« 「十五夜お月さんの論理」についてその1 | トップページ | 「十五夜お月さんの論理」についてその3 »

2012年9月20日 (木)

「十五夜お月さんの論理」についてその2

 「十五夜お月さんの餅つき話には害がない」という良さがあることを既に指摘した。ところで、「十五夜お月さんの餅つき話」は確か短文であるが、これがもう幾分か肉付けされたり、ストーリー化されてそこそこの長文になった場合はどうなるのだろう。しかもそれが結構面白い話になっていたとしたら。ついでに、面白いだけでなく為になる話が満載されていたらどうだろう。懲らしめでもなく、権力者への迎合でもなく、安逸な立身出世物語でもなく、我々の人生とか世の中の仕組みとか今後の歴史の流れとかについて啓発的な物語になっていたとしたらどうなるか。

 科学的社会主義屋は、これを荒唐無稽として罵詈雑言するのだろうか。アポロの話を持ち出して否定に躍起になるのだろうか。仮にそうなるとしたら、その姿勢を批判したいというのが、れんだいこが「十五夜お月さんの餅つき話考」を書きつけてみたいと思うようになった動機である。もし、マルクス主義者にして、科学的社会主義屋の如きアポロ話を持ち出す者が居たなら、その人はマルクス主義の何たるかを根本的に理解し損なっていると思う。

 なぜか。それは、有り得べきマルクス主義の根幹には世界の社会主義的改造へ向けての「十五夜お月さんの餅つき話」的童話性があるからである。そういう感性まで含めて理論化しているのがマルクス主義であり、童話性を排除した科学的社会主義屋の如きな教説は何らマルクス主義のものではない。干乾びた現実を客観的に筆で晒したからといって、それだけでは所詮二束三文的な値打ちにしかならない。しかし、この理屈が分からない分かろうとしないマルクス主義屋が多い。

 考えても見よう。マルクス主義的未来社会論は、「十五夜お月さんの餅つき話」にある童話性と相似していないだろうか。典型的には、「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となるような、一つの協働体としての社会主義社会」、「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて受け取る共産主義社会」なる概念であるが、これは人類が深く願望するユートピアそのものではなかろうか。

 マルクス主義に宿るこのメルヘン気分を理解せず、マルクス主義的ユートピア教説のあれこれを批判して得意がっている者が多い。そういう御仁は、己の能力の甲羅に合わせて潜り込んでいる亀が己の甲羅を自賛しているに過ぎない。肝心なことは、その御仁の甲羅の特性である。まだしもそれが開放系のものになっておれば良いのだが、排他的独善的なものになっていたら始末が悪い。

 れんだいこは、このような甲羅主義者も科学的社会主義屋も好まない。なぜなら、現実から何を期待しようとするのか、変革するのかについて夢がないからである。人は一般に、金銭欲、異性欲、見栄、名誉、権力を求める。この五欲はそのどれ一つとっても生涯を通じて叶えるのに困難なものであるが、だからといってこの五欲に没頭すれば良いのかというと、やはり味気なさが残る。

 能うるならばむしろ、この五欲はちょぼちょぼで良いのだ。但し、このちょぼちょぼさえ困難な社会情勢に於いては第一に闘う精神、気概を養うべきだ。その際には、自己奮闘と社会変革とを不即不離に捉えて合一せねばならない。陽明学という学問があるが、その精髄はそのようなことを述べている点で卓見である。我々は、その過程で同類を寄せ集め、苦しみを分かち合いつつ助け合うべきだ。

 しかし、それは第一歩であり、そこから先「十五夜お月さんの餅つき話」に向かわねばならない。五欲は自己目的すべきものではなく、願うならば人はかくあるべし論を持たねばならない。その話が荒唐無稽ならば何度も書き直して然るべきものに書き換えればよい。いずれにせよ、「十五夜お月さんの餅つき話」が不要ということにはならない。人はこれを大義とも云う。この大義がなければ味気ないのが人間の性(さが)でもあることが知られねばならない。大義とは、「錦の御旗」と云われるものである。「錦の御旗」の内実は局面局面でころころ変わるものであるが、この伝播性はかなり強く、それだけに疎かにすべきものではない。否、もっと磨くべき種のものである。

 考えてみれば、今の世の中は賢ぶるものが多すぎて「十五夜お月さんの餅つき話」が萎え過ぎている。しかし、それはおかしなことなのだ。歴史は、誰かのシナリオの「十五夜お月さんの餅つき話」が育まれ、時にそのシナリオ同士が相争いつつ、相互に味付けが為されつつ変遷してきていると思えるから。もし、今現在の「十五夜お月さんの餅つき話」が不満だとすれば、我々用の「十五夜お月さんの餅つき話」を対置して行けば良い。そうする必要があるのではなかろうか。それがいつか現実になる。これに経済的な裏づけとそれに基づく相互の人間関係の在り方を踏まえればより有効なものになるだろう。

 そもそも「十五夜お月さんの餅つき話」に耳を傾ける精神がなければ、この営為そのものが生まれてこない。故に、「十五夜お月さんの餅つき話」を銘々が創造せねばならない、読み合わせしてどんどん書き込んで書き直していかなければならない、これが「十五夜お月さんの餅つき話」にまつわるれんだいこの見解である。

 ところが、驚いたことに、この営為が不要という科学的社会主義屋の指導者がいる。青写真を作ると手足が縛られるだと。何というあきれ果てるべき御仁だろう。故に、この御仁の云うこと為すこと全体が干乾びている。膨大な文章を得意がって書きつける癖があるが、読んでも何がいいたいのかさえ分からない。あちこちが玉虫色でさっぱり要領が得ない。この手合いの口車に乗せられると、我々は次第に痴呆症患者の症状を呈することになろう。結局、思想性のない、何も思わず単に唯々諾々するだけのペット人間にされてしまう。この虚構を突破せよ。これがれんだいこが「十五夜お月さんの餅つき話」を語らざるを得ないゆえんである。

|

« 「十五夜お月さんの論理」についてその1 | トップページ | 「十五夜お月さんの論理」についてその3 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1453913/47148530

この記事へのトラックバック一覧です: 「十五夜お月さんの論理」についてその2:

« 「十五夜お月さんの論理」についてその1 | トップページ | 「十五夜お月さんの論理」についてその3 »