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2012年9月

2012年9月29日 (土)

ノ―ネク考

 ここで、国会議員のノ―ネクタイスーツ姿について愚考しておく。このスタイルが日本政治史上に登場したのは2005年、第1次小泉内閣第2次改造内閣時である。時の小泉首相と小池百合子・環境大臣が音頭をとり大々的な「クール・ビズ」(COOL BIZ)キャンペーンを開始したところから急速に定着するところとなった。

 そもそもは「夏場の軽装による冷房の節約」を趣意としたものであった。「クール・ビズ」とは、「涼しい」や「格好いい」という意味のクール(cool)と、仕事や職業の意味を表すビジネス(business)の短縮形ビズ(BIZ)を併せたものであり、肌着メーカーのグンゼが提案した造語であると云う。当初の夏場での「ノーネクタイ・ノージャケット」が年中通じての「ノーネクタイ」(以下単に「ノーネク」と記す)になり2012年現在に至っている。国会でのノーネク姿に反発、批判した政治家も居るには居るが、次第に一般化しつつある。

 れんだいこは、これを不快に思っている。それは、ノーネクそのものに対する咎めではない。当然、仕事のオフの時には構わない。問題は、仕事中のノーネクが許されるのかどうかである。人が仕事をする際の服装の在り方に於いて、ノーネクは締まりのない如何にもラフな田吾作印象を与える。要するに似合わない。仮に女性議員が「クール・ビズ」と称して胸を露出させて登場したとして見よ。私の勝手論も成り立とうが場所柄が違おう、要するに似合わない。これを論証するのは手間なので省くが論証できると思う。

 れんだいこは、ノーネクが、仕事だか遊びだか分からない締まりのない如何にもラフな仕事に通じているのではないかと危惧して批判している。思えば、これが小泉政権下で始まったことは偶然ではなく、小泉政権下の仕事がなべて国際金融資本の仰せのままの締まりのない、如何にもラフな売国政治ではなかったのかと疑っている。小泉式「クール・ビズ」と云う名のノーネクは、小泉政治の売国政治性を見事に象徴しているのではないかと思っている。あれは小泉らしい不良スタイルであり真似するようなものではない。

 小泉政権下のノーネクは民主党政権になっても継承されて今日に至っている。れんだいこの目には、あたかも小泉政治の継承宣言しているかのような気持にさせられる。2009衆院選で政権交代したものの、実は小泉政治が続いておりノーネクがそれを示しており、ノーネク派はノーネクによって小泉政治の継承を意思表明しているのではないかとさえ思えている。そう云う風に考えると辻褄が合うから不思議である。こう考えると、自公にも民主にも維新にもノーネク姿が多いが、それだけ深く汚染されていると云うことであろう。

 これを踏まえて、ノーネ派に質問してみたい。先ほどの民主党代表選の時には気づかなかったが、自民党代表選に於いては候補者は全員がネクタイ着用で臨んでいた。この候補者は、代表選に於けるネクタイ着用と国会質疑でのノーネクはどういう按配で分別しているのか答えて見よ。仮に皇居での認証式に臨む際、ノーネクで通すのか答えて見よ。もし、ノーネク派が、代表選なり認証式の際にはネクタイを着用し、国会質疑ではノーネクを良しとすると云うのなら、その根拠を弁明して見よ。ついでに聞くが、「クール・ビズ」で「ノーネクタイ・ノージャケット」にするのなら、上ばかりでなく下も「クール・ビズ」にし、いっそのことサンダルや草履や下駄履きにした方が良いと思うが何故そうしないのか。今のところそういう御仁は登場していない。それはなぜなのか述べて見よ。

 れんだいこが何故に拘るのか。それは、繰り返すことになるが、ノーネク派がノーネクに象徴されるような締まりのない如何にもラフな仕事をしていることと関連していると見なしているからである。締まりのない如何にもラフな政治姿勢と見識で原発続投、三陸巨大震災被災地弄び、消費税増税、TPP、憲法改正、自衛隊の武装海外派兵、オスプレイ配備、領土紛争等々やられるのは御免蒙りたいからである。

 たかがネクタイぐらいのことで何を大袈裟に云うのかと云う反論も予想されるが、これに返答しておく。物事には、当然服装にも、或る形、型と云うものがある。正式洋装にはネクタイが似合うとすれば着用すべきだろう。ネクタイが嫌ならネクタイを着用せずに済む別の服装スタイルのもので登場すれば良い。紋付でも羽織袴でも作務衣でも労働者服でも良かろう。服装はどんな形でも良いのだが、締まりのないラフな格好だけは止めて欲しいと思う。

