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2013年2月

2013年2月25日 (月)

補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考

 今年は小林多喜二没後80年である。そういうこともあって虐殺日の2.20日、新聞各社が短文を添えていた。これにより久しぶりに多喜二を確認している折柄、一言しておきたいテーマに当ったので一文ものしておく。

 「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った」につき、「多喜二最期の像―多喜二の妻」によれば、手塚英孝の「小林多喜二」は次のように記しているとのことである。

 「多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」。

 これに対し、江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」として次のように記述している。

 「昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた」。
 「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった」。

 これによると、「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子の多喜二の通夜の来訪」を廻って、手塚英孝が「通夜にも葬式にも見えていない」とし、江口渙が「通夜に駆け付け激情的に多喜二を悼んだ」としていることになる。これはどうでも良いことではなくて、どちらかが明らかに間違った記述をしている。小坂多喜子の「通夜の場所で…」で補強すれば、江口証言が正しく、手塚証言が間違いと云うことになろう。問題は、手塚がなぜ明白なるウソの記述をしているのかにある。ここでは、この問題をこれ以上問わず、手塚英孝論に向かいたい。

 手塚英孝とは何者かにつき記しておく。れんだいこの知識によると、情報元は忘れたが手塚英孝こそが宮顕を日本共産党へ入党させた一人である。同郷の誼もあって推薦したとされているが、同郷の誼だけの繫がりかどうか不明である。いずれにせよ、手塚と宮顕とは相当深い繫がりがある。この二人は相当に胡散臭い。このことが知られねばならない。

 手塚英孝の履歴を見るのに、「ウィキペディア手塚英孝」によれば次のように記している。1906年12月15日 - 1981年12月1日(亨年74歳)。山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。慶應在学中に社会運動に参加するようになり日本共産党に入党、文化団体の活動をする。1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。

 戦後、再建された日本共産党に入党し、日本民主主義文学同盟常任幹事、民主文学編集長を務めるなど一貫して民主主義文学運動の発展に尽力したことでも知られる。非合法活動を共にした同志である小林多喜二の伝記研究を進め、1958年に筑摩書房から刊行した「小林多喜二」は、その後も補訂を重ねつつ、多喜二の伝記として内外から高く評価されている云々。

 手塚英孝が小林多喜二論に精力的に向かったことは良い。問題は、どのような小林多喜二論を展開したのかにある。れんだいこは、手塚の「小林多喜二」を読んでいないが、多喜二通夜の席での伊藤ふじ子不在論を平気で書いているのが一事万事で、多喜二を書きながら多喜二を書くより党の利益、庇護されている宮顕の利益の見地から平気で筆を曲げていることを予想しておく。それは、宮顕の査問リンチ殺害事件の解明に見せた手塚英孝の筆曲げを知るゆえにである。そういう者の多喜二論が権威だとしたら多喜二が可哀そうと思う。こういうことは世によくあることだけれども。

 大事なことを書き忘れたので追加しておく。小林多喜二を売った男・三船留吉説」を説いているのが作家同盟の手塚英孝なんだな。何かと歯車を狂わせているんだな。臭いんだな。

 「小林多喜二考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzenundoshi/proretariabungakuundoshico/takigico.htm)

 2013.2.25日 れんだいこ拝

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2013年2月22日 (金)

れんだいこ書評、仲俊二郎氏の「この国は俺が守る 田中角栄アメリカに屈せず」を評す

 仲俊二郎氏の「この国は俺が守る 田中角栄アメリカに屈せず」(栄光出版社、2011.11.10日初版)の書評をしておく。本書は、田中角栄の首相就任直前の動きから説き起こし、首相時代の動静、その後のロッキード事件のカニバサミ、角栄の死までの後半生を、心理描写を含めて活写した名作である。全編を、角栄擁護の観点から分かり易く論じている。立花隆―日共史観による角栄バッシング論が未だはびこる中、読まれねばならない一冊足り得ている。

 角栄の政治能力を国内的には無論、世界的にも認められたものとして高く評価し、その角栄がキッシンジャーの悪巧みにより倒されたとの観点を色濃く打ち出しているところに特徴がある。これにより角栄恋しの心情を吐露しているところに値打ちがある。心ある者はみんな角栄に恋している。未だにアホウどもが角栄を悪しざまに云うことで溜飲を下げているが、この連中に漬ける薬はない。最後の一冊として本書を紹介しておく。

 本書を読んで、れんだいこも角栄物語をしたくなった。書くとしたら、著者が抑制したキッシンジャーの更なる奥の院の思惑に迫りたい。既に角栄譚は揃いつつあるので、未だ論者が言及してこなかった角栄の社会主義者性、より正確には日本的な縄文的神人和楽思想に依拠した大国主命の現代版としての角栄像に迫りたい。その意欲を掻き立ててくれたことに謝意申し上げておく。

 著者の履歴を確認するのに、大阪市立大経済学部卒業後、川崎重工に入社し、その後をプロジェクトマネージャーとして世界各地でのプラント輸出に従事。その後、米国でアメリカ式人事トレーニングを受ける。経営コンサルタントとして独立、現在に至る。著書数冊あり云々。

 思うに、よほど優秀な方なのだろう。外資系に掴まった者は身も心も洗脳され、キリシタン、シオ二スタンになるのが相場のところ逆に日本を思い、角栄恋しへと帰還している。なかなかできない芸当ではある。そんじょそこらの洋行帰りにツメの垢でも煎じて飲ませたい。甚だ簡単ではあるが以上、書評とする。

 2013.2.22日 れんだいこ拝

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2013年2月20日 (水)

「三船留吉、小林多喜二を売った男」説について

 今日2.20日は戦前のプロレタリア作家にして拷問虐殺された小林多喜二の命日である。これを踏まえて東京新聞の「筆洗」、その他数紙が言及している。れんだいこも追悼しておく。2008.6.29日に書き終えブログには未発表にしていた一文を転載しておく。2004.6.28日に「戦前日共史(補足)スパイ三船留吉考」を発表しており、その続編となる。格納サイトは以下の通り。

 「補足・スパイ三船留吉考」
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/hosoku_mifuneco.htm

 「蟹工船」がベストセラー化しつつあると云う。ワーキングプアーが蟹工船労働者の姿と二重写しとなり、労働者が立ち上がる姿に共鳴し、せめて小説の中だけでも鬱憤を晴らしたいと云う情動が働いているのだろう。れんだいこは、高校生時代に読み感想記をものした覚えがあるが、あたら惜しい事に散逸している。どういう風に受け止めていたのか知りたいが、その術がない。

 ところで、小林多喜二に関連して、2004.5.1日、くらせみきお著「小林多喜二を売った男」(白順社)が発売されている。れんだいこは既に2004.6.28日づけで「戦前日共史(補足)スパイ三船留吉考」で論評しているが再度書評しておく。れんだいこが我慢ならない観点から著述されており、こういう通説が流布されることを人民大衆的に拒否せんが為である。

