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2013年1月31日 (木)

教条における「が」と「も」の違い考

 一般に思想の教条に於ける「が」と「も」の違いについて愚考してみる。これは、ネット検索で出くわした「狂おしく悩ましく」を早読みした時の感慨である。著者は元中核派の本部員であったようで、同派の内情を種々スケッチしている。れんだいこがオヤッと思ったのは「愛国民族主義問題」に於いて定説を持っていない様子に対してである。この問題についてはれんだいこも興味があり、「マルクス主義における愛国民族主義問題について」をものしている。

 「狂おしく悩ましく」」

http://blogs.yahoo.co.jp/hutagoyama_1/52737808.html

 「マルクス主義における愛国民族主義問題について」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/minzokumondaico/aikokushinco.htm

 例えばマルクス主義について確認すると、バイブルである「共産主義者の宣言」文中に「労働者は国家(祖国)を持たない」と云う言説がある。これにより日本マルクス主義運動においては新旧左翼問わず愛国主義、愛民族主義、国旗国歌(日の丸君が代)に反対の姿勢が導き出されている。しかしそれは「共産主義者の宣言」の文意における「労働者は国家(祖国)を持たない」が吟味されぬまま適用され過ぎているのではなかろうかと云う問題意識を介在させている。これにより「マルクス主義における愛国民族主義問題」が発生している。

 これを踏まえて、れんだいこは云いたい。「愛国民族主義問題」は未だ理論的に切開されていない。この問題においてはマルクスの言辞と雖も教条化すべきではない。そもそもマスクスのそれとエンゲルスのそれ、レーニンのそれ、トロツキーのそれ、スターリンのそれ、毛沢東のそれ、ホ・チミンのそれ、金日成のそれは微妙に違う可能性が強い。諸氏の言説がそれぞれの時代性、お国柄、精神性に影響されている可能性が強い。

 この辺りを見ずして精査のないままの「労働者は国家(祖国)を持たない」を教条化するのはむしろ危険なのではなかろうか。そもそもマルクス主義における教条主義は似合わない。マルクス主義が他の宗教、哲学、政治思想よりも教条性が強い主義だとしたら、それは原理的に反マルクス主義なのではなかろうか。そういうものが流行っているんだけれども。そして廃れているんだけども。

 そこで云いたいのは、今後に於いてはマルクス主義であろうと他の諸思想、宗教、哲学だろうと、その開祖、教祖、最高指導者の言といえども、これを仮に「A」とすると、A「が」かく述べて居るので従うべしとするのではなく、A「も」かく述べて居るので正しさが裏づけられるのではなかろうかと云う風に一歩控えて援用されるべきではなかろうか。つまり盲目的絶対的な基準を排し、あくまで吟味上の物差しとして評され尺度とされるべきではなかろうか。これを略して「『が』ではなく『も』とすべし論」、更に略して「がも論」として獲得すべきではなかろうか。

 こういう見地からあらゆる理論が精査されるべきだと考える。そういう精査を経て獲得されるものが導きの理論となるべきであり、それは時代を経て更に精査されると云う具合に不断に検証されて行くべきであり、これこそ思想運動の生命線ではなかろうか。近代曙光の精神「全てを疑う」はかようなセンテンスで活かされるべきではなかろうか。

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