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2012年7月

2012年7月22日 (日)

【「永田議員の偽メール質議事件」の解析3、その後の経緯】

 永田の2回目の質疑後、「メールの真贋論争」が始まった。民主党は対策チームを設け情報収集と対応協議を始めた。この日、細野豪志・役員室長が、前原から「国対委員長と連携して関係者を集めて情報収集せよ」との指示を受けている。細野は、野田に関係者の招集を要請するとともに、党顧問弁護士に連絡をとるよう担当事務局(総合調整局)に指示している。これによれば、細野は、この頃より前原、野田の直系の下役であることが分かる。

 同日午後8時頃、野田は顧問弁護士と共に永田の宿舎を訪れ、永田と一緒にいた「情報仲介者」と面会し、メール配布の了解を求めている。「情報仲介者」とは西澤のことか、ネタ元の情報提供者なのか、二人とも一緒に居たと云うことなのだろうか知りたいが分からない。

 午後9時頃、対策チームが再集合したところへ、永田より野田からメール公表の了解が得られたとの電話が入った。午後9時半頃、永田が対策チームに合流し、「情報仲介者」が西澤であることを明きらかにした。野田は、「情報仲介者」の了解を得て記者会見を開き、メールのコピーを配布した。

 その前後、細野は、前原及び鳩山由紀夫・幹事長に経過を報告している。報告を受けた鳩山は、細野に対し、平野博文・総合調整局長を対策チームメンバーに加えるよう指示した。これによれば、平野は、この頃より鳩山の直系の下役であることが分かる。鳩山政権で官房長官に起用されているのも頷けよう。

 これを受けて細野は、野田に、平野への連絡を依頼するとともに、松野頼久・予算理事兼筆頭副幹事長玄葉光一郎・幹事長代理への連絡を依頼している。

 ここでの問題は次の事にある。ここで、第一幕の「野田、前原、藤村、仙谷、枝野」に続いて第二幕として「細野、鳩山、平野、松野、玄葉」が登場している。第二幕の登場人物の特徴は、鳩山―平野を除き、第一幕の子分であることが分かる。それにしても、この時点で玄葉光一郎が登場している。細野、玄葉は党内でかなり若手の筈であるが、その後着実に登用の階段を上っている。本事件処理の汚れ役を引き受けた事が、その原点となっているように思われる。

 2 .18 日夜、対策チームメンバーが対応を協議し、西澤についての調査、メールの鑑定、口座情報の調査を継続、メール以外の周辺疑惑の調査を開始した。

 2 .19日、西澤から、永田に対し、「情報提供者が情報の電磁的データを売ってもいいと言っている」との連絡があった。同夜、対策チームメンバーが都内ホテルに集まり対応を協議している。永田は、この日より2.23日に世田谷の病院に入院するまでの間、このホテルに滞在し続けることになる。

 2.20日、党幹部による対応策の協議が行われ、22日に予定されている党首討論に向けた準備が始まった。同夜、幹部協議が行われ、党首討論までに新たな疑惑の情報を入手する方針が確認され対策チームに伝達された。この夜の報道番組で、平沢議員がメールを入手したとして公表した。

 2.21日午前、野田は、役員会、常任幹事会に前日までの経過を報告した。午後の記者会見で、前原は、党首討論に言及して「楽しみにしていただきたい」と再発言している。深夜、細野は、党首討論に向けた新たな疑惑の調査を断念し、その旨を前原の留守番電話に伝言している。

 2.22日昼前後、前原、鳩山、松本剛明・政調会長、野田、玄葉、細野の6名の幹部が党首討論について打ち合わせした。いよいよ党首討論となり、前原は、「国政調査権の行使に応じれば口座情報を明かす」と迫る方針に基づき事件を取り上げた。その際、「確証を得ている」と発言し、終了後「言葉が間違っていた」と訂正している。

 ここでの問題は、前原の「異様に強気な発言」にある。既に確認しているように事態は劣勢、真相が混迷している。にも拘わらず永田追及を更に後押しして踏み出し発言していることになる。これは単なるメンツでは説明できない尋常でない党首の暴走ではなかろうか。この「前原暴走」は当時もその後も何ら咎められていないことが不思議である。

 午後7時頃、前原、松本、野田、玄葉、細野が都内ホテルに集まった。その場で、野田は、「永田の進退伺いを預かっている」と報告している。前原は、「本人のためにも、党のためにも、永田議員は自発的に辞職すべきである」と提案し、他の出席者もこれに同調している。前原は、「私が永田議員に辞職を促す」と述べたが、野田が「永田議員のことは自分に任せてほしい」と述べ一任されている。

 ここも不思議なところである。前原は頻りに「永田切り」を吠えているが、既に党首討論で取り上げ事件を追及した以上、責任は前原の方が重いと看做すのが常識であろう。もはや「最低でも前原、永田の同時責任」となるべきところ当の前原が免責の上「永田切り」を吠えている不自然さが認められる。この前原のオールマイティーぶりは何に起因するのだろうか。

 午後 7 時過ぎ、野田と藤村が永田が滞在するホテルの部屋を訪れた。その場で、野田は、永田に対し辞職を促している。これに対し、永田は「その判断に従いたい」と述べている。野田はその後、前原、鳩山に留守電している。その後、玄葉、細野に、「永田議員は辞職の意思を固めた」と報告している。野田は、藤村、蓮舫議員らと共に翌日の永田の記者会見に向けた準備を行っている。

 2.23日午前5時半頃、永田は、野田から電話を受けた際、「辞職しません」と伝え辞意を撤回している。その後、永田は、同じホテルに宿泊していた野田の部屋を訪れている。野田は、「永田議員が辞職しないのであれば、自分が責任をとる」と述べ説得に努めたところ、永田は説得に応じ改めて議員辞職する意思を固めたと云う。但し、「永田議員は、心身の疲労が極限に達し、進退についての心境も大きく揺れ動いている」と感じ、藤村と手塚仁雄・前議員に永田の付き添いを要請しホテルを離れている。

