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2012年10月

2012年10月12日 (金)

【「文系頭脳の原発批判論」その6、国際ユダヤの悪徳商法そのものとしての原発利権を弾劾せよ

 れんだいこは既に脱原発に向けての論考「文系頭脳の原発批判論」を№1から5まで発信している。

 れんだいこの「文系頭脳の原発批判論」

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/jicojikenco
  /2011sanriku/bunkeizunonogenpatuhihanron.html)

 本論考で世の迷蒙を撃ったつもりでいるが、原発利権族の蠢動が止まらない。批判の舌鋒がなお足りなかったと反省し№6を添えることにする。我々はなぜ脱原発に向かわなければならぬのか。その科学的地球環境的文明的批判は既にかなり為されているので、本稿で未だ為されていないと思われる反ユダヤ主義観点を付け加えることにする。

 2012年10月現在、日本政界の保守系政党と財界は、福島原発事故の後処理がままならぬ最中に於いて原発続投を掛け声している。民主党政権は「2030年脱原発」を掲げているが、脱原発に力点を置いているのか、2030年までの引き延ばしを画策しているのか態度が曖昧である。れんだいこには、引き延ばしの方に重点があるように見える。我々はそろそろ日本の政財界を覆う原発続投が何に起因するのかを問わねばならないのではなかろうか。

 既に原発続投派のロジックは至るところで破綻している。原発なしに電力の安定供給が覚束ないと云うのであれば、何故にドイツでは2022年までに原発ゼロを目指すことが可能なのかを問わねばならない。ニュージーランドはかなり早くより脱原発国家になっており今日では脱火力さえ目指す先進エコエネ国家になり得ているが、なぜ可能なのかを問わねばならない。既に原発登場時に比してエコエネ技術の発展が目覚ましく、官民共同総力で取り組めば脱原発は案外と容易なのではなかろうか。然るに何故に執拗に原発続投が画策されているのか、これを問わねばならない。

 出て来る解は、国際金融資本の圧力である。それしか考えられない。では国際融資本とは何者か。これを簡略に説明すれば要するに、近現代史を操る裏世界政府だと思えば良い。そのようなものが存在するのか、実体があるのか。こう問うこと自体が封印されている。世に云う陰謀論批判がこれを援護射撃している。しかしながら、この禁断の扉を開けて見えてくるのは然りの解である。但し、この解は論者によって色々に語られる。ここに大田龍が登場する。大田龍は丹念な歴史考証によって裏世界政府の正体を明かした。それによると、近代史に於いて西欧諸国家を金融コントロールすることで財を為したロスチャイルド系国際金融資本を頂点とする財閥及びその閨閥が裏世界政府の実体であると。本当にそのようなものが存在するのか。れんだいこは然りと答える。

 日本は永らくの間、極東の小さな島国として、ロスチャイルド系国際金融資本を廻る西欧史的抗争に巻き込まれることなく経緯して来た。西欧史的な抗争の扉が最終的に開かれたのは1853年の黒船来航と翌年の日米和親条約によってであり、その後も国際金融資本特有のスティルス的間接支配により捉えにくい為に連中の策動を認め難いのであろうが、西欧史の戦争と革命の動乱史、世界分割植民地史を紐解けば一目瞭然である。極東の小さな島国の日本の常識で測っていては真相が見えないだけのことである。かく自覚せよ。

 もとへ。原発は国際金融資本の生み出した発電装置であり、元々は原子爆弾に由来する。第二次世界大戦後、原発の爆発エネルギーの電力化として生み出されたものが原発である。その際頻りに平和的利用が云われたが原義は平和にあるのではない。軍事用の原子爆弾を非軍事的に利用すると云う意味での平和的利用に過ぎない。そういう意味で、便宜的用語として平和が冠せられたものに過ぎない。原発導入時、原発が果たして平和的なものであるのか、正しい冠詞であるかどうかの詮議が必要なところ、その論議は封殺された。アインシュタインを始め多くの原発学者が原爆の平和的利用はあり得ない、そもそも稼働中の危険、有害物質排出、最終核廃棄物処理の不具合を指摘し未完の科学でしかないとして強く反対したのは衆知の通りである。これらの危惧を封印して無理やりに生み出されたのが原発である。原発誕生経緯のこの不正を再確認せねばなるまい。