 本書も叉「一見精緻な研究」とは裏腹に「読めば読むほど馬鹿になる仕掛け」になっている。精緻な研究がむしろマジック的な煙幕となって誤誘導的結論へ誘う手段となっている。多くの人は、「精緻な研究」辺りで既に騙されてしまう。最近はこういう類いの悪書が多い。

 ヤング諸君が「蟹工船」を読むのなら、ついでにれんだいこの一連の研究にも目を通せば良い。れんだいこが時々に於いて興味、疑問を覚えた事項に対して、まずはれんだいこ自身が得心できるように工夫して精力的に検証している。そのでき映えは、性格の悪い御仁からの悪罵に堪え、ますます光芒を放ちつつある。尤も不断に書き直ししている。

 ヤング諸君、是非感想を伝えてくれ。こちらは学者でもない教授でもない何の肩書きも権威もない一市井人でしかないが侮ってはいけない。同じ事を論じても、そんじょそこらの通俗本よりはよほど為になるよう要点をしっかり捉まえ、今後論ずる際の基準になるような観点を打ち出している。ここにれんだいこ文の特徴がある。これに対話して欲しい。叩き台にして欲しい。

 しかしそれにしても左派戦線からの締め出しがきつい。れんだいこブログは公開して既に十年近くなろうとしている。結構な論議を生むであろう内容を提起している筈であるが、まともな批判に出会ったことがない。いわゆる無視されている訳であるが、にも拘らずれんだいこの指摘が万力攻め的に作用しつつあるとしたら滑稽なことである。

 さて、話を「小林多喜二を売った男」に戻す。題名からしてズバリ「小林多喜二を売った男・三船留吉説」を打ち出しているが、この説は果たして本当だろうか。まず何よりここを詮索せねばならない。ここを詮索せぬまま立花隆のように「もともと根っからのスパイ」、「当局の雇われスパイではなく、当局の人間そのものだったのではないかとも考えている」なる見解は、通説に徒に悪乗りしているだけなのではなかろうか。

 「小林多喜二を売った男・三船留吉説」は重要な史実を隠している。何かというと、この説が、かの宮顕肝煎りの説だということにある。れんだいこは、「宮顕論」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/miyakenco/miyakenco.htm)で、「宮顕その人こそがスパイM以降の、スパイMに成り代わってその後の日共を統治した超大物スパイ説」を打ち出している。この観点によれば、日共党史は無論、日本左派運動史を根底から書き直さなければならなくなる。「れんだいこの宮顕論」にはそういう凄みがある。こういうことは本当は誰かに云って貰わなければサマにならないのだけれども、れんだいこ自身が言わざるを得ない情けなさがある。

 それはともかく、初めてこの説を聞く者には衝撃が多過ぎて、れんだいこを誹謗し始める者が殆どであるが、こういう場合には先ず史実検証で論を闘わせねばならない。この手間を取らぬままれんだいこ説を誹謗する者は単にドグマにしがみついているだけに過ぎない。そう云われるのが嫌なら、「れんだいこの宮顕論」を逐条検討すれば良かろう。れんだいこは、「宮顕獄中十二年、唯一非転向完黙人士説」を完膚なきまでに打ち砕いている。この虚像を信奉し、未だに聖像視し、お追従する者達の安逸な精神を批判している。

 くらせみきお著「小林多喜二を売った男」の陳腐さは、宮顕説の尻馬に乗って、三船留吉を「小林多喜二を売った男」としているところにある。この場合、1・三船留吉スパイ論の検証、2・「小林多喜二を売った男・三船留吉説」の検証の二本立てにしなければならない。前者をいくら繰り返しても後者には辿り着かない。後者を成り立たせるためには後者自体を裏付ける因果関係が証明されねばならない。これが真っ当な検証方法であろう。

 くらせみきお著「小林多喜二を売った男」の凡俗さは、前者を後者に混同させて、つまりすり替えてひたすら「小林多喜二を売った男」と云う結論へと導き、押し付けているところにある。しかし、事情に明るいものなら胡散臭く思うであろう。この当時の小林多喜二の身辺は非常にキナ臭くせっぱ詰まっており、その連絡線は党の最高機密になっており、三船如きの下っ端連絡線に結ばれていたとすること自体が嘘っぽい。

 多喜二は文芸畑の党員であり、当然その筋の大物指令により地下活動していたと思うべきだろう。三船は畑が違うのではないのか。となると、この当時の文芸畑の大物として詮索されるのは蔵原か宮顕こそが臭い。つまり、「小林多喜二を売った男・三船留吉説」は、蔵原か宮顕が臭いと勘ぐられるべきところを三船にすり替えていると云う政治的意味がある。しかし、よりによって、勘ぐられねばならない当の張本人である宮顕が三船スパイ説を流しているというオマケつきである。

 こういう場合、「小林多喜二を売った男・三船留吉説」そのものが胡散臭く受け取られねばならない。普通の頭脳さえあれば、そういう推論になる。それをあえて、くらせみきお著「小林多喜二を売った男」は、宮顕の意向通りに「小林多喜二を売った男・三船留吉説」をプロパガンダしているという役割を果たしている。我々は、こういうものを鵜呑みにすべきであろうか。これを鵜呑みにするのが昨今流行の自称知識人の悪癖であるが、よほどオツムが弱いと云うべきだろう。

 そういう意味で、「小林多喜二を売った男」のグーグル検索で見つけただけなのだが、れんだいこが日頃兄事させていただいている加藤哲郎教授の書評に触れねばならない。申し訳ないが批判させていただく。加藤教授は次のように述べている。

 概要「スパイMと本書の主人公三舩留吉は、特高警察の奇才毛利基が用いた二人の最重要人物だった。小林多喜二も属した日本共産党の不幸は、この二人の大物スパイの正体を見究めることができないまま、それより格下の大泉兼蔵と、スパイであったかどうかも疑わしい小畑達夫を査問・リンチし、小畑を死に至らしめたことであった」
 (http://homepage3.nifty.com/katote/mifune.html)。

 この評はいかがなものだろうか。れんだいこは、1として三船を「スパイM」と並ぶほど大物視することに対する疑問がある。2として、宮顕派により査問テロされた大泉、小畑を「それより格下」だったとは思わない。4名しか居なくなった当時のれっきとした党中央委員である。能力的には小物だっかも知れないが党組織上は最高幹部である。

 尤も、教授が続いて「スパイであったかどうかも疑わしい小畑達夫を査問・リンチし、小畑を死に至らしめた」と明確に記述している下りの評価は惜しまない。こう書ける識者は滅法少ない。日共系御用学者よ、加藤教授は少なくともこの程度には発言しているぞ。教授の爪の垢でも煎じてみたらどうだ。しかしそれより何より、加藤教授が 「小林多喜二を売った男・三船留吉説」に違和感を表明せず同調しているのが気に入らない。