 午前8時、野田は、藤村と手塚の到着後、鳩山に緊急役員会の開催を要請した。午前9時45分、緊急の役員懇談会が開かれ、野田は、永田の進退が自分に預けられたと報告し一連の経過を説明している。会議では本人の判断を尊重すべきとの意見も多く出されたが、異論もあり、「本人の意思が確認できれば辞任を認める」ことが確認され、その対応が鳩山に一任された。

 昼頃、鳩山は、野田から「永田議員が議員を辞めたくないと言っている」との連絡を受け、夕方、野田と共に永田が滞在するホテルを訪れている。永田は、鳩山に、「ご迷惑をおかけして申し訳ない」、「隔離された環境で情報が乏しく、入ってくる情報は進退にかかわることばかりで、精神的に大きく混乱しており、正常な判断を下すことは不可能だと思う」、「党内や国会そして世論がどのように反応するか全く予想できず、もしかしたら大変な迷惑をおかけすることになるかもしれないが可能であれば辞職は避けたい」、「進むも地獄。退くも地獄。だけど茨の道でも前へ進みたい」と述べている。

 ここは特に留意すべきところである。永田は揺れ動きながらも頑強に辞意を撤回し続けた事が明らかにされている。これを、永田の私因的な議員への拘りと看做すべきだろうか。れんだいこは、「事件の国会質疑」は党により要請されたものであり、自身の尻尾切りで済む話ではない、ホリエモン裏献金事件はガセネタではない、引き続き徹底調査すべきであるとする正論で抗弁し続けていたと読む。

 推測になるが、「事件の国会質疑」は永田が質問するようお膳立てされ、党が総力で支援するとの約束の上で事に臨んだと思われる。こうして永田は2回に亘る質議へ誘導され取戻しのきかない破目に陥らせられたのではなかろうか。してみれば、これを誘導した者こそ陰の主役ではなかろうか。その主役の一人が野田である事は間違いない。2回目の質議の時点で既に流れが変わっており、永田は嵌められた事を悟り、嵌めた者に対するやり場のない怒りを表明し続けていたのではなかろうか。これこそ事件の裏真相なのではなかろうか。

 午後7時30分、鳩山は、再び開催された役員懇談会において、「永田議員に辞職の意思がなく、精神的にも肉体的にも限界に達して不安定な状況にあるため、一旦入院させて退院後に進退を判断する」と報告している。一部出席者は永田の入院に反対したが、「永田議員が憔悴しているためやむを得ない」として鳩山報告は了承された。

 夜、役員懇談会後に幹部が協議し、メールの信憑性がないことを認めることを確認した。深夜、鳩山は、記者団に「永田議員の入院について」と「メールの信憑性を100%立証することはできなかった」とするコメントを発表した。深夜、永田は世田谷区の病院に入院している。

 2.26日夜、鳩山、玄葉、平野が事態収拾に向けた打ち合わせを行っている。

 2.27日昼、幹部協議で、28日に永田が退院して記者会見を行い、役員等の処分を行う方針が確認された。「メールは本物ではない」との調査結果を発表し、関係者の処分を決定している。午後 1 時頃、野田は、前原に国対委員長の辞任を申し出た。前原は「預からせてほしい」とだけ答えた。ここもオカシなところである。前原が党首討論で事件を質議した以上、既に前原の党首責任こそ本星であろうにスル―され、永田と野田責任の方にのみ向かっている。前原をスル―させる力が働いていると読むしかない。

 深夜、野田は、鳩山の留守番電話に国対委員長の辞意を伝言した。午後 1 時頃、玄葉は、細野に永田の記者会見および代表記者会見の準備を指示した。細野は、松本、加藤公一・広報戦略本部事務総長大塚耕平・同代理福山哲郎・役員室長代理笠浩史・制作局長に協力を要請している。午後、鳩山は、羽田孜・最高顧問渡部恒三・最高顧問小沢一郎・元党首菅直人・元代表岡田克也・前代表(電話)を訪ね意見を聴いている。

 2.28日、午前7時、前原と鳩山の打ち合わせが始まった。午前7時半頃、玄葉、平野、細野が加わり幹部協議および役員懇談会が開かれた。午前8時頃、松本、野田が加わった。その場で、鳩山と野田が辞意を表明し、前原は鳩山を慰留した。

 午前 8 時半、江田五月・参議院議員会長が加わり、役員懇談会が開かれた。前原の慰留に対し、鳩山は、「しばらくの間、事態収拾の責任を全うする」という思いに至り辞意を撤回した。鳩山の辞任するしないの重要事がころころ変わる癖がこの時も確認できる。会議において、「永田の党員資格停止処分、野田の国対委員長の辞任、鳩山幹事長に対する常任幹事会名による厳重注意」などの方針が確認された。

 既に何度も指摘しているが、本来なら「前原代表辞任」も併せたものになるべきだろう。前原が責任を逃れる事ができるとしたら、党首討論段階での撤退によってであろう。それまでも永田をけしかけ、党首討論でも永田質議をエールした以上、前原責任は逃れるべくもなかろうに。 

 午前、永田が退院し、記者会見に向けて打ち合わせを行い、午後2時45分、永田が記者会見を行った。その場には、鳩山と野田が同席した。午後、役員会、常任幹事会、両院議員総会において、「メールは本物ではない」との調査結果が報告され処分等が決定された。続いて、鳩山と前原が記者会見を行い、自民党、武部幹事長及び次男に対する謝罪を表明した。

 午後5時、両院議員総会において、永田が謝罪するとともに、メールは本物ではないとの調査結果、「永田議員の党員資格停止処分、野田国対委員長の辞任、鳩山幹事長に対する常任幹事会名による厳重注意」などが承認された。両院議員総会終了後、代表と幹事長が相次いで記者会見し、国民への謝罪、自民党、武部幹事長及び次男に対する謝罪を表明した。前原代表が、ここでも自身の責任をする―させたまま能天気な会見をしている事が分かる。