 原発はあろうことかその後、地球環境汚染が云われ始めるや安全クリーンエネルギーとして喧伝され始めた。この時も、原発が本当に安全クリーンエネルギーなのかどうかの詮議は為されなかった。表面的な石炭、石油の化石燃料に比しての排出ガス量の比較でのみ、これを排出しない原発の優位性を誇ったものに過ぎない。学問が本来の学問であれば、化石燃料的ガスを排出しない原発固有の長所と環境を放射能汚染し続け且つ最終核廃棄物の処理ができて居ない短所とを比較検討し、石炭、石油その他燃料との総合比較をせねばならぬところ、有利な一指標でのみ測り、安全クリーンエネルギーとして喧伝したに過ぎない。

 れんだいこが注目するのは原発推進勢力のこの詭弁(きべん、sophism)である。この論法、論理はどこかで聞き覚えがある。敏(さと)い読み手は気づくであろうが、西欧圏世界でその昔にイエスが論争したパリサイ派の論法、論理そのものである。かの時、イエスは、パリサイ派の神義学の不正と虚偽を論難し抜いた。「神の名を騙りながら神を欺く不敬の輩」としてパリサイ派教義を論駁し抜いた。本稿はこれを確認するものではないので割愛するが、イエスがパリサイ派の信仰を人類の厄病神信仰、悪魔主義信仰であるとして批判したことを結論的に共有したい。

 但し、イエスの論難をもってしてもパリサイ派を排撃できなかった。否排撃されたのはイエスの方であった。但し、イエスの論難は捻じ曲げられた形でキリスト教へと転化させられ、西欧諸国家はキリスト教国家として秩序形成して行くことになった。西欧史ではこの時代を中世と云う。その間、パリサイ派は雌伏を余儀なくされた。但し、したたかに歴史に生き延びた。そのパリサイ派が台頭し西欧圏で猛威を振い始めるのが近代である。この流れが現代へと続いており今日へと至っている。これを逐一論じると紙数を増すばかりなので割愛するが、要するにパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰はロスチャイルド系国際金融資本の教義となり、ロスチャイルド系国際金融資本は、この教義を元に今も世界を造形しつつ裏世界政府となって各国を支配していると云う認識を持ちたい。国際金融資本が頭脳であり、パリサイ派の教義がイデオロギーである。

 かく踏まえた次に確認せねばならないことは、原発とロスチャイルド系国際金融資本の関連性である。れんだいこは、原発はパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰がもたらした悪魔科学の産物であると認識している。かような禁断科学に手を染めること自体がパリサイ派教義の為せる業であり、世界広しと雖もパリサイ派以外には見当たらない。パリサイ派教義の賜物としては他にも軍事科学がある。まさに軍事科学と原発科学とはパリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰がもたらした双頭の鷲である。かく認識したい。

 パリサイ派、現代国際金融資本が何故に原発と軍事科学に飛びつくのか。これを興味ある論考課題である。本稿は、これを論証するものではないので結論だけ記すとすれば、要するに典型的なユダヤ商法であり、その旨味(うまみ)が手を染めさせていると云わざるを得ない。ユダヤ商法とは手っ取り早く巨額に儲け、後は野とななれ山となれで、食い散らした後は別天地で稼げば良いとする乱攫式金貨思想を得手としている。原発と軍事科学がこの商法と相性が良い。故に原発と軍事科学ほどパリサイ派、現代国際金融資本のらしさを具現するものはない。

 例えばこういうことである。イージス艦1艦、原発1基の建造コストが共に約1兆円で単体として巨額である。これに一取引当たり数千億円の利権が絡んでおり、故にこれに群がることになる。それによる被害者達が発生するとして彼らは寸毫も顧慮しない。彼らの眼(まな)差しは虐待的で、ユダヤ民族以外は犬猫畜生類に等しいゴイムに他ならないとする選良主義、その裏返しとしての家畜主義に基づいている。要するに「神の特別の恩寵に預かる民」以外には悼みを感じないように育てられている。その根源にあるものは、一宿一飯の温情に対して義理を感じるのではなく逆に恩を仇で返す悪知恵であろう。これを幼児より仕込むと云う特殊な教育を良しとして誇っている。