 以上、「れんだいこの『小林多喜二を売った男』書評その2」とする。仕舞いはこういうことが云いたくなる。本件に限らず、あれこれの検討課題に於いて、仮にれんだいこの見立ての方が正解だったとした場合、不正解見解をプロパガンダする書物を読んで賢くなるだろうか。現代はこういう手合いの「誤誘導結論押し付け書籍の氾濫時代」ではなかろうか。れんだいこが得心して読めたり、ハタと膝を打つようなものはめっきり少ない。ネット情報然りである。本当に知りたい情報がまだまだ表へ出て来ていない。

 「誤誘導結論押し付け書籍」だろうと読めばそれなりに知識は深まる。だが、下手な結論まで鵜呑みにすることにより却って馬鹿になりはしまいか。知識人必ずしも賢ならずの所以がここにある。我々は良書によって導かれねばならない。本書をそういう事を考える一助にしたい。

 2008.6.29日 れんだいこ拝

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2013年2月19日 (火)

国津神と天津神考、高天原は何処考その2

 ごく最近の史学の動きとして、邪馬台国が天津系渡来以前の国津系の最期の王朝であった可能性が見えてきつつある。「実在し滅ぼされた王朝」であった可能性が強い。これによると、邪馬台国は出雲―河内―大三輪系譜を中核とする日本列島津々浦々の在地権力を糾合した部族連合国家であった。出雲の地の「神在り月神話」は、かの時代の史実の今に残る伝承ではなかろうか。

 しかしながら、この歴史は二度の国譲り(一度目は出雲王朝の国譲り、二度目は邪馬台国の国譲り)を経て史上から抹殺されている。今日では僅か二千余文字の魏志倭人伝、その他諸々の遺跡でしか窺い知ることができない。いわば「勝てば官軍、負ければ賊軍」の例え通りに、敗軍側の歴史が抹殺されたと思えば良い。それを何とか痕跡をとどめる為に苦労して書き上げたのが記紀であり、その記紀記述が官軍寄りに過ぎるとして訂正的に書き上げられ秘密裏に保存されたのが古史古伝であったと思えば良かろう。但し、古史古伝間の記述がこれ又バラバラに過ぎている。

 従来の邪馬台国論争は、邪馬台国をプレ大和王朝と位置づけ、且つ皇統譜的に大和王朝に陸続的に理解した上で所在地論争に耽ってきた。その延長線上で、一部の研究者間では既に「邪馬台国論争は終った」とさえ云われている。しかし、れんだいこ説に従うと、邪馬台国研究の第一ラウンドが終ったのであり、これから本格的な研究に向かう機運にある。終った説論者の「終った」は、己の虚妄の研究史が終ったと捉えるべきである。そう捉えずに終った説を唱え抜く者は、自らの研究スタイルが終ったことへの裏言の繰り言を述べているに過ぎない。

 今や、「実在し滅ぼされた王朝」として出雲王朝―邪馬台国を位置づけ、その所在地を比定せねばならない。そういう意味で、邪馬台国論は相変わらず古代史のロマンであり続けている。同時に、邪馬台国的部族連合国家政体の脆弱さとシタタカさを同時的に理解せねばならない。邪馬台国考、「国津神と天津神考」にはそういう意義がある。

 以上は、2010.10.5日段階の認識である。2012.8.4日以来のれんだいこの認識はもう一段グレードアップしている。即ち、大和王朝建国過程に於ける渡来族による土着族征伐史を「天津族対国津族」と云う呼称で表記すること自体に疑問を覚えるようになった。日本上古代史を「天津族対国津族」の闘いとして描く記紀の筆法に疑問を持つことになった。これは古史古伝とりわけ「ホツマ伝え」研究の効果である。記紀神話では、天津族を天照大神を拝戴する高天原王朝として登場させているが、ホツマ伝え等から読みとる限り、天照大神は元々国津族の最高神にして皇統譜の祖である。

 天照大神は男神の場合もあれば女神の場合もある。いずれにせよ時の最高のシャーマンであり時代の導き主である。天津族は、国津族の最高神である天照大神、その支配の圏域である高天原を横取りし、国津族が絶対的に従う天照大神、高天原を自らの皇統譜に拝戴することにより、国津族に帰順を強いて行った形跡が認められる。してみれば、天津族の天照大神拝戴は剽窃であるとする観点が欲しくなった。これにつき「高天原王朝神話考」で解析している。

 してみれば、天照大神拝戴を暗喩する天津(天孫)族と云う呼称も又剽窃であると云うことになる。然らば、どう表記するのが正しいのであろうか。解は見いだせないが、仮に直訳的に「外航渡来族」と命名しておくことにする。してみれば、従来「天津(天孫)族」と記した下りはなべて「外航渡来族」と書き換える必要があることになる。れんだいこの従来の記述を、この観点から書き直さねばならないが、気の遠くなる話しではある。それはともかく、かく認識した上で、「外航渡来族」が如何に国津族を平定しあるいは懐柔しあるいは和睦しつつ大和王朝を建国して行ったかを解明するのが日本古代史の必須の扉と云うことになろう。「外航渡来族」の権威を高める為に逸話されている高天原王朝譚はなべてこの観点から精査される必要があろう。これを仮に「天照大神ジレンマ」と名付けておく。

 この観点を得たことにより、記紀神話が高天原を比定し得なかった理由が解けた気がする。元々高天原は国津族系の聖地であり、その聖地を横取りしたものだから詳しく説くと皇統譜の辻褄が合わなくなり、敢えて筆法的に幻の高天原とせざるを得なかったのではなかろうか。歴史には、こういうジレンマがままある。歴史はかように改竄されテキスト化され盲信に至る。「天照大神ジレンマ」はその見本のような話しではなかろうか。こう読むことで、日本神話の特に上古代の意図的故意のややこしさの原因が分かって来た気がしている。この辺りの読み解きとなると、これ又気の遠くなる話しである。

 2010.10.5日、2013.2.19日 再編集 れんだいこ拝

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国津神と天津神考、高天原は何処考その1

 2013.2月頃、れんだいこブログに日本古代史関係の推論を数典記した。題名で確認すると「2013.2.11建国記念日に思う」、「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その2」がそれである。同時並行して西欧宗教史関係の「キリスト教の親ネオシオニズム性考」、「ヨハネの黙示録考その1、れんだいこの読後感」、「ヨハネの黙示録考その2、総合解説」をものしている。

 これがどう絡むのか説明は難しいが恐らく、れんだいこの心象に於いて「古代史の秘密」を正しく解こうとする情動が密接に絡んでいるだろうと思っている。この観点から、今まで言及してこなかったもう一つの秘密について推理しておく。

