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2013年2月11日 (月)

2013.2.11建国記念日に思う

 2.11日は世間では建国記念日である。れんだいこにはサイト開設記念日である。開設したのは2000(平成12)年であるので、かれこれ13年になる。あの頃より政治情勢、生活状態が良くなったのだろうかと問うと否定的に答えざるをえない。これは寂しいことである。れんだいこの認識は進化したが、この後も進化し続けていくであろうが、それが世界に反映されない、そのことにもどかしさがある。しかし何事もあきらめてはいけない。生ある意味を歴史に刻み続け子孫に遺し伝えればならないと改めて思う。

 政治情勢的には、この十数年間で見るべきものは殆どない。わずかに小沢党が生活党と云う種を残し生育中と云うことぐらいだろうか。後は全体にますます右寄り、と云うか国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き色を強め続けている。これは与野党問わない。与党は表からの御用聞き、野党は裏からの御用聞きの政治集団に過ぎない。こういう日本に未来はない。ただあきらめるのは早い。この御用聞き集団が纏めて歴史の屑かごに入れられる日が来る。これも歴史の法理である。そう思う故に、さほど気にならない。

 やはり問題は、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き政治を撃つ側の政治能力だろう。個々には優れた狙撃手が登場しつつある。問題は、狙撃手の共同戦線運動の構築にあるのではなかろうか。狙撃手は狙撃手に止まってはいけないとも思う。目指すべきは政権政治であり、狙撃手が撃とうとした政治の反対の信に足りる政治施策の実現に向かわねばならない。つまり、批判の刃は責任の餅臼に向かわねばならない。れんだいこの目の黒いうちに可能になるかどうか分からないが絶えず目指し続けねばならない。と思う。

 狙撃手の共同戦線運動の構築について。狙撃手にはそれぞれ得手不得手がある。それぞれが得手の部分で良き狙撃手となり、不得手の部分を他の狙撃手の能力で補完せねばならない。これが共同戦線運動の意味である。自由、自主、自律の規約を旨として極力統制色を薄めたもので構築しなければならない。新しい政治は新しい質のもので担われなければならないと信ずるからである。そういう規約論、組織論、運動論を構築せねばならない。これまでのように言葉に酔うだけの党中央統制型の運動を排さねばならない。そろそろ、せめてこれぐらいの確認をしても良いのではなかろうか。

 さて、建国記念日に一言申し上げておく。建国記念日とは、2009.2.11日付けれんだいこのカンテラ時評534「建国記念日考」で言及している。これを手短かに確認する。(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/koki2600nenco.html

 建国記念日とは、日本書紀記述の「神武天皇が辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」を由来としている。明治政府は、この記述をカムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇即位日と読み取り、この日を日本国創建日として称え祝日とすることにした。既に西欧暦である太陽暦を採用していたので、これを西欧暦で換算させたところ「西欧暦紀元前660.2.11日」とされた。これにより1872(明治5)年、2.11日、紀元節祝日法が制定され、1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年として「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。これが建国記念日の発祥である。

 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止され、これに伴い日本国憲法の精神にそぐわないとして紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、廃案の繰り返し後の1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加して復活した。れんだいこは、「建国記念の日」を設けることに反対はしない。問題は、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。

 ところで興味深いことがある。建国記念日を「西欧暦紀元前660.2.11日」としていることについて共に悩みたい。これを理解するには実は相当な史観が要求される。と云うのは、建国記念日は邪馬台国滅亡後の紀元3世紀頃に設定しなければ史実に合わない。何故に紀元前7世紀に設定したのかが問われねばならない。紀元前7世紀の日本がどういう国体状況だったのかと云うと、恐らく日本列島各地で部族国家の形成が進みつつある頃であり大和王朝的統一王朝が出現するような時期ではない。にも拘わらず大和王朝建国をこの時期に求めたのはどういう意味なのか。「辛酉の年の春正月庚辰朔」から類推すれば「西欧暦紀元前660.2.11日」となったとの説明は苦し過ぎる。

 れんだいこは、「辛酉の年の春正月庚辰朔=西欧暦紀元前660.2.11日」が日本書紀独特の詐術記述に合わせての単なる辻褄合わせだった可能性と、日本建国の何らかの史実と対応している可能性の二通りを考えている。辻褄合わせ説には意味がないので思考しない。日本建国の何らかの史実対応説に思いを馳せたい。そう思えば2.11建国記念日はなかなか味わい深い。そういうことも含めて、建国記念の日を、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。れんだいこのサイト開設記念日をこの日に設けたことの偶然的意味を感謝したい。

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