 ところで、国会議員に於いて国会での実務はれっきとした仕事であり、締まりのない如何にもラフな姿勢で為すべきようなものではない。オフタイムならいざしらず、国会の中でのノーネクなぞ許されて良いことだろうか。れんだいこは、このことだけで国会議員を罷免されるに値するとさえ考えている。気づけば、ノーネ派がこぞって原発続投派であることも興味深い。締まりのないラフな格好に象徴される安逸な考えで原発続投宣言されたら堪ったもんではない。こういうものは伝染して欲しくない。思いつくまま。

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2012年9月27日 (木)

党代表選考

 2012年9月、民主党と自民党の代表選が立て続けにあった。これを機会に党の代表選システムを研究してみたい。従来、左派圏内の政党、党派に於いては、党の代表選に於いて、恥ずかしくて人に語れないほどお粗末な上からの押し付けシステムが構築されており、これに異議を唱える者がなく今日に至っている。もうそろそろそういうスタイルから脱却すべきではなかろうか。

 それは一つに、ブルジョア政党、プロレタリア政党と云う便利な識別により、プロレタリア政党に於いてはブルジョア政党に於けるような代表選システムは不要とする先入観が党中央と党員間に共有されており、これが災いしているように思われる。これにより、党の代表が密室で決められ、党大会はこれを満場一致で議決するセレモニーに過ぎないと云う形骸化したシステムを良しとしている。

 しかし、今日では既に左派政党、党派の権威も色あせている。ひと頃のような目前に革命を夢見ているような者は誰も居ない。目指すべき革命スタイルを廻って民主主義革命か社会主義革命かで口角泡を飛ばす者はいない。だとすれば、党の代表を選ぶのに何の為に上から押し付けられ、党大会はそれを追認するだけのセレモニーで良しとするのか意味が分からなくなっている。

 むしろ、左派圏内の政党、党派の党代表選が実に子供ぽい稚拙なものでしかないことが透けて見えてきている。左派圏内の政党、党派は一般に党外に向けては民主主義を護れと云う。その割には、手前の党の代表選が最も反民主主義と云うおぞましい仕組みの中で経緯している。この事態をいつまで放置しておけようか。頼むから、手前の党内を民主主化してから外へ向けて民主主義の護民官然としてくれ。逆はいけまい。誰も相手にすまい。

 そういう訳で、今終えたばかりの民主党と自民党の代表選を踏まえて、我々の党代表選はこうあるべきではないのかとする試案を提供してみたい。民主党と自民党の代表選も未だ試行錯誤の変容過程にある。しかしそれは批判されるべきことではなく、大人の政党としての知恵を発揮しつつあるとみなすべきではなかろうか。これから述べる方式を叩き台にしたら、なお良いものに仕上がるだろう。

 民主党と自民党の代表選の詳細分析は別に検討するとして、ここで議論すべきことは、議員票と党員票の効率的相関を見出すことである。左派圏内の政党、党派に於いては国会議員は存在しないか、存在しても単なる国会議員でしかないので、そういう場合には中央委員ないしは支部代表でもって置き換えることができる。さて、従来は議員票のみで党代表を選出してきた。これはこれで構わないのだが、近年では党員の投票を顧慮する傾向が強められている。これをどう判断すべきか。れんだいこは是としたい。そこで、議員票と党員票の効率的相関式の検討に入ることにする。

 私論によれば、日本国憲法の衆議院と参議院の権能の差に注目したい。憲法改正が次第に声高になりつあるが、れんだいこに云わせれば、誰が授けたのか未だはっきりしないが、日本国憲法の知恵は深く奥ゆかしい。徒に憲法改正を云うよりも、憲法の知恵をもっともっと引き出すことこそ為すべきと考える。昨今の憲法改正病者にこのことを指摘しておきたい。

 日本国憲法では一院制ではなく二院制にしている。れんだいこは、これを是としたい。その理由は、二院制の方が修正が効くからである。日本国憲法は、その上で、二院制ながらも衆議員の方に最終的権能を持たせている。これを是としたい。二院制の具体的な相関関係はここでは確認しない。非常にうまく調整されていることが分かれば良い。