 その前に一言。「★阿修羅♪空耳の丘61」の「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」のコメント07に、「日猶同祖論を否定するのはキチガイ」論なるものが開陳されている。それによると、れんだいこは「狂信的な反猶太」であり、「要注意人物」であり、「おそらく在日朝鮮人の工作員に違いない」とのことである。時代が大きく変わったことが分かる。何しろ「日猶同祖論を否定するのはキチガイ」ですぞ。日本はいつからこれほどの「親猶太」社会になったのだろう。浦島太郎の気分にさせられてしまう。

 もとへ。記紀神話を読めば、日本神話に登場する神々は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に系譜的に分かれている。天津神は高天原から天降ったとされる神の総称である。それに対して国津神は天津神が来日してくる以前の日本列島各地に生息していた土着の神々の総称である。日本神話は、この識別の上で天津神系を正統とする観点から天地創造譚、神々誕生譚、国譲り譚、神武東征の国取り譚、歴代天皇譚を記している。

 問題は、その読み解きに於いて論者の理解が錯綜していることにある。その原因は、天津神系神話の中に国津神系神話が混入され混然一体化されている為と考えられる。その最大の難関が天照大神、スサノオの命、二ギハヤヒの尊の正体である。れんだいこには、天津神系で捉えたり国津神系で捉えたり複相しているように見受けられる。当然、臣下の諸豪族も複相することになる。

 これでは歴史が解けない。にも拘わらず百人百様の理解の混然化したままに日本神話が語り継がれている。ここに日本神話が決して史書足りえず神話譚として受け止めざるを得ない所以がある。とは言いながら、記紀は随所で日本古代史を克明に記しているので貴重な史書とせざるを得ない。しかし、どこまでが本当の史書で、どこが偽書なのか、あるいはどういう筆法で婉曲表現しているのかが定かでない。これを「日本神話ジレンマ」と命名することにする。

 れんだいこはこれまで、記紀神話に記述されている天津神系と国津神系の抗争を前提として、「善玉天津神、悪玉国津神論」で説き分ける皇国史観の非を指摘してきた。むしろ出雲王朝、邪馬台国を国津神系に見てとり、国津神系是論とでも云うべき観点から古代史の秘密を解き明かしてきた。これは何もれんだいこの初見ではなく、これまでも幾多の論者が主張してきている。但し、その論者のいずれもが「歴史の縦の糸」を紐解けず、道中で理論破産させているように見受けられる。れんだいこの立論に功績が認められるとすれば、首尾一貫した国津神系皇統譜を見極めようとしているところにあると自己解析している。

 「天津神国津神考」の必要は、そうした「日本神話ジレンマ」を読み解くことだけに意義があるのではない。もう一つ、天津神系よりする記紀神話に依拠して日本古代史を読み取るのではなく、天津神渡来以前の国津神系の統治していた日本古代社会を読み取る為にも必要となっている。この社会を解析せねばならない理由として、「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」に記したが、かの時代、これを仮に縄文的古神道の時代と規定すると、この時代は今日的に見ても世界に通用する汎神論的共生思想を持つ等、精神性が気高い。且つそのことに規定されてと思われるが、今日的秤りでは評価されないものの秤り方を変えれば、思われている以上に高度高級な神人和楽文明社会、技術社会を形成していた形跡が認められる。この社会を検証し称賛し、今に活かさねばならないと考えている。

 なお且つ天津神渡来によって国津神系が駆逐滅亡されたのではなく、激しい攻防戦の末、或る時点より両者が「和をもって尊し」とする手打ち式和睦路線に道を開き、婚姻等も含め両者融合の日本史を切り開き、あるいはそれぞれがそれぞれの生活圏を維持しながら棲み分けしてきた形跡が認められる。それは、世界史に認められるような勝者が敗者を絶滅させない叡智に導かれている。この伝統がはるけき今日まで継承されているのではなかろうかと推理している。もっと云えば、日本の政治権力史は天津神系が掌握して来たものの、その裏面史は常に国津神系が支えてきたと思っている。

 そういうこともあって、天津神渡来以前の日本国体の姿と能力を探るべきだし、決して祖略に扱うべきではないと思っている。これを思えば、皇国史観は子供段階の暴論イデオロギーでしかなかった。戦後、そのような皇国史観を捨てたからと云って何も解決していない。津田史学の限界がここに認められる。我々はもっと日本古代史に光を当て、大人の日本国体論を獲得すべきではなかろうかと思う。

 2010.10.5日、2013.2.19日 再編集 れんだいこ拝

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2013年2月14日 (木)

れんだいこの日ユ同祖論否定論その2

 以下、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」を補足し「れんだいこの日ユ同祖論否定論その2」とする。れんだいこは、日本古代史、日本上古代史の研究を通じて、日ユ同祖論なるものの愚説を確信している。これを解き明かしておく。

 日本古代史、日本上古代史の解き明かすところによれば、日本は出雲王朝―邪馬台国ラインの日本(これを仮に「原日本」と命名する)と大和王朝以来の日本(これを仮に「新日本」と命名する)の延々と続く拮抗関係より成り立っている。これにより、一口には祖国日本とは言えない構図下にある。これについては、「れんだいこのカンテラ時評№1104、邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」で述べた。かく史観を構えれば、日ユ同祖論なるものの愚説ぶりがはっきりする。仮に日ユ同祖論なるものが成立するとすれば、それは「新日本」との親和性に於いてであり、「原日本」との関係からすれば敵対性のものとなる。即ち、日ユ同祖論なるものが成立するとすれば、せいぜい「新日本」以来のものでしかない。ここを悟らねばならない。

 しかして、世界に誇る日本が専ら「原日本」に負っているとしたら、日ユ同祖論なるものの愚説ぶりがはっきりしよう。もっと云えば、西欧世界に於ける精神対立がユダヤ教的世界観、思想(以下、「ユダヤ的なるもの」と命名する)とイエス教的世界観、思想(以下、「イエス的なるもの」と命名する)の対立拮抗により成立しているとすれば、「原日本」は「イエス的なるもの」と親和的である。キリスト教は、「イエス的なるもの」から発したものであるが、過半が「ユダヤ的なるもの」に取り込まれ折衷させられているが故に比較しようがない。これが、れんだいこのキリスト教観である。これを思えば、日ユ同祖論なるものを唱えて日本を「ユダヤ的なるもの」に親和せしめようとする動きは幼稚な所為であり、これを非とする分別を持たねばならないと云うことになる。

 近現代史上、日ユ同祖論を唱える思想家、宗教家、歴史家、政治家が量産されているが、この理屈が分かれば他愛ないエピゴーネン(時代のお調子者)でしかないことが分かる。元々の粗脳が粗脳故に辿り着く見解であり、賢明なる智の持主は眉唾して一向に差し支えない。このことを申し上げておく。論証を省いたので短文なものとなったが重要な論文である。

