉で話す預言者を与え給うた」。日本人の精神によって立証され、理解された王国の種子は武士道の中で花開いた。だが、今やその時代は幕を閉じつつある。悲しいことに、実を結ぶところまでいかなかった。しかして我々は、武士道に代わる優美と光明の源、力と安らぎの源を探してあらゆる方角を見回しているが、未だこれに代わるべきものを見出していない。功利主義者や唯物論者が考える損得哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋と誼(よしみ)を通じている。功利主義や唯物論に対抗できるだけの力を持っている倫理体系は唯一キリスト教あるのみである。告白せねばならないが、これに比すことができるのは武士道であり、但し武士道は「かすかに燃えているろうそくの芯(しん)」のようなものである。救世主は、その灯心の炎を消すことなく、煽いで焔(ほのお)と為すと宣言した。

 ヘブライの先駆者たる預言者たち、特に、イザヤ、エレミヤ、アモス、ハバククなどと同様に、武士道は、支配者や公人、国民の道徳的行為に重点を置いてきた。然るに、キリスト教の倫理は、ほとんど個人やキリストに個人的に帰依している人々に限定されており、道徳的要素の理解能力に於いて秀でている個人主義をますます実践的に適用するようになり、説得力.を増すようになるであろう。自己主張の強い独断的な、ニーチェのいわゆる主人道徳には何か武士道に似た点がある。私の理解が間違っていなければ、ニーチェが述べているところの言は、病的で歪んだ表現によって、ナザレの人(キリスト)の道徳を、みすぼらしい自己否定的な奴隷道徳と呼んでいるが、主人道徳とは、奴隷道徳に対する過渡的段階もしくは一時的な反動のものである。

 キリスト教と唯物論(功利主義をふくめて)はやがて世界を二分するだろう。あるいは、この二つも、将来は、昔からあったヘブライ主義とギリシャ主義という対立の形に還元されて行くのだろうか。劣勢な道徳体系は、生き残る為に、どちらかの陣営と同盟することになろう。武士道はどちら側に与するのだろうか。

 何ら纏まりたる教義(dogma)や守るべき定式を持たない故に、武士道は或る実体としては消失に委ね、桜のように、一陣の朝風に潔く散ることも厭わない。だが、その全てが死滅することは決してないであろう。ストア主義は死んだか? 体系としては死んでいる。だが、徳としては生き残っている。その精力(energy)と活力(vitality)は、西洋諸国の哲学や、あらゆる文明世界の法哲学に於いて、今日なお人生多岐の諸方面に感じ取ることができる。否、人が自己を高めようと奮闘する時、自身の努力によって精神が肉体を制する時、我々はそこにゼノンの教えが不滅の教訓として働いていることを知るのである。

 武士道は、或る独立した倫理規範としては消滅するかもしれない。しかし、その力が地上から消えてなくなることはない。武士道の武勇や市民的名誉心の学校的なものは解体されるかもしれない。だが、その光明と栄光は破滅後も末永く生きながらえていくだろう。武士道を象徴する桜の花の如く、四方の風に吹き散らされてしまってからも、人類を人生を豊かにする芳香でもって祝福し続けるだろう。

 はるかに時が流れて、その習慣が失われ、名前すら忘れ去られてしまっても、「路傍より彼方を見やれば」、その香気.が遠き彼方の見えざる丘から風に漂ってくることだろう。この時、クエーカーの詩人が美しい言葉で語る。「旅人は、いづこよりか知らねど、近くよりかかぐわしき香りに感謝の気持ちを抱き、立ち止まり帽子を取りて大気の祝福を受ける」。(完)

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コメント

すみません宿題まだできてません。勝手ながらこちらをご吟味のほどよろしくお願い申し上げます。とおりがけ拝

【日本国憲法70条による内閣総辞職は国会議員の責務である】

増税の為の「社会保障と税の一体改革」であることが明白に・・・罪を感じない政治家たち(政経徒然草さま)
>>http://haru55.blogspot.jp/2012/06/blog-post_14.html
>予想通りというか野田首相は自民党案の「丸のみ」を決めたようだ。

野田内閣の次の総理一任は自民党提出の憲法9条改正案の丸呑みですね。

ところで野田内閣総理大臣は先の小川前法相との指揮権発動の是非について会話した内容をつい最近のことなのに「記憶にない」と公式に国会答弁しており、それが虚偽の答弁でないならば誰が見ても野田総理は記銘力喪失した重度の認知症(かつて痴呆症という病名)患者です。

これは日本国憲法70条において内閣総辞職の要件のひとつである総理大臣の職務遂行困難な病気による欠員条項(憲法70条内閣総理大臣がかけたとき)に合致しており、野田総理は直ちに入院精査して治療が必要であり病気辞任して内閣総辞職しなければなりませんね。
参考>>http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2012/06/post_2386.html#30317

入院精査して認知症ではないと診断されれば先の「記憶にない」総理答弁が偽証罪に問われ総理懲戒免職、同じく憲法70条によって内閣総辞職となります。

国会議員は憲法上の責務として直ちに職務遂行困難な重度の認知症患者である疑いが極大の野田総理を病院へ送って認知症の精密検査を受けさせねばなりません。国会審議のほうは総理ひとりが欠席しても憲法上何の影響もなく続けられますからね。

投稿: 通りがけ | 2012年6月14日 (木) 13時43分

国会議員の憲法上の責務と改題して推敲しました。

【日本国憲法70条による内閣総辞職は国会議員の責務である】

増税の為の「社会保障と税の一体改革」であることが明白に・・・罪を感じない政治家たち(政経徒然草さま)
>>http://haru55.blogspot.jp/2012/06/blog-post_14.html
>予想通りというか野田首相は自民党案の「丸のみ」を決めたようだ。

野田内閣の次の総理一任は自民党提出の憲法9条改正案の丸呑みですね。

ところで野田内閣総理大臣は先の小川前法相との指揮権発動の是非について会話した内容をつい最近のことなのに「記憶にない」と公式に国会答弁しており、それが虚偽の答弁でないならば誰が見ても野田総理は記銘力喪失した重度の認知症(かつて痴呆症という病名)患者です。

これは日本国憲法70条において内閣総辞職の要件のひとつである総理大臣の職務遂行困難な病気による欠員条項(憲法70条内閣総理大臣がかけたとき)に合致しており、野田総理は直ちに入院精査して治療が必要であり病気辞任して内閣総辞職しなければなりませんね。
参考>>http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2012/06/post_2386.html#30317

入院精査して認知症ではないと診断されれば先の「記憶にない」総理答弁が偽証罪に問われ総理懲戒免職、同じく憲法70条によって内閣総辞職となります。

国会議員は憲法上の責務として直ちに職務遂行困難な重度の認知症患者である疑いが極大の野田総理を病院へ送って認知症の精密検査を受けさせねばなりません。国会議員のもう一つの責務国会審議のほうは総理ひとりが欠席しても憲法上何の影響もなく続けられますからね。

投稿: 通りがけ | 2012年6月14日 (木) 15時02分

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