補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考
今年は小林多喜二没後80年である。そういうこともあって虐殺日の2.20日、新聞各社が短文を添えていた。これにより久しぶりに多喜二を確認している折柄、一言しておきたいテーマに当ったので一文ものしておく。
「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った」につき、「多喜二最期の像―多喜二の妻」によれば、手塚英孝の「小林多喜二」は次のように記しているとのことである。
「多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」。 |
これに対し、江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」として次のように記述している。
「昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた」。 |
「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった」。 |
これによると、「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子の多喜二の通夜の来訪」を廻って、手塚英孝が「通夜にも葬式にも見えていない」とし、江口渙が「通夜に駆け付け激情的に多喜二を悼んだ」としていることになる。これはどうでも良いことではなくて、どちらかが明らかに間違った記述をしている。小坂多喜子の「通夜の場所で…」で補強すれば、江口証言が正しく、手塚証言が間違いと云うことになろう。問題は、手塚がなぜ明白なるウソの記述をしているのかにある。ここでは、この問題をこれ以上問わず、手塚英孝論に向かいたい。
手塚英孝とは何者かにつき記しておく。れんだいこの知識によると、情報元は忘れたが手塚英孝こそが宮顕を日本共産党へ入党させた一人である。同郷の誼もあって推薦したとされているが、同郷の誼だけの繫がりかどうか不明である。いずれにせよ、手塚と宮顕とは相当深い繫がりがある。この二人は相当に胡散臭い。このことが知られねばならない。
手塚英孝の履歴を見るのに、「ウィキペディア手塚英孝」によれば次のように記している。1906年12月15日 - 1981年12月1日(亨年74歳)。山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。慶應在学中に社会運動に参加するようになり日本共産党に入党、文化団体の活動をする。1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
戦後、再建された日本共産党に入党し、日本民主主義文学同盟常任幹事、民主文学編集長を務めるなど一貫して民主主義文学運動の発展に尽力したことでも知られる。非合法活動を共にした同志である小林多喜二の伝記研究を進め、1958年に筑摩書房から刊行した「小林多喜二」は、その後も補訂を重ねつつ、多喜二の伝記として内外から高く評価されている云々。
手塚英孝が小林多喜二論に精力的に向かったことは良い。問題は、どのような小林多喜二論を展開したのかにある。れんだいこは、手塚の「小林多喜二」を読んでいないが、多喜二通夜の席での伊藤ふじ子不在論を平気で書いているのが一事万事で、多喜二を書きながら多喜二を書くより党の利益、庇護されている宮顕の利益の見地から平気で筆を曲げていることを予想しておく。それは、宮顕の査問リンチ殺害事件の解明に見せた手塚英孝の筆曲げを知るゆえにである。そういう者の多喜二論が権威だとしたら多喜二が可哀そうと思う。こういうことは世によくあることだけれども。
大事なことを書き忘れたので追加しておく。小林多喜二を売った男・三船留吉説」を説いているのが作家同盟の手塚英孝なんだな。何かと歯車を狂わせているんだな。臭いんだな。
「小林多喜二考」
(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzenundoshi/proretariabungakuundoshico/takigico.htm)
2013.2.25日 れんだいこ拝
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コメント
大西瀧治郎中将特攻作戦の真意
>>http://www.geocities.co.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi_shini.htm
一部転載
・・・・・
そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。
敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分味方に三分である。具体的には満州事変の昔に返ることである。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。
万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国である。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。
このことは、大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。
宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱ともなりかねない。
極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』とおっしゃるのだ。
では、果たしてこの特攻によって、レイテより敵を追い落とすことができるであろうか。これはまだ長官は誰にも言わない。同僚の福留長官にも、一航艦の幕僚にも話していない。しかし、『特攻を出すには、参謀長に反対されては、いかに私でもこれはできない。他の幕僚の反対は押さえることができるが、私の参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』
として、私にだけ話されたことであるが、私は長官ほど意志が強くない。自分の教え子が(参謀長は少佐飛行隊長の頃、一時私たち飛行練習生の教官だったことがあり、私の筑波空教員の頃は連合練習航空隊先任参謀で、戦闘機操縦員に計器飛行の指導に当たられた。当時、大西少将は司令官だった)妻子まで捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、黙り続けることはできない。長官の真意を話そう。長官は、特攻によるレイテ防衛について、
『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道がほかにあるであろうか。戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』
と仰っしゃった。私に策はないので同意した。これが私の聞いた長官の真意である。長官は、『私は生きて国の再建に勤める気はない。講和後、建て直しのできる人はたくさんいるが、この難局を乗り切れる者は私だけである。』と、繰り返し、『大和、武蔵は敵に渡しても決して恥ずかしい艦ではない。宮様は戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しいと仰せられた』とまで言われたのだ」
・・・・・
(引用「修羅の翼」角田和男著、写真「玉砕戦と特別攻撃隊」)
投稿: 通りがけ | 2013年2月25日 (月) 23時37分
通りがけさんちわぁ。良い情報です有難う。サイトに取り込んだら報告します。
投稿: れんだいこ | 2013年2月27日 (水) 21時28分
通りがけさんちわぁ。刺激を貰い急きょ書き直して見ました。お読みくだされば幸いです。
別章【兵士の手記、遺稿集】
(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/heishinosyukico/heishinosyukico.htm)
投稿: れんだいこ | 2013年3月 1日 (金) 14時14分
「石原慎太郎はいますぐ維新の会を離党脱出せよ!安倍スケープゴーチー内閣は橋下ヒットラー独裁首相への撒き餌にすぎぬ」
阿修羅「[民主党] 前原・玄葉・安住 維新の会に行くのか 参院選見通しに党内は騒然 (日刊ゲンダイ) 」
へ書き込み
http://www.asyura2.com/13/senkyo144/msg/532.html
70. 2013年3月02日 22:43:33 : rWn9PLlcps
>>68. 2013年3月02日 21:50:31 : fqnE6o0F5s
>石原慎太郎入院
そうか。やはり前原が動いたからな。
石原慎太郎は直ちに維新の会から脱出する離党届を出すべし。電撃深夜離党することが肝要。
維新の会が橋下徹を衆議院比例名簿第一位にする前に。
71. 2013年3月02日 22:59:04 : rWn9PLlcps
亀井よ。古くからの友人として石原慎太郎の名を惜しむ気が少しでもあるなら直ちに面会して首根っこをひっつかんでも友達を維新の会から引っぺがして離脱させろ。
そうしてこそ亀井も真の日本男児であるとされよう。
73. 2013年3月02日 23:59:30 : rWn9PLlcps
石原慎太郎が維新の会にいる限りいつ何時橋下徹衆議院議員「捏造」のために(前原に)寝首を掻かれて「維新の会比例区選出衆議院議員」の地位を強奪されるかわかったもんじゃ無いからな。
石原が病院という密室へ入院したことは「麻薬」王前原にとって好きなように料理できる蜘蛛の巣にがんじがらめに囚われた昆虫みたいなもんだ。
押尾事件の麻薬も酒井事件の麻薬も芸能界麻薬は全部芸能界を牛耳る麻薬王前原の所から供給されたもんだしね。病院は前原のテリトリーである。
ジャパンハンドラー首領は麻薬王芸能界暗黒魔王禍々しき二世スパイ前原誠司である。
投稿: 通りがけ | 2013年3月 3日 (日) 06時40分