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れんだいこの日ユ同祖論否定論その1

 戦前来、意図的故意に「日ユ同祖論」が奏でられ始めて久しい。この論の虚妄を撃っておくことにする。

 「日ユ同祖論」の奇計論法は、「古代ユダヤの失われた支族の行方探訪論」を元に任意な当該地を措定して、いろんな理屈をつけては「ルーツとしての同祖性」を論うことにより同胞意識を醸成させ、結果的に近現代史の影の政府たる国際金融資本の浸透、植民地化政策の水路を開くご都合主義性にある。これに嵌まる者は共通して志操が低い。これが「日ユ同祖論」の事の本質である。

 はっきりしていることがある。日ユ同祖論者が如何に巧妙にこじつけを逞しくしようとも、ユダヤ教-タルムード世界のイデオロギーと日本の伝統的神仏精神との一致性を見出すことはできない。むしろ探査すればするほど対極的とも云える質の違いを確認して行くことになるだろう。日ユ同祖論者は、この精神の原基の違いを説明せねばならない。

 早い話が、ユダヤ教-タルムード教義即ちネオシオニズム的ユダヤ主義は選民主義を前提とするが、日本の伝統的精神はその逆であり共生主義(助け合い)で構築されている。仮に表層的に政治的社会的文化的類似を認めることができようとも、それらをユダヤルーツに求めるには及ばない。他のルーツあるいは自生的なものとして考えられる。それを無理やりにユダヤルーツ解釈に捻じ曲げることで「日ユ同祖論」を構築しているように見受けられる。

 この陥穽に気付かねばならないところ、近代以降、現代に至る自称知識人の多くは、母国の歴史を軽んずる罪によって容易にキリシタンとなりキリシタンの行きつく先としてシオニスタンにされている。それだけの知恵しかない故に今となってはユダヤ的選民主義の後塵を拝して二番手的なイエロー選民主義に浸って満悦するという痴態を示している。この手の機会主義者、立身出世者、権力猛者が跡を絶たない。

 知るべきは、現代世界を牛耳る国際金融資本の護教するネオシオニズムイデオロギーの狂気性である。西欧は、長い間これに悩まされ今も抑圧され続けている。彼らが権力を掌握する度合いに応じて世の不幸、即ち戦争と革命と云う名の権力的抑圧が訪れ、今日的には勢い余って地球を食いつぶそうとしている。これが拝金蓄財主義のなれの果ての末路である。彼らは、世界を我がものとすることによって同時に滅びの道に入るという背理性の裡(うち)にある。知識人が少しはましな知性を持っておれば、このことを分別し、滅びの道へは向かわないものを、その暗愚性によって目下の世界権力性にすり寄って美辞麗句しているのが実態である。

 日本の伝統的精神は元々見事なまでにユダヤ的背理から逃れている。ユダヤ精神が絶対真理信仰とすれば、日本の伝統的精神は相対真理信仰である。俗に一神教と八百万神信仰の違いとして指摘されている。ユダヤ精神が悪徳闘争的なものとすれば、日本の伝統的精神は善徳平和的である。ユダヤ教義が排他完結的な閉じられた構造のものとすれば、日本教義は共生開放的な開かれた構造のものである。ユダヤ教が神人契約を特徴とする厳命的なものとすれば、日本教は神人和楽を特徴とする談示的なものである。これらの違いは、日ユ同祖論どころか日ユの対極的な違いを示していよう。

 「日ユ同祖論」主張者は、表層的な同一性を唱える前に、こういう精神の型の違いを説明せねばならない。似ているどころか、まるで反対に位置していることを探る方が賢明であろう。もし敢えて「日ユ同祖論」を唱えるとするのなら、ユの優れているところと劣勢なところ、日の優れているところと劣勢なところのものを互いに補完させることにこそ関心を向かわせるべきではなかろうか。まことに日ユ精神は際立って異なっておりながら奇妙なほどに補完的関係にあり、それ故に交流せしめる余地があると考えられるからである。

 「れんだいこの日ユ同祖論の陥穽考」は以上を骨子とする。以下論証できるが、指数を増すばかりであろう。要は、「日ユ非同祖論、日ユ対比的相違論、日ユ補完論」を結論とすれば良い。これまでのような「日ユ同祖論」なぞ何の意味もないことを知るべきであろう。

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2013年2月13日 (水)

邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続

 邪馬台国研究のもう一つの意義について確認しておく。これが最新の気づきである。「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について」で、邪馬台国研究の意義について、邪馬台国と大和朝廷との皇統譜の解明と邪馬台国が存在していた紀元3世紀頃の日本の国体国勢状況を明らかにすることを確認した。「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について」で、「邪馬台国論証力」による論証能力練磨による果実を確認した。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yamataikokuco/furutaronco/yamataikokuronco/igico/top.html) 

 実は、邪馬台国研究にはもう一つの大きな意味がある。それは、紀元3世紀頃の邪馬台国までに形成されていた「原日本の解明」である。このことが如何に重要なことであるのかは、「原日本」がその後の日本史に脈々と今日まで続いていることにある。これにより、祖国日本論を唱える場合に、邪馬台国時代までの原日本と邪馬台国滅亡後の大和王朝時代以降のいわば新日本との識別をせずんば適切を得ないことになっている。このことがさほど重要視されておらず、為に祖国日本論上に於いて多大な混乱を招いているように見受けられる。そういう意味でも実践的な課題となっている。

 思うに、戦前の皇国史観とは、祖国日本論上、「原日本」を邪として蔑視し、大和王朝時代以降の「新日本」を正として形成した偏狭な国体論にしてイデオロギーではなかったか。皇国史観は、とかく問題のある日本書紀を絶対教義とし、こちらもとかく問題のある古事記を相対教義とし、この記紀二書を核として他書の都合の良い部分だけを抽出して構築した独特の歴史観ではなかったか。特に、幕末維新、明治維新来の政争で最終的権力者となった長州閥を主とする国際金融資本帝国主義傀儡派による絶対主義的天皇制の確立、これによる好戦主義の御用史学として持て囃されたのではあるまいか。

 そうとするなら、戦後史学は、皇国史観を崩壊させ、代わりに皇国史観が押しとどめていた大和王朝前の日本史解明に向かうべきであった。それにより、日本史内の原日本と新日本の内争と拮抗調和、あるいは同化と非同化を見つめての祖国日本論の形成に向かうべきであった。ところが、実際に為したことは、皇国史観を崩壊させたが、同時に祖国日本論そのものをも流産させてしまった。代わりに持ち込まれたのが国際金融資本帝国主義イデオロギーであるネオシオニズムに基づくいわゆる進歩史観であり、戦争と革命史観であった。それらに興味を持たない者には例えて言えば財テク処世法とでも云える経済ものハウツーのおしゃぶりおもちゃを持たせた。これにより、戦後日本人は、学んでも決して役に立たない情報過多のみの骨格のない無国籍型の歴史通経済通人間に化せられ今日に至っている。