 れんだいこが原発に思うのは、そのような悪魔主義性である。このようなものは幾ら目先に便宜であっても利用してはいけない。このようなものが地球のあちこちに敷設されるのはまことに人類の危機であり、麻薬的薬物中毒の千倍万倍の申し合わせで警鐘乱打せねばならない代物である。2010.3.11福島原発事故は、そういうユダヤ商法に対する根本的疑義を差し挟む契機にせねばならない。これを文明史的に見れば、パリサイ派の厄病神信仰、悪魔主義信仰のもたらした双頭の鷲の片方である原発政策からの一刻も早い撤退を促すべく警告する事案となって突きつけられているということである。福島原発事故は脱原発への好機であり、日本及び世界の神々の人類への警告と拝することができる。

 こう理解するのが普通ではあるまいか。これを逆に云うと、今なお原発続投、原発再開に固執する者は根深いパリサイ派信者と云うことができる。現代国際金融資本に飼いならされ、立身出世と引き換えに御用聞きが契約義務化させられている雇われに過ぎない。こういう連中との対話は徒労であるが一応はせねばなるまい。彼らが強権で原発を押し付けてくるならば力づくで放逐する以外にはない。世界からパリサイ派が放逐されれば世界は如何に平和的になれることだろうか。原発は、原発のみに止まらぬこういう文明史的設問を投げかけていると云わねばなるまい。

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2012年10月 3日 (水)

田中角栄の妻及び愛人との絆考

 一般に、人を評するには、当人が言っていることよりも為していることに注目すべきだろう。しかもそれを凡そ10年ごとのスパンで長期に亘って追跡すれば自ずとその人の人となりが浮き彫りになって来る。人の言説は平素の饒舌で測るものではない。ここ一番のいざ鎌倉の肝腎の時の言動で捉えるべきである。現代人は、昔の人が持ち合わせていたこういう秤(はかり)を忘れて、平素の無責任な饒舌で善人悪人、敵味方、能力を測ると云う貧困な知性を披歴している。

 れんだいこも含めて或る人を測るには、昔の人の秤で天秤にかけた方が賢明であるように思われる。その上で、貫目を測る為の表ワザ、裏ワザを使うべきである。表ワザとは、対象とする人の本業としての仕事ぶり、その際の能力を観察することである。裏ワザとは、対象とする人の血筋(血統)、妻子関係、愛人関係を観察することである。付録ワザとして気質、人格、学歴、趣味、読書、性癖の傾向等を観察することである。

 以上を前置きとして、ここで、田中角栄の妻及び愛人との絆について考察してみる。興味深い田中角栄の人となりが判明するからである。思いつくままに記すので、正確には今後書き直したり付け加えたりすることにする。只今はスケッチとして書き遺しておく。

 角栄は、1942(昭和17) 年3月3日、24歳の時、家主の娘・坂本はな(八十子、以下「ハナ」と記す)と結婚している。ハナは当時31歳で、角栄より8歳年上であった。且つ離婚歴があり9歳になる女の子を連れ子として云わば出戻りしていた。角栄は、ハナのつつましやかな挙動と、内に秘められた芯の強さに惚れ結婚することになる。このハナが糟糠の妻となる。

 興味深いことは、結婚時、次のような「三つの誓い」をさせられたと伝えられていることである。それは、「一つ、出て行けと云わぬこと。二つ、足蹴にしないこと。三つ、将来、角栄が二重橋を渡るときは彼女を同伴すること。その三つを守ってくださるなら、それ以外のことについては、どんなつらいことにも、耐えてついていきます」。この約束が角栄夫婦の契りとなった。

 何気なく見落としてしまうが、「三つの誓い」の中に、「将来、私が二重橋を渡るときは彼女を同伴すること」とあるのをどう理解すべきだろうか。当時、角栄は、飯田橋2丁目にあった建築業者坂本氏の家の一部を借り受け田中建築事務所を開設して半年足らずの頃である。いくら新進気鋭の建築家として頭角を現しつつあったとしても、その角栄が将来「二重橋を渡る」などと発想すること自体、ハナ以外には誰も予想し得なかったであろう。

 これを逆に云えば、ハナは、8歳年下の角栄に何を認めていたのだろうか。どこにそのような片鱗があったのだろうか。女性の直感が恐ろしいにしても、24歳の建築家の駆け出しを「将来、二重橋を渡る人」と見染めたハナの予知能力は異能過ぎよう。この予知能力が当るのだから歴史は面白過ぎる。

 角栄夫婦の間には、この年の11月、長男・正法が誕生している。1944(昭和19) 年、角栄26歳の時、長女真紀子が誕生している。こうして1男1女を授かったが、長男・正法は1947(昭和22)年、5歳で死亡している。この時、角栄は次のように述懐している。