 3.1日、民主党は「メール問題検証チーム」を設置した。 メンバーは、座長・玄葉、委員として平野、藤村、松野、佐藤雄平・副幹事長、細野、蓮舫。全員が何らかの形で事件に関わっている者であった。このことが問題になったのであろう、無関係の河村たかし議員、山田正彦議員、末松義規議員、平岡秀夫議員の4 名が追加選任されている。その後、仙谷、加藤が追加選任されている。3.31日、「民主党のメール事件顛末書」が発表された。

 最後にこの経緯で書ききれなかった妙な事を確認しておく。一つは、株式会社デュモン・マーケティング代表取締役CEO・西澤孝・氏のその後であるが分からない。「ホリエモン裏献金事件」の収賄側とされている武部勤の子息(次男)であるが全く表に出てこない。「ホリエモン裏献金事件」ネタの元々の提供者も出てこない。いずれもオカシなことであろう。

 もう一つ、永田は揺れ動きながらも頑強に辞意を撤回し続けたが、その時の永田の弁が公開されていない。「民主党のメール事件顛末書」は、この弁を巧妙に隠す為にさも緻密そうに作成されているとも窺う事ができる。とすれば、この手の報告書なり会議なり機関が幾ら造られても何の意味もないと云う事になろう。以上。

 永田は死して今なお告発していると云うべきではなかろうか。

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【「永田議員の偽メール質議事件」解析2、国会質疑までの経緯】

 事件の発端は、2005.10.18日、永田が「党所属議員の秘書の紹介」により議員会館の事務所で雑誌「Dumont」(デュモン)を発行する株式会社デュモン・マーケティング代表取締役CEO・西澤孝・氏の取材を受けたことに発する。西澤の側からのアプローチであったと云う。

 ここでの問題は、事件を媒介した「党所属議員の秘書」が誰であるのか明らかにされて居ないことである。事件の胡散臭さを嗅ぎ取る側からすれば、最初の火つけ人であるこの秘書こそキーマンであるが、報告書は単に「党所属議員の秘書の紹介」と記して済ませている。永田と西澤を結びつけたのは、この秘書の単独発意なのか、秘書と西澤の二人のみによるセッティングであったのか、この二人がそもそも或る黒幕の教唆により接近したものなのかどうかの解明を要するが、報告書は追及していない。後の展開から見るのに、永田―西澤会談はそもそも永田にワナを仕掛ける為に接近されたものであり、永田が嵌められた形跡が強い。

 初会談以降、永田と西澤の交流が始まる。報告書がこの経緯について記しているので、ここでは略す。この過程で、「ホリエモン裏献金事件」が耳打ちされ、国会での追及を教唆されている。2006.1.26日、永田と原口一博・衆議院議員及び秘書が西澤と議員会館で同疑惑に関する情報交換を行っている。この時、原口が登場しているが若干の考察を要する。真相は恐らく、永田が最も信頼の於ける議員仲間として原口の同席を誘い、原口に一緒に聞いてもらうことで情報の信頼性を確認しようとしていたものと思われる。

 以降も同疑惑関連で永田と西澤の会食が続くことになるが略す。留意すべきは、この時点では、永田が「物証に乏しい」と述べていることである。これによると、永田は、事件追及に必ずしも積極的であったとは認めがたいことになる。してみれば、その後の永田の暴走は何によるのかが解明されねばなるまい。もう一つ、ここでの問題は、事件の追及に永田と原口に白羽の矢が立てられていると云うことである。奇しくもこの二人は民主党の中で国際金融資本の魔手の伸びていない稀有の若手有能政治家であり、共に将来が期待されるホープであった。故に狙われたのではなかろうかと思われる。但し、ここで二人の明暗が分かれる。即ち、その後の経緯から見て原口は乗り気にならず、逆に永田は食いつくことになる。

 2.1日、永田は、議員会館で西澤の訪問を受け、「ホリエモン裏献金事件」の証拠物である「メール」の提供及び口座情報について説明を受けている。西澤は次のように述べている。「情報提供者情報によると、メールは間違いなくライブドアの社内メールであり、しかもライブドアの最高経営者の堀江本人が受信者に対して直接送信したものであり、その内容は同氏の裏口座から武部次男の個人口座に資金供与する旨を告げている。実際に8.29日に3000万円、10.14日に1000万円、10.31日に1000万円が送金されている」。不思議なことに、報告書は周辺情報を事細かに記すばかりで、「ホリエモン裏献金事件」が有ったのか無かったのかの肝腎な検証をしていない。

 2.9日、永田は国会内で野田佳彦・国対委員長に事件の概要を伝え、国会追及の判断を仰いでいる。野田は、永田に対し調査を極秘裏に更に進め信憑性を補強するよう指示している。後日、永田は、野田から予算委員会の公聴会期日決定直前に取り上げるよう指示を受けている。報告書は永田から持ちかけたように記しているが、野田のけしかけぶりが判明する。推測するのに、野田は、永田が「ホリエモン裏献金事件」ネタで動いている事を既に知っており、その上で更にのめりこむよう指示している気配が認められる。

 2.11日、永田は、当時の前原誠司・党代表に対し事件を聴会期日決定の直前に取り上げる旨を伝えている。前原は、「がんばってね」と後押ししている。これも然りであるが、前原は野田同様に永田が「ホリエモン裏献金事件」ネタで動いている事を既に知っており、その上で更にのめりこむよう指示している気配が認められる。

 2.13日、永田は、野田に対し情報の信憑性に確信があると再報告している。これに対し、野田は16日の予算委員会一般質疑の準備に入ること、「情報提供者」との詰めを行うこと、同僚議員や専門家と事前に相談して発言振りに注意するよう指示している。この頃、詰めの作業を当時の藤村修・国対委員長代理と打ち合わせしている。藤村は、野田政権で官房長官に抜擢されることになるが、この頃から野田の懐刀であったことが分かる。