 ここまで書けば、邪馬台国研究のもう一つの意義としての新しい祖国日本論の必要が分かろう。日本の国体、日本の精神、日本の情緒、日本の感性、日本の伝統、日本の所作作法を尋ね、現代における日本人としてのアイデンティティを持つ国際人を養成せねばならない。このことが如何に重要かは、現代政治、現代政治家の貧相を見れば分かろう。日本の歴史を知らない、日本史の背骨を持たない政治家に日本の将来を託すことの無謀さが分かろう。饒舌しかはびこらないのも道理ではなかろうか。

 最後に「原日本」解明の意義を付け加えておく。「原日本」は、大和王朝以前の更なる昔の日本である。その日本が、歴史をはるかに遡(さかのぼ)る故に未開の野蛮な日本であったと見なしてはならない。国際金融資本帝国主義の進歩史観テキストによればそうなるが、史実はさにあらず。「原日本」は、現代科学の物差しとは秤が違う故に単純な比較はできないが、我々が考えている以上に高度であり、合理的であり、何より今風の言葉で云えば地球環境と親和的共生的であった。或る意味で、現代人より相当賢い精神性の高い、開明的にして高度な文明社会を創っていたと窺うことさえ可能なのではなかろうか。れんだいこには、国際金融資本帝国主義の狡知の方がよほど未開で野蛮にして同心円的閉鎖的な生態を示していると見なしている。

 そういうことを確認する意味もある。地球環境の危機局面を打開する知恵を授かると云う意味もある。世界一言語とも評せる日本語を生み出した知恵がある。その他その他「原日本」が持つ豊饒な良さをもっと知らねばならない。いろんな思いを込めて、日本のふるさとを訪ねるべきではなかろうか。

 「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yamataikokuco/furutaronco/yamataikokuronco/

igico/igico2.html)

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2013年2月11日 (月)

2013.2.11建国記念日に思う

 2.11日は世間では建国記念日である。れんだいこにはサイト開設記念日である。開設したのは2000(平成12)年であるので、かれこれ13年になる。あの頃より政治情勢、生活状態が良くなったのだろうかと問うと否定的に答えざるをえない。これは寂しいことである。れんだいこの認識は進化したが、この後も進化し続けていくであろうが、それが世界に反映されない、そのことにもどかしさがある。しかし何事もあきらめてはいけない。生ある意味を歴史に刻み続け子孫に遺し伝えればならないと改めて思う。

 政治情勢的には、この十数年間で見るべきものは殆どない。わずかに小沢党が生活党と云う種を残し生育中と云うことぐらいだろうか。後は全体にますます右寄り、と云うか国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き色を強め続けている。これは与野党問わない。与党は表からの御用聞き、野党は裏からの御用聞きの政治集団に過ぎない。こういう日本に未来はない。ただあきらめるのは早い。この御用聞き集団が纏めて歴史の屑かごに入れられる日が来る。これも歴史の法理である。そう思う故に、さほど気にならない。

 やはり問題は、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き政治を撃つ側の政治能力だろう。個々には優れた狙撃手が登場しつつある。問題は、狙撃手の共同戦線運動の構築にあるのではなかろうか。狙撃手は狙撃手に止まってはいけないとも思う。目指すべきは政権政治であり、狙撃手が撃とうとした政治の反対の信に足りる政治施策の実現に向かわねばならない。つまり、批判の刃は責任の餅臼に向かわねばならない。れんだいこの目の黒いうちに可能になるかどうか分からないが絶えず目指し続けねばならない。と思う。

 狙撃手の共同戦線運動の構築について。狙撃手にはそれぞれ得手不得手がある。それぞれが得手の部分で良き狙撃手となり、不得手の部分を他の狙撃手の能力で補完せねばならない。これが共同戦線運動の意味である。自由、自主、自律の規約を旨として極力統制色を薄めたもので構築しなければならない。新しい政治は新しい質のもので担われなければならないと信ずるからである。そういう規約論、組織論、運動論を構築せねばならない。これまでのように言葉に酔うだけの党中央統制型の運動を排さねばならない。そろそろ、せめてこれぐらいの確認をしても良いのではなかろうか。

 さて、建国記念日に一言申し上げておく。建国記念日とは、2009.2.11日付けれんだいこのカンテラ時評534「建国記念日考」で言及している。これを手短かに確認する。(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/koki2600nenco.html

 建国記念日とは、日本書紀記述の「神武天皇が辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」を由来としている。明治政府は、この記述をカムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇即位日と読み取り、この日を日本国創建日として称え祝日とすることにした。既に西欧暦である太陽暦を採用していたので、これを西欧暦で換算させたところ「西欧暦紀元前660.2.11日」とされた。これにより1872(明治5)年、2.11日、紀元節祝日法が制定され、1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年として「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。これが建国記念日の発祥である。

 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止され、これに伴い日本国憲法の精神にそぐわないとして紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、廃案の繰り返し後の1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加して復活した。れんだいこは、「建国記念の日」を設けることに反対はしない。問題は、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。

 ところで興味深いことがある。建国記念日を「西欧暦紀元前660.2.11日」としていることについて共に悩みたい。これを理解するには実は相当な史観が要求される。と云うのは、建国記念日は邪馬台国滅亡後の紀元3世紀頃に設定しなければ史実に合わない。何故に紀元前7世紀に設定したのかが問われねばならない。紀元前7世紀の日本がどういう国体状況だったのかと云うと、恐らく日本列島各地で部族国家の形成が進みつつある頃であり大和王朝的統一王朝が出現するような時期ではない。にも拘わらず大和王朝建国をこの時期に求めたのはどういう意味なのか。「辛酉の年の春正月庚辰朔」から類推すれば「西欧暦紀元前660.2.11日」となったとの説明は苦し過ぎる。

 れんだいこは、「辛酉の年の春正月庚辰朔=西欧暦紀元前660.2.11日」が日本書紀独特の詐術記述に合わせての単なる辻褄合わせだった可能性と、日本建国の何らかの史実と対応している可能性の二通りを考えている。辻褄合わせ説には意味がないので思考しない。日本建国の何らかの史実対応説に思いを馳せたい。そう思えば2.11建国記念日はなかなか味わい深い。そういうことも含めて、建国記念の日を、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。れんだいこのサイト開設記念日をこの日に設けたことの偶然的意味を感謝したい。

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2013年2月 7日 (木)

ヨハネの黙示録考その2、総合解説

 「ウィキペディアヨハネの黙示録」その他で「ヨハネの黙示録」の概要を確認する。

 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2

 それによると、「ヨハネの黙示録」は古典ギリシア語で「: 'Aπōκάλυψις Ιωάννης」、ラテン語で「Apocalypsis Johannis」と記される。タイトルの「黙示」とはギリシャ語の「アポカリュプス(古典ギリシア語 'Aπōκάλυψις)」の訳であり、原義は「覆いを取る」ことから転じて「隠されていたものが明らかにされる」という意味である。英語では「revelation」、訳語としては「啓示」が相応しい。