 れんだいこは、党代表選に於ける議員票と党員票の効率的相関式の策定に当って、日本国憲法の二院制方式を考慮したい。どういうことかと云うと、議員票と党員票の効率的相関式に於いて、議員票を衆議員、党員票を参議院になぞらえて考えて見たいと云うことである。それぞれに代表を選び、両者が一致すれば無条件に代表が定まり、両者が不一致の場合には衆議員に差し戻される如くに両院議員大会に戻され、協議され、決着を得ない場合には再代表選で決着させると云う方式が魅力的である。二院制方式の応用と考える。

 何事も絶対にこうだと云う制度、規定はない。長所もあれば短所もある。それぞれの良いところを引き出して接木すればうまく行くかと云うとそうでもない。背後にある思想設計が違うからである。そういう訳で、今ある方式を前提にして、ぼちぼちでんな方式で、より合理性のある方式を見いだして改良して行くのが良い。大人の知恵とはこういうものではないかと思う。

 さて、両院議員大会に戻された際、議員票の上位二者、党員票の上位二者を確認する。議員票の上位二者、党員票の上位二者が異なることは滅多にないと思われるが理論的には有り得る。この場合はどうすり合わせすべきだろうか。ここに知恵が要る。

 思うに、党員票の集計に於いてドント方式は意味がないと考える。むしろ、党員票の集計を都道府県単位で集計し、候補者数に応じて最高得票者を候補者数点(候補者5名の場合は5点)、次点者を候補者数-1点と云う風に計算し最下位者を1点として得点を算出する。これを総合計すれば、各立候補者の全国レベルでの党員票得点が自ずと定まる。これで何ら問題ないと考える。

 党員票得点は、再代表選の際の指標として活かされるべきだと考える。或る候補者の党員票得点が全体の過半数を超えた場合、且つ議員票の上位二者に該当しなかった場合にはどう待遇すべきか。私案は、再代表選の三番手候補としてエントリーされるべきだと考える。いずれにせよ、党員票得点が全体の過半数を超えた候補は議員票の1割ないしは2割が基礎票として加算されるべきだと考える。以上の手続きを経て最終的に再代表選の上位二者ないしは党員票代表を含めた三者の決戦投票によって代表が決まる。

 当然、この間の投開票に不正があってはならない。厳重に管理され、公開で集計されるべきだと考える。投開票紙は最低限次期代表選まで保管されるべきだと考える。これができないような政党は近代政党として失格であり、不正責任者は処罰処分されるべきと考える。

 この方式が最も公正で面白いのではなかろうか。これを、今回の民主党と自民党代表選の場合に当てはめるとどうなるのか興味がある。誰かやって教えてくれれば良い。要するに、党代表選は盛大に且つ厳格に且つ合理的に行うべきだと云うのが本稿の趣旨である。今後、新党が生まれる場合も含めて参考にされるが良い。弱小政党ではさほど意味がないが一定数の党員、議員を抱えた政党の場合には大きな意味があると考える。この機会に考えて見た。

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お知らせ ツイッターの調子が悪い。書き込み不能です。

 民主、自民の代表選の突っ込みを速攻でやろうとしたがまたまたツイッターの調子が悪い。困ったもんだが、ツイッターがなければ生きられないと云うほどのもんではないのであきらめております。とりあえずの報告です。

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2012年9月20日 (木)

「十五夜お月さんの論理」についてその4

 ネット検索で、「『宇沢弘文と語る』を聴講して」に出くわした。れんだいこが意訳すると、次のような話を伝えている。

 2010年現在、いつノーベル賞を取ってもオカシクナイとされている万年候補の宇沢博文・政治経済学者が旧制中学の4年生の頃、いろいろの事情があって新潟の禅寺(曹洞宗)に身を寄せることになった。禅寺の住職は、宇沢に「嘘をつきなさい。人びとを幸せにする嘘を沢山つきなさい」と教えたと云う。住職は、晩飯になると宇沢少年を呼んで一緒に食事をしようと誘った。未成年なのを承知で酒も用意されていた。宇沢少年相手にいろいろの話をしてくれ、そのなかの話の一つが「嘘をつきなさい」だった。