 2.13―15日にかけて、野田の指示にもとづき、弁護士資格を持つ仙谷由人議員及び枝野幸男議員に個別に相談しアドバイスを受けている。報告書は、仙谷、枝野を単にアドバイスの役割で登場させているが、永田の事件の追及を止めさせる側のアドバイスではなく逆に煽り、その後の法律問題処理は任せておけと後押しした可能性もあろう。なお、この時点では仙谷、枝野は大物ではなく単に弁護士系の議員の一人でしかない。それにしても、その後の仙谷、枝野の頭角ぶりは尋常ではない。

 ここでの問題は、永田が仮に永田個人の意欲で発意したものとしても、この時点で既に党中央の了解を取り付けており、それのみならず党中央の方がけしかけている様を見て取れることである。これを今日風の党の規約論、組織論でいえば、党中央の指示を受けた議員が党中央の意向を無視することはできまい。かくして永田がスケープコートの道に入れられたことが分かる。

 こうなると次のように問わねばならない。「ホリエモン裏献金事件の国会追及」は果たして永田の単独犯的主導により進められたのか否や。上記の流れによれば、「ホリエモン裏献金事件」を永田に食いつかせ国会追及させるべくワナが仕掛けられていたとも読める。真相は藪の中であるが事件顛末を見ればそう推測することが大いに可能であろう。留意すべきは、この第一幕で「野田、前原、藤村、仙谷、枝野」が登場していることであろう。この第一幕連中こそ事件の主役であり踊り子であろう。

 2 .14日、永田は、西澤と最終調整を行っている。この時、「国会質問は予定外であり情報提供者が難色を示し始めている」と告げられている。この時、永田は、西澤から新たに「黒塗りしたメール」を渡され、2.8日に提供されたメールの原本を西澤に返却している。永田は、西澤が梯子を外し始めた事を意に介していない。このことにどういう事情があったのかは定かではない。この日、原口は永田から新しい証拠を入手したとの連絡を受けている。

 2.15日、永田と野田が質疑のやり方について打ち合わせしている。翌日の爆弾質疑直前の打ち合わせであるが、どういうやり取りが為されていたのか分からない。推測するのに、野田が水田をけしかけ、党が全力で支援すると太鼓判を押していたのではなかろうか。永田は、これにより勇気りんりんで明日の質疑に思いを凝らしていたのではなかろうか。

 2.16日、永田が予算委員会一般質疑で「ホリエモン裏献金事件」問題を取り上げ、その証拠としてメールに言及し、ライブドアの堀江、宮内、平松、武部、武部の次男の参考人招致と国政調査権の発動を要求した。終了後、国会内で堂々たる記者会見をしている。

 この時、党中央側の野田が「衝撃的な質疑で大変重大な問題。今日は第一弾」、前原代表が「なかなか確度の高い情報だという認識」と発言して後押ししている。他方、武部は「全く身に覚えがない」、小泉首相が「ガセネタを委員会で取り上げるのはおかしい」、東京地検は「全く把握していない」とコメントしている。ここで留意すべきは、この時点で、小泉首相が「ガセネタ」と断じていることである。これは言葉のアヤではなく、既にこの時点で事件のガセネタ性を承知していた可能性も考えられる。この闇を嗅ぐべきではなかろうか。

 2.17日、永田は、「ホリエモン裏献金事件」についての2回目の質疑を行った。但し既に精彩を欠いていた。但し、この時点までは、野田は「総理のガセネタ発言は看過できない。ガセの根拠を明らかにせよ」、前原は「入金記録を明らかにすれば信憑性への疑問は氷解する」と強気に発言しており、永田を後押ししている。他方、武部は「指摘の事実は見つからない。民主党は許されない」。堀江は「指摘の事実はない」とコメントしている。野田は、前原に対し、「メール問題の追及は、党首討論が仕上げだ」と述べている。

 ここまでの経緯で確認すべきは、前原―野田コンビによる永田に対する十分なるけしかけぶりであろう。その梯子が外され、その後の永田がどういう風にあしらわれるのか、前原―野田が如何に上手く免責されるのかが後半の見どころとなる。

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2012年7月21日 (土)

【「永田議員の偽メール質議事件」解析1、事件解析観点をかく問う】

 過日、阿修羅情報によってだったか「永田議員の偽メール質議事件」(以下、単に「事件」と記す)の民主党の報告書があることを知った。そのサイトは、「2006.3.31日づけ民主党第367 回常任幹事会(報告事項)」(以下、単に「報告書」と記す)である。

 事件とは、民主党が政権を取る2009年の3年前の2006.2.16日に発生している永田寿康・衆議院議員(以下、単に「永田」と記す。氏名につき以下同様とする)による失態的な国会質疑事件である。これにより、民主党内の有能な若手代表格であった永田は議員辞職を余儀なくされ完全失脚した。失意のままの2009.1.3日、北九州市の11階建てマンションからの飛び降りた形跡で変死している。自殺か事故死か他殺かさえはっきりしないまま処理されている。既に記憶の片隅でしかないこの事件であるが、妙な事が気になり始めたので記しておく。

 それは、現下の野田政権は無論のこと民主党三代政権の重要閣僚に関係するのであるが、何と事件に深く関係している者がよりによって大挙して登用されていることが判明する。多くの者はこれを偶然と看做すかもしれないが、れんだいこのアンテナに引っかかる。れんだいこの読みが正しければ、永田は、事件を企画演出した者たちによる政治的儀式殺人ならぬ儀式廃人で葬られたことになる。