 「その時に俺はしみじみと考えたんだ。妹の時にしろ、長男の時にしろ、後に残った自分が、いつも十分なことをしてやれなかったという悔いを感じた。生きているうちに家族にも、友人にもできるだけのことをしてやりたいという気持ちが一層強くなった。人の為になるように生きたいと思った」(戸川猪佐武「君は田中角栄になれるか」)。

 後に、幹事長時代の年少当選組の小沢一郎を見て正法を彷彿とさせ、以降、手塩にかけて育てたのは有名な話である。他にも当選組はあまたいたが、角栄は小沢一郎に何を見染めたのだろうか。こういうところも興味深い。

 もとへ。角栄は、生涯この「三つの誓い」を守る。但し、気づくことがある。普通の夫婦がする如くの「浮気はしない」なる誓いがないことである。これもハナの凄いところであろう。ハナは、男の浮気については別の物差しを持っていたようである。事実、「三つの誓い」の中に浮気禁止項目がないこともあってか、角栄はこの方面でも約束を守る。それはあたかも男の甲斐性としていた感がある。ちなみに、ハナの連れ子の子育てについても角栄は十分な配慮を見せ隔てなく育て上げている。これについての詳細は略すが、この親ワザもできそうでできないのが世の常であることを考える時、立派と評すべきだろう。

 角栄はその後、ひょんな機縁から政界入りする。建築家としての業績は順風満帆であり、以降暫くの間、二足のわらじを履くことになる。但し、次第に政界で頭角を現し始め、政治家稼業に一本化することになる。党の要職履歴は次の通りである。

 1957年、39歳の時、岸内閣で郵政大臣に就任、戦後最年少大臣となる。1958年、40歳、自民党党紀委員、党新潟県連会長に就任。1959年、41歳、自民党副幹事長に就任。1961年、43歳、池田内閣で自民党政調会長に就任、初の党三役入りする。1962年、44歳、大蔵大臣就任。この時大平が外務大臣となり田中-大平コンビが誕生している。1963年、45歳、大蔵大臣留任。1964年、46歳、佐藤内閣で大蔵大臣留任。1965年、47歳、自民党幹事長(1期目)に就任。1966年、48歳、幹事長留任(2期目)。但し一連の政界黒い霧事件で川島副総裁と共に幹事長を引責辞任する。1967年、49歳、自民党都市政策調査会長に就任。1968年、50歳、自民党米価調査会会長に就任。日本列島改造論の原型である「都市政策大綱」を発表。自民党幹事長に再度就任(3期目)。1970年、52歳、自民党幹事長に留任(4期目)。自民党代表選で佐藤首相が4選され自民党幹事長に留任(5期目)。1971年、53歳、参院選敗北の責任を取り幹事長辞任。通産大臣に就任。1972年、54歳、田中派旗揚げ(衆院40名、参院41名)。「日本列島改造論」を発表。第64代内閣総理大臣に就任。1974年、56歳、2年余886日間の政権の座から降りる。

 この間、角栄は、二人の愛人を囲っている。一人は元神楽坂芸者の辻和子、もう一人は越山会の女王と評された佐藤昭子である。辻和子は、「熱情ー田中角栄をとりこにした芸者」(講談社、2004年)、佐藤昭子は「私の田中角栄日記」(新潮社、1994年)、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」(経済界、2005年)を著している。それぞれに何人の子がいるかと云う下世話な話しはさておき、注目すべきは、この二人の女性が、著書の題名からも窺えるように終生、田中角栄を支持し抜いて生を全うしたことである。

 この角栄を取り巻いたハナ、辻和子、佐藤昭子の3人は、角栄の権勢絶頂期に奢り昂ぶる訳でもなく、角栄の失意期に手のひらを返す訳でもなく、終生、角栄との絆を大事にした。ロッキード事件以降の角栄バッシングの喧騒下、ハナは妻であるからともかく辻和子、佐藤昭子には相当の圧力が掛かり悪意の利益誘導があったと推定できる。

 しかし見よ。この貴婦人は貴婦人たる誇りをも秘めてやんわりと峻拒し、返す刀で角栄との絆を大事に添い遂げた。こういう場合、この貴婦人が偉いのか、そもそもそういう女性を見染めていた角栄が偉いのか。恐らく双方が偉くて成り立つドラマであろう。くどくど述べないが世の社会事象とは一味違う絆を見る思いがするのは、れんだいこだけだろうか。

 2012.10.3日 れんだいこ拝

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