 新約聖書の中で唯一預言書的性格を持つ書である。単に「黙示録」あるいは「ヨハネによる黙示録」、「神学者聖イオアンの黙示録」(日本ハリストス正教会)、「使徒聖ヨハネ黙示録」(天主公教会)、「イエス・キリストの黙示」(プロテスタント福音派)、「ヨハネが受けたキリストの啓示」(現代訳聖書)と称されている。

 ヨハネの黙示録は、キリスト教内で、その解釈と正典への受け入れをめぐって多くの論議を呼びおこしてきた書物である。著者はヨハネ福音書の著者である使徒ヨハネであると考えられているが、文体上の違いに着目し、仮にヨハネであったとしても福音書のヨハネとは「違うヨハネ」の筆であることを指摘する議論がある。そういうこともありヨハネ黙示録はペトロ黙示録と共に「真性に疑問のある書物」であると評されている。ヨハネ黙示録が「異端の書」、「偽預言書」として扱われてきたことには然るべき理由があると云うことになる。

 今日のキリスト教会では正典と認められ新約聖書の一番最後に登場している。但し、ローマ・カトリック教会が正典として認めたのは2世紀中頃である。中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない異筋の書となっている。

 ヨハネ黙示録冒頭で、迫害を逃れてエーゲ海の孤島パトモス島に避難していたヨハネによって書かれたと記されている。或る日のこと、ヨハネは神の啓示を受け、未来の光景や出来事を目にする。それを書き留め、小アジア(現在のトルコ西部)にある7つの主要なキリスト教会へ手紙を送ったという設定になっている。

 ヨハネ黙示録の成立時期はローマ帝国のドミティアヌス帝時代(紀元81~96年)の紀元95年前後であると考えられてきたが、聖書学者の中にはネロ帝時代(紀元54~68年)の68-9年頃と考える者もいる。

 啓示のあらましは次の通りである(「ヨハネの黙示録とは」その他を参照する)。

 (http://2012doomsday.web.fc2.com/yohane.html

 天の玉座に神がいて、周囲を24人の長老と、ライオン、雄牛、人間、鷲(わし)にそれぞれ似ている4つの生き物が取り囲んでいた。神の手には巻物があり7つの封印で封じられていた。7つの角と7つの目をもつ小羊が一つひとつ封印を解いていく。小羊が封印を解くごとに禍が地上を襲う。小羊が第7の封印を解くと、世界が沈黙で包まれた後、7人の天使が現れて、一人一人にラッパが与えられた。天使が一人ずつラッパを吹くたびに禍が地上を襲う。第7の天使が最後のラッパが吹くと最後の審判が行われることが予告される。

 7人の天使が7つの鉢に入れた神の怒りを地上に注ぎ世界に第一次終末が訪れる。救世主イエスが再臨し千年王国が実現する。神を信じ正しい行いをした人々が復活する。千年後、悪魔が再び現れ最初の王国が滅びる。これが第二次終末となる。メシアとの最後の決戦が演ぜられ、最後の審判で「命の書」に名前のない人は地獄に落とされ、名前のある人は天国に昇ることができる云々。救世主イエスの再臨が預言されたところで黙示録が終わる。

 この道中で、 戦乱や飢饉、大地震などのあらゆる禍、天使と悪魔の戦いや最後の審判の様子が記されている。この間、象徴的な表現が多用されており、数字や生き物(獣)がいくつも登場し、「ハルマゲドン」の様子が描かれている。バビロンは淫乱な女性の姿で表象されている。

 以上が「ヨハネの黙示録」の概要である。本来はイエス教とは何の関係もない、むしろイエス教義的には排斥すべき奇書でしかないが、奇書故に類が類を呼ぶの例え通り奇人が殊に愛読する。読書は勝手であるので、これを制限する必要はないが、イエスの御言葉をヨハネの筆を借りて綴った預言書と云う受け取り方だけは吹聴しないでもらいたいと思う。百歩譲って仮に値打ちがあるとしても、イエス系のものではなくパリサイ派系のものであると知る必要があろう。これを一言添えておく。

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2013年2月 6日 (水)

ヨハネの黙示録考その1、れんだいこの読後感

 2013(平成25)年2月頃、初めてヨハネ黙示録を読んだ。先のブログ「キリスト教の親ネオシオニズム性考」の影響だろうが、いつか確認しようとしていて転載していたのを読む機会を得た。そのサイト元のアドレスを開けると「Object not found!」となる。意味を変えない範囲でれんだいこ文法に即して編集替えする。訳文の正確さが気になるが今は原文、英文と照らし合わせる余裕がない。この訳文が正しいものとして以下論評しておく。今検索すると「ヨハネの黙示録」、「まんが黙示録入門」、「ヨハネの黙示録」等が次々と出てくる。結構関心が持たれていることが分かる。

 ヨハネ黙示録の最初の読後感は、こんなもんが何でイエスの御言葉であるものかと云う思いだった。ヨハネ黙示録とあるので№4福音書の著者であるヨハネの手に成るものと思われる。既に指摘したが、ヨハネ福音書は福音書中で最もイエス教とかけ離れており、イエス及びその御教えの伝と云うよりはユダヤ教パリサイ派の教義を濃厚に認めている。そういうヨハネ福音書、ヨハネ黙示録を有り難そうに拝戴するキリスト教とはそも何者ぞと云うことになる。これが最初の感想である。

 次の感想はヨハネ黙示録の内容についての疑義である。ヨハネ福音書がイエス及びその御教えの伝と云うよりはユダヤ教パリサイ派の教義を濃厚に認めていることは既に言及したが、ヨハネ黙示録となると更に度が激しくなる。もはやユダヤ教パリサイ派の得意とする秘密結社の読誦文に近いと云う思いがする。世に胸糞が悪くなると云う言葉がある。ヨハネ黙示録は全文がそういう類のものである。

 悪魔、サタンと闘うキリスト像を語るが、そのキリストの闘い方そのものが悪魔的サタン的である。そういうものは決してイエスの教義ではない。後のフリーメーソン養成のための呪文のようなものであると考えられる。実際、フリーメーソン、イルミナティー等の秘密結社はこのヨハネ黙示録の諸啓示に似せて儀式を行っているのではなかろうかとさえ思える。この推測が事実ならヨハネ黙示録の罪は大きい。そんなものを後生大事に崇める世のキリスト教の無知蒙昧に怒りを覚える。

 次の感想は、ヨハネ黙示録から判明することであるが、キリスト教とはどうやらユダヤ教に激しく反発したイエス教とユダヤ教内部のキリスト信仰とが合体したものではなかろうかと云う思いである。ヨハネ黙示録はユダヤ教内部のキリスト信仰をパリサイ派的に記したものであり、その際にイエスの御教えをご都合主義的に取り入れて誤魔化しているところに特徴がある。もっと云えば、イエスの御教えを部分的に取り入れてはいるもののユダヤ教内部のキリスト信仰そのものである。従って、ユダヤ教内部のキリスト信仰を知ることはできても、本来確立されるべきイエス教とは全く別の信仰である。そういう問題のあるヨハネ黙示録を教義に取り入れているキリスト教の責任問題に及ぶが、キリスト教とは元々そのようなものであると考えれば辻褄は合う。こう確認すべきであろう。