 現代政治家の多くが国際金融資本グループの秘密結社員である可能性があり、そういう秘密結社は時に結束を強める為に儀式殺人をすることで知られている。永田は、その生贄にされたのではなかろうかとの疑いが捨てきれない。と云う事は逆に、永田を生贄にした連中がこぞって野田政権にへばりついているおぞましい姿が見えてくることになる。ウソかマコトか、2012年真夏の怪談として聞き流してくれれば良い。

 本事件の経緯及びその検証は報告書に譲る。本稿の狙いは、同書を踏まえつつ同書が触れなかったキモの部分を炙り出し、事件の裏真実を抉(えぐ)り出すことにある。事件の奥底の深い謀略を嗅ぎつけ、その構図を暴くことにある。民主党三代政権の閣僚登用の裏に潜む陰謀を捕捉することにある。れんだいこの読みが正しければ、このようなイカガワシイ政権と一刻も早く決別し、日本再生の大道へ歩を進めねばならないと思う。

 本論考末尾に記すべきであるが、ここで結論を先出しにしておく。事件の経緯から何を窺うべきだろうか。個々の疑問については文中に記す。総確認すべきは、本事件の登場する人物を見よ。単なる顧問格の面々、報告書委員に過ぎない河村、山田、末松、平岡の4名を除けば第一幕に「野田、前原、藤村、仙谷、枝野」、第二幕に「細野、鳩山、平野、松野、玄葉」、第三幕に「松本、蓮舫、手塚、加藤、大塚、福山、笠、江田」が登場している。

 何と、仮に「永田嵌められた説」に立てば、事件の裏で暗躍していたこれらの汚れ役が笠・氏一人を除いて揃いも揃って民主党政権で引き立てられ要職に就いていることになる。余りの符合に気持ちが悪いほどである。勿論、主役は野田、前原である。民主党のもう一つのスター失脚事件である石井議員刺殺事件に暗躍していた菅グループと合わせれば、民主党三代政権とは、永田及び石井抹殺グループのオンパレードと云うことになる。

 つまり、2009政権交代によりもたらされた民主党の鳩山、菅、野田政権とは、「永田議員失脚事件と石井議員刺殺事件に暗躍した黒い人脈者どもによる宴の政権」であることが判明する。してみれば、事件に登場した人物群は、「ノ―パンしゃぶしゃぶ事件」で露呈した売国系の官僚群と同じく売国系の民主党政治家群と言えるのではなかろうか。本事件考察の重要性はここにあり、連中が垣間見えていることにある。

 それにしても、マスコミの正義のペンは、こういうところの解明には向かわない。とにかくワシントンの仰せのままに小沢どんを目の敵にしてバッシングし続けており、ついこの間までは小沢金権論を云っていたかと思うと、夫婦不仲論に転じ、それも功を奏せず新党を立ち上げた今となっては小沢金欠論も交えて三面から舌鋒を鋭くしている。よくも口が曲がらぬ事と感心するが、大方の受け取りようはマスコミの云う事はその通りとしているように見える。かくしてマスコミはマインドコントロール機関として猛威を振っている。早くかような言論機関と決別して自由自主自律の独立系ネット言論機関を立ち上げねばと思う。

 事件の当事者となる永田の履歴は「ウィキペディア永田寿康」その他で確認する。永田はこの時点で既に「国会の爆弾男」と呼ばれた楢崎弥之助(社会党出自の社会民主連合書記長、同党副代表)以来の「平成の爆弾男」と呼ばれるニックネームを得て国会での鋭い追及で名を馳せていた。そういうこともあってと思われるが、小泉政権の幹事長である武部勤の子息(次男)への不正献金疑惑ネタが持ち込まれる。これを仮に「ライブドアの最高経営者・堀江貴文の自民党幹事長・武部勤の子息次男への不正献金疑惑」と命名する(以下、「ホリエモン裏献金事件」と記す)。

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2012年7月 5日 (木)

党議拘束考

 ここで党議拘束考をしてみる。主として国会議員への党議拘束を対象とする。「ウィキペディア党議拘束」、「造反有理・・・党議拘束に意味はない!」その他を参照する。2012.7.5日現在、ネット検索で「政党の造反処分史」をたぐっても、それらしい情報が出てこない。そこで急きょ拵えサイトアップしておくことにする。

 党議拘束とは、政党が決議によって党所属の議員活動を拘束することを云う。主に議会で採決される案件又は法案に対し投票行動を賛否拘束する。政党の結束性を示すものであるが合憲論、違憲論があり決着がついていない。党議拘束に反する造反行動に対する処分は規約に則るが、各党により差がある。

 党議拘束の程度は国によって異なる。日本では党議拘束性が次第に強まりつつあるが、フランスでは造反議員に対して比較的寛容である。イギリスでは原則として予算案の議決に党議拘束がかけられているが他の法案では比較的寛容である。アメリカでは法案に対してほとんど党議拘束がかけられていない。議員は政党の拘束よりも地元の利害に基づいて判断し議会での投票行動をおこなう倣いがある。

 党議拘束に対する日本の各政党の党議拘束ぶりにも濃淡がある。これを確認すると、最も強いのが共産党であり足並みが乱れることは滅多にない。過去に、1964年5.15日の「部分核停条約」採決の際に、5議員のうち4議員が反対票、志賀議員が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。これを「志賀問題」と云う。志賀は直ちに査問され、5.21日、除名されたと云う事例がある。以来、例がない。むしろ党大会での満場一致、一枚岩体制を誇る。しかし、その裏には延々と続けられた党内反対派に対する粛清史が介在している。

 次に公明党の結束が強い。但し、国会での造反例を知らない。党内的な対立では、1970年代の執行部を形成した竹入委員長、矢野書記長派が徹底的に粛清されている。自民党以外のその他政党については割愛する。

