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2012年11月22日 (木)

角栄とは何者だったのか、「角栄票はどこに流れたのか追跡調査」考

 田中角栄とは何者だったのか、どう評するべきかにつき、その左派資質と傾向について注目し言及しているのは、今のところれんだいこの独壇場の感がある。本稿は、これを補足するものである。

 付言しておけば、れんだいこは、角栄を左派的に見るのを通り越して、縄文人的叡智の霊能者の一人と見なしている。系譜的には出雲王朝の大国主の命の現代版と位置づけている。早坂秘書はスサノウの命になぞらえていたが半端である。日本古々代史の知識不足のせいで、早坂秘書の真意は大国主の命の系譜であることが云いたかったのではないかと思っている。早坂秘書が、スサノウの命になぞらえる形で縄文人的叡智の霊能者の一人として角栄を見なしていた観点が慧眼であったと思っている。

 もとへ。小林吉弥氏が著作「角栄一代」の冒頭で、「『革新政治家』だった角栄」として衝撃的な記事を掲載している。角栄の政界引退後の新潟3区の約18万の角栄票の流れを追っている。その追跡により主として社会党に流れたことを明らかにしている。

 角栄は、1985(昭和60)年、竹下らの創政会発足直後、脳梗塞で倒れ入院。言語障害や行動障害が残り、以降政治活動が不可能になった。1989(平成元)年、娘婿の直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表した。迎えた1990(平成2).2.18日の総選挙で、事前の予想に反して社会党の新人・目黒吉之助氏が9万4107票でトップ当選した。自民党前職の渡辺秀央が7万2263票で2位、同じく自民党前職の星野行雄が6万9832票で3位、同じく自民党前職の桜井新6万6860票で4位、同じく自民党前職の村山達雄が6万4468票が5位、社会党前職の坂上富男は次点に泣いた。この結果は、角栄票が自民党よりもより多く社会党シンパシーの者達に支えられていたことを証左していると分析している。

 この分析を更に補強してみたい。史実的に見て、角栄は元々旧日農(日本農民組合)系に支えられて誕生した国会議員であり、この線が根強く保持されていた。「角栄票はどこに流れたのか追跡調査」はそのことを判明させたことになる。日農とは左派系の農民運動団体であり、戦後1947年に賀川豊彦や杉山元治郎らの指導者によって結成され、全国各地で起きていた小作争議を指導することで勢力を伸ばしていた。新潟は江戸時代から農民一揆が少なからず起きていた土地柄であったから日農運動が浸透し易い素地があり、新潟三区では戦後初の選挙から社会党系の候補が常時2名ないし3名当選していた。

 戦後の普通選挙制を見て代議士を目指すことになった角栄は、最初は進歩党から立候補し落選、次に民主党から立候補し当選したが、その政治理念は「民主政治と経済復興による国家の廃墟からの再建」であり、農地改革後の日農運動の利害ともほぼ一致していた。こういう土壌の一致によってか、戦前からの農民運動の闘士で、何度も警察に逮捕されていた経歴を持っており、当時の地元の日農運動を指導していた社会党の三宅正一代議士に目をかけられ、選挙戦のイロハから教えを受けている。以降、角栄と三宅は互いに心を許し且つ畏敬し合う関係になった。三宅が落選して以降は終生に亘って、三宅の知らぬまま生活の面倒を見ると云う美談を遺している。

 角栄の代議士生活が順調に歩を進めるに連れて、やがて日農指導者が各地に越山会を結成し核となっていった。農民運動の闘士たちは、「飯も食えない、子供を大学にも出せないという悲しい状態を解決するのが政治の先決だ」という角栄の発想に共鳴し、越山会のリーダーとなりエンジン役になっていった。日農のリーダー等は、「政治家としての筋は今ひとつ分からぬが仕事はできる」、「オイ、あの田中ってのは若いがなかなか見どころがあるぞ」、「田中は面倒を見てくれる」と角栄を評価し、以降の政治行動を一蓮托生にさせていった経過がある。