 宇沢教授は、「今から考えるとわたしの経済学の考え方の根源になっているような気がする」と述べている。この教話の力点は前段の「嘘をつきなさい」にあるのではない。後段の「人びとを幸せにする」というところにある。「嘘」と云う言葉も教説上の方便で、学問も含めた全ての知が「嘘」の範疇に入ると云う認識を元にしている。「学問といい、科学的知見といい、宗教の教義といい、それらはどこまでいってもひとつの仮説にすぎない。つまりは『嘘』の一種なのだから、どうせ『嘘』をつくなら『人びとを幸せにする嘘』をつきなさい」という禅宗特有の寓意である。

 宇沢青年をして数学から経済学に向かわしめ、経済学をして、人を計数的物量として扱う近代経済学に対して、生身の人間の生活的与件を絶対的基礎とする「社会的共通資本」なる概念を生ましめ、やがて公共経済学を発想せしめることになるが、その背後に去る日の住職の「嘘をつきなさい。人びとを幸せにする嘘を沢山つきなさい」の教話があったと云う。

 これを知り、れんだいこ流に解釈すれば、宇沢弘文政治経済学教授は、「十五夜お月さんの餅つき話」を解する立派な知識人だと云うことになる。

 もう一つ。「十五夜お月さんの餅つき話」執筆動機の背後に天理教教祖の口述人類創世記譚「元の理」があったことを種明かししたが、ついでに天理教教祖に纏わる「存命の理」についても記しておく。「存命の理」とは、天理教教祖中山みき逝去後も生身の身体としては死亡したが生命は生前同様に存命しており、今も人類救済の為に働き続けているとする教説である。こういう教祖存命説は何も天理教でのみ云われるのではなく、他の宗派でも同様の説を持つところもあるように思われる。

 さて、この「存命の理」をどう寓すべきか。既にここまで「れんだいこの十五夜お月さんの餅つき話」をお読みいただけた者には得心できよう。「存命の理」を科学的知見で批判するのはいとも簡単である。その種の口角泡を飛ばし士に尋ねるが、或る宗派が教祖を死後も「存命の理」として待遇し、教祖を敬慕したとして何か害があるだろうか。天理教では、「存命の理」のままに教祖の着替えを日々行い、拝殿の奥に鎮座されているとして日々諸事の伺いを立てるなり報告を申し上げている。口角泡を飛ばし士がこれを茶番と云うのは勝手である。しかし、れんだいこは、素晴しい没後対応であるとして逆に評価している。

 教祖中山みきは生前、人間の寿命は115歳までの定命(じょうみょう)を与えられていると教説していた。これを説いていた頃は80歳代後半の頃である。教祖は、「115歳定命説」を我が身で体現しつつあった。そのみきは80歳の頃より十数次にわたって検挙され、その取り調べも次第に暴力的になった。「最後の御苦労」が1886(明治19)年2月、89歳の身で厳寒の獄舎に入れられた。

 一説によると、この時の老婆虐待は凄まじく、にも拘わらず教祖は差し止めさせられていた教義を説くのにひるまなかった。15日間後に釈放されたが、もはや立つこと叶わぬ息絶え絶えの身になっていた。その後は床に臥す日々となり、「最後の御苦労」の一年後に逝去している。亨年90歳。教内では、「115歳定命説」に違う教祖の逝去に対する動揺が走った。

 この時、霊能を分与されていた後の本席・飯降伊蔵が指図したのが、「さあさあわからん。わからん、なにもわからん。115才、90才、これもわからん。25年不足であろう。どうであろう。これもわからん。どうしてもこうしてもすっきり分からん。故に25年を縮め、助けを急ぎ、扉を開いて世界をろくぢに踏み均(な)らしに出た。神でのうてこの自由自在は出けようまい。止めるに止められまい。神は一寸(ちょっと)も違うた事は云わん。よう聞き分けてくれ。これから先というは、何を聞いても、どのよの事を見ても、皆な楽しみばかり。楽しみや。よう聞き分け。追々刻限話しをする」、「さあさあこれまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日々の道を見て思案してくれねばならん。(中略) 姿は見えんだけやで、同んなじ事やで、姿がないばかりやで」なる啓示であった。

 かく「存命の理」が打ち出され、教内の動揺は治まった。これが「存命の理」の歴史的事情である。これに照らす時、飯降伊蔵の啓示はむしろ何とも鮮やかと云うべきではなかろうか。

 「十五夜お月さんの餅つき話」から始まりマルクス主義のユートピア思想、天理教の「元の理」、「存命の理」へと辿り着いたが、この思索の旅が面白かったのは一人れんだいこだけだろうか。本稿はこれでひとまず完結とする。