 このようになぜ断言できるのか。それは、れんだいこが、イエスの御言葉を的確に知る故である。これについては、「イエスの教義考、山上の垂訓考」に纏めている。既成の「山上の垂訓」は福音書のそれと雖もかなり歪められているので手直しする必要がある。本来のイエスの御言葉はこのようなものだったのではなかろうかと推理して書き直している。まだ不十分なデキのものであるが他のテキストよりはましだろう。これとヨハネ黙示録の内容を比べて見るが良い。ヨハネ黙示録がイエスが最も嫌ったパリサイ派の言辞、論理、論法をイエスの言葉として記していることが分かろう。

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2013年2月 2日 (土)

キリスト教の親ネオシオニズム性考

 2012総選挙の八百長性に関心を持って以来、その後の政治に同様の臭いを嗅ぎまともに論評する気になれない。こういう時には原理的な問題に関心を寄せることにする。先にマルクス主義の「労働者は国家(祖国)を持たない」に端を発する愛国民族主義問題を検討したが、ここでは世上で云われているキリスト教のそれについて解析してみる。

 その実践的意味は、キリスト教信仰者(キリスト教徒。これを俗にクリスチャンと云うので以下クリスチャンと記す)が日本の国家中枢各機関に進出することの危険性を危ぶみたい故である。彼らには特有の売国的傾きが見られるからである。「彼らに特有の売国的傾き」は他の出自分野でも認められる。これらは現代史の第一級課題となっているのではなかろうか。

 れんだいこのこの危惧を裏付けるかのような次の一文に出くわした。2012.7.7日付けブログ「保守派政治家にクリスチャンが多い理由」が次のような問いを掲げている。

 保守派と言われる自民党の政治家にはクリスチャンが多いです。クリスチャンは統計上日本人の1%しかいないことを考えると異常な多さです。現役の方では麻生元首相・与謝野元大臣・山谷えり子議員・谷垣総裁・石破元大臣・野田聖子議員、あと安倍元首相もキリスト教系団体の統一教会と仲が良かったようです。自民党の言う保守とは、日本の伝統を重視する思想だと思うのですが、なぜ日本の伝統と相容れない一神教を信仰する人がこんなにも多いのでしょうか?(むしろ伝統を重視しない他の政党にはクリスチャンが少ないおかしな状況になっています。)

 上記文に登場している政治家はごく一部でしかない。精査すればもっと多くの与野党問わずの政治家が確認できよう。上記文は現首相の安倍、次期首相の呼び声の高い石破をクリスチャン政治家として挙げているところに意味がある。このことは実は怖い話しである。

 もとより信教の自由は認められるべきであるから政治家のキリスト教信仰自体に非はない。問題は、クリスチャンがこぞって日本の伝統習慣法律を軽視しあるいは反逆するように意識付けされていることにある。これは、日本史上の戦国時代の宣教師(バテレン)渡来時にも発生したことである。かの時、キリシタン大名下の軍兵が各地の神社仏閣を焼き打ちしたことは知る人ぞ知る史実である。結果的には神社仏閣側が反撃し、良し悪しは別として鎖国に至る過程でキリシタン狩りが数度となく行われ、その動きが封殺されたことは衆知の通りである。この問題は、近代以降の西欧列強の世界分割植民地化の先兵として宣教師(バテレン)が活躍した史実と照らし合わせた時、深刻になる。

 キリスト教問題はその親ネオシオニズム性にある。しかしてネオシオニズムは歴史的に見てユダヤ教パリサイ派特有のものである。クリスチャンも又通俗マルキストと同様に国家(祖国)を持たない。代わりにユダヤ教パリサイ派的世界秩序理念に従い、その国際センターの指導に一元的に服する傾向が強い。代わりに出世登用が約束されており、その餌を求めて魂を売るクリスチャンが多い。非クリスチャンに比べてクリスチャンには何重にもサロンへの誘惑が多く結社加入の機会が敷かれている。これによる組織盲従性が政治問題化されねばならないと考える。その昔、イエスがその誘惑のワナから逃れたのは「荒野問答」で知る人ぞ知る逸話である。

 理論的に見て、どうしてこういうことになるのだろうか。結論を先に述べれば、キリスト教は開祖イエスの御教えを部分的に取り入れながらも構図的にユダヤ教化されたキリスト教であり、開祖イエスの教えに基づくキリスト教ではない。むしろキリスト教はユダヤ教パリサイ派教義に取り込まれており、ユダヤ教パリサイ派の系譜をひく国際金融資本全盛の現代ではなおさらその傾向を強めつつある。これ故に学べば学ぶほどネオシオニズム化されたクリスチャンが生まれることになる。この謂いの妥当性はキリスト教教義の解析により判明する。これについては「イエス伝福音書考」で論述している。

 要するに、キリスト教教典の第一章が旧約聖書として天地創造から始まるユダヤ教の教典を掲げているところが臭い。イエス教教義であれば、ユダヤ教教典は参考資料にはなってもイエス教教義として取り込まれる筋合いのものではない。そもそも独善的な選良意識を基底に形成されているユダヤ教教義に最も厳しく対決したのがイエスなのではないのか。そういう意味でイエス教であるならばその教義にユダヤ教教典の入り込む余地はない。本来ならイエス教祖伝が編成され、キリスト教教典第一章の地位に治まるべきところである。実際はイエス教祖伝が隠され代わりに旧約聖書が拝戴されている。そういうすり替えが行われている。

 しかして、このことを誰も訝らず今日まで通用している。これによりキリスト教徒は不断にのっけからユダヤ教教育を余儀なくされている。この不正を糺さねばならない。その旧約聖書の解釈を廻ってキリスト教新派が数多く生み出されているが、本来確立されるべきのイエス教の見地からすれば何の意味もないことである。宗教的音痴の為せる技でしかない。

 キリスト教をかく解析したのは、既に為されているのかも知れないが少なくとも流布されていないので、れんだいこの功績だろう。キリスト教渡来より数百年、ようやくキリスト教が何者なのか解析し得たと自負している。「れんだいこのキリスト教論」が成るほどのものだとすれば、開祖イエスの御教えに基づかないものを奉じていて良いものだろうかと根本疑惑せねばならないことになる。既に数千年来そのようなキリスト教が流布されているのであるが、ならば本当のイエス教とはどういうものなのか、かく関心が進むべきであろう。これが自然な論理の流れである。

 この作業はさほど為されていないように思える。そこで、つたないながられんだいこが挑んでいる。一応の書き上げが「別章【イエス教論・キリスト教論考】」である。今後は誰しもこれを下敷に論を更に精緻にして行くが良かろう。

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