 興味深いのは自民党である。過去たびたびお家騒動を起こしている。1970年以降の政治史で確認する。

 1972年、田中政権時代の日中国交回復に伴う台湾との国交断行措置に対し党内の台湾派が大反対し党内抗争を激化させた例がある。

19873.7.17日、党中造反組の思想的行動集団「青嵐会」が結成された。趣意書は、「自由社会を護り、外交は自由主義国家群と親密なる連携を堅持する」と冒頭に掲げ、2番目に教育、4番目に国防と治安、5番目が自主憲法制定。趣意書の最後に「一命を賭して実践することを血盟する」とあり血判を押していた。代表世話人には、中川一郎、渡辺美智雄、玉置和郎、湊徹郎、藤尾正行。座長・中尾栄一、幹事長・石原慎太郎、事務局長・浜田幸一、その他中山正喗、森喜朗、綿貫民輔、三塚博、山崎拓らの衆院議員26名、参院議員5名。この造反組に対する処分はされていない。当時の自民党あるいは首相・田中角栄の度量を推して知るべきではなかろうか。

 1979.10.9日、大平政権に対し、自民党反主流派が総選挙敗北責任を追及し「40日抗争」を始めている。11.6日、衆議院本会議で首班指名選挙が行われたが、首相候補として同じ自民党から主流派の大平正芳と反主流派の福田赳夫の2人が現れるという前代未聞の事態となっている。

 1980.5.16日、社会党が、大平政権に対し内閣不信任決議案を提出したところ、5.19日、自民党反主流派の福田、三木両派の69名が公然と造反欠席したことにより賛成243票、反対187票の56票差で可決された。内閣不信任案可決は1953年以来27年ぶりの出来事であった。総選挙となり、これを「ハプニング解散」と云う。この時も、造反組に対する処分はされていない。後に造反組に対して厳しい制裁を課すことになる福田派の小泉純一郎議員は、この時、立派な党議拘束違反の造反議員であった。

 この時、大平首相は新聞記者に対し次のように述べている。

 「政党は夫婦みたいなもので、こんなことがあってもどうということはない。俺も鳩山内閣不信任案に欠席をしたことがある。政党は分離と独立を繰り返していくものだ。昨年の首班指名の時は別の名前を書かれたが、今回は欠席だから状況はよくなっている。諸君は事実上の分裂選挙と言うが、総裁以下号令一下、挙党一致で闘ったことなど一度もないんだよな」。

 大平政権は、不信任案に反対した田中・大平両主流派、旧中間派の議員、反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員らを第1次公認とし、欠席した反主流派の議員を第2次公認という形で対応している。

 1993.6.17日、社会、公明、民社の3党が宮澤内閣不信任案を提出したところ、6.18日の採決の際、自民党竹下派から羽田.小沢派の43名と他派閥議員5名が賛成、16名が欠席し、宮沢内閣不信任案が可決され、大平内閣以来13年ぶりとなる衆院解散となった。「政治改革解散」と云われる。

 1994年、羽田内閣の総辞職後の内閣総理大臣指名選挙について、河野洋平総裁や森喜朗幹事長が社会党の村山富市委員長を推したため自民党内に造反組が生まれた。しかし、旧大分県第1区で村山と直接のライバル関係にあった衛藤が賛意を表明したことから議論の流れが大きく変わり村山首班指名で決着した。この結果、自社さ連立政権が成立し自民党は11ヵ月ぶりの政権復帰を果たした。

 2000.11月の森内閣不信任決議の際には、加藤紘一、山崎拓らが造反したが最終的に矛を収めた。

 2005年の小泉政権下の郵政民営化法案を廻る造反騒動は凄まじい。7.10日の衆議院採決で自民党から37名の反対、14名の棄権が出た。8月8日の参議院本会議採決でも自民党から22名の反対、8名人の棄権が出たため否決された。小泉首相は、造反議員を除名して解散、その上、除名議員の選挙区に刺客を立てて落選を狙うという執拗な報復選挙をやったことで知られている。

 つい先日の2012.4.12日の郵政民営化法改正案の採決の際には、中川秀直元幹事長、小泉進次郎衆院議員、菅義偉元総務相らが造反した。大島副総裁が中川氏ら4人を厳重注意すると、谷垣総裁は即座に「この問題はこれで打ち止め。政権を追い詰める大事な局面なので結束すべきだ」と終結宣言している。

 2012.6.26日、野田政権下の民主党は、党内の強い反対論を押し切って「消費税増税法案」を衆院提出し、「自公民との三党合意」を取りつけた上で党議拘束」をかけて本採決に臨んだが、党内から57人の反対投票、15人の欠席・棄権者を出した。

 この流れをどう見るべきか。造反史を漫然と眺めてみても得るものは少ない。確認すべきは、いわゆるタカ派、その実国際金融資本に飼いならされている御用聞き派が政権を握った時、造反派に対して厳しい制裁処分に出る傾向が強いと云うことである。ハト派系の田中、大平政権下では伝家の宝刀を抜いていない事が分かる。タカ派系が戦後保守主流派に転じた1980年初頭の中曽根政権以降、日本政界に造反派処分が常態化し始めた事を見て取るべきではなかろうか。一事万事で、この頃から日本政治の質が変わったと云う事を窺うべきではなかろうか。

 2012.7.5日 れんだいこ拝

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2012年7月 2日 (月)

れんだいこの吉本隆明論

 2012.3.15日、戦後の日本左派運動史上に思想的に大きな影響を与え続け、「戦後思想の巨人」と云われた評論家にして詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき、音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い)氏が肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した(享年87歳)。長女は漫画家ハルノ宵子、次女は作家よしもとばなな。

 吉本隆明の逝去に際して幾つかの追悼文が出ている。れんだいこも、太田龍に為したと同様の手法で氏の履歴を確認してはみたがサイトアップせぬままに来た。その理由に、恥ずかしながら、れんだいこは吉本氏の著作を一冊も読んでいない。片言隻句を知っているぐらいで妙に縁がなかった。そういうレベルの者が批評を公にするのは如何なものかと思いやり過ごして来た。