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「十五夜お月さんの論理」についてその3

 れんだいこは、何故「十五夜お月さんの餅つき話」に拘るのか。実は、とても素敵な「「十五夜お月さんの餅つき話」調の諭し話を知っているからである。マルクス主義ユートピア論よりも気に入っている。ズバリ云おう。それは天理教開祖の中山みきが説いて聞かせた人類創世記譚「元の理」(「泥海古記(口記)」とも云われる。以下、「元の理」と記す)である。それを一言で要約すれば、人類史を俯瞰した上での人の生きる道の指針教説である。れんだいこは、何の因縁か27歳頃この話を聞き魅せられた。以来、今もって虜(とりこ)になっている。

 れんだいこの見るところ、「元の理」は、天理教のみならず日本のみならず人類全体に及ぶ貴重な財産である。その説話の創世記物語は旧約聖書数行の記述よりも長い。完成度も高い。そして、人類誕生の元一日の謂われ(因縁)を知り、創造主神の御心に叶う生き方をすべきだと示唆している。その圧巻は、人の生きる目的を諭して、親神が「泥海だけの世は味気ない。一つ人間と云うものを拵えて、その人間が陽気に明るく勇んで助け合って生きる様を見て共に楽しみたい」との思いで創造した以上、創造された側の人間の生きる目的は、この親神の思いに適うことである。しかしてそれが陽気暮らし、陽気勤めの生活であるとしている。これを延々と説き分ける「元の理」教説の例え話が無茶苦茶に面白い。

 「元の理」の科学的根拠は分からない。検証しようもない。但し、荒唐無稽かというとそうでもない。親神による人類創造でありながら、進化論にも齟齬しない知見が披歴されている。その逐条が現在の科学的知見において裏付けられるような内容になっており、今後に於いてもますます違背しないのではないかと思われるほどの卓見的示唆で散りばめられている。

 教祖中山みきが、この口述を何に依拠して宣べたのかは分からない。教義的には、神が入り込み啓示した思惑を、みきが筆写ないしは口述したのであるから神の言であり、これに間違いのあろう筈がないという訳になるのだが、れんだいこはそこまでは同調しない。しかしながら、「元の理」の秀逸さを誰にも引けをとらないほど畏怖している。

 れんだいこは、何故「元の理」に拘るのか。それは、西欧的思弁的知性とは別系の東洋的日本的知性の知恵を感ずるからである。人の生きる目的を尋ねて延々と思索の道に分け入るのは自由ではあるが、日本的知性は割合と早くに見限って、むしろ授かった生命の燃焼の仕方の方に価値を見いだしていた観がある。何事も寿命との相談として、寿命の折節でのパフォーマンスを重視しているように思う。結構な知恵であり分別ではなかろうか。

 「元の理」の効能はそれに止まらない。21世紀の人類が陥っている悲劇に対して、みきの諭した「元の理」こそ救済になっているのではないかと思うからである。それは、この世にもしサタニズム論理とそれを信奉する勢力が邪悪な意思で地球及び人類改造を企図しているとするなら、「元の理」」こそそれを覆す論理と知力と運動のつまりは理論的且つ実践的な生命力を持っているのではなかろうかと思うからである。これが、初期の天理教教団が弾圧された真の理由ではなかろうかと思っている。

 そのような内容を持つ「元の理」について詳しく知りたければ教義原型『元の理』で考察しているので、興味のある方は読まれてみるが良い。今日のものは無論、将来の科学でも跡付けられない、しかし何れの日にか凄いと判明させられる超科学的教説であるように思っている。江戸幕末に突如登場した一介の主婦中山みきは、知る人ぞ知る知らぬ人は知らない天理教教祖であるが、彼女の叡智が世界的に賛辞される日が必ずやって来るだろう。

 さて、ここで「十五夜お月さんの論理考」に戻る。れんだいこは、「元の理」話しが真実であろうがなかろうが、全く害のない有益至極な理念話しであり、然しながらその思想は深いと思っている。科学的社会主義屋の精神からは何の意味もない「元の理」譚ではあるが、「十五夜お月さんのおとぎ話し」を大人版にしたものと拝することができ、その効能は絶大と評価絶賛している。とりわけて、地球文明的危機を迎えている21世紀に於いては、その混迷を打破する有り難い指針書足りえているのではないかと思っている。パレスチナの悲惨と中近東の騒乱悲劇を思うたびに、双方が「元の理」の精神で親和する以外に解決しないのではなかろうかと案じている。その他その他然りである。

