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2012年9月20日 (木)

「十五夜お月さんの論理」についてその1

 面白いことに気づいたので書きつけてみようと思う。「十五夜お月さんの餅つき話」を子供の頃に聞かされ、満月のお月さんを見ながら何とかして餅つきの図に読み取ろうとした記憶がある。見ようによればウサギが餅つきしているようにも見えた。少し違うなとも思いながらも。

 そのことの詮議をするのが本稿のテーマではない。1969.7.21日、米国製有人宇宙船アポロが初めて月面着陸に成功した。恐らく、地球上の隅々でテレビのあるところ人は釘付けになったと思われる。れんだいこもその一人であった。今日、「アポロの人類初の月面着陸映像はウソだった」論議も生まれているようだが、そのことの詮議をするのが本稿のテーマではない。

 れんだいこが思案して見ようと思うことは、あのアポロの快挙によって、それより後の人々に「十五夜お月さんの餅つき話」の伝承が萎えてしまったことを廻ってである。その功罪を問いたいというのが本稿の狙いである。こんなことを考える人は珍しいのかも知れないが、れんだいこは至ってマジに愚考している。この問いの奥は深いと考えている。

 今日、「十五夜お月さんの餅つき話」を真剣に語る者が居たとしたら、我々はお笑いで遇するだろう。しかし、当人がそれでも真剣に語り続けたとしたらどうなるのだろう。それも、「アポロの人類初の月面着陸映像はウソだった」という観点からでなく、それを史実として快挙と思い且つそれでも「十五夜お月さんの餅つき話」を語り続ける人が居たとしたら、我々はどう遇するべきか。要するに、今日の時点で、「十五夜お月さんの餅つき話」を語ることが罪なのか益なのか、という問になる。これについて、皆さんはどう思われるだろうか。れんだいこはこれを愚考しようとしている。そして、廻らした思案は次のようなものになった。

 「十五夜お月さんの餅つき話」は、今なお生命力を有している。というか、引き続き語り続けなければならない。それは何故か。一つは、想像力を掻き立てる為である。この想像力がなくば人生が面白くないと気づく故にである。この想像力は、よしんば科学の知見と齟齬しても、独立して成り立つべき脳内占有権を持ってしかるべしと思う故にである。むしろ、科学が脳内から想像力の座を狭めるのなら、それは科学の行き過ぎと思う故にである。というか、科学自体には罪はないのかも知れないので、科学的知見を受け止める我々の弁えについて、どこか至らないところがあるのではないかと思う故にである。

 むしろ、最近の科学万能社会は、これをどの範囲で受け入れるのか明らかにするよう、我々に迫っているのではないのか。このことを顧慮せず、我々が科学万能社会に追随することはむしろ危険なのではないのか。考えてもみよう。科学は常に発展途上である。現在から過去を見れば、過去の時代とは何と科学的知識の不足していた時代であったことよと思うであろう。今現在も後世からすれば過去であり、その後世という未来から見れば、今現在は何と科学的知識の不足していた時代であったことよと思うであろう。科学とはそういうものであろう。時代とはそういうものであろう。

 だから、科学万能社会論は何一つ物事を解決しない。その時代の知見というものがひけらかされているに過ぎない。そう認識すべきではなかろうか。もっとも、この知見が過去の誤謬を訂正するとすれば、その際の有益さは論をまたない。但し、それを常に限定的に語るべきで、科学という名を被せれば、それで万事解決済みという如意棒にはならないという弁えを持つべきだ、ということが云いたい訳である。

 科学という名を被せて優越に浸るなどは云い得云い勝ちの子供騙しの論であるに過ぎない。単に言葉に酔っているだけの、言葉に弱い系の人種間に通用する独善議論作法でしかあるまい。具体的に誰のことを指して云っているのか、本稿の品を落とすので差し控えておくことにする。

 さて、科学主義論のことはこれぐらいにして、「十五夜お月さんの餅つき話」に戻そう。「十五夜お月さんの餅つき話」には、極め付きの善さがある。このことが知られねばならない。どういう意味かというと、幼児、子供向けの童話ないしおとぎ話と比較してみれば分かるが、中にはかなりキワモノのものも多い。正直の善さを説くのに懲らしめが代償されていたり、希望を持つよう説くのに、それが安易に時の権力者に見初められるだけの話であったり、親孝行説くのに金銀財宝を暴力的に取ってくるだけの話であったりする構図のものが多い。

 それを思えば、「十五夜お月さんの餅つき話」には害がない。むしろ、月面を眺めて、ウサギが石臼と杵と相和して突き合う姿の想像を掻き立てるうちには、何ともいえない妙味さえあるというべきだ。れんだいこは、人生に於いてこの妙味の部分をもっと大事にしたいと考えている。月面に実際にウサギがいなくても構わない。居たとしたらという仮定で思いを練り、それに害がなければ十分に検討されるに値する話だとする姿勢を持ちたい。以上が、れんだいこ式「十五夜お月さんの餅つき話」の前段になる。さて、これからが値打ちものになる。乞うご期待。

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