 ところが、直近で同じく一冊も読んでいない保田與重郎論を書きサイトアップした。ならばついでと本ブログを世に送る。保田與重郎論4で確認したが、吉本氏は、思想形成期に影響を受けた思想家の一人として保田與重郎の名前を挙げているとのことである。これによれば、.吉本隆明が保田與重郎の影響を受けていることになる。この誼からでもある。

 吉本氏の詩人能力、文芸批評能力に関しては語る資格がないので轄愛する。れんだいこが吉本隆明を高く評価する所以は、1955年の六全協の宮廷革命で、それまでの徳球―伊藤律系党中央から宮顕―野坂系党中央へ大転換した後の日本共産党に対し、公然と反旗を翻した理論的指導者としての第一人者であったことによってである。吉本氏が、転向論を書き上げ、当時神話化されていた宮顕の非転向聖像を引き剥がしたことも高く評価する。既に共産党批判者は外部からも内部からも五万と居たであろうが、かの1950年末時点で、かようなスタンスを思想的理論力によって確立し得た者は吉本氏を措いてはいないのではなかろうか。これが、れんだいこが吉本隆明を高く評価する所以である。

 付け加えるとすれば、日本共産党中央が徳球系から宮顕系に転換し、宮顕指導の反動性を嗅ぎ取った全学連中央がそれまでの共産党支配から離れ自律化せんとした動きを強め、60年安保闘争の前夜にブントを結成した時、吉本氏が当時の全学連活動家を鼓舞し、終始その思想的指導者として好意的随伴者であったことにつき高く評価している。繰り返しになるが、既に共産党批判者は外部から内部からも五万と居たであろうが、かの1950年末時点で、宮顕系党中央の胡散臭さを見抜き、その挙動不審に鋭い批判を浴びせ続けた論者は吉本氏を措いては知らない。

 これが、れんだいこの吉本隆明論の前半である。後半は厳しくなる。即ち、吉本の転向論につき、れんだいこの転向論研究に照らすと、宮顕批判と云う結果は同じだが論法が真逆なものとなっており、どこかで決着付けねばならないと考えている。どう違うのかと云うと、時代的制約もあっであろうが、吉本氏は、宮顕の非転向を信じた上で非転向の内実の価値を問い、非転向必ずしも自慢にならずと批判の舌鋒を鋭くしている。

 これに対し、れんだいこは、宮顕の非転向を虚と断じている。宮顕唯一非転向聖像は当局との阿吽の呼吸の上で造られた神話であり、非転向どころか端から当局のスパイであったとしている。当局は、宮顕人脈が確保できたことで、それまでのスパイMを用済みにし、その地位を宮顕が継ぎ総元締めすることになったと見立てている。こういう観点の違いにより吉本式転向論に馴染めない訳である。非転向の内実の価値の問い方も異なるが、ここでは割愛する。

 吉本氏の全学連ブント派支援についての評を厳しくしようとは思わない。繰り返すことになるが、かの1950年末時点で、宮顕系共産党を共産党の変質と判じ、共産党と云う名をもって語ることさえおこがましいとの意味で日共と蔑称し、同様の観点に立つうら若き全学連ブント派活動家と同衾したのは勇気ある知的営為であったと思っている。但し、難点を云えば、その若きブントを鍛え正しく指導すると云う観点はなさ過ぎたのではなかろうか。吉本にそれを求めるのはお門違いであるかも知れないが、そういうもの足りなさを感じるのを許してもらいたい。

 吉本の著作を読み損ねた理由の一つに、氏の斜交い構えの論法が関係している。それとやけに難解な文章であるように思えたのも理由の一つであろう。確か「国家は幻想である」とかの言を為しており、れんだいこの70年初頭の学生運動期に、或る部室で、これを大真面目に請け売りする論者と口角泡を飛ばしながら論争した経緯があり、その時の嫌な思い出も関係していたようにも思われる。そういうこともあって、どうにも読む気がしなかったと云うのが実際である。そういう拙い関係のまま今日を迎えている。

 気づいたことは、吉本氏が、60年安保闘争時にはあれほど一級の知識人的活動をしたのに70年安保闘争では登場せず、1970年代後半のロッキード事件につき政論を発表していないことである。1980年代初頭の中曽根政権、2000年代初頭の小泉政権に対する論評がない。これらは左派系且つ新左翼系政治思想家としては不可解なことである。

 比較で云えば、左からいわば右へ大きく転向した太田龍が切り開いた国際金融資本権力体批判、彼らの信奉するネオシオニズム批判、その歴史的解析、そこから逆照射して獲得せんとした日本古来の縄文思想の質の高みの称揚、これらが皆無である。そういう意味でどうもしっくりこない。現代思想上の営為に於いて肝心かなめのこれらのテーマに対して無言及の大思想家なんて有り得るだろうか。晩年の原発の擁護、オウム真理教に対する安逸な賛辞となると論外と云うべきだろう。

 以上から総括すれば、れんだいこが高く評価する吉本隆明は1950年代から60年代までの履歴に対してである。その後の吉本に眩しさを感じることはない。これが結論となる。思い切って述べさせていただいたが若輩者の試論としてご容赦願いたい。

 2012.3.20日、2012.7.2日再編集 れんだいこ拝

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2012年7月 1日 (日)

れんだいこの保田與重郎論その4

 れんだいこの4番目の最後になる保田論は保田氏の政治論に対する批評となる。次のように評されている。

 「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと、評していた。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」。

 既に見たように三輪思想の薫陶宜しい保田氏からしてみれば、「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと評していた」ことも、「キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた」ことも、「大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」も容易に頷けよう。

 ところで、吉本隆明は、思想形成期に影響を受けた思想家の一人として保田與重郎の名前を挙げているとのことである。してみれば、吉本隆明は、保田與重郎を通して三輪思想の香りを味わっていたことになる。吉本隆明も興味深い人物であるが、ここでは割愛する。