 ここまで述べれば、「十五夜お月さんの論理考」はほぼ完結である。後は、気ままに肉付けしていくことにする。

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「十五夜お月さんの論理」についてその2

 「十五夜お月さんの餅つき話には害がない」という良さがあることを既に指摘した。ところで、「十五夜お月さんの餅つき話」は確か短文であるが、これがもう幾分か肉付けされたり、ストーリー化されてそこそこの長文になった場合はどうなるのだろう。しかもそれが結構面白い話になっていたとしたら。ついでに、面白いだけでなく為になる話が満載されていたらどうだろう。懲らしめでもなく、権力者への迎合でもなく、安逸な立身出世物語でもなく、我々の人生とか世の中の仕組みとか今後の歴史の流れとかについて啓発的な物語になっていたとしたらどうなるか。

 科学的社会主義屋は、これを荒唐無稽として罵詈雑言するのだろうか。アポロの話を持ち出して否定に躍起になるのだろうか。仮にそうなるとしたら、その姿勢を批判したいというのが、れんだいこが「十五夜お月さんの餅つき話考」を書きつけてみたいと思うようになった動機である。もし、マルクス主義者にして、科学的社会主義屋の如きアポロ話を持ち出す者が居たなら、その人はマルクス主義の何たるかを根本的に理解し損なっていると思う。

 なぜか。それは、有り得べきマルクス主義の根幹には世界の社会主義的改造へ向けての「十五夜お月さんの餅つき話」的童話性があるからである。そういう感性まで含めて理論化しているのがマルクス主義であり、童話性を排除した科学的社会主義屋の如きな教説は何らマルクス主義のものではない。干乾びた現実を客観的に筆で晒したからといって、それだけでは所詮二束三文的な値打ちにしかならない。しかし、この理屈が分からない分かろうとしないマルクス主義屋が多い。

 考えても見よう。マルクス主義的未来社会論は、「十五夜お月さんの餅つき話」にある童話性と相似していないだろうか。典型的には、「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となるような、一つの協働体としての社会主義社会」、「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて受け取る共産主義社会」なる概念であるが、これは人類が深く願望するユートピアそのものではなかろうか。

 マルクス主義に宿るこのメルヘン気分を理解せず、マルクス主義的ユートピア教説のあれこれを批判して得意がっている者が多い。そういう御仁は、己の能力の甲羅に合わせて潜り込んでいる亀が己の甲羅を自賛しているに過ぎない。肝心なことは、その御仁の甲羅の特性である。まだしもそれが開放系のものになっておれば良いのだが、排他的独善的なものになっていたら始末が悪い。

 れんだいこは、このような甲羅主義者も科学的社会主義屋も好まない。なぜなら、現実から何を期待しようとするのか、変革するのかについて夢がないからである。人は一般に、金銭欲、異性欲、見栄、名誉、権力を求める。この五欲はそのどれ一つとっても生涯を通じて叶えるのに困難なものであるが、だからといってこの五欲に没頭すれば良いのかというと、やはり味気なさが残る。

 能うるならばむしろ、この五欲はちょぼちょぼで良いのだ。但し、このちょぼちょぼさえ困難な社会情勢に於いては第一に闘う精神、気概を養うべきだ。その際には、自己奮闘と社会変革とを不即不離に捉えて合一せねばならない。陽明学という学問があるが、その精髄はそのようなことを述べている点で卓見である。我々は、その過程で同類を寄せ集め、苦しみを分かち合いつつ助け合うべきだ。

 しかし、それは第一歩であり、そこから先「十五夜お月さんの餅つき話」に向かわねばならない。五欲は自己目的すべきものではなく、願うならば人はかくあるべし論を持たねばならない。その話が荒唐無稽ならば何度も書き直して然るべきものに書き換えればよい。いずれにせよ、「十五夜お月さんの餅つき話」が不要ということにはならない。人はこれを大義とも云う。この大義がなければ味気ないのが人間の性(さが)でもあることが知られねばならない。大義とは、「錦の御旗」と云われるものである。「錦の御旗」の内実は局面局面でころころ変わるものであるが、この伝播性はかなり強く、それだけに疎かにすべきものではない。否、もっと磨くべき種のものである。