 その好例が江尻勇・氏の例である。江尻氏は、ニ田村役場に勤めていたが、戦後間もなく戦争事務を執っていたという理由で役場を辞めさせられた。日農系の社会党代議士となっていた三宅正一の応援に回ったが、1951(昭和26)年頃、角栄と話しをする機会があり、「あんたは社会党をどう考えているのか」と詰問したところ、角栄は顔を真っ赤にして、「バカな。社会主義では、これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」。角栄の放つオ―ラに負けたのか、これを機に江尻は社会党から離れ、以降40年に及ぶ歳月を角栄一辺倒に捧げ、地元刈羽町の越山会会長として殉じ、町長になる。平成元年10月の田中引退に合せて、30余年にわたった町長職を辞している。

 平石金次郎もその好例である。平石氏は岩塚製菓の創立者であるが、元々熱心な社会主義者であった。戦後の混乱期を社会党の応援に奔走するが、社会党議員は理念は語るが具体策を持とうとせず、そうしたスローガン一辺倒主義の空理空論に失望し、「理屈をこねるより今日喰う飯が先だ」として越山会に入った。後に越路町(現越路市)の町長を務め、目白陳情に足しげく通うことになる。

 こういう検証をもっと丹念にしたいが資料が手元にないので、これ以上は分からない。恐らくもっとたくさん出て来ると思っている。衆知のように角栄は自民党の実力者として自己形成し、早くより頭角を現し、要職を経て遂に首相の座を射止める。その間の権力闘争に於いて角栄式の資金調達と分配を余儀なくされたところを評して、政権末期の頃から金権帝王、諸悪の元凶として評され始め、やがてロッキード事件でトラ挟みに遭う。ロッキード社よりの5億円贈収賄容疑を徹底否認し公判闘争に向かうが、その政治活動を大きく殺がれ、最終的に政治能力を封殺されることになったのは衆知の通りである。それは、れんだいこが評せば、国家的に見てあたら惜しい千年に一人の傑物の政治的絞殺劇であった。

 本稿を急きょ書きたくなったのは、小沢どんの政治能力と履歴がこれにダブルからである。もとより、小沢どんを角栄と比して角栄ほどには左派的ではないにせよ、大国主の命的超能力の持主とは思えないにせよ、共通して同じような日本原人的叡智の霊能者の風情が見て取れる。東北日高見の国の血筋を引いているのも頼もしい。れんだいこが、小沢氏を、西郷隆盛を除いては被せない小沢どんと評する所以の有能者にして且つ実直さがある。何より現代政治家の中で角栄の薫陶を受けた第一人者であることが頼もしい。それ故の迫害を蒙る訳であるが、一市井人ならいざ知らず政治家なら本望と云うべきだろう。この辺りのことが分からず国を売ってまで立身出世に汲々とする政治家ばかりの今日の方がオカシイと思うだけのことである。

 本稿の締めはこうなる。角栄は無論のこと小沢どんをも諸悪の元凶として評することで左派ぶるエセ左派が今も多い。賢明な者は既に耳目を洗って角栄を再評価し、その流れで小沢どんをも高く評価しているが、未だに頑迷な左派もんが多い。手前らが日本政治史上何の有益な貢献ができなかった癖に、壊れたテープレコーダーのように角栄と小沢どんを悪しざまに云うことで左派ぶっている手合いが未だに多い。れんだいこは、こういう手合いに漬ける薬を調合中である。未だ開発できていないが、そのうち世論の流れも変わるだろうと信じている。

 もとへ。その小沢どんが身命を賭して最後の大勝負に向かっている。この時、安上がりにして下手なイデオロギーを振りまわして立ち向かうようなことはなさらないで、願わくばオリーブの木に止まってくれるよう祈る。敵は多勢ながらオールニセモノばかりである。ワシントンへのお供えを競争している感がある。これに比すれば小沢どんを代表とする国民生活第一党は少数ながら真の愛国愛民派である。手を貸すとすれば小沢オリーブ以外にはありえまい。

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