 偉大な思想家としてもっと評されるべき保田に対して探せば多くの好意的評があるだろうが、政治論に関する限りれんだいこの評は辛くなる。どう云うことかと云うと、マルクス主義を主とする左翼の批判の視点が的確を射ていないと思うからである。これは、保田がマルクス主義に被れていた19歳前後の時の1928(昭和 3)年のご時世に関係しているように思われる。この当時、日本マルクス主義は絶対の正義派であり唯一の真紅の革命派であった。弾圧に次ぐ弾圧にも拘わらず党旗が護り繋がれていった。恐らく、保田は、それを眩(まぶ)しく思っていた筈である。だが他方で、マルクス主義の絶対的教条である天皇制打倒スローガンに対し、三輪思想の薫陶を得ている者として違和感を持ち続け、それ故に是々非々的に関わった筈である。この頃の保田に対して次のように記されている。

 「大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校文科乙類に入学。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れたが、その思想を受け入れることはなかった。しかし、蔵原惟人や中条百合子の作品に対しても、しかるべき評価をしているように、全く無関心であったわけではない。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある」。

 こういう彷徨を見せている保田は、1932(昭和7)年、満州事変勃発6か月後の頃、東大在学中に同人誌「コギト」を創刊し、その中心的な存在として活躍する。1935(昭和10)年、26歳の時、東大美学科美術史学科卒業。卒業後、「日本浪漫派」を創刊、その中心となる。1936(昭和11)年、27歳の時、処女作「日本の橋」を刊行する。この時代、既に日本マルクス主義運動は壊滅させられ、文芸戦線も同様に封殺させられていた。この時期を、プロレタリア文学運動に代替するかの如くに文芸旗を掲げ台頭してきたのが保田らの日本浪漫派であった。次のように評されている。

 「保田與重郎、亀井勝一郎、中谷孝雄、中島栄次郎、緒方隆士、保田與重郎、緑川貢、太宰治、壇一雄、山岸外史、芳賀壇、後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄などが参加。終刊近くには50名以上の一大文学運動となる。閃くやうな文體を驅使した評論を發表し、一躍『文壇の寵兒』となった。『日本浪漫派』を創刊し、マルクス主義的プロレタリア文学運動解体後の日本文学を確立する為に、ドイツ浪漫派の影響のもとに日本古典文学の復興をめざした。伝統主義、反進歩主義、反近代主義の立場から多くの評論を展開した」。

 ここで確認したい事はこのことではない。こういう経過によって、保田の頭脳には、マルクス主義が早期に壊滅させられたことにより却って勃興期の尖鋭的且つ硬直的なマルクス主義のイメージが残り続けていたのではなかろうかと窺うことにある。つまり、文芸評論家として世に出た保田には、いわば古典的なマルクス主義イメージが脳裏に焼きついたまま経緯したのではなかろうかと思われる。このことを確認したい訳である。

 この推理の重要性は、戦後の保田の身の処し方に関係することにある。戦後の保田はいわば座敷牢に閉じ込められた。それは専ら表からはGHQのネオシオニズム的策動によって裏からは日本マルクス主義運動系のイデオロギーによってであった。本来、保田は何ら臆することなく両面に対して闘いを開始すべきだったところ、自ら蟄居で様子見している。正面の敵であるネオシオニズム的策動には抗し難い。それは分かる。だが、裏からの敵、日本マルクス主義運動に対しては堂々と渡り合うことができた筈のところ特段の抵抗が認められない。このことの要因に、既に述べた「古典的なマルクス主義イメージ」が邪魔したのではないかと考えられる。

 戦後日本の日本マルクス主義運動の本家筋に当たる日本共産党が初期の徳球―伊藤律系党中央指揮下のそれであった場合にはまだしも、1955年の六全協後の宮顕―野坂系党中央指揮下の偽物共産党運動が開始されて以降は何の遠慮があっただろうか。推理するのに、保田はこの共産党の変質に対して何の関心も持ちあわさなかった。このことが戦後に於ける日本マルクス主義運動の捻じれに対して正確な理解を妨げ続けることになった。それが保田の日本左派運動批判の舌鋒を的外れにしているのではなかろうか、と窺う。これには、時代的制約もあろう故に保田の責任を問う訳には行かない。そういう意味で、無理からぬと云う割引の気持ちは持っている。しかしながら、「マルクス主義及びその運動の古典的理解」のままに戦後のマルクス主義運動を是認的に理解しつつ批判的な評論をし続けたところに保田の限界があったように思われる。

 つまり、マルクス主義、日本共産党論にせよ、史上に現われたものには裏があると云う面での認識がからきしできていないように思われる。古典的通俗的なマルクス主義理解の上に立って、その錦の御旗を掲げる日本共産党論なる観念を安易に前提して、これを批判している風があり、ここがもの足りない要因になっているように思われる。これは元々が文芸批評家故に仕方ないことかも知れない。尤も、これがを解け、かく指摘できるのは、世界広しといえども今のところは、れんだいこぐらいのものかも知れない。

 こういう事情によって思われるが、保田の戦後的復権に於いて評される栄誉は専ら文芸分野に限られることになる。これにより「日本の心」を探る営為は戦前のものより更に精緻になったかも知れない。しかしながら、保田の時評、政治論評は精彩を欠いたものになっているのでなかろうかと窺う。今のところ殆ど読んでいないので遠慮勝ちに評するが当らずとも遠からずであろう。

 なぜなら、保田が我が意を得たりの政治論評をしていたのであれば、れんだいこの眼に止まらなかった訳がないからである。こたび機縁を得て保田を少し知る事ができたが、まことにあり余る慧眼の持主である。この慧眼をもってすれば、我々は、吉本隆明のそれ、大田龍のそれに伍する保田與重郎のそれを聞けた筈のところ聞きそびれたのではなかろうか。これが悔やまれる訳である。本稿をもってとりあえずの保田與重郎論の完結とする。

 2012.7.1日 れんだいこ拝

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