 考えてみれば、今の世の中は賢ぶるものが多すぎて「十五夜お月さんの餅つき話」が萎え過ぎている。しかし、それはおかしなことなのだ。歴史は、誰かのシナリオの「十五夜お月さんの餅つき話」が育まれ、時にそのシナリオ同士が相争いつつ、相互に味付けが為されつつ変遷してきていると思えるから。もし、今現在の「十五夜お月さんの餅つき話」が不満だとすれば、我々用の「十五夜お月さんの餅つき話」を対置して行けば良い。そうする必要があるのではなかろうか。それがいつか現実になる。これに経済的な裏づけとそれに基づく相互の人間関係の在り方を踏まえればより有効なものになるだろう。

 そもそも「十五夜お月さんの餅つき話」に耳を傾ける精神がなければ、この営為そのものが生まれてこない。故に、「十五夜お月さんの餅つき話」を銘々が創造せねばならない、読み合わせしてどんどん書き込んで書き直していかなければならない、これが「十五夜お月さんの餅つき話」にまつわるれんだいこの見解である。

 ところが、驚いたことに、この営為が不要という科学的社会主義屋の指導者がいる。青写真を作ると手足が縛られるだと。何というあきれ果てるべき御仁だろう。故に、この御仁の云うこと為すこと全体が干乾びている。膨大な文章を得意がって書きつける癖があるが、読んでも何がいいたいのかさえ分からない。あちこちが玉虫色でさっぱり要領が得ない。この手合いの口車に乗せられると、我々は次第に痴呆症患者の症状を呈することになろう。結局、思想性のない、何も思わず単に唯々諾々するだけのペット人間にされてしまう。この虚構を突破せよ。これがれんだいこが「十五夜お月さんの餅つき話」を語らざるを得ないゆえんである。

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「十五夜お月さんの論理」についてその1

 面白いことに気づいたので書きつけてみようと思う。「十五夜お月さんの餅つき話」を子供の頃に聞かされ、満月のお月さんを見ながら何とかして餅つきの図に読み取ろうとした記憶がある。見ようによればウサギが餅つきしているようにも見えた。少し違うなとも思いながらも。

 そのことの詮議をするのが本稿のテーマではない。1969.7.21日、米国製有人宇宙船アポロが初めて月面着陸に成功した。恐らく、地球上の隅々でテレビのあるところ人は釘付けになったと思われる。れんだいこもその一人であった。今日、「アポロの人類初の月面着陸映像はウソだった」論議も生まれているようだが、そのことの詮議をするのが本稿のテーマではない。

 れんだいこが思案して見ようと思うことは、あのアポロの快挙によって、それより後の人々に「十五夜お月さんの餅つき話」の伝承が萎えてしまったことを廻ってである。その功罪を問いたいというのが本稿の狙いである。こんなことを考える人は珍しいのかも知れないが、れんだいこは至ってマジに愚考している。この問いの奥は深いと考えている。

 今日、「十五夜お月さんの餅つき話」を真剣に語る者が居たとしたら、我々はお笑いで遇するだろう。しかし、当人がそれでも真剣に語り続けたとしたらどうなるのだろう。それも、「アポロの人類初の月面着陸映像はウソだった」という観点からでなく、それを史実として快挙と思い且つそれでも「十五夜お月さんの餅つき話」を語り続ける人が居たとしたら、我々はどう遇するべきか。要するに、今日の時点で、「十五夜お月さんの餅つき話」を語ることが罪なのか益なのか、という問になる。これについて、皆さんはどう思われるだろうか。れんだいこはこれを愚考しようとしている。そして、廻らした思案は次のようなものになった。

 「十五夜お月さんの餅つき話」は、今なお生命力を有している。というか、引き続き語り続けなければならない。それは何故か。一つは、想像力を掻き立てる為である。この想像力がなくば人生が面白くないと気づく故にである。この想像力は、よしんば科学の知見と齟齬しても、独立して成り立つべき脳内占有権を持ってしかるべしと思う故にである。むしろ、科学が脳内から想像力の座を狭めるのなら、それは科学の行き過ぎと思う故にである。というか、科学自体には罪はないのかも知れないので、科学的知見を受け止める我々の弁えについて、どこか至らないところがあるのではないかと思う故にである。

 むしろ、最近の科学万能社会は、これをどの範囲で受け入れるのか明らかにするよう、我々に迫っているのではないのか。このことを顧慮せず、我々が科学万能社会に追随することはむしろ危険なのではないのか。考えてもみよう。科学は常に発展途上である。現在から過去を見れば、過去の時代とは何と科学的知識の不足していた時代であったことよと思うであろう。今現在も後世からすれば過去であり、その後世という未来から見れば、今現在は何と科学的知識の不足していた時代であったことよと思うであろう。科学とはそういうものであろう。時代とはそういうものであろう。

 だから、科学万能社会論は何一つ物事を解決しない。その時代の知見というものがひけらかされているに過ぎない。そう認識すべきではなかろうか。もっとも、この知見が過去の誤謬を訂正するとすれば、その際の有益さは論をまたない。但し、それを常に限定的に語るべきで、科学という名を被せれば、それで万事解決済みという如意棒にはならないという弁えを持つべきだ、ということが云いたい訳である。

 科学という名を被せて優越に浸るなどは云い得云い勝ちの子供騙しの論であるに過ぎない。単に言葉に酔っているだけの、言葉に弱い系の人種間に通用する独善議論作法でしかあるまい。具体的に誰のことを指して云っているのか、本稿の品を落とすので差し控えておくことにする。

 さて、科学主義論のことはこれぐらいにして、「十五夜お月さんの餅つき話」に戻そう。「十五夜お月さんの餅つき話」には、極め付きの善さがある。このことが知られねばならない。どういう意味かというと、幼児、子供向けの童話ないしおとぎ話と比較してみれば分かるが、中にはかなりキワモノのものも多い。正直の善さを説くのに懲らしめが代償されていたり、希望を持つよう説くのに、それが安易に時の権力者に見初められるだけの話であったり、親孝行説くのに金銀財宝を暴力的に取ってくるだけの話であったりする構図のものが多い。

 それを思えば、「十五夜お月さんの餅つき話」には害がない。むしろ、月面を眺めて、ウサギが石臼と杵と相和して突き合う姿の想像を掻き立てるうちには、何ともいえない妙味さえあるというべきだ。れんだいこは、人生に於いてこの妙味の部分をもっと大事にしたいと考えている。月面に実際にウサギがいなくても構わない。居たとしたらという仮定で思いを練り、それに害がなければ十分に検討されるに値する話だとする姿勢を持ちたい。以上が、れんだいこ式「十五夜お月さんの餅つき話」の前段になる。さて、これからが値打ちものになる。乞うご期待。

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2012年9月15日 (土)

お知らせ ツイッターの調子が悪い。書き込み不能です。

 れんだいこのツイッターの調子が悪い。「このスクリプトの実行を中止しますか?」と出てしまう。これを消すのも大変で相当の時間がかかるという按配です。当方のパソコンの調子が悪いのならお笑いだな。れんだいこの呟きが気に入らなくて制限されているのなら光栄だな。今はどちらか分からない。とりあえずのお知らせです。

 今日、書きたかったのは、自民党代表選がマスコミに贔屓(ひいき)されているのは事実として、それを報じたNHKを批判するのは違うと思う。むしろ民主党代表選が同じように扱われない不正を咎めるべきだろう。ところが、どうも民主党の方から売り込みを控えている気配が濃厚である。それは立会演説会の少なさで分かる。正確な数は知らないが、自民党が仮に19回として民主党は3回だとか。

 これは一体何を物語るのだろう。鳩山、菅、野田の政治お遊び派は、2009衆院選までは政権交代を訴え、現実に圧倒的議席差で政権取ると早く放り出すよう、上から反革命していると云う無茶苦茶な政治をしている。2009衆院選時のマニュフェストの誰もが異存ない高速道路の全日無料化は結局反故にされてしまった。自公時代の土日祝日無料化さえ中止させられている。ガソリン税の公約違反徴収で財源は確保されたと云うのに、それでも施行しない。民主政権派はマニュフェストは概ね守って居ると居直るがウソつくなこの野郎。消費税増税については論ずるにも値しないので触れない。

 もとへ。民主党政権が上からの反革命で政権のみならず民主党そのものを潰そうとしている意図は何か。小沢派が抜けた今、何も魅力はないのだが、それにしても議員一族郎党が路頭に迷うこと必至のこの愚策は何によってもたらされているのか。これを考えねばなるまい。尋常ではないと云うことである。

 ツイッターがダメになればブログがある。回復するまで暫くの間、ブログで呟くことにする。

 2012.9.15日 れんだいこ拝

 

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